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獣王の息子  作者: 日向夏
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2、山田家のおとなりさん

 

 アレを初めて見たのはいつだったろうか。


 若ママが言うには、よく何もない壁を見て泣いていたというので、赤子の頃からかもしれない。大体、そのあと、紅花ホンファは危ない目にあっていたという。


 それが、何なのか、家族にもわからなかった。いわゆるオカルト方面ではけっこう有名な家族である山田家なのだが、生憎、心霊方面ではからっきしだった。


 霊感皆無、そんな家に生まれなかったら、もう少し紅花の状況は変わっていたのかもしれない。でも、今こうして生きているのは、この家の子どもに生まれたからだ。


 生まれていなければ、もうとうにこの世にはいなかっただろう。


 それだけ、紅花の人生は死と隣り合わせのものだった。






ホンちゃーん、起きてるー?」


 紅花は、そんな声で目を覚ました。

 もう少し眠っていた気持ちも強かったが、呼んだのが若ママだったので緩慢な動きでベッドから降りる。


 部屋の隅には、まだ、片付けを終えていない荷物が散らかっている。私物が詰った段ボールを見ていたら滅入るが、台所の食器に比べたらマシだと言い聞かせる。


「おきてるー」


 寝ぼけた声で返事する。


 身体をふらふらさせながら、段ボールのガムテープをはがす。中身を引っ掻き回し、お目当てのワンピースを見つけるとそれに着替えた、


 ドレッサーに座り、軽くブラシをかける。髪の毛のはねを指先でちょんと押さえながら、スプレーをかける。

 

 顔洗わなきゃ。


 ガチャっとドアを開けると、廊下には癖のある黒髪の男が眠たそうに歩いていた。


 うげっ。


 思わず歯茎をむき出していた。


「うげって何なのかなあ、傷つくなあ」


 金色の目を細めて奴が言う。欠伸していて、とても傷ついた表情には見えない。


「働きもせず、家でだらだらする成人男性を見ての感想よ」

「残念だねえ、今日は土曜日なんだよねー」


 嫌味な言い方をする。本当に腹が立つ。もう少し、大人な態度で接することはできないものかと、紅花は思う。

 

 紅花には、兄弟がいる。姉が一人と、兄が三人だ。これはその中の一番下で、普段、愚兄と呼んでいる生き物である。


「そっちこそなに? 早速、学校サボリ?」

「残念でしたー、今日は土曜日でーす」

 

 二人の間に険悪な空気が漂う。こういう場合、不肖の兄であろうと兄として、妹をいたわるべきじゃないだろうか。しかし、それがない。なんて大人げない。


 しばしにらみ合い、どちらがその空気を先に壊すかという勝負になった。しかし、それは長く続かない。


「紅ちゃーん。おきてるのー?」


 若ママの声が下から響いている。吹き抜けを覗き込むと、中華鍋を持ったエプロン姿の女性が首を傾げている。まだ若く二十歳をこえたくらいにしか見えない。若ママと呼んでいるが、本当に産んでくれたわけじゃない。


「あっ、由紀ちゃーん。僕、起きてるよー」

「ちょっ! 愚兄、なに代わりに返事してるの! 若ママ、起きてる、いま、今行くから」


 愚兄の声が気持ち悪い。いつもそうだ、若ママの前だけいい子になろうとする、いい年齢したおっさんが。

 見た目は二十代前半に見える男だが、愚兄は織部先生と同級生だった。そして、若ママもまた、織部先生と同級生で、つまり愚兄と若ママもまた同級生である。

 

 顔をそそくさと洗ってから、スリッパの音をパタパタ立てながら階段を降りる。


 エントランスでは、三つ首の猫がごろごろお腹を見せて誘っていた。いつもなら散々触って撫でてやるところだが、今日はちょん、ちょん、ちょんと三つの顎を撫でるだけで留まる。

