#2
すずかは漢字で「涼花」と書いた。
「すずか」よりも「すず」と呼ばれることが多いらしい。持ち物の名前を「すずか」とひらがなで記入していたあたり、そちらを好んでいたのだろう。
耳を塞げば『声』が聞こえなくなる。彼女のおかげで、久しぶりに会話ができるようになった。
「すずかちゃん」
「すずでいいです」
「すずちゃん」
「はい、なんでしょう」
梓涼花は少し変わっていた。
彼女は常露町最古の神社の孫娘だ。他の人たちとは異なる雰囲気があり、教室の「私たち」とは違う気がした。今思うと、いつも真っ直ぐ伸びた背筋や誰とでも敬語で話す態度、大人びた言動に距離を感じていたのだろう。
彼女には隙がなかった。私と同じ年齢なのに、違う世界を見ているように思えた。
すずかちゃんは人と話すとき、相手の目を見る子だ。黒目がちの吸い込まれそうな目に私はたじろいだ。今まで私の話に耳を傾けてくれるクラスメイトはいなかった。この子はちゃんと聞こうとしてくれる。
「あの、ど、どうしてわかったの」
耳を塞ぎながら話をする私に、クラスメイトたちの奇異の眼差しはあった。けれど、すずかちゃんが「彼女の耳は病気で聞こえないときがある」と話したのだ。「梓さんが言うならそうだろう」とあっさり頷いたクラスメイトたちは、すずかちゃんに信頼を寄せているのと同時に、対等な扱いを受けていないと理解した。良くも悪くも彼女は特別だったのだ。
放課後、私はなけなしの勇気を振り絞ってすずかちゃんに声をかけた。
会話ができるようになってから、額縁の向こう側のように感じていたクラスメイトとの距離が近くなった。この中に混ざってきている。耳を塞いで話すちょっと変わった子だと受け入れられたのだ。
この『声』は自分と誰かの会話に反応する。話し声や独り言は聞き取れた。授業は問題ない。聞き耳も立てられた。ただ、私の会話を邪魔してくるのだ。
それが、『声』と名付けた不思議な現象だった。
さようならまた明日とクラスメイトたちが次々と教室を出て行く。ランドセルを背負い、帰ろうとしたすずかちゃんを呼び止めた私の心臓はばくばく鳴っていた。
「そ、その、私の耳が聞こえにくいこととか」
さわさわと耳の奥で『声』が囁き始める。私は急いで耳を塞いだ。
「耳を塞げば、聞こえるようになるとか」
私はそんなに頭がよくない。しかも鈍感で気遣いができない人間だ。所謂、空気が読めないタイプ。大事な何かを見落としていた可能性もある。尋ねる前に自分であれこれ考えてみたけれど、結局わからなかった。
「どうしてかなって……」
ただでさえか細い声がさらに細くなっていく。質問した自分を後悔した。私は馬鹿で鈍感で空気が読めない駄目な人間だ。「こんなこともわからないの」と笑われるのではないかと怖くなってしまった。あのときみたいに、また嫌われてしまう。
「それは、あなたの耳に黒い靄が見えたからです」
「梓」
投げかけられた声に私の肩が跳ねた。二人きりだった教室の扉の前に男子が立っている。刈り上げの短髪に意志の強そうなつり目、体育が得意そうな伸び盛りの体。身長はクラスの中で高いほうだろう。同じクラスメイトだったはずだ。
「和斗さん、どうかされましたか?」
和斗というのは名前だろうか。親しい間柄なのかと思ったが、この頃から恋愛に関心が薄かった私は特に詮索しなかった。二人の間に妙な空気が流れる。和斗と呼ばれた男子は視線をさまよわせてから口を開いた。
「……帰らないのか」
「えぇ、今から帰りますよ」
すずかちゃんの即答に面を食らったような顔をした。
「そ、そうだよな」
他に何か言いたいことがあるのか、口をもごもごとさせている。
「梓、その、また変なことに顔を突っ込んでいないか」
彼は気まずそうに私から目を逸らした。ひやりと心臓が縮んだような心地がした。いたたまれない居心地悪さ。彼は私をよく思っていない。すずかちゃんと一緒にいるのが嫌なんだ。まただ。また、私は知らないうちに誰かを傷つけている。空気が読めないくせに周囲を知った気になっている。額縁の向こう側、絵の中にいない。同じ過ちを繰り返している。
