第10話 代行者、アウェイクニング
どうして、こんな事になってしまったのか。座り込んだ姿勢から手を降ろせば自然と触れてしまうアスファルトの肌寒さを感じながら、俺は恐怖と倦怠感に加え、それらの感情を上回るほどの疑問の渦が脳内を駆け巡っていた。
冷泉と少年の戦いが始まってから間もなく。俺は一人取り残された格好となったまま、こうして相変わらずのへたり込んだ姿勢を貫いている。
そして改めてこの異様な状況について思い返し、この場を離れた二人の存在について思考を切り替え始めていた。
二人はまさに俺が今座り込んでいる建物の入り口。そこから敷地内へと入り込んで行った、どうやら戦いの場所を移したらしい。
入り口の塀を飛び越えていった少年の後を追うように正面から突入した冷泉は、やや苛ついた表情を浮かべていた気がする。その殺気を放っていた裏の表情が恐ろしく感じて、彼女が俺の横を通り過ぎる最後の瞬間まで、目を合わせることが出来なかった。
冷泉瑠華。
その正体を嗅ぎ回っていた俺に対して、脅迫を掛けて来た謎の転校生。
銀髪の少年。
突然目の前に現れたと思いきや、なぜか俺を殺そうとしてきた謎の人物。
少年は、自分達の存在を『代行者』だと語っていた。そして少年曰く、どうやら俺自身もその代行者という物に含まれる存在らしい。
しかし、『えぬぴーしー』等という物が混じっているからバグっているとか意味の分からない事を口にしていた。他にも冷泉に対して何か話していた気がするが、これ以上は考えるだけ頭が痛くなるため言葉の意味について思考する事は止めよう。
重要なのは、俺がこれから何をすればいいのか、という事だ。俺自身が今『やらないといけない』事、それは一体何なのだろう。
「……少なくとも、これだけは言えるな」
このままへたり込んでいても、何も変わらない。それだけは確信している。俺は立ち上がる事にした。体力もある程度は戻っていた。
「冷泉……」
彼女の名前を声に出して呟いた。
一度は脅迫された相手だったが、それでも助けてくれた。
命を、救ってもらった。
多分、彼女は俺がこのまま逃げ帰ることを良しとしているだろう。そうでなければ、わざわざ助けたりなどしないはずだ。
もし俺がこの場から逃げ出したとして、その後再び彼女と再会した時に「なんで逃げたの?」などど責められる事はないと思う。いや、彼女の性格なら「逃げるのも一つの勇気よ」なんて心が傷付く褒め言葉を掛けられてもおかしくないかもしれない。
じゃあ、それが今の俺が『やらないといけない』事なんだろうか……?
「……いや」
違う、そういう事じゃない。
彼女に責められたくない、そんな物はただの自己弁護。言ってしまえば、保身にしか過ぎないんじゃないか。自分がするべき事は、もっと別の所にある気がする。
たとえ彼女自身が、それを望んでいなかったとしてもだ。
俺は振り返って、建物の入り口を見据える。
敷地内からは、時々銃声が聞こえて来た。
今も二人は戦っているのだろうか……。
あるいは、既に冷泉が少年を追い詰めているのかもしれない。
でも万が一……冷泉が負けていたとしたら?