ケルベロスに似てまったく違うこの生き物を、山田家ではニャーベラスと呼んでいる。名前は、その色合いからとってミケ、いたって古風だ。


「若ママ、おはよう」

「おはよう、紅ちゃん」


 若ママは両手に大皿を持っていた。その上には山盛りの炒飯がのっている。一皿につき、お米を一升、卵を一パック使っている山田家特製炒飯だ。


 その後ろにはぴったり愚兄がくっついていて、お手伝いをアピールするように丼になみなみと注がれた中華スープを持っている。


 くっ、顔を洗っている間に出遅れたようだ。


「ごめんね。お休みなのに。今日はちょっとご近所さんに挨拶しに行くんだけど、紅ちゃんもついてきてくれる?」


 少し眉を下げて、若ママが言った。


「うん、わかった。服はこれでもいい?」

「ええ、可愛いわ」

「僕はスーツに着替えたほうがいいかな?」

不死男ふじおくんは留守番ね」


 若ママがばっさり斬る。けっこう悪気なく若ママはそういうことを言うのだが、本人には自覚がないし、なによりいい気味なのでいい。


 愚兄の名前は不死男で、若ママは由紀子という名前だ。紅花はあまり家族を名前で呼ぶ習慣はない。皆、年上しかいないせいだろう。


 紅花は椅子に座ると、「いただきます」と手を合わせた。レンゲを取りぱらぱらの炒飯を口に入れる。

 出来立てで卵もご飯もほろほろしていて、ネギと焼き豚が香ばしくて美味しい。


「やっぱり、ガスがいいわね。火力が違うのもの」


 前住んでいたところは、ガスじゃなくて、IH調理器だった。クッキングヒーターはそれなりに便利だけど、若ママの好みじゃないらしい。


 引っ越してきた家は、学校から通学一時間のところにある。少し、出ればすごく都会だけど、ちょっと離れたらかなり田舎、そういう場所で、家の周りには田んぼや畑が広がっている。


 雰囲気としては嫌いじゃないけど、少し物足りないと思う。最寄りの駅は自転車で十五分もかかる。


 でも、そんな田舎に引っ越してきて、若ママは妙に嬉しそうだった。

 

 若ママは昔、この辺に住んでいて、その時に東都学園に通っていたそうだ。


「案外変わってなくて、逆にびっくりしちゃった」


 引っ越し当日、衣装箪笥を片手に抱えて若ママが言っていた。それを見た引っ越し業者さんは目を丸くしていた。


 普通の人には変かもしれないが、山田家には日常の光景だ。勿論、普段の若ママならそんな相手を驚かせる真似はしないのだけど、ちょっと気分が浮かれていたのかもしれない。


「若ママ、お隣さんってあるの?」

「あるわよ、五百メートルくらい離れているけど」 


 そういう若ママの顔は少し気まずそうだった。なにかあるのだろうかと思ったが、若ママが言わないのならそれでいいと、中華スープを飲む。足元でミケが紅花の膝をぽんぽん叩いて、何かくれとおねだりしていたが、生憎、炒飯もスープもネギが入っているので諦めてもらう。


「そうだ、紅ちゃん、学校どうだった?」


 話を変えるように若ママが言った。


「うん、なんとかやれそう」


 うそつきだと、自分でも思う。

 今、紅花は嘘をついた。若ママに嘘をつくのはとても心苦しいけど、楽しそうな若ママを悲しませたくない。


 昨日のアレがまったく無事なわけない。


 さっそくモンスターに遭遇するなんて。


 モンスターとは、動植物の中でも現代科学ではまだ不明瞭な能力を持つ生き物を指す。また、現代科学で説明できても、長い間、神話や伝承の中で語り継がれてきた生き物も同じように分類される。ケルベロスやユニコーンなどその典型だ。


