面疔
朝起きると左頬に小さな吹き出物が出来ていた。若ぶって『ニキビ』だとか言うつもりはない。三十過ぎの男の顔に出来るのは不潔なできものであり、面疔以外の何物でもない。
ぽちっと盛り上がった皮膚の下に、膿が白く透けて見えるほど新鮮な面疔。触れれば少し痛い。手元にたいした薬はないが、何も塗らないよりはましだろう。
髭剃りあとの肌に、ごってりと軟膏を塗りこんで、俺は仕事場へと向かった。
香田 哉斗は32歳、独身である。とは言っても、容姿や人格に問題があるわけではなく、嗣美と言う恋人も居る。それでも足りない分はナンパでもすればそれなりの相手を捕まえることが出来る。だから、むしろモテるほうだとも思う。仕事も地方の役場窓口ではあるが公務員なのだから、収入と安泰が約束されている。
むしろ人生としては順風満帆だ。
その順風満帆のど真ん中に、翳りを落とされたような不快感。デスクに向かいながらも、つい左ほほに手が伸びる。哉斗は掻き毟らないように気をつけながら、その吹き出物を弄っていた。
(大きくなってる?)
薬が合わなかったのだろうか、朝は小指の先にも満たなかったそれは、いまや親指の頭ほどの大きさに膨れ上がっている。指先にごつりと触れるふくらみを少し強く押せば、たっぷりと詰まった液体の中心にはかすかな芯を感じた。
(おっと、危ない)
皮膚は押し上げられ、薄く、傷つきやすくなっているのだ。うかつに圧力を掛ければ、中身がぶちゅりと飛び出すに違いない。これほどの膿が飛び散れば指先はおろか、白いシャツの肩口までが汚れかねない。
哉斗は左手をデスクの上に下ろした。しかし、左ほほの違和感は消えない。
(これ以上大きくなるようなら、病院へ行こう)
再び左手が上がりかけたそのとき、少し離れたデスクに座っていた女性が声を上げた。
「ねえ、なんか臭くない?」
くすんと鼻を鳴らしてにおいを吸う。確かに臭い。
「生ごみの匂いだよね」
そうだ、腐敗臭だ。それも肉の痛んだとき特有の、動物性の……死臭だ。
もちろんここは役場であり、あるのは書類の類とパソコンのみ。誰かの弁当が腐れたのかとも思ったが、密閉容器に入れた上に鞄にしまった物が、ここまで強くにおうだろうか。
すん、とまたひとつ匂いを吸えば、臭気をすぐ隣に感じる。
「なあ、お前の弁当……」
隣に座る男に声を掛けた哉斗は気づいてしまった。
その男は、少し身を引いている。表情を変えない気遣いぐらいはあるようだが、臭気を避けようとする本能には抗えないのだろう、鼻の下をこするフリをして、人差し指で吸気を防ごうと言うのか。
(だったら、もうちょっとうまくやれよ)
哉斗は先ほどまで吹き出物に触れていた指を鼻先に寄せた。
やはりそうだ。臭い。
(死体の匂いだ)
子供のころ、飼っていた猫がすずめを取ってきて、その食いさしを日向に放って置いたことがある。そのときも、こんな匂いがした。
(やはり、悪性のできものだったのか)
他が匂うなど考えられない。
哉斗はきれい好きだ。他人と対面することの多い業務のために、朝風呂を習慣としている。今朝もさら湯を使い、きちんと体も洗った。そのときに髭も当たったからこそ、左頬の吹き出物にも気づいたのだ。
へらりと愛想笑いを浮かべれば、膿に押し広げられて弱っていた皮膚組織がわずかに裂けた。黄白色の液体がどろりと肌を伝う。
「うわ、臭っ!」
思わず声を上げた同僚を責めることなど出来ない。胸が悪くなるような臭気は鼻腔を抜けて、舌の表面にわずかな胃酸の刺戟を与える。
これは、膿ですらない。ただの腐汁だ。明らかな死臭だ。生命活動を終えた細胞組織が微生物によって分解され、生ごみと化した臭い……恐ろしくて、指先で触れ確かめることもためらわれる。
気を利かせた女性職員がティッシュを箱のまま手渡す。哉斗は中身を空にする勢いで引き出し、大量の薄紙を左頬に押し付けた。
ずるり。
肉から浮き上がった皮膚がずれるいやな感触を、紙越しに感じる。
「ちょっとトイレへ……」
席を立つ哉斗の背中に、年かさの職員が声を掛けた。
「早退するなら手続きはしてやるぞ。お前、それ、病院へ行ったほうが……」
受付カウンターを越えて便所へと駆け込む哉斗の耳には、その思いやりの言葉も半分ほどしか届かなかった。