25、白い家 中編
フラグが紅花の全身にからみつこうとする。紅花は思わず両手を振り払う仕草をする。
「あら? どうしたの? なにか虫でもいた?」
「ええっ、ちょっと蚊がいて」
「そうなの。嫌な季節よね。すぐ食材も腐ってしまうし」
真奈は憂鬱そうに言った。
食材という言葉に紅花はぞくっとする。
なんで古床がここにいるのか。なぜ、あんなところに転がされているのか。
それは――。
真奈という女が食人鬼だということだろう。
こんな偶然あっていいものなわけ?
そう言いたいところだが、それは紅花が持つ因果律というものだ。
偶然なわけない。紅花がここに来たのも、元々、古床を探していたからだ。その古床を探した理由も、颯太郎がおっていたからだ。
颯太郎が追うということは、古床の死亡フラグが見えたことであり――。
あの犬は駄犬ではなかったようだ。
そうなると、颯太郎はこの家の近くにいることになるけど。
どうしようか。
颯太郎のことだ、また美味しいところをかっさらいにくるかもしれない。
それなら、紅花はそのままここから離れたほうがいいに決まっている。
それなら、きっとこの身体にまとわりつくフラグもそのうち消えるはずだ。
消えるはずなのに。
お人よしだと思う。
なんでここにいるのかなって思う。
馬鹿としか言いようがないと思う。
とんとんと包丁の音が止まり、野菜が切り終わったことを示す。
床に転がされたままの古床をどうにかして助け出さなければ。彼女は普通の人間だ。紅花のように不死身に近い身体ではない。
もちろん、紅花だって完全な不死身なわけじゃない。身体を喰われたらそこは欠損してしまい、簡単に回復しない。
死んでも無限に生き返るわけでなく、身体に傷を受けるごとに身体を再生する細胞は減っていく。それがゼロになったとき、もう次はない。
どうしよう。
なにかしなければ、このままだと古床が調理されてしまう。どくどくと心臓の音が大きくなり、頭がぐるぐる回る。目まで回りそうなほど考えたのは、ごく単純な方法だった。
紅花は棚の上にある写真たてを一つとると、そのまま床へと落とした。フローリングに落ち、一回バウンドするとともにバラバラになった。
「す、すみません。手が当たったみたいで」
「あっ、そのままで」
ぱたぱたとスリッパの音をたてながら、真奈がこちらに近づいてくる。
しゃがみ込んで、割れた写真立てを手に取る。
紅花はその隙にキッチンのほうへと向かうが――。
居間に若い男が入ってきた。ゆるゆるのTシャツにこれまただぼだぼのハーフパンツをはいている。
確か、写真に写っていたもう一人の人物、駿という男だ。
真奈によく似ているが、しかしその肌色は青白かった。
「兄さん、こんなところまで来て。寝てなきゃだめでしょ?」
優しい声で真奈が言う。
駿は黙ったまま、その虚ろな目を紅花のほうへと向けていた。
「もう、なによ。お腹が空いたの?」
駿はずっと紅花を見ていた。
全身に巻き付くフラグが一層強くなる。
だらだらと汗が毛穴中から吹き出してくる。
まるで腹でも殴られたかのように、胃液がこみ上げてくる。口の中が苦くて酸っぱい。
駿の身体から、独特の薬の匂いがした。それに混じって、なにかが腐った臭いが混じる。
「ふふ、仕方ないなあ」
真奈が笑いながら立ち上がる。
そのとき、ぼたっという音がした。
床にどろっとしたものが落ちている。なんだと思い、視線を上げると、そこには歯茎がむき出しになった駿がいた。顎から左頬にかけての肉が落ち、まるで骸骨のようになっていた。
「あー、兄さん。薬忘れたらだめでしょ。もう」
そういって真奈は、当たり前のようにそのどろどろした物体を手に取り、それを駿の顎にくっつける。ぶよぶよとした塊は、粘性生物のように蠢くと、駿の頬になんとか癒着した。
皮膚はまだ再生できず、赤い筋肉がむき出しになっている。理科室の人体模型を思い出す。
真奈は近くの棚から注射器を取り出すと、小さな瓶に突き刺した。それを無造作に駿の首に突き刺して、中の薬剤を注入した。
すると、無理やり引っ付いた肉片が蠢きだし、赤くただれた部分に皮膜ができるたと思うと、元の人の形をした何者かに戻った。
駿が徐に手を上げる。そして、何をするかと思ったら、真奈の頭を叩いた。ごりっと何かが折れて砕ける音がして、真奈の頭がぶらんとあらぬ方法にぶら下がっている。