「おかしいですか」
すずかちゃんの固い声が教室に響いた。
薄暗い教室の窓に斜陽が差し込む。橙色に照らされた横顔に息を呑んだ。切り揃えられた前髪の下の目は、相手から決して逸らさない。白い頬は上気してほんのり赤く、幼さが残るあどけない輪郭は脆くも、常に何かと戦っている眼差しがあった。
綺麗だと思った。
「わたしが見える世界はおかしいですか。石崎さん」
「違う、梓。俺は」
石崎和斗。それが彼のフルネームのようだ。石崎君は何かを言いかけて、躊躇したのか口を閉じてしまった。気まずい沈黙が教室を包む。こうなったのは私がいるからだ。今すぐここから離れないと。
「わ、私、行くねっ」
「一緒に帰りましょう」
すずかちゃんに手を握られた。
「さようなら、和斗さん」
頷く前に手を引かれ、教室を出てしまう。
「また明日な、すずか」
すれ違いざまに見た石崎君は振り返ることなく、誰もいない教室を見ていた。
「ごめんなさい」
廊下をずんずん歩いて階段を下り、昇降口についたところですずかちゃんは手を放した。突然頭を下げられ、私は首を大きく振った。すずかちゃんは何も悪いことをしていない。『声』が聞こえないよう耳を塞ぎ、息を吸い込んだ。
「どうして、謝るの……」
私の声はとてもか細い。簡単に誰かの声や物音に潰されるくらいの小ささだ。「もっと大きな声でしゃべりなさい」と前の学校の担任の先生に叱られてから、さらに声がでなくなってしまった。
「わたしの怒りを和斗さんにぶつけて、あなたを巻き込んでしまったからです」
巻き込まれたと思っていなかった私は、ぽかんとした。
「その、詳細は省きますが、和斗さん。いえ、石崎さんにはわかってもらえるって思っていたんです。家が近くて幼稚園も一緒で。昔から一緒にいたから、わたしの気持ちを理解しているって……」
二人は幼馴染みだ。だから名前で呼んでいたのだと納得した。
「いくら同じ時間を重ねても、わからないことはあると姉さんが言っていました。勝手に期待して勝手に失望したというものです。私は期待していたんだと思います」
すずかちゃんは落ち込んでいた。
そうだ。目の前に立つ彼女は私と同じ年齢の子どもなんだ。どこか浮いているように見えても、同じように苦しんでいる。背伸びしているように見えるだけで、根っこは変わらないのかもしれない。
「ど、どうして、期待したらいけないの!」
自分なりの精一杯の大声は、情けないくらいに掠れていた。それでも私は息を大きく吸い込んだ。
「わっ、わたし、馬鹿だから、二人のことはよくわからないけどっ。きっと、すずちゃんは、石崎君が好きなんだと思う! 恋とかじゃなくて、その、一緒にいるから、いるからこそっ、そう思ったんだよ!」
二人はとても仲がいいのだろう。言葉を伝えなくても大丈夫だと思えるくらい、誰も入り込めない空気ができているのだ。私が欲しかったものを持っている彼女が羨ましかった。この子は私と違って優しくて、たくさん傷ついて苦しんで戦っているのだろう。
私が壊してしまった苦しみを、優しい彼女が知る必要なんてない。
「し、信頼しているからなんだと思う……」
『声』がさわさわと囁く。耳を塞いでいるのに、頭を空っぽにしようと甘い声が私を塗り潰してくる。
これは呪いだ。
苦しいのは嫌いだ。怖くて憎くて今すぐ忘れてしまいたいのに、それを知らなければすずかちゃんの気持ちがわからなかった。今だけは忘れたくない。耳を押さえる手に力を込める。出てこないでと強く念じる。
「ありがとうございます」
すずかちゃんの手が両手に重ねられる。あんなにうるさかった『声』が引いていく。
「優しいんですね」
「わ、私はっ、優しくなんか」
私は酷い人間だ。大切な人を傷つけてしまうずるくて最低な性格だ。
「あなたの耳がそうなってしまった理由を、教えて頂けませんか」
頬に雫が伝ってから、視界が滲んでいると気づいた。
「すずちゃんは、私の声をちゃんと聞いてくれるんだね」
あぁ、そうだ。私はずっと、誰かに聞いてもらいたかったんだ。
私の話を。