#3
帰り際、玄関に立つと体に変化はないですかと尋ねられた。体調は悪くない。むしろ軽くなったほうだ。どうしてそんなことを聞くのだろうとすずかちゃんを見れば、耳を指された。靴を履いていた石崎君は先に気づいたのか、あっと声を上げる。
私は自分の耳に触れてから、ある行動を取っていないことに気がついた。
「聞こえる……」
耳を塞いでいないのに、すずかちゃんたちと会話ができている。
「耳の中にいたものが、少しだけでてきたのでしょう」
「それって『声』? 家鳴?」
「どちらでもあるのだと思います」
私の耳に入っていたものが家鳴なら、あの囁き『声』は彼らの声だったのだろうか。
「ねぇ、すずちゃん。家鳴って家に棲む妖怪なんだよね。どうして私の耳なの」
「あなたのおばあさまは、この町の出身だったのでしょう。家はありますか?」
常露町にあったおばあちゃんの家は老朽化が進み、私が小学生になる頃に解体して土地を売却したと聞いている。そのとき、おばあちゃんは最後に見ておきたいと常露町に一人で行ったそうだ。
「憑いてきたのか」
「そこまではわかりません」
石崎君の質問に答えながら、すずかちゃんは玄関の引き戸を開けた。
「あくまでも推測ですが、彼らは家に憑くものです。だから、新しい家が欲しかったのだと思います」
家鳴は私の耳を家にしていたのだろうか。なぜか納得できなかった。美術室で現れた大きな黒い塊が私の耳に触れてから、『声』が聞こえるようになった。それなら、あの黒い塊はどこからやってきたのだろう。
「例えば、どんな家かな……」
「長く、大事にしてくれそうな家を」
すずかちゃんのおかげで、私の耳の中にいた存在がわかってきた。不鮮明だったものが少しずつはっきりしてくる。それでもまだ見えていない。『声』は解決していなかった。
私の耳に『声』は残っている。両親に治ったかもしれないと会話してみたが、途中からさわさわと『声』が聞こえてきた。それでも前に比べれば囁き声が小さくなってきている。
あと少しなのだ。布団の上で寝転がりながら考える。私が名付けた『声』は、おばあちゃんの家にいた家鳴だ。おばあちゃんの家を失って、家鳴はおばあちゃんについてきた。でも都会のマンションに住んでいた頃は、軋む音はもちろんポルスターガイストなんてなかった。
それじゃあ、家鳴はどこにいたのだろう。
どうして私の耳に入ってきたのか、私と誰かが会話をするのを邪魔するのか、考えても答えがでなかった。美術室で見た『声』であり家鳴である、黒くて大きな塊である怪異の言葉を、私は理解できなかった。
あの日、わたしの拒絶の声も、しおりちゃんには届かなかった。
魔法のクレヨンを折った感触が掌に残っている。
かたかたかた。クレヨンの箱が鳴る音が脳裏に浮かぶ。まさか、家鳴が住んでいたのは。
私は布団から跳ね起きた。
クレヨンだ。魔法のクレヨンの箱の中に家鳴はいたのだ。彼らはあの箱を家にしていたのだ。
でも、クレヨンの箱は見つかっていない。
箱を、探さなければ。
次の日、日曜日ということもあって私は両親とおばあちゃんの施設に行った。部屋を探し回ったがクレヨンの箱は見つからない。落ち込む私に、今日はおばあちゃんに会う日だからと、気分転換も兼ねて連れて来られた。
緩やかな山に施設はある。できたばかりの真新しい四角い建物は、豆腐みたいに白い。施設に入るといつも給食のような匂いがした。
おばあちゃんは、施設に入っても私を思い出してくれなかった。お母さんは肩の荷が下りたように優しくなった。お父さんとも喧嘩をしなくなった。二人のことを考えるのなら、これでよかったのだと思う。
施設の職員曰く、一緒に住んでいたときのように、癇癪を起こしたり、嘘をついたり、物を隠していないと話していた。声をかけなければ、ほとんど部屋でぼーっとしているらしい。両親が職員と話をしている間、私は先におばあちゃんの部屋へ向かった。
「おばあちゃん」
個室の扉をノックしても返事がない。あぁそうかと思い出して、おばあちゃんの名前で呼ぶと返事がきた。
「あらまぁ、まりちゃんですね」
今日の私は「まりちゃん」らしい。私の名前でなければ両親の名前でもない。おっとりとした口調で、ベッドの上にいたおばあちゃんは嬉しそうに微笑んだ。おばあちゃんの記憶は退行しているが、どこまでなのかはわからない。少なくとも、私を忘れているのは確かだった。
「ひ、久しぶりだね」
声が引きつっていた。わかっている。我慢しなきゃいけない。他人の名前で呼ばれても、否定しないほうがいいと職員に教えてもらった。言動を否定すると病気が悪化しやすくなると。頭では理解しているつもりでも、感情はそうもいかない。本当はおばあちゃんに問いつめたくて堪らなかった。
扉の前で突っ立っている私を気に留めず、おばあちゃんはお喋りを始めた。その大半は知らない話だった。私と暮らす前の、あるいは両親が結婚する前の、それよりもっと前の話かもしれない。
「そういえば、聞いてくださいよ」
話が一区切りしたかと思えば、話題が変わるらしい。
「な、なに」
「昨日ね、倅から連絡が来たんです」
背筋に電流が走ったような気がした。
「孫が産まれたんです」
心臓がばくばくと早鐘を打つ。言葉になっていない情けない声が口から零れていく。
「お、おばあ、ちゃん……」