 ニャーベラスのミケもモンスターに分類される。

 数世代前は普通のケルベロスだったらしいが、なぜか品種改良をしたわけでもないのに、三つ首の猫になったのかわからない不思議生物だ。

 動物病院にワクチン打ちに行くと、いつも獣医さんに首を傾げられる。


 世の中、よくわからないことはたくさんある。


「じゃあ、食べ終わったら行きましょうか」

「わかった」


 炒飯はそのあいだに半分の量になっていた。愚兄はすでに食べ終わり、若ママにお片付けをアピールしたところで、居間のテレビをつけた。


 テレビでは、深刻な顔をしたレポーターが連続殺人事件の現場をレポートしていた。悲しい事件、まだ犯人は見つからないと言いながら、面白おかしく煽っているように見えるのは気のせいだろうか。


 ミケは愚兄の膝の上に座り、ゴロゴロと三つの顔を摺り寄せている。愚兄は面倒くさそうに手を伸ばして、猫用おやつをとって手のひらにのせる。


「……」


 紅花はその様子を見て、昨日の彼を思い出した。


 日高、日高颯太郎と言っただろうか。猫型の獣人である彼は、紅花と同じものが見えていたようだ。

 紅花がアレと呼ぶものを、日高少年は死亡フラグと言った。


 あのあと、日高少年はその気配を感じなくなったようで、いつのまにか紅花の前から消えていた。


 休み明けにでも、もっと詳しく聞かないと。


 死亡フラグについては、帰る途中、携帯で検索した。ちょっと日高少年の言っているのと少し違う気がしたけど、意味としては通らないこともない。


 このことは、若ママに話しておくべきかなと思ったけど、そうなると絶対、昨日のことを話さないといけない。なので、すごく迷っていた。


 そんなことを考えながら黙々と炒飯を食べていると、呼び鈴の音がした。ちょうど皿が空になったので、紅花は立ち上がる。


 若ママは洗いもの中で、その横で邪魔そうに愚兄が立っている。


「若ママ、私でるね。愚兄、邪魔だ。離れろ」


 パタパタと小走りにエントランスに出ると、玄関を開ける。


 するとそこには大きな段ボールが立っていた。

 いや、大きな段ボールを抱えた誰かが立っていた。中には、みずみずしい野菜が入っていた。


 ぴょこんと栗色の寝癖が見えた。


「どなたですか?」

「お隣の日高と言います、ご挨拶に来ました」


 そう言ってアーモンド形の目がこちらを見ていた。その後ろで、にこにことしたおばさんが立っていた。






「まさかお隣さんだとは思わなかった?」


 にこにこ笑いながら、日高少年はミケと遊んでいる。遊んでいるというか遊ばれているというか、中庭で転がりながら、まさにキャットファイトをしていた。


 月に一度入っていたハウスキーパーさんの手入れがいいのか、芝生は青々としていた。急きょ、刈りそろえられたため、服が緑色に染まっていたが、少年もミケも気にしていないようだ。


 少年の後ろにいたおばさんは少年の祖母だという。山田家の家系も年齢不詳が多いが、日高家もその系統かもしれない。ただ、少年の祖母というには、全然、猫っぽくなかった。


 出迎えるなり、若ママがやってきてとてもびっくりした顔をしていた。「久しぶり」と日高家のおばさんが言ったのを聞いて、目を潤ませていた。


 以前、こっちに住んでいたと聞いたのでそのときの知り合いなのかもしれない。


 少年は荷物持ちとしてきただけだし、紅花は若ママからちょっと外に出てくれないと言われた。愚兄が残っているのに、自分だけ追い出されたので少し気分が悪いけど、紅花がいたら進まない話なのかもしれない。


 仕方なく、中庭で読書でもしようかと思っていたら、少年がミケと乱入してきたのだった。


「日高くんって、もしかして先祖返り?」


 文庫本を片手に、ロッキングチェアを揺らしながら紅花が言った。


「ううん、ハーフだよ。母さんが猫又なんだ」

「ハーフって逆に珍しいね」


 純粋な獣人はともかく人間の血が混じるとなれば、大体、先祖返りが多い。獣人と人間の間には、遺伝的な差異が多く出生率が低いためだ。それでも、過去に接触があったため先祖返り等が起きるのだが、その多くは耳など一部形質を受け継ぐのみに過ぎない。


