#3
お稲荷様のおかげなのかはわからない。
私は、写生大会で賞を取った。
しかも金賞だった。美術の先生は着眼点がいいとか生き生きとした色使いだとか褒めてくれたのに、喜びよりも驚きが勝った私の耳にほとんど入ってこなかった。担任の先生とクラスメイトから拍手を受け、お祝いの言葉が贈られた。
「前から絵が上手だったもんね」
クラスの女子が口を開く。
「よく休み時間に絵を描いてたよな」
「上手だなぁって思ってた」
「どうやったら上手くなれるの?」
クラスメイトに囲まれ、私は困惑した。答えようとしても、どう答えていいのかわからずどもってしまう。クラスで目立ったことなんてなかった。絵が上手だと褒められたこともなかった。複数の視線を注がれ、顔がどんどん熱くなっていく。
「実はね、前から話しかけたかったんだ。でも、いつもしおりちゃんといるから」
しおりちゃんといるから?
そうだ、しおりちゃんだ。クレヨンを返してもらわなきゃ。
しおりちゃんはクラスメイトたちから離れた位置にいた。声をかけようと踏みだそうとした足が止まった。
背筋が凍った。しおりちゃんの目は吊り上がっていた。青筋を立て、凝固した怒りをぶつけるように私を睨んでいる。同じ人間を見ている目つきではない。あれは敵意だ。丸い頭も丸い顔も丸い目も、しおりちゃんという丸くて可愛い女の子の皮を被った化け物のように思えた。
彼女は静かに教壇に立ち、叫んだ。
「先生! この人は嘘を描きました!」
その場にいた全員の視線が一斉にしおりちゃんに集まった。しおりちゃんは一呼吸を置いてから、ゆっくりと私を指した。彼女の手には、黒色の魔法のクレヨンがある。
「先生、この人はないものを描いたんです。あの自然公園に祠なんてありません! あたしは本当にあったか確認しました。でも、見つからなかった! 公園にあるものを描かなきゃいけないのに、ないものを描いたんです!」
本当かと尋ねる先生の視線に、勢いよく首を振った。
「ねぇ、皆もおかしいと思わない? あの祠を見た人はいたの!?」
クラスメイト達がざわつき始める。ざわざわと囁く声はどれも「見ていない」の言葉ばかりだ。私は見た。私の前に確かに祠はあった。寂れた祠はあったんだ。
でも、私が描いた絵は綺麗な祠だ。
ほんとうだ。わたしはうそをついている。
「あたしは嘘をついていません! 彼女は賞を取りたいからって、そうしたんです……。ほんとうはっ、だめだって、わかっていたんだけどっ、親友だからっ、黙ってて! でも、どうしても、ゆるせなくて……!」
嗚咽混じりに語りだし、苦しそうに教壇を下りて大粒の涙を落とし始めた。女子たちがしおりちゃんに駆け寄って慰める。非難の目が私に刺さり、「かわいそう」という同情は、わざとこちらに聞こえる声量だった。
中腰になった先生にどうなんだと聞かれた。声がでない。目が合わせられない。何も考えられない。確かに私はあったものと違うものを描いた。それは嘘だ。でも、なかったものを描いたわけじゃない。これは嘘じゃない。
どうして。こんなことになったの。
絵は、自由であるものだと思っていたのに。
「わ、私は」
「もっと大きな声でしゃべりなさい!」
怒鳴られた瞬間、喉まで出かけた言葉が引っ込んでしまった。
しおりちゃんが視界の隅に映る。彼女は、勝ち誇ったように嘲笑っていた。
「そうだよ。おかしいよ。あたしのほうがあんたよりも頑張っているのに」
騒がしくなった教室で、しおりちゃんの声だけがはっきり聞こえる。
「約束だから」
しおりちゃんはクレヨンを両手で握った。
おばあちゃんがくれた大切な魔法のクレヨン。
私の宝物。
「あたしは、あんたをみとめない」
ばきっとクレヨンが真っ二つに折れた。
あの騒動後、下校時間にしおりちゃんは私の腕を掴んで教室から連れ出した。どこに行くのと尋ねても無言のしおりちゃんが怖かった。連れて来られたのは美術室だ。電気をつけず、薄暗い特別教室で「正座して」と床を指した。
