魔法使いの味噌汁
「こんにちは、私、コマーシムから参りました、田部と申します」
「……。えー、っと……」
日曜日、午後。
日差しはとうに高い時間だったけれどもまだベッドで眠っていた僕がチャイムに応えて玄関ドアを開けたとき、ドアの前に立っていた彼女に向かってできたのは、そんな風に間の抜けた呟きを返すことだけだった。
「すみません、どなたでしょうか?」
「ですから、コマーシムから参りました、田部です」
田部さんというその女性は、なんだか就活生みたいな地味なスーツを身にまとった小柄な女性で、やや丸っこい輪郭とショートの黒髪、くりくりと丸い目もあいまって、何だかほんとうに大学生に見えた。
「……」
「……」
「こまー、しゃる?」
「コマーシムです」
「こまーしむ」
「あの、もしかして、心当たり……」
「すいません、ないですね」
「でも、神木さんですよね。コーポ升形203号室にお住まいの、神木光久さん」
たしかにその通りだった。しかし、
「そうはいっても、おたくの社名に聞き覚えは……」
「では、こちらはいかがでしょう?」
そう言って田部さんは、彼女が持っているとやたらと大きく見えるショルダーバッグのジッパーを開けて、中身をごそごそとやりはじめた。
「あ、あったあった」
彼女がかばんの中から取り出したクリアファイル。見てみれば――、
「契約書、なんですけど……」
たしかに、僕の字で書かれた契約書だった。
ご丁寧に、拇印まで押してあるではないか。
「ね? 昨日の夜、神木さんが弊社にいらっしゃって――この契約書を、お書きになりました」
そんな記憶はない。
だが、はっとして右手の親指を見てみる。
赤い……そう、まるで朱肉でもつけたみたいに。
「そうですね、たしかにそれは僕の字だし、僕の指紋で間違いないようです」
「では――」
「あ、ちょっとすいません」
ここで限界が訪れた。
僕はいっきにトイレに駆け込んでかがみこむと、便器の中に胃から逆流してきたところの胃液その他もろもろ、昨晩経口摂取して胃の中にたまっていたものをぶちまけた。
ようするに吐いた。ゲロった。
頭も割れるように痛い。
「あ、えっと、あの、大丈夫ですか……?」
トイレのドア越しに、田部さんの声が聞こえてくる。
「大丈夫じゃありません……」
二日酔いである。
それも、そうとうひどい。
そもそも、僕はそれほど酒が飲める方ではないのだ。だというのに、昨日は何時まで飲んでいたのだろう……よく覚えていないけれど、最後に時計を確認したときには、ちょうど日付が回るころだったと思う。
十八時ごろから食事もろくすっぽとらずに飲みはじめて、の話である。
駅前の目立たない場所にある小さな古ぼけたバーで飲んでいたのだが、マスターに追い出されなかったのが不思議なぐらい酔っぱらっていたと思う。いや、追い出されたのか? 記憶があいまいだ。そういえば、店の支払いがいくらだったのか、何時頃、どうやって家まで帰ってきたのかも定かではない。
酒を飲みはじめた大学生に「こんな飲み方をしちゃいけないよ」という反面教師を集めた動画でも編集するならば、その中に確実に採録されていてしかるべき痴態だっただろう、きっと。
普段は、酒は人付き合いに必要なときにだけたしなむ程度、一人で飲みに行くことなどもってのほかだった僕が、どうして昨日に限ってそんなにも深酒をしてしまったのか。
ありふれた理由だけれど、やけ酒だった。
いや、涙酒、といってもいいかもしれない。
大学四年のとき以来、五年間つきあっていた彼女に、別れを告げられたのである。
一方的かつ、端的に。
いや、それは僕がそう思いたい、彼女にふられてしまった理由の半分以上が自分ではなく彼女にあるのだと思いたいだけなのかもしれないけれど……。
で、深酒。二日酔い。
頭が悪いのか、と問いたい。
頭が悪いのだ、と思う。
さっきまでは頭痛と吐き気、突然の来客(しかも理由にまったく心当たりのない)を気にするのに精一杯だったのが、トイレで冷静になって昨日のことを思い出したら、一気に頭の中がぐちゃぐちゃになってきた。
そして、彼女に振られてしまったというショックから、ますますもって頭痛と吐き気がつのる。
あー、でも、いっそこの頭痛と吐き気が続いてくれた方が、余計なことを考えずにすむからいいのかもな――。
いやいや。
便座にしがみついてのんびり失恋の余韻に浸っている場合ではない。ほんとうはそうしていたい場合なのだが、
「お体の調子がすぐれないんですね。ちょっと待っててください。いま、お味噌汁ができるところですから」
来客が帰ったわけではないので、そういうわけにもいかないのであった。
というか、
「味噌汁?」
気がつくと田部さんは家主の許可も得ずに(許可を与えたくても吐いていたから与えられなかったわけだけど)靴を脱いで上がり込み、何やら台所でいそいそと作業をしている。
あの割烹着(実物を見るのは初めてである)はどこから出してきたんだろう……まさか彼女は常にかばんの中にあんな物を入れて持ち歩いているとでもいうのか?
「はい、お味噌汁です。二日酔いには、これが一番なんですよ」
「あー、それは、えっと、ありがとうございます」
「いえいえ」
田部さんは笑顔で答える。ほっこりと可愛らしい笑顔に一瞬だまされかけたが、
「というか、なぜ僕が二日酔いだと?」
というか、なぜそこでそんなことをしているのかと訊きたい。
「はい。昨夜、神木さんが弊社にいらっしゃったとき、べろんべろ――あ、いえ、かなりお酒をおすごしのご様子でしたので」
「いや、いいんですよ。たしかにべろんべろんに酔っぱらってました。で、実は、そのせいであなたの会社に伺ったことも、その、契約、とやらですか? それについてもまったく覚えがないものでして――」
僕は正直にそう告白する。それ以外にどうしようもないというものだ。
「あ、そうなんですか」
「そうなんですよ」
「それは困りました」
「そうでしょう? 僕も困っているのです」
「そうですね、そうしましたら――」
「ええ」
「まずはお味噌汁を飲んでください。それから、今後どうするかを考えましょう」
「え?」
「はい、どうぞ。私、普段は全然お料理とかしないんですけど、味噌汁だけは、得意なんですよ」
「あ、ありがとうございます」
お椀によそわれてほかほかと湯気を立てている味噌汁は、たしかにとっても美味しそうだった。
○○○○○
「弊社ではですね、端的に申し上げまして、魔法使い派遣会社なんです」
「まほうつかいはけんがいしゃ?」
「はい。つまり、魔法使いをですね、派遣する会社ということですね」
「いや、それは言葉を聞けばわかるんですが」
「それじゃあ、なんの問題もないじゃあないですか」
「いやいやいやいや」
「? それでは、どこに問題が?」
まるでわけがわからない、といった顔の田部さん。
そんな顔をしたいのは、むしろこちらの方なのだが……。
「まほうつかい」
「そうです。魔法使い」
「あの、三角帽を被って、怪しげな薬品をつくって、ほうきにまたがって空を飛んじゃう感じのあれですか」
「ええ、三角帽を被って、怪しげな薬品をつくって、ほうきにまたがって空を飛んじゃう感じのあれです」
「ははは。冗談でしょう」
「うふふ。冗談ですよ」
「ですよね」
「はい。いまどき、そんな古風な魔法使いなんていませんよ」
「そりゃそうだ、魔法使いなんてこの世にいませんよね」
「いえいえ、神木さんがおっしゃったような魔法使いは数世紀まえの歴史的存在だ、というだけで、魔法使いが存在しないわけでは、」
「なんですか、新手の宗教の勧誘か何かですか」
「ちがいます。厳密な契約に基づく、ビジネスのお話です」
「つまり詐欺ですか」
「違いますったら」
話がめちゃくちゃである。
魔法使いだと?