 日高少年にはちゃんと人間の耳が付いている。ハーフでも尻尾だけが現れたのだろうか。それとも偽耳という、混血の獣人特有のものだろうか。

 人間に擬態するためか、もしくは人間の遺伝子が入ったためか、時に耳の機能を持たず、形だけ人間の耳を持っている個体がいると聞いた。その場合、本物の耳は髪の毛の中に伏せて隠しているらしい。


 猫又というと古くから伝承にある妖怪だが、ここでは猫型獣人の一種を示す。海外ではワーキャットとか、ケットシーと呼ばれることもある。


「もしかして、昨日言っていた、死亡フラグが見えるって、猫又の能力か何か?」

 

 文庫本の文字をなぞることで表情を隠しながら、紅花は聞いた。


「これはちょっと別かな。おばあちゃんは人間なんだけど、そういうのがすごいんだ。多分、僕もほんのちょっとだけそれを引きついでいるんだと思う」


 日高少年は、草まみれになったまま、ミケと鼻先をくっつけて信愛の挨拶をしていた。乾杯の代わりに、ポケットからおつまみの小袋入り小魚をとりだしてミケと分け合っている。二匹とも、尻尾をぷるぷるさせていた。


「多分、山田さんちがこっちに引っ越してきたの、それが理由じゃないの?」


 とぼけているようで、日高少年はするどい。


 もしかして、昨日、ずっと紅花を追いかけていたのは、その事情を最初から知っていたのかもしれない。

 なんだろう、少し残念に思うのは身勝手なのだろうか。


「山田さん、はっきり見えないの?」

「そうね」


 紅花が持つ力は曖昧だ。なにかが起こる前に、それに対して警告のように異形の化け物が見える。ただ、それだけだ。どんなふうにどこで起こるのかわからない。

 それで行動を変えて回避できることもあるし、ないこともある。


 ただ、その幻影はここ数年で特に強くなっている気がする。


「日高くんにははっきり見えていたの?」


 少年は、二袋目の小魚を取りだし、ぽりぽり食べていた。


「なんか断片的なものだけどね」


 ミケはぺろりと自分の口の周りを舐めると、顔を前脚で軽く洗ってどこかへ行ってしまった。


 日高少年はそのまま芝生の上で大の字になると、空を見上げてそのまま寝息を立てた。

 

 なんだ、こいつ。


 他人の家の庭でいきなり昼寝を始めた。

 起こすのも可哀そうだからそのままにしておくけど、ちょっとマイペースすぎやしないかと思う。


 紅花はロッキングチェアを揺らしながら、文庫の頁をめくった。






 紅花が呼ばれたのは、それから一時間くらいあとだった。日高少年はまだ眠っているので放置することにした。


 居間に入ると、なぜかぐるぐる巻きにされた愚兄を見つけた。ご丁寧に猿ぐつわ付だ。縛り方から、若ママがやったものだと断言できる。どうせ話の腰を折り続けて、邪魔になったので処分されただけだ。


 いつものことだ。


 だが、それを憎々しげに日高祖母が見ている。

 普通なら身内をそんな風に見ている人間に対して快く思わないところだが、なんとなく一緒に美味しいお茶が飲めそうな気がした。


 日高祖母は紅花に気が付いたようで、こちらに頭を下げる。


「事情は聞いたわ」


 紅花はそっと若ママに背中を押され、若々しい少年の祖母の前に立つ。

 少年とはまったく似ていない。髪の毛は少しくせがあって、眉と目元がきつい感じだ。ただ、少年の能力が祖母譲りだというのなら、たしかに血縁なのだろう。


「少し触れていいかしら」


 日高祖母の言葉に、紅花はこくりと頷いた。

 指輪がはめられた左手は、少し皺があって綺麗にお化粧された顔より少し老けて見えた。


 これが普通の人間の老いなのだろうと、紅花は思う。


 こげ茶の目が紅花をじっと見た。

 それが数秒たったあと、日高祖母は深く息を吐いた。


「どう?」


 若ママが心配そうな顔で見る。

 