俺のような普通の人間には、他人の実力を比較することなんて出来ない。拳銃の弾丸を切ってしまう程の冷泉の実力は、確かな物に違い無いだろう。でも俺には、たった一つだけ、二人の違いに気が付いた事があった。
冷泉が俺を脅迫していた時に発していた殺気。
少年が俺を殺そうとしていた時に発していた殺意。
どちらも恐ろしく感じられたが――俺は少年の方が怖いと感じてしまった。あの得体の知れない雰囲気が、脳内に焼き付いている。
勿論あの時の冷泉は、本気で殺すつもりじゃなかった。そういった事情もあるだろう。それでも、少年から感じられた殺意は冷泉のそれと比べても圧倒的だった。恐怖を感じる暇すらもない、身体が即座に拒否反応を起こしてしまうほどの衝撃。
二人が実際に対峙していた時も、その感覚の違いに変化は無かった。向けている対象が、俺じゃなかったとしても……多分。
だから、彼女の事が心配だった。
瞬間的に、身体が勝手に動き出していた。自分にも何か手伝える事がある、そんな思い上がりはしていない。もしかしたら、彼女には邪魔だと思われるかもしれない。
それでも……俺は敷地内へと走り出した。
「……はあっ、はあっ」
敷地内へと侵入してから、周囲に街灯の明かりすら差し込まなくなった地点で、俺は一度足を止めた。より濃い暗闇に包まれた周辺の様子を見渡しながら、冷泉の姿を探す。
少しずつ目が慣れて来たのか、敷地内の建物の壁があちこち錆びついている事に気が付く。多分、本当に今は使われていないんだろう。少年が自らの手で、周囲の人達を消した可能性は低そうだった。
「……っ!? 冷泉!?」
再び、遠くから銃声が鳴り響いた。その方向を向いた瞬間、普通ならば有り得ないはずの高さの地点に、人影を見つけた。可能性は二つに一つだったが、後の展開を考慮すればあまり喜ばしくない結果だったかもしれない。
冷泉瑠華が空中に浮いていた。いや、浮いてるんじゃない、落ちていた。彼女はそのまま青龍刀で切るような仕草をすると、地面へと落下した。見積もっても、十メートル以上はあるはずの高さからそのまま。
先程の銃音と被せるようなタイミングの一致。
俺は思わず、最悪の事態を想定してしまう。
気付かれないように少しずつ、忍び寄るように、彼女の落ちた地点に向けて歩を進める。相対している少年が、一体どこに潜んでいるのか分からなかったからだ。果たして彼女は無事なのだろうか……。
「……あれは?」
彼女の落ちた地点から左方向、その地点へと近づいて来る人影を見つけた。他に誰がいるというのだろう、人影は少年のものだった。少年は途中で歩みを止めると、なにやら余裕そうな表情で言葉を発していたが、その詳細までを聴き取るには些か距離が離れ過ぎていた。
そうして俺の方も、ようやく冷泉の姿を遠巻きながら視界に収める事ができた。傍目には彼女が撃たれた形跡を見つけられなかった事に、思わず胸を撫で下ろす。しかし落下した際に身体を打ち付けたのか、立ち上がるまでの動作が少々鈍かった。
状況を考えるに、彼女の方が劣勢に追い込まれていたのは間違いないだろう。俺の悪い予感は、残念ながら的中してしまっていた。
「――っ!?」
立て続けに放たれた三度の銃声と、目にも止まらない速度で青龍刀を振り回す冷泉の姿。二つの情報が、俺の五感の内の二つを揺さ振る。初めて客観的な視点から覗くその光景は、さながら映画のクライマックスを想起させる物だった。
しかしそれも、本当の意味での決着の前振りでしか無かった。
戦況が理解出来ないまま倒れ込んでしまった冷泉だったが、彼女が銃撃を凌げたかどうかすら考え始める暇も無い数秒の静寂を挟んだ直後。
彼女の姿が、文字通り『消えて』しまった。
そして全くの同時のタイミングで、再び銃声が鳴り響いた。
「なにが……起こったんだ」
俺の視線には、相変わらず直立不動で銃を構えていた少年の姿が。そして消えたと思いきや、その至近距離までいつの間にか移動し、今にも斬り掛かろうと青龍刀を少年の顔面付近にまで突きつけており、しかしまるで時が止まったかのように固まっている冷泉の姿があった。
何故、彼女は剣を止めているのだろう、まるで状況を掴めていない俺に素朴な疑問が浮かんだ。その右手をそのまま動かしてしまえば、少年の首元は容易く切り裂けるというのに……。
疑問の答えが示されたのは、程なくして青龍刀を力無く落としてしまった冷泉の姿を目撃した直後だった。それは、この戦いの決着と結果を告げる答えでもあった。
ああそうか……
彼女は……負けたのか。
思わず目を背けて、足元を見てしまった。
彼女は既に死んでしまったのだろうか。
もし、そうだとすれば……
俺のせいかもしれない。
少年が危険な存在ということは分かっていた。それなのに、俺は彼女に対して何も伝えられなかった。こんな事、何のアドバイスにもならなかったかもしれないが。
でも、そんな事よりも。
俺は命を救ってくれた恩人に対して、「怖い」と感じてしまった。目を合わせることさえも、拒否してしまった。
「ありがとう」の一言すら、言えなかった。
なにをしてるんだ……俺は。
「……? あれは」
何か物が飛んで来たような音が聞こえた。近付いて確認してみると、それは彼女の青龍刀だった。思わず、先程まで見ていた方向に視線を戻した。
少年は崩れ落ちた冷泉に対して顔を近付けると、何かを話している様子が窺える。ということは……冷泉はまだ生きているのか?