背もたれがない質素な木製の椅子に視線を投げたが、床ではないと駄目らしい。無言の圧力に負けて私は言う通りに正座した。
「下手くそ」
第一声は罵倒だった。
「あたしより絵が下手なくせに、いい気にならないでよ」
鋭く抉るような冷たい言葉が突き刺さった。しおりちゃんが私の絵をそう思っていたなんて知らなかった。思い返せば、「上手」や「好き」と言われた記憶がない。憤然と私を見下ろすしおりちゃんの中では、私たちの絵は対等ではなかったのだ。
「あんたはいいよね。おばあちゃんに褒められて。お母さんとお父さんも絵を描くなって言わないんでしょ? いい身分だよね」
しおりちゃんの家では、アニメや漫画といった娯楽を禁止されていた。それでも好きだからこっそり見ていると愚痴を零していた。絵もそうだ。両親は彼女の絵を褒めない。漫画家になれば、自分の絵を認めてくれるかもしれないと話していた。
「あのさ、空気を読んでよ。あたしが今までどんな気持ちであんたといたと思う?」
しおりちゃんは震え声だった。潤んだ目に睨みつけられ、私は項垂れた。彼女の事情を知っていたのに、重たく捉えず気遣わなかった。無意識に彼女を傷つけてしまった。
「わかってくれると思ったのに!」
頭に何かがぶつけられる。床に折れた黒色のクレヨンが転がっていた。震える手で拾おうとした途端、足で踏みつけられた。
「卑怯者!」
「ご、ごめんなさい」
手の甲を踵で押さえつけられる。痛いと訴えれば、しおりちゃんは鼻で笑ってから足を離した。じんじんと痛む手は赤くなっている。
「謝るなら誠意を見せて」
「誠意……?」
「そんなこともわからないの?」
腰に手を当てたしおりちゃんは、怒っているはずなのに口角が上がっていた。私が宿題が解けないときもこんな表情になる。今ならわかる。丸い目にうっすらと浮かんでいたのは、優越感だったのだろう。
「お母さんがいつも言っていることだよ。本当に悪いと思っているなら、もうしませんって誠意を見せるの。あんたは嘘をついてまで賞を取った。あたしを裏切った」
背負っていたランドセルを勝手に開け、何かを取り出してから乱暴に床に叩きつけた。
かしゃんと見慣れたプラスチックの箱が開き、中身が散らばる。それは十二色の魔法のクレヨンだった。
「クレヨン。全部、折って」
「そ、それは」
「今すぐ!!」
怒声に身を竦め、私は近くに落ちていた白色のクレヨンを掴んだ。
「早くして」
「で、できないよ……」
おばあちゃんとの思い出が詰まった宝物を、折れるわけがない。堪えきれなくなった私は泣き出した。できないと何度も頭を振り、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになっても、しおりちゃんは口を開かず無感情に私を見下ろしていた。
「それじゃあ、手伝ってあげる」
しばらく泣いていると優しい声が降ってきた。酷く冷えた私の手にしおりちゃんの手が重ねられる。よかった。機嫌を直してくれたんだ。しおりちゃんはにこにこ笑いながら私にクレヨンを握らせ、耳元で囁いた。
「あたししか友達がいないくせに、図々しいんだよ」
ばきっ。
「一本目」
何が起こったのか理解できなかった。両手を広げれば、折れた白色のクレヨンがあった。
「二本目だよ。頑張って一緒に折ろうね」
黄色のクレヨンを握らされる。抵抗もできず、ぼたぼたと涙を落としている私の耳にしおりちゃんは囁いた。
「ぶっさいくな顔」
ばきっ。
折るたびに、しおりちゃんは私の耳元で悪態をついた。
三本目、四本目、五本目と折っていく。床に折れたクレヨンが転がっていく。おばあちゃんとの思い出が、しおりちゃんとの思い出が、私の絵が、折れるたびに否定されていく。
「や、やめて……」
私の微かな拒絶は、しおりちゃんの耳に届かない。私の声は届かない。これ以上、しおりちゃんの声を聞きたくなかった。耳を塞いで逃げたかった。でも、逃げたらもっと酷いことをされるかもしれない。その恐怖が私の体を硬直させていた。