呪文を唱えて杖を振ったらあら不思議、この世のものならざる力が働いてあらゆる自然界の法則に逆らい、身の回りの事象を意のままにできるという魔法?
イギリスの某駅から秘密の列車に乗って行ける学校で学べるというあの?
そんなものが存在してたまるか。数学者・物理学者の先生方に謝れ。彼らがなんのために長年その知識を研鑽し、蓄積してきたと思っているんだ。
ファンタジーと現実を混同するのもたいがいにしていただきたい。
あれなのかゲーム脳なのかそうなのか。もっとも、少年犯罪は統計学的には減少の一途をたどっているらしいが。
エロイムエッサイム! ……は、違うか。
「そういって、高額な壺でも買わせるつもりなんでしょう」
「そんなことしませんよ」
「じゃあ、先祖の供養が足りないとかいって墓石を――」
「売りつけません」
「友人に商品を売りつけさせられたりとか」
「ネズミ講でもありません」
マルチ商法のことを、ずいぶんと古風な呼び名をする田部さんだった。
「じゃあ」
「ですから、宗教でも悪徳商法でもないんですったら」
おお、神よ。あなたはなにゆえこのような奇人をワタクシのもとに遣わせあそばしたのか。
などとがらにもなく神に問いかけてみたくもなってしまう。
もっとも、神がいるんだったら、魔法だってあってもおかしくないんだろうけれど。
「いいですか、神木さん。魔法も魔法使いも、たしかにこの世に存在しているのですよ」
「ほほう。――ときに田部さん。UFOは実在するとお考えですか?」
「あはは。そんなことあるわけないじゃないですか。あれはSFと現実の区別がつかない可哀想な人たちの頭の中にしか存在しない、架空の物体ですよ」
「……」
「まあ、存在しない以上は確認されていないわけですから、そういった意味ではたしかに《未確認》飛行物体ですが。あ、でも、そうすると未確認飛行物体は存在するか、という問い自体、なんだかちょっと奇妙ですね。存在するならば誰かしらによって確認されているわけで、もう未確認ではありませんし、未確認という以上、存在するという根拠もまたない……」
田部さん、言葉づかいはいたって礼儀正しいが、人の話を聞かない性質らしい。
そういえば、さっきも勝手に上がり込んできて勝手に味噌汁作ってたし……。
「地球外知的生命体の作りだした宇宙船、という意味でUFOという言葉を使う人は多くいますが、でもそれは未確認という言葉の本来の意味からはへだたってしまいますよね。まあ、本来の意味から離れてしまった意味で使われている言葉なんて現代日本語の中から探しても枚挙にいとまがありませんし、そのあたりはいちいち気にするほどのことではないのかもしれません」
「えっと――」
気にするべき点はそこではない、というのは僕としても同感だ。しかし田辺さんにはもっと別のことを気にしていただきたい。
「ネッシーや雪男なんかのUMAについても同じですよね。ちょっと考えれば、たとえば発見されたごくごく少ない個体数でほんとうに種が維持できるほどの繁殖が可能なのかとか、色々と存在を否定、あるいはそれに準ずる推論ができる根拠は見つかりそうなものなのに。オカルト信者って、ちょっと思考回路が独特な人たちが多いですよね」
「すいません、田部さん」
「あっ! 申し訳ありません。つい、うっかりと……。私、考え出すと周りが見えなくなってしまうクセがありまして」
「そうですね」
「それで、えっと――そうそう。UFOは実在するのか、という話でしたっけ」
「いえ、魔法使いは実在するのか、という話です」
「ですから、魔法使いは実在するんですってば」
「UFOやUMAは?」
「だからー。そんな荒唐無稽なもの、存在するわけがないじゃないですか。まさか神木さん、都市伝説とか本気で信じちゃうタイプですか?」
「線引きの根拠がまったくもって不明だ!」
「ふえ?」
「いいですか、田部さん」
やたらと幼く見えるとぼけた顔で首をかしげてみせる田部さんに対して、僕はやや強い語気でもって言う。
「はい」
ピンと背筋を伸ばす田部さん。
「僕ら常識的な一般人にとっては、魔法使いもUFOもUMAも同じジャンルに分類されるのですが」
「ええっ!?」
大げさに驚かれてしまった。
「そうか――そうですよね。すっかり失念していました」
「ですか……」
「はい、すっかりうっかりぽっかりさっぱり失念です」
「韻を踏んでみてもダメです」
「がっかり」
さらにたたみかけてくる田部さんだった。その度胸と瞬発力たるや、もはや尊敬に値する。
「というか、私たちがご依頼主のもとに参るころには、みなさんそのあたりに関しては充分ご理解いただけている状態であることがほとんどですので――」
「そうなんですか?」
「その、神木さんのように、えっと、なんというか……依頼時の記憶をなくされているクライアントさんというのは、私もこれまで経験がなくて」
「ああ……」
そう言われてしまうと得心するよりないというものだ。
ただ、ということは、契約時に僕には「責任能力」なるものが欠如していたというふうには判断できないのだろうか。そんな契約は無効である。うん、この理屈に不備はないはずだ。
意を決して、田部さんに向かって口を開こうとしたとき、
「そうだ、神木さん。お腹の具合はいかがですか?」
「え――お腹、ですか」
予想もしていなかった方面の質問が飛んできた。
「はい。先ほどと比べて」
「そう言われてみると、かなりすっきりしたような――」
さっきまでは何かを入れようものならば即座に食道を逆流してきそうなコンディションだったのが、そんな気配はすっかり消えてしまっている。むしろ、軽く空腹だとすら感じるぐらいだ。
それに――、
「頭痛も酷かったんですけど、いまはすっきりしてます」
「そうですか」
それはよかったです、と田部さん、にっこり。
ううむ、愛嬌があって、大変に可愛らしい笑顔である。
「これで信じていただけましたか? 魔法の存在」
ううむ、愛嬌があって、大変に可愛らしい話題である。もしも相手が三歳児だったらね。
「僕の体調と魔法の存在に因果関係が見いだせないのですが」
「でも、召しあがったでしょう? お味噌汁」
「え? ああ、はい、たしかにその通りですけど」
「魔法の味噌汁なんです、それ」
「マホウノミソシル?」
「はい。神木さんの体調が回復するような魔法」
「えー、っと……」
「魔法使いが魔法をかけて作った、魔力をもった味噌汁です」
「ちょ、ちょっと待ってください。話が飲み込めない。味噌汁飲んで、魔法が効きました? めちゃくちゃじゃないですか」
「そりゃあ、普段の生活感覚からしたらめちゃくちゃでしょうね。なんといったって、魔法なんですから」
「……」
「それとも、私が三角帽子をかぶって、呪文を唱えて、杖でも振ったら信じていただけました?」
「あー、だったらそれっぽいかも」
冗談――というか、皮肉のつもりだったのだけれど、
「たしかに文化において《型》というのは非常に重要なファクターですけれど、そればかりを見ているとものの本質を見失いますよ、神木さん」
まじめな顔で諭されてしまった。
「それで、これが神木さんにご依頼いただいた内容なんですけど」
開いた口がふさがらない(もう少しやわらかな表現をするならば、あっけにとられてしまった)僕をよそに、田部さんはすっかり満足してしまったというような表情でかばんの中を探る。
田部さんが自分の体の大きさとアンバランスなかばんの中から取り出した、先ほどの契約書とは別の紙を見てみると、そこには――。
○○○○○
結論から言うと、僕は田部さんの言うことを信じることにした。
いや、全面的に信じているのかと言われると半信半疑――二信八疑ぐらいのこころもちなのだけれど、とにかく、田部さんの会社(コマーシム、とかいった)との契約は破棄せず、かの会社が派遣してきたエージェントであるところの田部さんに、僕の依頼を遂行してもらうことにしたのである。
月曜日、夕方六時。
