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面会室で待つその女は、白いワンピースを着ていた。白い、白い、薄く透ける夏生地の涼衣。それが清純さをあざとく演出しているようでめまいがする。哉斗はその女を腹の内で嘲り笑った。
彼は不細工と形容したが、嗣美は決してブスではない。十人並だ。ただ化粧気の薄い顔と、やたらとやせぎすな体型が彼女をひどく地味に見せている。
はじめのうちはそれが良かった。熟れていない未発達な女を征服している感じが妙に欲情をかきたてた。だが最近はマンネリな刺戟にもすっかり飽きている。
「ああ、来てくれたんだ」
それでもにこやかに声をかける。他の女に見離された今、彼女を失えば哉斗を訪ねるものはいなくなるだろう。だがそれは、著しく自尊心を損なう行為でもあった。
返して、嗣美は控えめに微笑む。それは深い慈愛に満ちていて、そのことが哉斗をさらにイラつかせる。
ぜんたいが偽善的だ。彼氏である男は腐れて悪臭を放っている。仕事は休職中。デートに連れて行けるわけでなし、感染の恐れもあるから『肉体的な接触』も禁じられている。恋人として何かの得があるとは思えない状態だ。
(いや、一つだけあるか)
生きる生ごみと化した彼氏に尽くすのは、どれほどいい気分だろうか。何しろ左頬は皮下の組織が流れつくして人相まで変化し、四六時中、腐臭を放つ汚らしい病だ。それでも愛を失わない女に対する賞賛は絶大だろう。聖女のごとく世間から称えられるに違いない。
おまけに今の哉斗には他に寄る辺とて無い。弱者を囲い、その依存心の全てを掌握するというのは、さぞかし優越を感じることであろう。
それが癪に触ったから……哉斗は彼女を験した。
「なあ、キスしようか」
ずるい取引だ。そういう行為は当然、禁じられている。それに、腐れきった果実のような男に唇をつける不潔な行為に、どれほどの勇気を必要とするのか。
……それは愛だけが為せる業であろう。
哉斗は、どろりと饐えた悪臭の底で彼女の言葉を待った。沼底のたまった汚泥のように横たわったまま動かず、永のときを過ごす静けさに何かの一石が投じられ、澄んだ水と混ざることを夢見るような、そんな心地で。
しかし嗣美は無意味に体を揺らしながら無言であった。困りきっていることは、眉根を寄せた表情を見れば知れる事。
「なあ、嗣美、愛しているよ」
思い切り甘い声でささやいて、哉斗はその右手をとった。嗣美は一瞬だけ震えたが、彼が強く引かないことに安心したのだろう、右手を預ける。
哉斗の口が小さく開いた。腫れ上がった歯茎が悪臭を放ち、黄白い膿がにちゃりと上下のあごに糸を引く。彼はその中に嗣美の指先の、人差し指の先端を小さくくわえ込んで軽く吸った。
「これも、いや?」
嗣美がおとなしく首を振るのをいい事に、指の根元までをちゅるりと吸い込み、舌を絡めて愛撫する。指側を丁寧になめまわし、舌を巻きつけて転がす。
(頃合だろう)
そう、全てが頃合だ。
嗣美は頬を上気させ、うずうずと腿を揺すっている。それに……昨日から味を感じなくなっている。口中を汚す膿汁の不味を感じなくなったのはありがたいが、味覚という官能を失った事は、自分が人間では無く、汚物に堕ちつつあるという事実を彼に知らしむ。
嗣美の指に強く舌を絡め、哉斗はゆっくりと顎を下げた。胸糞の悪くなるような音が弾け、汚水が口腔を満たす。それを飲み込んだりはしない。女の手にたっぷりと吐きかける。
嗣美は悲鳴をあげて大きく手を引いた。ぶちぶつと、ちぎれる肉の音が哉斗の頭骨に伝わる。血膿にまみれた前歯が弾かれ、薄クリーム色の壁に当たって、そこに汚れを残した。
「ああ、ひどいなあ」
笑いながら大きく開いた哉斗の口の中はがらんどうだ。歯は抜け落ち、ぽってりと赤い歯茎の奥に見えるはずの舌は……
「ひい! ひいいいいい!」
呼吸を引きながら右手を振る嗣美の、人差し指にべったりと肉片が巻きついていた。ほんの数週間前まではきれいな桃色だったはずのそれは、灰色にくすみ、黄色い膿汁に塗れて見る影も無い。
口元をだらしなく汚したまま、哉斗は両手を広げた。舌先を失った不明瞭な発音で、艶言を紡ぐ。
「なあ、嗣美、愛しているんだよ」
女はがくがくと膝を震わせて後退さる。
「つ ぐ み」
ついに膝が崩れ、女はぺたんと床に尻をついた。
「お前も、俺を、愛しているだろう?」
もはやそんな幻想は霧散した。女は首を大きく振って、這いながら逃げる。床のホコリと、腐汁で汚れたワンピースはもはや清純など演じはしない。ただ本能の命じるまま、女は逃げた。
哉斗はその背中に向かって嘲笑を浴びせる。にちゃり、にちゃりと湿った音が笑いに混じった。
そんな哉斗に『最期の診断』が下ったのは、翌日の事である。