真奈の口からよだれがこぼれた。ぴくぴくと痙攣しながら、持っていた注射器を自分の首に刺す。残った薬剤を注入し終えるとともに、折れた首がぴくぴくと動き、自然に元の位置に戻っていく。
完全に戻ったところで、真奈は「あーあー」と声の調子を整える。
そして、何事もなかったかのように
「ふふ。ごめんなさい。驚いた? 兄さんは前に病気になってね、ちょっと人見知りなの。なんかそのせいで怒られちゃった。本当は優しいんだけどね」
ちょっとどころではない。
あれは人間じゃない。
思考回路がパンクしそうになる、動こうにも動かない。
だけど、一秒でも早くこいつらから逃げ出さねばならない。
駿はじっと紅花を見ている。
濁った寒天を思わせる眼球がぎょろぎょろ動き、紅花を値踏みする。
元は、整った造形であろうとも、この視線と先ほどの光景を見たら、何を思うか明白だった。
逃げなきゃ。
自分の足をからめとろうとする黒いうねうね。
それを振りきり、紅花はキッチンへと走る。猿ぐつわをして縄にまかれた古床を担ぐと裏口のドアを開けようとした。
しかし、ガチャガチャとノブを回しても動かない。鍵を開けても開かない。
「開かないよー」
ゆっくり真奈が近づいてくる。その後をのっそりと駿が続く。
紅花はコンロの上にかけてあるミルクパンをとると、窓を叩き割ろうとした。ガラス製のそれはミルクパンをはじき返した。
「それ、ガラスに見えるけど、特殊な樹脂なんだよ」
にへらーと笑いながら真奈が来る。
紅花は歯ぎしりをすると、右手に持ったミルクパンを思いきり振った。
ごきっと手に嫌な感触が伝わる。それでも、もう一度振るう。一度、折れた首がさらに打ち付けられ、皮一枚でつながっている。
「……っ……」
手に持っていたミルクパンが凹んでしまった。それを捨てて、紅花はもう一つあった大きなフライパンを持つ。
躊躇なんてしておられず、もう一度、真奈を殴る。膝を狙い、関節を砕く。
駿にも同じようにくらわせる。
やれ、やらなければやられる。
心臓をバクバクさせて、紅花はフライパンと古床を両手に持ったまま部屋を出る。
玄関へと向かい、鍵を開けようとするが、まったく開かない。ドアの上を見てみると別に鍵がかかっており鎖と南京錠でぐるぐる巻きになっていた。
紅花は手を伸ばし、フライパンで叩くが壊れる様子もない。
扉を蹴り破ろうにも、蹴りつけたところで足がじーんと響いた。外観にこだわってか、木の扉に見えるけど、なかにしっかり金属が入っている。
はやくはやく。
その間に真奈たちが回復していく。床に何かが這いずり回っている音が紅花の耳には聞こえる。
ここじゃだめだ。
どこか出る場所を、この家から一刻も早く出なければならない。
廊下を走り、見かけた窓という窓を叩いていく。どれも弾力があり、跳ね返される。壁を蹴り破ろうにも無理がある。
どこか、どこか逃げる場所へ。
紅花は階段を駆け上がる。
早く早く、なにかないのか。
しかし、二階に上がったところで紅花は呆然とした。
そこにはなにもなかった。
壁は真っ白に塗りつぶされ、壁は取り外されていた。一面、真っ白になったフロアはにはところどころ黒い服が置いてあった。
古びたドレス、アンティークものばかりだ。
元は上等なものであっただろうに、それはだいぶ色あせていた。いや、ところどころに綺麗なものもある。
ビスクドール事件、その言葉を思い出す。
数十年前に起きた事件、写真にあった時期と一致する。
窓があった部分には鉄板がはめられていて、丁寧に溶接されていた。がんがん叩いても、フライパンが凹むだけだった。
ただ一か所だけある四角いものは、換気口だろうか。
どうにかしてのぼれないだろうか。
しかし、古床を抱えたまま、あそこを突破できるだろうか。
考えをぐるぐるさせたところで、長考する暇はなかった。
階段を上る音が聞こえる。スリッパのぱたぱたという音がこれほど不気味だと感じたことはない。
紅花は一番大きな柱の影に隠れる。
壁にそっと古床を立てかけ、そっと階段を窺う。
「ヴぃどいなあ、いぎなり殴るなんで」
声帯が完全に治っていないのか低く濁った声が響く。
本人の動きはまるで、ロボットのようにカクカクしていた。まだ、膝の治りが悪いらしく、片足を引きずっている。
真奈の目は完全に見開いていた。
それでいて、首を四十五度傾けてかちかちと歯を鳴らしている。
真奈は首に手をやると傾いた首を真正面に戻す。そして、もう一度声の調子を見る。
「おてんばさんだって言われなかった?」