なんとか今日中に済ませなければならない仕事を定時までに終え、これから残業(とはいうものの残業代は出ない)にいそしもうという同僚たちの冷たい視線を浴びながらそそくさと退社してきたのがつい先ほどのこと。
駅前、喫茶店。
フランス語だかイタリア語だか、なんだかそんな感じのヨーロッパ語で店名がつけられたその店が、僕と田部さんとの待ち合わせ場所だった。
僕が店内に入ると、すでに田部さんが奥の一席に座っていた。服装は昨日と同じ、就活生と見間違えるようなチャコールグレーのスーツ姿。似合っていると言えばその通りだけど、はたしてそれはどうなのか、と思わなくもない。テーブルは四人席で、自分が座っている隣の椅子に、あの大きなカバンを置いている。
「お待たせしました。なんとか定時に会社を出たんですが」
「いえ、私もいま、来たところですから」
田部さんと向かい合う形で、僕は腰を下ろす。僕のは世間的に平均サイズであろうカバンを、同じくわきの椅子におく。
「神木さんも、スーツをお召しになるんですね」
「そりゃ、勤め人ですしね」
「昨日とはずいぶん印象が変わって見えます」
「昨日がよれよれだったんですよ」
くたびれた部屋着だったし、二日酔いだったし。
そうかもしれませんね、と小さく笑って、右手をあげてウェイターを呼ぶ。田部さんは何を頼むのかすでに決めていたようだったので、僕もざっとメニューを見て注文を告げる。そのあと、しばし世間話。
「で、何から手をつけましょうか」
運ばれてきたホットココアに口をつけて、田部さんはそう切り出した。
「いや、それを考えていただけるものだと思っていたんですが」
コーヒーが入ったカップを持ち上げて、僕は言った。酸味よりも苦味が強いブレンド。うん、嫌いじゃない。
「うーん、でも、クライアントさんの意向を最大限重視、ってのが弊社の方針でして」
「じゃあ、僕の意向として、できるだけ田部さんにおまかせしたいということで――」
「だめなんです、それじゃあ」
「どうしてですか?」
「社長の口癖なんです。クライアントさんの意向は無意識下のものまで考慮に入れろ、って。言葉に出てくる要求をかなえるだけでは本当に依頼を遂行したことにはならない、仕事が済んだあとでクライアントさんが本当に満足のいく状態になっていることが大事なんだと」
「まあ、サービス業の精神としては一理あると思いますが」
「それに、今回のようなご依頼ならば特にです」
「そうですか? 意識も無意識も、僕の望みは、はっきりしているように思えるんですが」
「そうですか? しかし、ご依頼いただいた内容を見る限りでは――」
たしかに、僕が先日書いたという依頼内容は、文言を見ただけではかなり曖昧な表現だった。けれど、
「それは昨日ちゃんと説明したじゃないですか」
さすがにあんな言い方では依頼をかなえてもらうも何もないだろうということで、昨日のうちにもっと具体的な言い方を、田部さんには伝えておいたのだ。
「はい。たしかに伺いました」
「なら、何の問題もないでしょう。僕は別れた彼女とよりを戻したい。月並みで俗っぽいですけど、切実な本音ですよ」
記憶を失うほどに酔っ払ってしまっていたせいでもって回った表現になってしまってはいたものの、あの状況で僕が(魔法なんてものに頼ろうとしてまで)叶えたかった願いだなんて、それ以外にはありえない。
実際、こうして改めて口にしたことによって、彼女を失った悲しみが心にしみじみとよみがえってきたぐらいである。わけのわからないうめき声をあげてしまいそうになって、あわててコーヒーと一緒にお腹の中に押し込める。
「ですが――」
しかし、それでも、口をとがらせてどこか得心のいかない表情をする田部さん。
「納得していただけませんか」
「申し訳ありません。でも」
「依頼主は僕です。契約というならば、そしてクライアントの意向を尊重していただけるというのであれば、結論は出ているような気がしますけど」
「それでは、神木さんはどうしてあのような表現をお選びになったのでしょうか」
「酔っていたからでしょう。酔っ払いは自分にとって自明なことは相手にも自然に伝わると思い込んでしまいがちです。だからあんな不親切な表現に」
「でも、人間、酔っ払うと本音が出る、とも言いますよ。率直な表現をなさらなかったのには、それなりの理由があるんでは」
「田部さん。これはカウンセリングですか?」
「いえ、私は精神医学や臨床心理学を学んだわけでも、そのような仕事に必要な資格を持っているわけでもありませんし――」
「それに、それはあなた方の会社の仕事でもないのでしょう?」
「その通りですね」
「なら、お願いします。僕だってこんな心の状態で何日も過ごしたくはないし、心の底から現状を変えたいと思っていたからこそ、神頼み――ならぬ魔法頼みまでしているわけですから」
「わかりました。その線で行きましょう。それに……もうひとつ、大きな問題がありますしね」
手元のカップに視線を落として嘆息する田部さん。
問題。
それもまた昨日のうちに話題にのぼっていたことであり、そして、本日ここで僕と田部さんが話し合うべき課題となっていることなのだった。
「やっぱり――難しいですよねえ」
「ま、僕には予想することしかできませんが、難しいでしょうね」
「どうしたものでしょうか……」
「どうしたものでしょうね……」
そこから先、ふたりして言葉が続かなくなってしまう。
そう、問題。
課題。解決すべき点。避けては通れない障壁。
昨日、あれから。
田部さんに依頼内容を伝え、それではこれからことが動き出すのだろうという段になって、
「じゃ、さくっとお願いしますよ」と僕は田部さんに言った。「魔法の力で、一発解決」
何しろ相手は魔法使い派遣会社を名乗っているのだ、どんな困難な無理難題だって、魔法の力でさくっと一挙に解決してくれるのだろう。
僕はそんなふうに気楽に構えていた。
「んー……それなんですけれども……」
田部さんは、しかし、そんな僕に対して何とも煮え切らない、しかしはっきりとネガティブなメッセージを相手に伝える表情でもってして言葉を濁したのであった。
「魔法って、実はそんなにお手軽なものでもないんですよね」
宿題を忘れた言い訳をする小学生みたいな、気まずさとすねたような感じがないまぜになった表情で田部さんはそう言った。
「どういう意味ですか?」
「考えてみてください。私たち魔法使いがもしも無尽蔵に魔法を使えるんだとしたら、世の中を好きにいじり放題だと思いませんか?」
「まあ、たしかにそうですね」
森羅万象を意のままにできるような万能の力を手にしたら、たとえ野心のない人間だとしても、それなりに色々とやってみたいことがあろうというものだ。それも、魔法と言う常識的に認知されていない、言い換えれば何をしたって自分がそれをしたと気づかれないような力であればなおさらである。
「もちろん、魔法使いの側でもそういった無用の混乱、一般の人々が暮らす世界への、魔力を行使した過度の干渉を防ぐための公的権力による取り決めが存在するわけですが――それ以上にですね」
そこで田部さんはいったん言葉を区切る。その先に続くのが言いにくいことなのかことの核心にせまることなのか、あるいはその両方なのかといった感じに。ひょっとしたら、ただ演出効果を狙ってのことかもしれなかったけれども。
「まず、魔法といっても、すべての魔法使いが万能の力を持っているわけではありません。料理の得意な人と苦手な人、走るのが得意な人と苦手な人がいるのと同じですね」
「へえ――まあ、そう言われれば、という感じですね。得手不得手は個人によってバラバラというわけですか」
「はい。もちろん、料理や芸術、スポーツの力量同様にある程度は努力でなんとかなる部分はありますが、生まれ持った資質、得意な部分に特化して伸ばしていこうというのが、ここ数十年の魔法使いたちの考えの主流でして」
「なるほど」