かたかたと何かが鳴る音が聞こえた。クレヨンの箱が揺れていた。しおりちゃんは気づいていないのか、鼻歌を歌いながら折れたクレヨンを私の前に並べている。床に叩きつけられたとき、クレヨンの箱は開いたはずだった。しおりちゃんは箱を閉めていない。私は動けない。
「最後は赤色だよ!」
しおりちゃんは赤色のクレヨンを私の掌に置いた。
「一番好きな色だよね。これを折れば、無事にクレヨンを卒業できるよ。よかったね!」
何がよかったというのだろう。だけど、口答えは許されなかった。赤色のクレヨン。おばあちゃんが好きな色。これだけは折りたくない。黙っているとしおりちゃんは私に握らせ、手に爪を立てて折れと視線で促してくる。
「早く」
しおりちゃんから笑顔が消える。
クレヨンの箱が鳴り止み、かたっと音がした。閉まったクレヨンの箱が少し開いている。
箱から見えた隙間は、真っ黒だった。
まるで、黒色のクレヨンで塗り潰したように。
「黒のクレヨンは……」
しおりちゃんは怪訝な顔をした。
「は? 何言っているの。もう折ったじゃない」
でもと、私は言えなかった。
だって、しおりちゃんの背後に、黒のクレヨンで落書きして固めたような、大きな黒い塊があったのだ。
目を逸らせず悲鳴もだせず、どこか見覚えのあるそれを、呆けたように見つめるしかできなかった。黒い塊は複数の囁きを集めたような『声』を発していた。外国語を聞いた感覚と似ている。わかるようでわからない別の言語を話していた。耳を澄ませても聞き取れない。私には理解できない。
あなたも、誰にも聞いてもらえないのね。
「やるよ」
しおりちゃんの手が重ねられる。
ばきっと赤色のクレヨンが呆気なく折れた。
その瞬間、黒い塊が弾けるように広がった。『声』が周囲の音を上書きして、美術室を覆ってしまった。黒い塊から、クレヨンで描いたような分厚い線が延びていく。それは私の耳に触れた。耳の中に、ごりっと異物を入れられた気がした。何か喋っているはずのしおりちゃんの声が徐々に遠くなり、優しくて甘い『声』が私を占領していく。どうやらこれが見えるのは私だけらしい。しおりちゃんが何か言っているようだけど、その言葉は届かなかった。
手には折れた赤色のクレヨンがある。おばあちゃんがくれた大切な魔法のクレヨン。あんなに大事にしていたのに、酷くどうでもいいことのように思えてきた。
でも、散らかしたものは片づけないと先生に叱られてしまう。気だるげにクレヨンを拾い上げ、乱雑に箱に詰めてからランドセルにしまった。美術室の扉を開けた途端、しおりちゃんに蹴飛ばされて派手に転んだ。
振り向くと、目を潤ませて睨みつける彼女がいた。どうしてこの子はこんなに怒っているんだろう。人のクレヨンを折ったくせに、まだ懲りないのだろうか。大きく口を開いて叫んでいても、私には全く聞こえなかった。さわさわと心地よい『声』だけが私の世界を覆っている。もっと聞きたい。もっと欲しい。邪魔をするしおりちゃんが鬱陶しくて仕方がなかった。
面倒臭いなぁ。
起き上がった私は、しおりちゃんがどうすれば離れていくか考え、すぐに思いついた。
それはとても簡単な答えだった。
「あなたを友達だと認めない」
友達、やめちゃえばいいんだ。
しおりちゃんは動揺した。見るからにショックを受けていた。人を散々傷つけておきながら、自分が傷つけられるなんて思わなかったのだろう。いいなぁ、そういうの。ずるいなぁ。しおりちゃんの口真似をしてみたけれど、ちっとも面白くなかった。
別れを告げず廊下を歩く。さわさわと『声』と共にあの黒色のクレヨンの塊がついてきた。不思議と怖くはない。懐かしさすら感じた。
それもそうだ。私はこの黒い塊を知っている。ぱっくりと何もかも飲み込みそうな黒色は、私が描いたトンネルの色だったのだから。