24、白い家 前編
たしかここらへんだったはず。
紅花は木の上から見た記憶を頼りに、生垣まで来た。低い塀を補うように二メートルほどの木が並んでいる。
飛び越えようと思えば飛び越えられる。
でもそれはちょっとやめておいた方がいいだろう。今日は半日授業なのでいつもほど荷物はないから楽にいけるけど、見つかるとやばい。
木と木の隙間は案外狭い。どこから古床たちは出て行ったのだろうかと目をこらす。
「おい、何をしている?」
生垣のところでもぞもぞしていると、後ろから声をかけられて驚いた。
紅花はハッとなり、振り向く。
いつのまに後ろにいたのだろうか、そこには初老の男が立っていた。
白髪交じりの髪に、けだるそうか顔をした男は猫背でどこか引きこもりのイメージがした。
なにをしていると言われても。
「そ、早退しようと思って」
うん、正直が一番だ、堂々としていればいい。
胡乱な目で男が紅花を見る。
「早退か、なら、ここで近道するな。ちゃんと校門から出ろ」
「は、はい」
男はこの生垣に抜け道があることを知っているらしい。
そして、他にも使う生徒がいるようだ。
けっこう、物わかりのいい人なのか。
紅花はほっとしながら、校門へと向かった。
学校の塀をくるりと周り、紅花は生垣の外側に立った。
学校の外に出たのはいいがこれからどうしようか。
こういうとき、愚兄だったら。
愚兄は家族の中で無駄に鼻がいい。犬並、いやそれ以上の嗅覚を持っている。古床の匂いをたどり、それを追いかけることくらいやってのける変態だ。
紅花は、生垣の隙間を発見する。おそらくここから、出てきたのだろう。
くんくんと鼻をならして、そこの部分を嗅いでみる。
うん、わからん。
葉っぱの匂いと土の匂いを強く感じるがそれまでだ。いや、ほんのわずかであるが、魚臭かった。これは颯太郎のものだろう。
颯太郎ならもう古床に追いついているかもしれない。
颯太郎の匂いをたどれば、と思って地面を嗅いでみるけど、残念ながらそこから先はまったく匂いがわからなかった。
「……」
近くに誰もとおっていなくてよかった。紅花は素知らぬふりをして、四つん這いからたちあがると、制服のスカートを叩いた。
本当に周りに誰もとおっていなくてよかった……と思ったときだった。
鋭い眼光と目があった。
生垣の隙間からそれはのぞいていた。
痩せた貧相な犬が、じっと紅花を見ていた。
「……なんだあんたか」
紅花はふうっと息を吐いた。
大きな身体が隙間から這い出ると、紅花の前にちょこんと座った。ニートから逃げ回っているあの大きな犬だった。どこかばっちい毛並のあの犬である。
犬はじっと紅花を見ている。くんくん鼻を鳴らしている。
そうだ。
紅花は、しゃがみこんで「チチチッ」と舌を鳴らして、おいでおいでする。
これでくるかな、と思ったら犬は警戒してやってこない。
むむっと紅花は眉を寄せる。
ならば、こうだ、と鞄の中を漁る。ちょうど、小魚パックが入っていた。颯太郎餌付け用おやつだ。
犬がぴくりと反応する。
紅花は、犬に一歩近づいて小魚パックを振る。
「ほれほれ、食べたいか?」
紅花はにやりと笑って犬に見せる。犬の口からだらだら涎がこぼれている。
「ほら、あげよう。食べるならお食べ」
紅花はパックを開けて、小魚を手にのせる。
犬はおそるおそる紅花に近づいた。そして、躊躇いながら小魚をぱくりと口にする。
紅花はにやりと笑う、笑って犬の頭に手をのせる。
「たーべたねー」
犬の顔があからさまに「しまった」というものに変わった。
しかし、もう遅い。
「たべたら働かないといけないってうちのニートだって知ってるよー」
頭を撫でながら、紅花は犬に言い聞かせる。
犬に何を言ってもわからないだろうが、犬にはこれくらいわかるだろう。
どっちが上で、どっちが下なのかってことくらい。
犬が目をそらそうとしているので、無理やり視線を合わせる。
「ねー、ちょっと手伝ってもらいたいことあるんだけどな」
言ってもわからないだろうけど、そこは根性でなんとか押し切る。
ちらちらともうひとつ小魚パックを見せながら言い聞かせる。
「これと同じ匂いをした男の子見つけてもらいたいんだけど、できるかなー。できたら、これもあげるんだけどなー」
古床の匂いはわからないけど、颯太郎の匂いならまだたどれるような気がした。
「……」
伝われ、この思い!