「ただ、弊社のエージェントは私ひとりというわけではありませんし、ということはクライアントさんの依頼内容にあわせて、それに適する魔力の行使を得意とする魔法使いが派遣されるわけで、こちらはそれほど大きな問題というわけではありません」
むしろ、こちらの方が大きな問題なのですが――と田部さんは続ける。
「魔法の力を発動させるためには、ある一定の条件が必要になるんです」
「条件?」
「ええ。こちらも個々の魔法使いによって異なるのですが、この世界に魔力で影響を与えるためには決まった手続き、あるいは環境が必要になるということです」
「手続きや環境――ですか」
「そうです。イメージしていただけやすい例をあげれば、呪文の詠唱、などですね」
「ああ。他にありがちなのだと、指パッチンとか?」
「そこまで簡略化された手続きで魔法を使えるとなると、よほどの腕の魔法使いでないと無理ですね」
といって、少しさびしそうに田部さんは笑う。
「そういった意味では、そうしようと思っただけで使える超能力が存在するならば、魔法よりもよっぽど便利だと言えますね」
ふむ。その弁から察するに、魔法というのはもって生まれた才能、天から授けられた力というよりは、むしろ技術に近いということなのだろうか。
「あ、いえ、もちろん現時点で魔力を持たない方々は生涯魔法使いになることはありえませんし、その二択ならば確実に先天的な能力ということになるのですが――そうですね、魔法使いたちのコミュニティーの内部に話を限定すれば、たしかに後天的な技術、という側面が強いです。ただ、行使できる能力の内容はともかく、発動条件となると努力や修練ではどうしようもない部分も出てきますから、やっぱり生まれ持った才能、ということになるのかもしれません」
どっちつかずの言い方をする田部さんだった。
たぶん、自分でもよくわかっていないのだろう。ま、僕だって自分の能力のどこまでがホモ・サピエンスとしての基礎能力でどこからが後天的に習得したものなのかなんてわからないし、無理なからぬ話だろう。
それに、論点として取り上げるべきなのはそこではなくて、
「ということは、田部さんにも」
「もちろん、魔力を行使するにあたって、決まった条件があります」
そう、わざわざこんな話題を切り出してくるということは、田部さん自身に課せられている《条件》が問題になるということなのだろう。
「それはどんなものなんです?」
「味噌汁です」
「――は?」
ここにきて、またしても予想外のことを言う。
「ですから、味噌汁。能力としては、私が得意とするのは人間の人体に影響を与える魔法です。神木さんの二日酔いを治すことができたように。体内環境を意のままに変更せしめることができる。それが私の専門とする魔法です」
「はあ」
「で、体内環境というのは単なる体調、病の治療に限った話ではありませんよね。ホルモンバランスや各種電気信号にいたるまで、こう言っては自慢めいてしまいますが、こと人間の身体の状態に関する限り、私の思うままにならないことはありません」
「と、いうことは――」
「脳内の状態だって操れる以上、人の思考や感情なんかも、変えられるということですね」
「すごいじゃないですか!」
本当に本当の話だったら、の話だが。
魔法なるものの存在を、まだ完全に信じ切っているわけではない。とはいうものの、契約を破棄しない、という選択肢をとった以上は少なくとも表面上は彼女の主張を受け入れざるを得ないわけだが――。
「で、味噌汁です。お味噌汁なんですよ、神木さん」
「だから味噌汁がどうしたっていうん、です――か……」
「お気づきになられましたか」
「はい」
そうだ。ここまでの田部さんの話、それらすべてが真実だと仮定して、さらに彼女がどんなことにフォーカスを当てて語ってきたかを考えれば、
「私の魔法、対象となる相手に味噌汁を食べていただかないと、効力を発揮しないんですよね」
という結論に至るのは難しいことではないだろう。
「えー……」
ただ、あまりにも拍子抜け、というか、落胆とまではいかないものの、何というか、その手の感情を抱いてしまっても仕方がありませんよね。
「あ、いま『しょぼ』って思ったでしょ」
「いや、思ってませんよ」
「思いましたね?」
「思ってません」
「……」
「……」
「じーっ……」
「すいません、ちょっと思いました」
「素直におっしゃっていただいて大変けっこうです」
と、いうわけで。
話し合い。会議――というにはふたりだけというのは小規模にすぎるけれど。
僕の依頼は彼女との人間関係についてのものである。人間関係と言うからには、僕ひとりではどうしようもない。関係がうまれるには、最低でもふたりの人間が関与していなくてはならない。
そこで、味噌汁。
そう。僕が田部さんの味噌汁、魔力のこもった、魔法を行使するための味噌汁をどれだけ飲んだところで意味がないのである。
ふたりの関係に終止符を打つことを決意したのが、僕に対して別れを決めたのが彼女である以上、彼女に田部さんの手による味噌汁を飲んでもらわない以上、話は一ミリだって進まないのだった。
それで今日は、どうやって彼女に味噌汁を飲ませたものか、その方策について話し合うために、こうやって待ち合わせたというわけである。
「ちなみに、田部さんだったら――」
「はい?」
「二日まえに振ったばかりの男に、連絡されたからってほいほい会いに行きますか?」
「……行かないでしょうね」
「ですか」
「ですね」
ため息。
「あ、でもでも、呼び出しに応じるかはともかく、自宅まで相手がやってきたらさすがに応対するんじゃないですか? 少なくとも私なら、そこで居留守までは使えません」
「それが、彼女の家、オートロック、管理人常在のレディースアパートでして――下手したら企業や学校の女子寮よりも、警備は厳重かもしれません」
「困難に進んで立ち向かい、克服しようとなさるその姿勢。さすがです。男の中の男ですね」
「――田部さん」
「すみません。ふざけました」
いまいち緊張感に欠けるエージェントどのである。
「それじゃ、神木さん。こういうのはどうでしょう。彼女の会社の前で、終業後の彼女が出てくるのを待ち伏せ」
「逃げられませんか?」
「逃げは――しないでしょう。私なら、ですけど」
「それに、よしんば逃げられなかったとしても、話を聞いてくれる気になったとしてもですよ」
「そうなるといいですね。ぐっと問題解決に近づきます」
「いえ、近づいてませんよ」
「どうしてですか?」
「どうやって味噌汁を飲んでもらうっていうんですか」
「あー。――あちゃー……」
気がついて、田部さんはしまった、という顔をする。
仮に彼女が僕と対話の場を持ってくれることにしたとしてもだ。
「たぶん、こうやって喫茶店か、ご飯屋さん。よくて居酒屋――ま、とにかく飲食店っていうのが妥当じゃないですか? 会う場所としては」
「そうなると、私がお味噌汁を作れない、ってことですね――」
そう。それらの店の厨房に田部さんが入り込むことができない以上、意味のない話になってしまうのだ。
「あ、でもでも、こういうのはどうでしょう。あらかじめ私が店主さんにお味噌汁を飲ませてですね、で、その日限りの従業員だと思わせて忍び込む、という」
「見知らぬ女性に差し出された味噌汁、飲みますかね」
「神木さんは、きのう、私が作ったお味噌汁、飲んだじゃないですか」
「ぐ――いや、あれは状況が特殊だったせいです」
「そうでしょうか」
「飲食店の主人が、突然現れた女性がポットから注いだ味噌汁をですね、はいそうですかと飲むわけないじゃないですか」
「……飲むわけないでしょうね」
振り出しに戻る。
結局、彼女を我が家に招き、かつ田部さんの手による味噌汁を飲んでもらわないといけないという縛りは緩みそうになかった。
「――仕方ない。じゃあ、せめて彼女の気持ちが落ち着くのを待って、そうですね、一週間後ぐらいにトライしてみましょうか」
「すみません、それ、ダメなんです……」
田部さんが申し訳なさそうに切り出す。だめ? どういう意味だ?
