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回診に訪れた医師の白衣はまっさらで、糊が良く効いていた。だから哉斗は、ごわごわと音立てそうな白に目を奪われて、少々上の空である。
構わない。どうせ言われる事は解っているのだから。
「……と、いうことで、あなたの心臓は機能していないのです」
「はっきり言えば良いじゃないか」
うすうす感じてはいた。体のあちこちが破れ、大量の腐汁を垂れ流しているくせに、出血はほとんど無いのだ。
「心臓だけでなく、臓器の大半が……」
「死んでいるんだろ」
腑に落ちないことがあるとすれば、ただ一つ。
「でも、俺はこうして生きている」
少し皮のたるんだ腕を上げれば、何を警戒したか医師は身を反った。その表情には、汚物に対する嫌悪が浮かんでいる。
「なあ先生、これをどうしてくれるんだ?」
「医学的には考えられないことです。どうしようもありません」
「へえ、医者のクセに?」
「医学は病を治す術であって、死者を蘇らせることはできません。香田さん、あなたは医学的には死んでいるんですよ」
彼の言葉には、さもさも迷惑だと言いたげな、非難の響きがこめられていた。
「死体を扱うのは医者の仕事じゃない。葬儀屋か、坊主の仕事でしょう」
こいつは俺を邪魔にして追い出したいんだ、と哉斗は気づいた。同時に、野心の無い男だ、とも思った。
哉斗の肉体はすでに死んでいる。医師は好意的な言葉を選んだが、心臓を含む全ての臓器は機能を停止しているのだ。皮膚の下は腐敗菌に侵されて崩れた肉が詰まった、ようやく人の形を保っているだけの代物でしかない。
それでも彼は『生前』と変わらず活動することができる。怪異ではあるが、生きているのである。これを研究すれば生命の神秘と死の真理を解き明かすこともできように……。
(医者の風上にも置けない)
そんな事を思う哉斗には、解することもできないだろう。目の前の男は白衣を着てはいても、医者であって研究者ではないのだ。既に医学の域を超えた存在を診る義務などない。
そもそもが研究と言うのはリスクが高いのだ。必ずしも望んだとおりの成果が得られるとは限らないし、その内容が斬新であればあるほど『異端』と嗤われ、理解はされない。ましてや哉斗は生ける屍なのだ。どう考えてもオカルト的な存在に、医師の探究心が動くわけは無かった。
「すでに治療の策も尽きました。あとは……ホルマリンにでも漬かってみますか?」
「面白く無い冗談だな、ああ?」
どすの利いた声を上げたつもりだったが、舌を失った発音はくぐもり、腐汁がよだれの代わりに飛ぶ。これこそが医師が彼を追い出したがっている最大の理由だ。彼は清潔を第一とする院内を汚しすぎる。それに、看護士たちからもひどく嫌われていた。
哉斗は事あるごとにナースコールを鳴らす。一度など、食事の箸が床に落ちただけで看護士を呼びつけ、拾わせようとしたのだ。それを注意したベテラン看護士を彼は恫喝した。
「俺は病人だ! あんたたちは病人の世話で給料をもらっているんだろうが!」
反論を試みれば、彼はますます依怙地になって自説をまくし立てる。口の端には興奮で泡立った膿汁混じりのつばがたまる。とうぜん、傲慢な言葉とともにそれが吐き散らかされるのだから、化膿に慣れている看護士ですら、彼を嫌った。
「ですから、あとは自宅療養と言う事で……」
それだけを言って立ち上がる医師の腕に、哉斗が取り縋った。ぱりっとしたはくいの表面にこすられて、手のひらの皮が小さく裂ける。黄色いしみが白衣を汚した。
「ま、待て。俺はどうなる? このまま死ぬのか?」
「おかしな事を。あなたはもう医学的には死んでいる」
「死んでいない!」
「死んでいます。心臓は動かない、組織を再生する細胞活動も無い、腐敗菌に対する免疫機能も働かない。これを死んでいる以外のなんだというんです」
「だが……俺は動いている! こうしてあんたと会話もしているし、手だって、足だって、自分の意思で動かせる!」
「そうですね。だから困っているんですよ。死亡診断書をどうすれば良いのか」
「そんなものはいらない!」
「あなたなら、そう言うと思っていましたよ」
医師は哉斗の手を振りほどく。もろくなった皮膚片が崩れ、白衣の袖にべったりと張り付いた。
「痛いですか?」
医師の問いかけに哉斗は首を横に振る。痛感はとっくに失った。
「まったくゾンビだ。申し訳ないが、怪談の類は詳しくないのでね。その道の専門家にでも相談したほうがいいのでは?」
声音の冷たさまで解らぬほど感覚を失ったわけではない。完全に見捨てられたことに哉斗は気づいた。
「ま、待って!」
救いを求めて伸ばした手の先で、ドアが閉まる。残された哉斗には、その指先を引くことしかできなかった。