「……くぅーーん」
犬は怯えるだけだった。
うん、無理だな。犬に頼むのもあれだし、人通りが少ないとはいえ、誰かに話しかけられているのを見られたら、危ない子に見られてしまう。
仕方ないなあ、と紅花は立ち上がる。小魚は犬にあげてしまおうと開封して、鼻先に持って行った。
すると、犬はくんくんと紅花の手を嗅いだ。小魚のにおいを嗅いで、そして、地面をくんくんする。そして、においをたどっていく。
これは……。
どうやら、熱意が通じたようだ。
犬は数歩進むと、ついてこいと言わんばかりに、紅花のほうを見る。そして、においを嗅いでは走り、またにおいを嗅ぐ。
紅花はぐっと手を握りしめると、犬の後を追いかけた。
犬は学園から一キロほど離れたところで止まった。途中、路地裏を通ったり、民家を横切ったりするところは、いかにも颯太郎の通った道筋っぽい。
けど、紅花は本当にこっちでいいのかと疑問に思う。
颯太郎はともかく、古床がこんな場所まで来るのか。
この犬、からかってんじゃないよね?
紅花はじっと犬を見たけど犬は、そのあんまり可愛くない鼻をつーんとある方向へと向けた。
緑に囲まれた古い家が一軒建っていた。周りを塀で囲まれていて、それをさらに覆い隠すように木と蔦が這っている。なんだか雰囲気は、学園の図書館に似ている。
塀の中は民家のようだが、古い建物の割に小洒落た雰囲気が漂っている。海辺に似合いそうな白い家だった。
ただ、その表札はなんだか大きくて、白く塗りつぶされている。
誰かいるかな。
なんとなく電柱に隠れながら、窺う紅花。
付近は、昔は閑静な住宅街を目指してつくられた場所だろうが、今の雰囲気は閑散というものにふさわしい。
犬は座り込んで尻尾を揺らしている。
ふと、街燈に目がいった。街燈の下に、『矢坂部医院』と書かれた看板がある。少し、緑がかっていて古びた感じがする。
ああ、なるほど。
塀に囲まれた家は元々病院だったのだろうか。
白く塗りつぶされているのは、医院の看板だろう。
紅花は犬に小魚をあげる。犬はそれをぱくぱく食べると、そのままどこかへ行ってしまった。
無責任な犬だ。
犬だから仕方ないか。
本当にいるかわからないけど、ここまで来てなにもしないわけにはいかないので意を決して、門の前に立つ。そして、中を覗き込むと――。
「なにか用?」
後ろからいきなり声をかけられて、紅花はびっくりした。
仰け反ったまま振り返ると、セーラー服を着た女生徒が立っていた。
この人は……。
見たことがあると思ったら、この間、犬に餌をやっていた人だった。
手に紙袋を持っていて、中にたくさん食材が入っている。
セロリやパプリカ、リンゴやバナナがのぞいていて、野菜たっぷりヘルシーそうな食生活を思わせる。
「い、いえ。あの学校にいた犬追いかけてきたら、その……」
「ああ、あの子ね。ふふ、ご飯が欲しくて来たのかな?」
女生徒は門を開けて中に入る。古びた感じだけど、庭は綺麗にしてあり、本当にお洒落だった。
食材を見たせいだろうか、紅花の腹がきゅーっと鳴った。
恥ずかしくてお腹をおさえてそっと相手を窺う。
「お腹すいたの? ふふ、これ、食べる?」
そういって女学生は紙袋からリンゴをとりだした。
「い、いえ。大丈夫です。お気遣いなく!」
「そう? でも大丈夫、学校は?」
その質問をされるとつらい。早退しましたといったところで、その理由が犬を追いかけるためとは格好がつかない。
口籠もる紅花に対して女子学生は察したようにため息をついた。
「んー、まあ、そういうのもあるよね。若いってことだし」
若いって……。
いや、あなたも高校生だろうがと紅花は思いながら、とりあえず不問にしていくれたことを感謝する。
高等部のこの人もここにいるのは、テスト前だからだろうか。うちの学園では、高校二年生の半ばまでに三年の勉強を終了し、残りは受験に向けてそれ中心のスケジュールをとる。
襟章はつけていないけど、たぶん三年生だろうなと紅花は思う。
「あんまりここらへんうろつかないほうがいいかもよ」