 日高祖母はゆるくカールした髪をかき上げた。


「どうもこうもないわ。てっきり、コイツと同じクチかと思ったけどそんなもんじゃなかったわ」


 コイツと言いながら、見ていた先には愚兄がいる。愚兄は、ぐるぐる巻きのまま、シャクトリムシの動きをしていた。


「やっぱりそうなの?」


 やっぱりと若ママは言った。


 山田家にはやたら危険な目にあう生き物は他にいるが、それは少し違ったものだった。


「ええ。なんていうか。見えないわ。見えないというか、そういう未来は本来起きないの。でも、何かが介入していきなりその未来を作っている感じ。うちの颯太郎が感じ取れたのは、その未来が起きる直前だったからね」


 意外と砕けた口調で日高祖母は言った。


「たとえばコイツの場合、座礁するために浅瀬を航行している船、いつ沈没してもおかしくない。でも、この子の場合、何もない大海原にいきなり海底山脈が隆起して船底を突き破るようなありえないことが起きているの」

「そんなことがありえるの?」


 若ママの言葉に、日高祖母は頷く。


「ありえる。多分、由紀子ちゃんたちの範疇外だと思うけど。強いて言えば……」


 少し戸惑ったように日高祖母が紅花を見た。


「呪いとか」


 ああ、そうか。


 紅花はとても納得した。

 呪いと言われたらあの気持ち悪いアレがなんなのかしっくりくる。少年のいう死亡フラグよりずっと。


「どうにかできない?」

 

 若ママは悲痛な面持ちで言った。


 日高祖母は首を横に振る。


「私は専門じゃないから。そういう伝手はないこともないけど……」


 少し目をそらしている。何か気まずいことでもあるのだろうか。


「かな美ちゃんには迷惑かけないから」

「……やめておいたほうがいいわ」

「お願い」


 日高祖母はかな美という名前らしい。

 苦痛な面持ちのまま、メモ帳にペンを走らせ始めた。


「一応、アポはとってみるけど。一筋縄ではいかないところよ」

「ありがとう」


 ぎゅっとメモを握りしめる若ママを見て、紅花はとてもうれしいけど悲しかった。





 

 日高祖母が帰ったのは三時を過ぎたころだった。朝食の炒飯はすっかり消化してしまい、胃袋が食材を求めていた。


 若ママが疲れているようなら出前でもとった方がいいかと思ったけど、こんな田舎までやってくるのかなと携帯をいじって調べる。


 すると若ママがやってきて、紅花の前に座った。


「どうしたの?」


 若ママは深刻そうな顔をして膝をついた。そして、ぎゅっと紅花を抱きしめた。力強いけど、抱きつぶさないように加減しているのがわかる。そんな優しい抱擁だ。


「どうして言ってくれなかったの? 昨日のこと」


 紅花はびくっと震えた。

 

 日高家の人たちと話している中でそれが出てきたのだろう。

 紅花が黙っていても、日高少年が話さない理由はない。


「また、また死んじゃったりしたらどうするの?」


 紅花の髪を撫でながら、若ママが言った。


「とても痛いってわかっているでしょ」


 うん、わかっている。とても痛い。泣き叫びそうになる。

 でも泣くこともできなかった。


 手足を千切られ、腹を潰された。声すら出せなかった。


「とても怖かったでしょ」

 