「今日見に行きました。女の子なんですよ。とっても可愛くて。娘を持ったことがなかったから、実は初孫が女の子で嬉しかったんです。あぁ、倅には内緒ですよ」
自然に足を踏み出していた。一歩一歩、おばあちゃんに近づいていく。
「名前はどうするんでしょうねぇ。ほら、私が口をだしたらお邪魔でしょう」
「ねぇ、おばあちゃん」
ベッドのシーツを掴む。両膝をつき、震える声でおばあちゃんを呼ぶ。演じきろうと思っていたのに、私の我慢はあっさり崩壊した。
「私は、ここにいるよ」
ここにいるのに、どうして認めてくれないの。
私を認めてよ。おばあちゃん。
「おばあちゃん、どうして! ねぇ、どうして!」
「そうそう」
おばあちゃんには泣いている私が視界に映っていないらしい。惨めな思いに浸りながら様子を見ていると、おばあちゃんはベッドから下りて、クローゼットから紙袋を取り出した。
「内祝いです」
差し出された百貨店の紙袋は、綺麗とは言い難い。
「いいから、いいから。貰ってくださいな」
強引に渡され、紙袋を覗くと雑多な物が詰め込まれていた。タオルに折り紙や造花など、使えるものから使えないものまで入っている。それらは都会のマンションに住んでいた頃、おばあちゃんがどこかに隠した物だ。お母さんがおばあちゃんを責め、おばあちゃんは知らないと叫んでいた。こんなところにあったなんて。
丸椅子の上に紙袋を置き、中身を確認していくと筒を見つけた。賞状筒だ。蓋を開けて賞状を広げれば、私の名前があった。
写生大会の賞状だ。
太いマジックで「うそつき」と書かれた字の上から、おばあちゃんが好きな赤いクレヨンで大きな大きな花丸がついていた。
「凄いでしょう」
おばあちゃんは、よく知る柔和な笑みを浮かべていた。
「自慢の孫なんです」
私はぼたぼたと涙で頬を濡らしながら、紙袋を抱えて丸椅子に座った。
「あのね、おばあちゃん。私、話したいことがたくさんあったの。前の学校でね。しおりちゃんっていう友達ができたの」
こんな話をしても、おばあちゃんに私の声は届かないのだろう。おばあちゃんの中では、私は今ここにいないことになっているのだ。それでも話したかった。声が届かなくても、言葉を理解してもらえなくても、話したかった。
あの黒い塊も、私に何かを伝えたかったのかもしれない。
両親が来るまで、ぐずぐず泣きながら私は話した。しおりちゃんこと、魔法のクレヨンが折れたこと、『声』のこと、すずかちゃんのこと、石崎君のこと、家鳴のこと、それから。
「おばあちゃん。私、まだ絵を描いていいかな」
私の絵は、今もおばあちゃんの目に映ってはいないだろう。私が描いた絵だとおばあちゃんは認めてくれないのだろう。
「描きたいよ、おばあちゃん」
それでも私は、おばあちゃんが褒めてくれた絵を描き続けたいんだ。
あなたの自慢の孫で在りたいから。
かたかたと紙袋から何かが鳴る音が聞こえる。紙袋の奥に手を入れると、固いものに触れた。よく知るプラスチックの細長い箱。魔法のクレヨンの箱。
「こんなところにあったなんて」
ことりと耳から何かが落ちた気がした。床に、あの小さな黒い塊が黒色の折れたクレヨンを抱えていた。
「もしかして、あなたは私の絵が好きだったの」
『声』であり家鳴である異形は、にんまり笑ってからすうっと姿を消した。残された折れたクレヨンは、握られるのを待っているように転がっていた。
こんなことを話しても、誰も信じてくれないでしょうね。
けれどこれは、私が体験した本当の話。
あれから私は中学二年生になった。
クレヨンの箱が見つかってから『声』は聞こえなくなった。すずかちゃんに報告すると喜んでくれた。まだ疑問に残る点はあったけれど、それ以上はわからなかった。
中学生になる頃、私は隣町へ引っ越した。家を買ったのだ。両親は夢のマイホームだと喜んでいた。
引っ越しする前日、すずかちゃんは何か言いたそうな顔をしていたけれど、引っ越しの慌しさもあって連絡先を交換できず、疎遠になってしまった。
おばあちゃんとは定期的に会っている。相変わらず私を思い出してくれず、最近は眠っている日が多くなった。起きているときは窓の外をぼんやりと見ている。それでも私は、おばあちゃんに話しかけることにした。手を握りながら話していると時々握り返してくれるのだ。
今、私は絵を描いている。
折れたクレヨンは買い換えず、マスキングテープを巻いて使っている。どういうわけか、補強してからクレヨンは減っていないのだ。魔法の効果はまだ続いているらしい。
中学生になってから他の画材も使うようになったけれど、やっぱりクレヨンのほうが手に馴染む。
「できた」
広くなった部屋のレースカーテンが揺れる。春風が心地よい。そういえば、桜が見頃だとニュースで流れていた。気分転換に散歩でもしようと決めて、完成したスケッチブックを持ち上げた。
私の絵には、真っ黒な世界が広がっている。
それはトンネルだった。真っ黒なトンネル。異界に繋がっているトンネル。どうして忘れていたのだろう。幼い頃に見たあのトンネルの絵を、私はずっと描きたかったのだ。
おばあちゃんが喜んでくれなかったこの絵を、描き続ければいつか認めてくれる日がくるかもしれない。
なにしろ、トンネルに耳を当てれば、懐かしくも甘いあの囁き『声』が「そうだよ」と暗闇の奥から教えてくれるのだから。
私の呪いは、まだ解けそうにない。