不思議に思っている僕の前で、田部さん、かばんの中をごそごそ。取り出したのは、
「契約書?」
「はい。弊社と神木さんが交わした契約書です。で、そのぅ――こちらをご覧になっていただきたいのですが」
その紙面、田部さんが指さすところを見てみれば……。
「うげ――」
「そういうことなんです」
「でも、どうして……」
「簡単に言うと、経費が尽きるから、ってことになります」
「経費?」
「といっても、お金ってわけじゃないんですが。これまた厄介なんですけどね。詳しくお話しすると長くなるので割愛させていただきますが、一回の依頼に使える魔法の使用量には限界がある、ということですね」
――つまり、テレビゲームにおけるMPみたいなものです、と田部さんは例える。
「その目安として定められたのが、ここにある三日間という数字です。そう考えていただければ」
「はあ……」
「というわけで、私が神木さんのお手伝いをできるのは、今日、明日、明後日の三日間だけということになってしまうんです。ですから、その三日間でなんとかしなければなりません」
理屈は、わからなくもない。経費はお金ではないと田部さんは言ったけれど、「魔法の使用量」の上限以外にだって、実際にクライアントと行動を共にし、依頼遂行のために働く以上、お金だってかかるはず。三日以上かかると赤字が発生、ビジネスとして立ちゆかない――ということなのだろう。
それに、契約書にそのような文言がある以上、ここでごねてもしょうがない。建設的ではない。
しかし、そうなると――。
「八方ふさがりじゃないですか」
「そうかもしれません」
あっさり認める田部さん。
「あ、でもでも、八方はふさがってしまっていても、十六方を見渡せば、どこかに抜け道があるかも」
「八角形の壁で囲まれているという意味です」
「だったら、ぶち壊すまでです」
田部さんは急に物騒な物言いになる。
「ぶち壊す?」
「そうです。避けて通れない壁は乗り越えるか、ぶち壊すかしかありません」
「回り道や回れ右という選択肢は」
「ふつうならありでしょうけど、この場合はなしでしょう」
「ま、たしかにその通り」
「というわけで、神木さん」
「なんでしょう」
テーブルに手をついて、ずい、と身体をこちらに乗り出してくる田部さん。丸っこくてくりくりした目に、何か強い光が宿っているようだ。僕は思わずちょっとだけ気おされてしまう。
「今から、私の言うとおりにしてください」
○○○○○
のちに僕の彼女となり、さらにそののち僕の「元カノ」となることになる女性、関口佳奈子と僕がはじめてであったのは、僕らが大学四年生のころの夏休みも終盤に差し掛かったころだった。
大学のゼミの連中(見事に男ばかり)が開催した「過ぎゆく夏を惜しむ会」なる名目の飲み会に、断り切れずに参加したものの、それほど酒を飲まない僕とは違ってゼミの同期たちときたら脳みその神経回路にアルコールでもって影響を与えるのが生きがいというようなやつらだったものだから、はっきり言って、どのタイミング、どんな理由で帰ろうかということばかり考えていた。
「しかし、大学生活もあと半年で終わろうというのにさ」向かいの席に座っていたやつが、ジョッキをつかんで言う。「結局、女っけのないまま四年間が終わるのかねえ」
そして、ビールをぐい、と飲む。発議をしたことで一仕事おしまい、というサインかもしれない。
「彼女なんて別にほしくない、とか涼しい顔で言うやつがいるけどさ、あれ、絶対嘘だと思わん?」
「思う思う」
「中学生あたりで、ほら、性の目覚めがあるわけじゃん」
「早いやつは小学校でもう目覚めてんじゃない?」
「高校でそれを昇華できたやつはいいわなあ」
「昇華ってか、謳歌って感じじゃね?」
「あはは」
「で、高校時代に昇華だの謳歌だのできなかったやつがだよ、じゃあ大学でこそは、って思うわけよ」
「そんなやつ、わざわざ理系の学部なんて選ぶかね?」
「そこが若さゆえの浅はかさというやつよ」
「で、結局うまくいかんのだよね」
「うまくいってたら、今日だっておまえらじゃなくて彼女と一緒に飲んどるわい」
「もしそうなったら、全力で邪魔しに押しかけるけど」
「てめえ!」
「まあまあ、そういう悲しい妄想なんだから」
「そうそう。悲しいのだよ、ボクは」
なんてやりとり。
さして興味があるわけでもなし、目の前の料理に集中することにする。
ポテトサラダがなかなか美味。
「そういや、神木、おまえはさ」
「え?」
「そういう、なんつーか、浮いた話、聞かないよな」
「そうだね」
ないからね。
「おお、同志よ」
「いや、別に志は同じくしてないと思う」
「好きな女の子とかさ、いないわけ?」
「んー、いないなあ」
「彼女、ほしくならない?」
「ならないなあ。特に不自由してないし」
「出た! 嘘つきめ」
「嘘つきは泥棒のはじまりであるぅ!」
面倒なことになったなあ、もう。
そりゃあ、僕だって高校時代だとか、好きな女の子がいなかったとは言わないさ。
だけど、どちらかというと「恋をしている」状態がイレギュラー、特殊な状態だということ。恋をしていない状態が通常の状態だと認識しているから、その手の話題がない状態を欠損であるとはとらえていないんだと滔々と語ってみるわけだけれど、
「んー、おまえの話はよくわからん」
と一蹴されてしまった。
まあ、そうだろうな、とは思っていたけれど。これまで賛同してもらったことのほとんどない理屈だったし。
だから、話題にのっていかないように黙っていたってこと。
ところが、
「わかる! ちょーわかります、その話ぃ」
背後から、そんな声。続いて、「ちょ、かな、やめなさいよ」「隣の方に絡むんじゃない!」「どうも、すみません」と口々に。
振り向くと、座っていたのは若い女性のグループ。どうやら、僕に声をかけてきたのはその中のひとり、僕の左に座っていたやつと背中合わせになる席に座っていた女性のようだった。
「いえ、別にかまいません」
本当は少し気にする人見知りの僕だけれど、こういう場合、こう答えるのがマナーってものじゃないか?