俺の脳裏に、それまで一度も考えたことも無かった、ある決意が浮かんでいた。それは、誰がどう見ても愚行としか思えないような、無謀過ぎる決意だった。それを実行に移したところで、一体なにが変わるのだろうと思う。仮に彼女がまだ生きていたとしても、既に手遅れの可能性もある。
それが俺の『やらないといけない』事なのか、正しい答えを導き出す事はできない。それでも、ひとつだけ断言できる事がある。
彼女が俺を助けてくれた行為。それは、『やらなくてもいい』事だったはずだ。俺のような人間を彼女が助けようとしてくれた事実は嬉しかった。しかし、助けないといけない訳じゃなかった。そこには必要性も必然性も生じていない、彼女の優しさの証明だった。
敵を探していた彼女は、いずれ少年と戦う運命にあったのかもしれない。
その場合も、やはり彼女は少年に敗北していたのかもしれない。
しかし彼女は、『やらなくてもいい』事をした。その結果として、俺のような人間を助けるために戦いを始めて……今にも死に絶えそうな状況に陥っている。
俺が今から取る行動が正しいかなんて分からなかった。それでも、自分の決意から逃げ出してしまう事だけは……『やってはならない』事だと思う。このまま逃げ出せば、俺は一生後悔するだろう。たとえ殺されてしまっても、絶対に。
俺は――彼女の青龍刀を手に取った。
「っ!?」
その瞬間、剣を取った右手に激痛が走った。まるで持ち主ではない俺を拒否しているかのように、意思を持たないはずの青龍刀はその手を離せと拒否反応を示していた。
「いっ……てえ」
右手が、焼けるように熱い。まるで点火されたキャンプファイヤーに手を突っ込んでいるかのような感覚だった。手の表面だけに留まらずに、内側の骨ごと燃やし尽くしてしまいそうな強烈な痛みはいつまでも止むことなく、俺の決意を揺るがそうとしている。
「ふざ……けるな」
死を覚悟する決意はもう終わったんだ。だから、なにがあっても俺はこの手を離したりしない。既に右手の感覚は無くなっている、もしかしたら本当に燃え尽きてしまったのか。
関係無い、俺は……彼女を、冷泉瑠華を助ける!!
「負け……るかあああああああああ!!!!!」
――その瞬間、俺の意識は途切れてしまった。
俺の意識が消えかかる、刹那の間。
「……貴様は寝ていろ、後は俺がやる」
そんな声が聞こえた気がした。
★
「……なんだっ!?」
突然、少年の口から慌てたような台詞が聞こえてきた。
それは、私との戦闘では一度も聞けなかったような驚きの声だった。
一体なにが起こったのだろう……完全に諦めていたはずの私は思った。しかし、自らの身体に直接伝わって来た感覚がその理由を教えてくれた。
「……殺気?」
目の前の少年のそれではない、『もう一人』の殺気を感じた。それが、入り口の方向から発せられている物であることも。私は右肩の痛みを堪えながらも首を動かして、視線を合わせた。しかし、殺気を放っていたもう一人の正体は、私の想像を遥かに超えていた人物だった。
「まさ……か」
私の視界に、尋常では無い雰囲気を纏っている人物の姿が入ってきた。その右手には、先程少年に投げ飛ばされたはずの私の青龍刀が握られている。周囲に殺気を溢れさせて、今にも誰かを殺してしまいかねない強烈な圧迫感。それを感じさせたのが、まさか彼だったなんて……
「榊原……君、あなた……」
私はこんな状況だと言うのに、何故か笑いがこみ上げてしまった。
――私は本当に人を見る目が無い。
――今までこれほどの『代行者』の存在に。
――全く気が付いていなかっただなんて。
――一生の不覚かもしれないわね。
もう一人の代行者――
その正体は、あの榊原修だった。




