7
そこからの二週間をどう過ごしたのか、正直、良く覚えてはいない。
友人が何人か見舞いに来たが、全て断った。生き腐れたみっともない姿を見せたくないというよりは、好奇と同情の視線を恐れてのことだった。
いくつかの宗教も回った。だが、死後の平穏や、来世の幸せを説かれただけで、現世での哉斗を救う術はどこにもなかった。一度など、奇跡を求めていかにも怪しげな新興宗教の門戸を叩いたのだが、
「全ての災厄は因業によるもの。己の内にある因と業に気づかなければ、私の浄化は効をなさぬ」
良くわからない。内省しろと言うことか?
哉斗はその宗教家を鼻で笑った。
「その因業っていうのに気づけば、俺を治してくれることができるんですか」
哉斗は衣服の前を開き、己の胸をさらして見せた。それは美しい曲線を描く、白いあばら骨。すでに皮膚も失い、空気を得た骨は乾燥し始めている。その内側には内臓だった腐肉が黒ずんで垂れ下がり、白い骨とのコントラストの美しさは、彼が怪異と成り果てた事を宗教家に知らしめた。
「救ってくれよ、俺を」
あたりを漂う異臭と、その発生の元である腐肉の様相は、まさしく酸鼻。宗教家はわずかに顔を背ける。
「その因業を来世まで持っていかぬように、浄化を……」
「来世? そんなものはいらない。俺は今生で生きていたいんだよ」
長い長い禅問答が行われたが、結論を言えば、哉斗はその宗教家にも見放された。
『因業に堕ちた人間の成れの果て』という、なんとも都合のいい化け物に仕立て上げられ、信者たちに担がれて往来に放り出されたのだ。骨の幾本かが折れ、腐肉が飛び散ったが、哉斗は死ななかった。
それからは部屋に引きこもりっぱなしだ。幸いに腐れ落ちた体は食事を必要としないのだから、買い物に行く必要も無い。仕事に行く事もできず、会いに行きたい人も無く、時間ばかりが潰れてゆく。
鬱々とした悪臭の底で、布団に横たわって、哉斗は死について考える事が多くなった。
……いったい、人はなにをもってして生きているといえるのだろう。
哉斗の肉体はすでに死んでいる。内蔵は腐れ、むき出しになったあばらにだらしなく張り付いている。手足は肉を失い、かろうじて残っているぼろ布のような皮膚が骨にまとわりついているだけだ。腐れきっている。
ならば感覚は……味覚も、触覚もすでに失われた。嗅覚は己の腐臭で使い物にならない。残されたのは視覚と聴覚だが、落ち窪んだ目を開いて天井を眺めれば、視界さえもが腐れ始めていた。眼球にたまった腐汁のせいで、全ては黄白色の濁りに包まれて見える。
「終わったな……」
器官そのものが腐れているのだ。
起き上がると、鼓膜のすぐ内側でちゃぽんと音がした。魔法瓶の中に飲み残した茶が揺れるときのような、虚しい水音だ。脳まで腐れて、それでもなお思考を続けているのは、どういった原理だろうか。
哉斗は顎骨を引き下げて自嘲した。だが、皮を貼っただけのしゃれこうべは表情を再現する事もままならず、顎骨が少し軋んだだけであった。
「魂……か?」
人間を生者たらしむもの。肉体的な活動でも、社会的な認知でもなく、もっと根源根幹絶対不可欠の、そんなものが実在するのだろうか。
「そんなもの、とっくの昔に腐れている」
肉体が腐れる前から自分の中には、ぬるりと膿を垂らし、腐臭を放つ部分が存在していたような気がする。それは仕事で無駄な愛想笑いを浮かべているときに感じる倦怠であったり、女を抱いている最中に不意に訪れる鼻白んだ気持ちであったり、日常にぽつりと浮いた膿瘍であった。
外面の真ん中にポツリと浮いた面疔……若いうちはそれを隠そうと必死になったりもしたものだ。毒を吐きたい気持ちを抑えてへらりと笑いを取り繕うたびに感じる痛みも、確かにあった。いつからだろう。痛みも、恥も無くなったのは……
「嗣美……」
なぜ、その名ばかりが思い浮かぶのか。
愛していたのかもしれない。
不細工だと腹で罵り、体に飽きたフリをしながらも、どこかで手放しがたいほど依存していた。だから験したのだ。腐れた男を見捨てないでくれるかどうかを。
「嗣美……嗣美……」
そうだ、謝ろう。死ぬ前にせめて、あれが自分なりに精一杯の純情であった事を、伝えておきたい。
ふらりと立ち上がれば、すっくと立つのは骨格ばかり。皮膚は重力に引かれて垂れ下がり、いくらかは湿った音を立てて床に落ちた。
「嗣美……」
ゆらりゆらりとドアに向かって歩く、腐塊。ドアノブに手をかけた哉斗は、ふと、死ぬよりも恐ろしい事に気づく。
(死ぬ……事ができるのか?)
外には腐れて生ごみと化した肉をまとい、内には腐れた何かを蓄えこんだ、がらんどうの骨格。それでもこうして動いている。考えもする。
ならばいつ終わる? いつになったら死ねる?
もろくなった関節まで微生物に食らいつくされ、空気に晒されて白い骨となってもこのままであるなら、それは死より恐ろしい。
痛みの無い苦痛。音の無い責言。何も見えない闇に囚われ、終わりの無い後悔を思考することしか許されないとしたら……。
「嗣美……タスケテ……」
ドアを開く彼の足元に、また一片、大きく剥がれた腐肉が落ちた……