「ほらぁ、この人だってかまわないって」
なんだろう、酔っ払いって急にフレンドリーになる生き物だけれど、どちらかというと、僕はその手のフレンドリーは曖昧に笑って遠慮したいタイプなんだが。
「そうそう、可愛い女の人にしゃべりかけてもらえて、どちらかといううとこいつ、喜んでるぐらいですから」
人の気持ちを捏造して代弁しないでいただきたい。
「この子たちがね、いっつもいっつも彼氏作れって、そればっかりうるさいんですよ。わたしはそんなの面倒だし、偶然好きな人できて、でもってタイミングがよかったらそうなるぐらいで充分だ、って言うんですけど」
さっき僕に話しかけてきた女性が、さらにこちらに向かって言う。
「そんなこと言ってると、あんた一生彼氏も旦那もできずに終わるよ?」
「別にいいもん、そうなったらそうなったで」
なんて会話に、
「うん、まあ、それには賛成するけど」
とうっかり返事をしてしまったのは、なんだろう、その当時の僕の人間性から考えて、かなり珍しい行動だったと言えるだろう。会社勤めをするようになってだいぶ社交性というものが身についてきたとはいえ、まだまだ「おまえには愛想がない」と言われることの多い僕である。あの頃は、いま以上に外面を気にすることがなかったし。
「でしょお! もっと言ってやってくださいよ!」
「んー、でも、少数派の意見だ、ってことは確かなんじゃないですか?」
「えー、何それ、日和見だー」
「こら、かな! 初対面の方に向かって失礼言うんじゃない!」
かな? さんのお友だち、ナイスフォロー。
「こういうやつなんですよ、チキンというか人間が小さいというか」
僕のオトモダチ、ちょっとは黙っていてほしい。
で、そのあとしばし平和な時が過ぎて、
「さて、そろそろ出るか」
と、僕たちのテーブルの誰かが言い、
「さ、そろそろ帰ろっか」
と、隣のテーブルの誰かが言った。
「そうだね」
と、僕は言い、
「えー、まだ飲み足りないよぅ」
と、彼女は言った。
「付き合いきれませんー。どうしても飲みたいならひとりで飲みにいきなさいよ」
と、隣のテーブルの誰かが言って、
「それなら、この神木を貸します。こいつがお供しますよ」
と、僕たちのテーブルの誰かが言った。
馬鹿か、と僕が言うより先に、
「それがいい!」
と僕の連れと彼女の連れ、両方が言った。
そんなこんなで、店の前を通ったことは何度もあるけれど入ったことのない――というか入ろうと思ったことすらない――バーのカウンターで、数分前に出会った女の子と二人で座っている僕がいた。
社交性がないくせに流されやすい。ひどい人間性である。
「この子がどうしようもなく酔い潰れちゃったら、ここに連絡くださいね」
さっきまでいた居酒屋を出るときに、彼女のお友だちのひとりがそう言って携帯電話の番号が書かれた紙を手渡してきたけれど、できればそんな状態にはなりたくないな、と思いながら、カクテルなんてよく知らないし、無難さをとってビールを注文する。
彼女が頼んだのは、名前が横文字のカクテル。カクテルの名前なんてだいたい横文字だけど、僕のお酒に対する知識と興味、それから記憶力なんてその程度である、という話。
「えっとぉ、名前はなんていうんですか?」
明らかに酔っ払いだということがわかる、言葉の端々が伸びたゴムみたいによれよれになっているしゃべり方。
「神木っていいます。神木光久」
「わたしは、関口佳奈子っていいます。E大学の四年生で」
「あ、じゃあ同じ学年だ」
「えぇ!? そうなんだぁ。じゃあ、敬語じゃなくても大丈夫だね」
それまで敬語を使って話していた相手と、了解さえ取れればすぐにフランクな言葉遣いに切り替えられる、というのは、女の子のコミュニケーション作法に顕著な現象で、これが男だと、徐々に徐々に、出方を伺いながら言葉遣いを移行させていくパターンが多い。これはいかなる理由によってもたらされた違いか、なんてことを、頭の片隅で一瞬、考えた。
そのあとしばらく、たわいもないような会話をつづけていたと思う。学部はどこだとか(僕は理系、彼女は文系学部だった)、血液型は、好きな作家は、漫画家は、エトセトラ――初対面同士の人間が、とりあえず相手のことを知ったつもりになれるような、外面的でカタログ的な情報を、僕たちは交換しあった。仲良くなったようでそうでもない、あしたの晩になれば「今までに出会った人たち」リストの隅に一応は登録されるものの、これといった特徴があるわけでもなく、すぐに記憶が風化していくような、そんなあたりさわりのない会話。
その間にも、彼女はお酒をよく飲んだ。相変わらず僕が知らない色々な名前の、色々な色をした、色々な形のグラスに入って運ばれてくる液体を、彼女は実に美味しそうに口に含み、嚥下していった。
「ああ、美味しい」
微笑みながらほぅ、と息をつく彼女の顔がとても綺麗に見えたのは、たぶん、バーの薄暗い照明が、奇蹟の角度でグラスに反射するせいだったろう。
そうこうしているうちに日付も変わって、店内に客もまばらになってきたころ。
「ふぅ。飲んだ飲んだ」
「居酒屋からだいぶ酔ってたように見えたけど」
「気持ちよくなってきてからが長いんだぁ、あたし」
「ふうん」
「田部クンは、ぜんぜん飲んでないよね」
「下戸なもんで」
「損してるよ、人生」
「好きなことを我慢してるわけじゃないからね。損だとはとらえてない」
「そういう理詰めで反論してくる感じ、嫌いじゃない。――あ、すいません、お会計お願いします」
お金を払って、店を出る。
夜中ともなれば、そろそろ風が心地よい温度。
「ね、ちょっと歩かない?」
「どこまで?」
「その辺。酔いざまし。付き合ってよ」
「はいはい。ここまで来たらとことんお付き合いしますよ」
「めんどくさいと思ってるでしょ」
「ちょっと思ってる」
「一回ぐらいは否定しようよ。正直なやつ」
「嘘はいけませんって、厳しく言われて育ったもので」
「それ、嘘でしょ」
「うん」
「ふふ。ようやく素直になってきたか」
どういう意味だろう。別にさっきから、質問に対しては偽りのない情報を答えていたつもりだが。
「ご趣味はなあに、とか好きな○○はなあに、とかさ、そんなお見合いみたいな会話で、相手のことなんかわかりっこないと思わない?」
「ある程度はわかるんじゃないの? つまり、そういうものを好む人間だ、ってことが」
「そうそう。あとは、そういう質問が好きって人は結構いるかも」
「そういう質問が好きって人のことは、好き?」
「あんまり好きじゃない。神木くんは?」
「好きでも嫌いでもない」
「あー、それっぽい」
「そう?」
「あたしにはねぇ、お見通しなのだぞ」
「それは、嘘」
「どうしてさ」
「なんとなく」
彼女がペットボトルのお茶を買うためにコンビニに寄りたいと言ったので、僕もついでに缶コーヒーを購入。
楽しげな足取りで歩く彼女の後について行くと、たどり着いたのは小さな公園だった。鉄棒とブランコ、小さな砂場。あとは、ベンチが二脚。
まるでそうするのがルールだって決まっているみたいに、彼女はベンチを無視してブランコに向かって歩いていく。ブランコに腰掛けるのかな、と思ったら、彼女が座ったのはブランコを囲っている柵だった。
「わざわざ、そんな不安定なところに座らなくても」
「少なくとも、ブランコよりは安定してない? 揺れないし」
「座る面としては、丸いパイプよりも板の方が安定してると思うけど」
「そうかも。――よ、っと」