「どうしてですか?」
「それは……」
すると、急に紅花の手が引っ張られた。ぐいっと身体が近づけられ、門の内側に入る。そして、門の裏に隠すように身体を押し込められる。
「えっ、えっ?」
「しーっ」
わけがわからないまま、紅花は地面に座り込んだ。困ったことに、木々に覆われた庭の地面は湿っていて、スカート越しに嫌な湿気が伝わってきた。
すると、足音が近づいてくるのが聞こえた。
「こんにちはー」
女子学生が挨拶をする。
「ああ」
低い声が聞こえてきた。
おじいさんだろうか、声質から不機嫌さが伝わってくる。
「いい天気ですね」
「いい天気かい、そうだね。あんたはご機嫌そうでいいね」
いかにも不機嫌そうにおじいさんらしき人が言ってのける。
「あんた、最近、また野良犬に餌でもやってるんだろ? ここらへんに住みついたら困るんだ、夜中に鳴き声もするしね」
「すみません。別にやっているわけじゃないんですけど。なんか、遠くから最近住み着いたのがいるみたいで」
「やめてくれよ。ごみの日とか荒らされたら困るんだよ。ごみ袋破れたら片付けもだけど、臭いがひどいってわかってるだろ」
ぐちぐちとおじいさんは言うだけ言って、また去っていった。
足音が聞こえなくなったところで、いいよ、と女子生徒が紅花を見る。
「ごめんね。近所の人なんだけど、あれこれうるさくてさ。ここに引っ越してきてからずっとなの」
「そうなんですか」
紅花は湿ったおしりをちょっと憂鬱になって撫でながら言った。
「わっ、ごめん。さっきのせいで濡れた? もう、ここの庭、いっつもじめじめしてるのよ」
「いえ、それよりなんか面倒くさそうな人だったみたいで」
どんな顔かわからないけど、とりあえず面倒くさそうな人に違いない。
「うん、私、この間、なに学校さぼってやがるって言われたの。多分、中学生なら意気揚々と学校に連絡するわよ」
「それは」
それは困る。実際、さぼりだから仕方ないけど困る。
「ずっとここに住んでいるみたいだけど、ちょっとね。いちいちこちらに突っかかってくるのは寂しいのかしら?」
「そういう人って世の中にたくさんいますから」
可哀そうかもしれないけど、ほっておくのが一番簡単な対処法だ。
「仕方ないと諦めるしかないわ」
ふうっと女子学生が息を吐く。
「そうだ、そのままの格好で帰るのもなんじゃない? ちょっとうちの中で乾かしていかない?」
「えっと、そんな」
「いいの、いいの、はいはい、こっちにきて」
そう言って、ぐいぐいと紅花の手を引っ張っていった。
紅花はなすがまま、家の中に入った。
中は見た目通り、お洒落な内装だった。地下室もあるらしく、上り階段と下り階段がある。
「はい、こっちね」
案内されたのは広いリビングだった。
お洒落なテーブルと椅子が二脚ならんでいて、棚には写真立てがたくさん並んでいた。
「はい、これ使って」
「ありがとうございます」
紅花は渡されたタオルを受け取る。
そして、濡れたおしりあたりをおさえる。
「ドライヤー持ってくるから。着替えのサイズはどうする」
「いえ、ドライヤーだけ貸してください」
「わかった」
なんか申し訳ない気持ちになりながら、紅花は写真を眺めた。
セーラー服を着た女子学生ともう一人男子学生がいた。男子学生は学ランを着ていた。
他校の生徒かな。
ここらへんで学ランなんて珍しい。
なんだか微笑ましいなって思いながら、他の写真を見る。五歳くらいの二人の写真だろうか。たぶん、顔立ちから制服の二人と同一人物だろう。どこか面影がある。
こちらの写真はデジタルフレームで時間ごとに画像が入れ替わるみたいだ。
その写真の端っこになにか書いてあるので、じっと見る。
『駿、真奈、五歳』
親の字だろうか、少し古ぼけて見える。
いや、字だけじゃなくて写真は少し画像が悪かった。
たぶん、デジカメじゃなくて、写真をスキャナーか何かで取り込んだのだろうか。はしっこにぼやけた日付が見える。少し画像を縮小しているのか、ちょっと読み取れない。