くすりと上品に笑いながら、その手には大きな鉈を持っていた。
「ここって昔は病院だったんだよ。個人経営の小さな病院」
ぽつりと真奈が言う。
「ここらへんはまだその時もう少し人口も多くて病院も近くにあったから、そこそこ繁盛していたんだけどね。ある日、突然閉院したんだ」
白い壁を擦りながら、真奈が言う。
「兄さんと私が病気になったの。ここ、うちの両親が経営していたとこだったんだ」
ぽつぽつ漏らしていく。
両親は子どもたちのために、より良い医療施設を探そうと躍起になった。海外の病院を回ったけど、どんな病気なのかさえわからないもので、似た症例もほとんどなかった。
そのうち、たくわえていた貯金も尽きて、どうしようもなくなったころ、救いの手が差し伸べられた。
真奈がセーラー服の裾を持ち上げて見せる。白い肌があらわになる。
そこには細い赤い線のようなものが浮いてみえた。
「聖痕っていうのかな。どんな傷でも治っちゃうのに、興奮すると浮いてくるんだ」
藁をも掴むつもりで、真奈たちの両親が探してきた療法は移植手術だった。
内臓をごっそり入れ替えることで、その病の元がなくなるといういかにもなもので、医者でありながらそんな危険で確証もない方法に手をつけたのは、長年の治療で疲れていたのだろう。
「成功したよ、だから、私はこうしている」
でもね。
「兄さんには少し合わなかったみたい」
定期的に薬剤を与えることでしか、身体を保つことができない。異常なまでの再生能力と力を手に入れた一方で、ひたすら脆い身体になってしまった。
「あともう二つ、困ったことがあったの」
なぜか年を取らなくなってしまったこと。それと。
「移植した胃袋が悪かったのかしら。すごく食いしん坊さんになって」
ちょっと変わったものを好むようになったと。
お父さんもお母さんも、そんなわけでいなくなったと。
「私は別に食べたいとは思わないけど、兄さんのこと好きだし、美味しいもの食べさせてあげたいよね」
だから……。
「ねえ、あなたの内臓を頂戴? 代わりに綺麗なドレスをあげるわ」
床に落ちたドレスを拾い、真奈はにっこりと笑った。
やばいやばいやばいやばいやばいやばい。
逃げたい、早く逃げたい。でも、古床を放置するわけにはいかない。
馬鹿だ、本当に馬鹿だ。
いくらでも逃げられたものを。
その回避する可能性を捨ててきた結果がそれだ。
紅花の周りにまとわりつくフラグ、このままじゃだめだ。
相手は二人がかり、だけど。
紅花は、ぎゅっと唇を噛み、フライパンを握りしめる。
大丈夫、落ち着こう。
二人を無効化すればなんとかなる。
落ち着けばいけるはずだ。
そう思っていたときだった。無視しようとしていた、フラグが足にからまり付いていた。いや、違う、肉の塊が蠢いて紅花の足によじ登ろうとしていた。
古床にもまとわりついていて、慌てて紅花ははらおうと座り込んだ。
「!?」
激痛が足から全身に伝わる。
思わず身体をくの字にして足をおさえる。
そこには脛から先の足首がなかった。
紅花は慌てて自分の足を探す。血だまりにあったそれを見つけると、急いでくっつける。
ふしゅうっと血が沸騰するような感覚がする。血だまりは生き物のように、紅花の傷口に集まり、すべてが戻ったところで皮膚が癒着する。
倦怠感が一気に身体をめぐる。
修復のため、全身にたくわえられたカロリーが一気に消費され、一種の飢餓状態に陥る。
「あは、ははははは」
紅花の前に真奈が立っていた。血糊がついた鉈、それが先ほど紅花の足を切断したのだろう。
「ふふふふ、これでもう大丈夫。もう餌はいらない。ちゃんとちゃんとまともになれる」
そう言って真奈は自分の腹を撫でる。
「まがいものじゃない、まともなものを移植すれば……」
「ふざけないで!」
思わず紅花は叫んだ。
なんだそれは……。
食われるのも、パーツとして利用されるのも嫌だ。
そんなの断固断る。
フライパンで攻撃しようとしたら、真奈はにやりと笑って、その鉈を振り下ろす、古床へと。
「!?」
その刃先は、彼女の前で寸止めになった。
古床はまだ起きない。もしかして薬でも嗅がされているのではないのか。
なんてことだもう、本当にありえない。
「貴方、不死者よね?」
「……」
沈黙したところでさっきの再生能力を見たらわかることだけど。
「ねえ、お願い。私たちに祝福を頂戴」
そう、真奈は古床に鉈を突き付けながら言った。