両手を飛行機の翼みたいに広げて、平均台をはじめる。
「綱渡りー」
「ロープじゃないけどね」
「君さ、いちいちあたしの言うことを否定しないと気が済まない病気?」
「見解の違いを素直に言葉で表現してみてるだけです」
「そういう感じ方の違いの方がさ、好きか嫌いかの二択質問よりも有意義だと思わない?」
「何にとっての意義?」
「えっと、お互いにとって?」
「かもね。――意外にバランス感覚あるんだな」
「意外とは失礼な」
「酔っ払いは足元がふらつくもんだろ?」
「そう。だから、アンバランスを制御するのには慣れているのさ」
「いまいち信憑性のない理屈だなあ」
「うん。いま思いついたし。……おっと」
言っているそばから身体の均衡を保てなくなって、人さし指でつつかれたドミノ倒しの最初のドミノみたいに、きれいに僕の方へ倒れてくる彼女。僕を二枚目のドミノだと思っていたのかも知れないけれど、ドミノじゃなくて人間の僕は、地面に倒れたりはしなかった。
自然、彼女を抱きかかえるような格好になる。
「へへ、失敗失敗」
「本当の綱渡りだったら大けがしてるところだ」
「本当の綱渡りだったら、ネットの上に軟着陸してるところ」
「そうかも」
「ねえ」
「なに?」
「君に興味が湧いてきたよ」
「ふうん」
「君は、どう?」
「僕は――」
僕は。
彼女の瞳を覗き込む。
夜の公園は暗かったから、そこに何が映っているかは見えなかった。
「あたしの目に、何が見える?」
「まつ毛と白目と黒目」
「じゃあ、こうしたら?」
背中に彼女の腕が回る。
一瞬の加速度。
視界を彼女の頭が塞いで。
唇に、ひんやりとして柔らかな感触。
すぐに圧力は消えて、余韻だけが残る。
「――何が見えた?」
「何も見えなくなった」
「いまは、何が見えてる?」
「目の前の女の子が見える」
「あたしにも、目の前の男の子が見えてる」
再び、今度は先ほどよりも緩やかな加速度。
もう一度、視界には何も映らなくなる。
自分のものではない体温。
ちょっとした偶然のタイミングが、時として大きな出力をもたらすことがあって、それはもちろんささやかな物理現象の積み重ねだったり、つまりは地上で完結してしまう物語に過ぎないけれど、空の向こうにいる神様ってやつに感謝してもいいような気になる、そんな夜だった。
翌日になってゼミのメンバーからの尋問に耐えかねて全部しゃべった僕が、みんなからほとんど罵倒に近いからかいの嵐を浴びたのは言うまでもない。彼女の方も、似たような感じだったみたいだ。
それからの僕たちは、なかなかに模範的な恋人同士だったんじゃないだろうか。
共通の趣味なんてほとんどなかったけれど、自分の趣味を相手に強要しない、という点は共通していて、とても気楽だった。二人とも、食べ物に関してほとんど好き嫌いがなかった(文字通り、嫌いだけじゃなくて好きも少なかった)のも、ほとんどいさかいらしいいさかいが生まれなかった要因かもしれない。
運よく就職先が近かった、つまり、お互いの住んでいる家も近いままだったことも手伝って、卒業してからも円満に付き合いは続いた。
二人とも仕事がはじまって、直接会える頻度は低くなったけれど、それでも予定さえあえばどこかで会って、手をつないで、キスをして、もちろん気分しだいではその先もして。
お互いインドア派だったから、たいていは僕の家でくつろいでいることが多かったように思う。二人してヘッドホンでまったく違う音楽を聴きながら、相手の背中にもたれて別々の本を読んでいた。僕がジャズを流しながら一昔まえに流行った作家のエッセイを読んでいるのと背中合わせに、佳奈子はハードロックをBGMにクイーンのミステリーを読んだ。飲みものは、僕がコーヒー、彼女は紅茶。
そんな平穏な――少なくとも僕はそう思っていたのだが――関係、平穏な日々を過ごしていたものだから、それがあんなに唐突に終わるなんて、僕は思ってもみなかったのだ。
「――そろそろ潮時かもな」
いつもと同じような午後。たしか、彼女はそんなふうに切り出したんだったと思う。
「何が?」
ごく自然に、単純な疑問として、僕はそう訊き返した。
「あたしたち。このまま付き合い続けててもさ。ちょっと苦しいと思わない?」
「え――ちょっと待って」
どういうことだかわからない。唐突すぎる。反応が追いつかない。思考がまとまらない。
「光久が気づこうとしてないだけでさ、お互い、ちょっと無理してたじゃん、やっぱり。たぶん、最初から」
「そんな……。僕は、無理なんて」
「どうやってこの話を切り出そうかな、って、最近ずっと考えてたんだ。実は」
「そんなの全然――」
「気づかなかったでしょ」
隠してたからね――と。申し訳なさそうな笑顔で、彼女は言う。
そんな……そんな顔をするぐらいなら、もう少しぐらい。
もう少しぐらい? もう少しぐらい、何だっていうんだ?
思い留まってくれてもいいじゃないか、って?
違う。それはすでに彼女の言い分を認めてしまっている奴の言葉だ。
そうじゃない。
そうじゃなくて、僕が言いたいのは――。
言いたいのは?
思考の断片ばかりが頭をよぎって、意味のあるフレーズを構成しない。
うつむいて、何かをしゃべり続けている彼女。
「だからね、あたしはきっと――」
その先に彼女が何を言ったのか、たった数日前のことなのに、僕はもう思い出せない。
部屋を出て行く彼女の背中を見送ったのは、刹那のことだっただろうか、それとも永遠だっただろうか。
不思議と、涙は出なかった。
それを不思議と感じるだけの冷静さがあるくせに、さっぱり途方に暮れてしまっている自分のアンバランスさも、なんだか滑稽だった。
それから、なぜか駅前に足が向かっていて、最初に目に入ったバーに入って、慣れないお酒をしこたま飲んで――。
浮かれた気分のときに、神様に感謝したくなるのはなんとなくわかる。肉体は無理でも気持ちの分だけ、神様にお近づきになっている気がするから。
気分がどん底まで落ち込んでいるときに、神様にすがりたくなるのはなぜだろう。僕たちが思っているのよりもずっと世界は狭くて、テレビゲームで画面の右端が左端につながっているみたいな感じで、実は下へ下へと沈んでいった方が、神様のいるところへの近道なのかもしれない。
だからだろうか、「魔法の力、お貸しします」なんていう、普段なら笑って通り過ぎるような看板に引き寄せられてしまったのは。
そして、そこで僕は――。
そこで僕は、「関口佳奈子と、自分の望む関係になりたい」と願ったのだった。
○○○○○
「ちょっと、どういうこと? 一週間もたってないのに、あれからここまで散らかるもんなの?」
結論から言うと、僕の、そして田部さんの予想を大きく裏切って、彼女、関口佳奈子は、あっさりと僕の家に訪れたのだった。
――ん? ごはん? 光久んちで? いいよー。いつがいいの? あした? おっけー。何が食べたいの? あ、光久が用意してくれるんだ。よろしく―。
朗らかな声。
そりゃあ、苦労するよりは楽な方がいいとはいえ、ここまで屈託のない返事がくるとは、正直、拍子抜けである。
「来客の予定もなかったもので――」
「自分であたしを呼んどいてその言い方かぁ?」
「いや、ま、これにはちょっとしたわけが……」
「まあ、いいや。それで、今日は何の用?」
「用っていうか――ただ、佳奈子とご飯が食べたくなったってだけじゃだめ?」
「だめ。それじゃあ説明がつかないことがあるから」
そう言って彼女が指さす先には、スーツに割烹着姿で台所に立つ田部さん。