他の写真も同様で、左端にどれも日付があった。
「やだ、写真見てる?」
ドライヤーを持ってきた、おそらく真奈さんという名前の女子高生が言った。
「あっ、ごめんなさい」
「いいのいいの、そんだけ飾ってたら、見えちゃうもんね」
紅花はフレームを棚に戻すと、ドライヤーを受け取る。コンセントをつなぐと、スカートの前後をずらして、温風を当てる。
「けっこうかっこいいでしょ?」
これはのろけだろうか、その場合、どのような反応すればいいだろうか。
「は、はい、かっこいいです。お似合いです」
嘘じゃない、けっこう格好良かったと思う。
そう言うと、真奈さんはぷっと吹き出し、ゲラゲラと笑いだした。
紅花は、えっ、えっ? と慌てながら、彼女を見る。
「あっ、ごめん。それ、彼氏じゃないから、それ、兄さんだから」
腹を抱えながら真奈さんが答える。
「そうなんですか」
「うん、それでね、ちょっと悪いけどご飯の準備してるね。なにかいる?」
紙袋からまたリンゴを取り出しながら、真奈さんが言った。
「いいえ、気にしないでください。乾いたらすぐ帰ります」
「そうなの。もっとゆっくりしていけばいいのに」
そういって、真奈さんは奥へと行く。キッチンになっているようで、水音がしたと思ったら、とんとんと包丁の音が聞こえてきた。
紅花はスカートに温風を当てながらもう一度、写真を眺める。
たしかに改めて見ると、二人は似ている気がする。年齢を考えると双子だろうか。
紅花は兄弟はいるけど、年が離れすぎてそういう実感がわかないので、見ていると新鮮だった。
いや、こんなことしている場合じゃない。
ふと、古床のことを思い出して、ドライヤーを切って棚の上に置こうとしたときだった。
デジタルフレームの写真が切り替わった。二人がうつっているのは変わらないが、そこはベッドの上だった。二人ともパジャマを着ている。点滴をさしたまま移動する真奈さんと、ベッドに横になっている駿さん。高校生くらいのころだろうか、そうなると最近になる。
元気になれてよかったね、と思ったときだった。
「……」
紅花はドライヤーを置くと、フォトフレームの左端を見た。
ぼやけた日付は、八月となっている。それは問題ない。
だが。
年号は今から三十年以上前を示していた。
カメラの設定間違えたのかな……。
そう思って他の写真立てをとる。
フレームを外し、写真の左端を確認する。
その日付もまた三十年以上前だった。
そういえば、東都学園の男子制服はブレザーだ。けれど、昔は学ランもあった。女子の制服と違い、残ることはなかった。
じんわりと汗がにじみだす。
視界の端に、いつものアレがうつっている。なんだよ、これ、本当にどうなっているのと言いたい。
まだ間に合う。ここで何事もないように逃げれば問題ない。
とんとんとんとん、包丁の音が響く。
「せっかくだから、お昼一緒に食べましょう。兄さんも本当に喜ぶから」
「……いえ、おかまいなく」
ごくんと唾を飲み込む。
身体にうっすらとうねうねとしたアレが巻き付いてくる。まだ、力は弱い。こんなのもの無視しようと思えばできるし、振り払える。
さっき、紅花は真奈さんになんなく引っ張られてきた。
近所の人に見つかるからと、紅花をおさえこんだ。
ははははっ。
なんで気づかなかったんだろう。
紅花は不死者だ。その体重は人の二倍近い。
そんな人間を軽々と引っ張っていく、たとえ引っ張れたとしても違和感があるものを。
紅花はそっとキッチンの方を見た。
お洒落なシステムキッチンは綺麗に片付けられていた。
きれいなお皿が並び、さぞや美味しい料理が作られるのだろうと思う。
いや、思った。
キッチンの隅っこに、ぐったりした古床を見つけるまでは……。ジャガイモやニンジンと一緒に、食材のように転がされていた。
真奈という女は到底、普通の人間ではなかった。
その瞬間、うねうねとしたアレ、死亡フラグは紅花の周りを取り囲み、不気味な口を開けてその餓えを満たそうとしていた。