 大きく開く口に、血管の浮き出た太い腕。その胴体は肉塊の塊ともいえた。


 自分の腕が今まさに食われようとしていた。もう片方の手には、はらわたが握られていた。


 ああ、もう駄目だと思った。


 これで終わりだと感じた。


 そんなときに、助け出された。


 化け物に食われる直前だった。


「もう二度とあんな目にあいたくないでしょ」


 あいたくない。

 ずっとそう思っている。


 けど、引き寄せてしまう。


 どうしようもない因果が紅花の身に災難を引き起こす。

 

 山田家にはそういう妙な体質の人間が多い。紅花の父もそうだし、愚兄も同じタイプだ。

 

 だけど、紅花の災難には一つの傾向があった。


「ごめんなさい」


 その謝罪に対して、若ママは頭を撫でることで返した。


「もう二度とそんなことしない」


 ゆっくりゆっくり撫でつけられる感触を心地よく思う。

 ぐるぐる巻きにされたまま、猿ぐつわをしている愚兄がうらやましそうに見ているがそんなの知ったことではない。


「絶対、食べられたりしないから」


 昨日の化け物は、紅花を食べようとしていた。


 前の化け物、転校前に遭遇した奴も同じだった。


 毎回、転校する前に、付近に変な人外やモンスターがいないかいつも確認している。でも、紅花がやってきたら、まるでそういうものが吸い寄せられるようにやってきた。


 その度に、家族たちが紅花を守ってくれた。


 家族の中で一人だけ未熟な紅花は、その背に隠れて生きてきた。


 本来なら学校に通うこともできないだろう、でも、なんとか通わせてもらっているのは家族の協力があってこそだ。


「絶対、あなたは私が守るから」

「うん」


 ぎゅぎゅっと、紅花も若ママにしがみつく。

 

 若ママはあったかくてとてもいい匂いがする。ずっとこうしていたいと思ったが、それはできそうになかった。


 ぐるぐる巻きの上、猿ぐつわをはめられた義兄が立ち上がってじっと二人を見ていた。まだ、そんな格好をしていたようだ。

 おい、そこ代われ、と紅花に目で訴えかけている。


 どうやって立ち上がったかは知らないけど、ぴょんぴょんはねて抗議している。あまりに同じ場所でジャンプするので、引っ越したばかりの家の床がぎしぎし軋む。


 軋んだ挙句、底が抜けた。月一でハウスキーパーさんに入ってもらっていたけど、やはり人が住んでいない家は傷みやすいらしい。


「……」


 若ママは床が抜けたことに気が付くと、紅花からそっと離れた。愚兄の前に立つ。愚兄は興味をこちらに向けられたことで嬉しそうに笑うが、もちろん待っていたのは、抱擁ハグなる優しいものではない。


 若ママは自分の背より十五センチは高い愚兄を抜けた底から持ち上げた。持ち上げたのはいいが、いつもは細くて優しい腕なのにちょっと血管が浮き上がって太くなっている。


 若ママ、掃除大変だったろうに。


 一生懸命、お皿を戸棚にいれて、床も皆が使いやすいように丁寧に雑巾がけをしていた。いまどき、雑巾がけを床に這いつくばってやるなんて、小学校の掃除当番くらいだ。けっこうそういうのは、若ママは古風だ。


 その床を壊してしまった愚兄は制裁を受けねばならない。


 一見、抱擁に見える抱き上げかたをされているが、若ママの腕の力は強い。


 そのまま愚兄の腰をぎゅうぎゅうと締め上げて、そのあとボキッっと音が響いた。


 愚兄は二つに折れた。比喩ではなく、折れている。


 パンパンっと、両手を叩きながら、若ママが床を見る。


「不死男くん、ちゃんとあとで直してね」


 それだけ言うと、台所で洗い物を始めた。


 なるほど座礁するために浅瀬を渡る船かあ。


 妙なたとえに今頃納得した。

 

 背骨を折られつつも、ちょっと幸せそうな顔をしている愚兄を見て、やっぱこいつ気持ち悪いと、紅花はつくづく思うのだった。


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