「ですよね……」
「ですよ。――なに? 新しい彼女。ふーん、やるぅ」
「違わい」
「えっと、はじめまして。関口佳奈子さんですね」
田部さん、ここでようやく挨拶。
「ええ。――あなたは……?」
「あ、申し遅れました。私、田部といいまして、ええと、なんていうか、今晩限りの給仕係というか――」
「会社の同僚の恋人でさ。色々あって、料理を手伝ってもらうことに」
「怪しいんだー」
「怪しくない」
「やましいんだー」
「やましくもない!」
「えー、そろそろお料理の準備ができますので、食卓の方へ……」
「ま、いっか。今日のところは不問にしといたげる」
「そうしといてくれると助かるよ」
食卓――といっても二人分の食事がのればいっぱいいっぱいのちゃぶ台――に並べられたのは、回鍋肉に菜花の胡麻和え、白いご飯と、そして大根の味噌汁。
「あれ、田部さんは食べないの?」
「ええ、私は結構です。ただの見届け役ですから」
「見届け役?」
「ああ、いや、なんでもない。いただきます」
「変なの。――いただきます」
それっきり、無言で食事が進む。僕としては気まずいものの、その気まずさは佳奈子と差し向かいで食事をしているせいなのか、さっきからニコニコとこちらを見ている田部さんが気になるせいなのか――。たぶん、その両方だと思う。
そして、皿の上の料理も少なくなっていき――。
「田部さん、このお味噌汁、美味しいですね」
「そうですか? ありがとうございます」
田部さん、にっこり。
僕はと言えば、緊張が高まってくる。
「? どうしたの? 人の顔、じろじろ見てさ」
しまった。
「いや――なんでもない」
あわてて、ごまかすようにこちらも味噌汁をすする僕。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
「あ、田部さん。食器だったら僕が下げますから」
「いいえ、神木さんは座っていてください。もちろん、佳奈子さんもそのままで」
そういって、手際良くちゃぶ台の上の食器をまとめて流しへ運んでいく田部さん。
後に残されたのは、僕たち二人きり。
いや、まあ、二人きりっていったって、声の届く位置には田部さんがいるわけだけれど。
「……で?」
「え?」
「わざわざ呼び出したんだもん、何か用があるんでしょ?」
さっきと同じ質問に、
「うん、まあ……」
さっきと違う答えを返して。
「あんな思いつめた声で電話してくるんだもん、気づかない方が無理ってもんでしょ」
「そうかな」
「そうです」
「それじゃあ、端的に言って――」
端的に言って。
言って。
端的に。
一言で。
はっきりと。
言え!
何かを待っているような表情の彼女。
急かすように、台所からは食器を洗う音。
「もう一度、考え直してくれないか?」
自分のものじゃないような声。
「つまり、よりを戻してほしいとか、そういうことを言いたいわけで」
それに対して、彼女はやさしく微笑んだ。
ゆっくりと、彼女の唇が動いて。
「いやあ、それは無理だよ」
と。
きっぱりと言う。
はっきりした言葉。
曇りのない意思。
「――だろうと思った」
何が意外だったって、彼女の拒絶に対して、そんな返事を返した自分だっただろう。
「なんだ、言ってみただけなの?」
「こういうときにはこう言ってみるのが、なんていうか、礼儀というか、マナーかな、って」
「そういうのはね、マナーじゃなくてステレオタイプって言うんだよ」
「ほんとのところ――さ。どう思った? あたしが別れよう、って言ったとき」
「最初は何も思えなかったし、考えられなかった」
「そのあとは?」
「なんだろう、すっきりした、のかも」
「でしょ?」
「うん」
「あたしも同じ」
「うん、それはわかってた」
自分の口から次々と出てくる、自分のものじゃないみたいな言葉。
何だ? 僕はこんなにも、ものわかりのいいやつだったのか?
もっと取り乱して、彼女に執着して、あがいているはずじゃなかったのか?
「と、思ってるかもしれないけどさ、光久のそれはさ、たぶん、そうふるまうべきだと思ってそうふるまってただけなんだよ」
「そうかもしれない」
「そういうやつだもん、あんたはさ。あたしもだけど」
「うん。そういうとこあるよね、二人とも」
「恋人同士っていうよりは、恋人のふるまいをしてる二人だったな、って。思うわけですよ」
「ああ、納得」
納得?
――しているのか?
問いかける。
――している、かもしれない。
「本当言うと、僕は」
僕は。
本当は。
たぶん、彼女と最初に出逢ったあの日に、すでに二人ともがしていた勘違い。
ボタンの掛け違いのようなもの。
夜中の風と、夏の終わりの空気の屈折率に騙されていた。
それは、とても素敵な思い違いだったけど。
たぶん、もっと素敵な真実を、覆い隠してしまったに違いない。
だから僕は。
五年たって、彼女に言わなくてはならない。
「僕は、本当は、佳奈子の親友になりたかった。恋人じゃなくて」
ああ――そうか。
そうだったのか。
言葉にしてから、遅れて、感情として実感する。
そんな僕に対して、佳奈子は、
「ようやく気づいたか」
と言って、笑った。バーの照明もカクテルのグラスも、夜の空気もなかったけれど、とても素敵な笑顔だった。
「っていうかさ、それ、こないだあたしが先に言ったことだぞ」
「え……そうだっけ」
「うそぉ! 覚えてないの?」
「突然のことで、混乱していたもので」
「はあ……。こりゃだめだわ」
「何が」
「別れてしばらくは光久のことは放っておこうと思ってたけど、あんたそういうトコ鈍すぎ。頼りないから、あたしが世話したげるよ」
「言っとくけど、酒が入るとおまえも人のこと言えないからな」
「ぐ……」
「ま、なんていうか、その――」
「つまり、えっと――」
「今後も」「よろしく」
そう言って、僕たちは握手をしたのであった。
これまでに重ねたどんな抱擁よりも、キスよりも、それは暖かで柔らかで、そして素直な握手だった。
○○○○○
「――さて、説明してください」
あしたも朝が早いから、と言って帰宅する佳奈子を見送って、再び、部屋の中には僕と田部さんの二人。
先ほどまで佳奈子が座っていた場所に、いまは田部さんが座っていて、僕は田部さんに向かってそう切り出した。
「何をでしょう」
とぼける田部さん。
「先ほどの現象についてです」
「それは――つまり、無事、神木さんの依頼が遂行された、と捉えていただければ」
「でも、たしか、彼女とよりを戻したいというのが、僕の依頼内容でしたよね?」
「いいえ、違います。佳奈子さんと、本当に望むご関係になりたいというのが神木さんの依頼内容でした」
「たしかに、契約書にはそう書いてありましたけれど、きのう打ち合わせした時点で、僕がはっきりと言いなおしたはずでしょう?」
「それは、その通りなんですけど――」
「で、田部さんが、その、魔法でですね、佳奈子の気持ちを動かしていただくと。そういう算段だったはずです。それがこの展開。腑に落ちないというか、なんというか――」
すっきりしたのかしないのかと言えば、少なくとも彼女との関係性においては、すっきりしたのは事実。なんのわだかまりも残っていないといっていい。
すっきりしないのは、田部さんがいったい何をしたのか、ということだ。
「あのですね、神木さん。私、佳奈子さんには魔法をかけていないんです」
え?
佳奈子に魔法をかけていない?
いや、しかし、たしかに佳奈子は田部さんの作った味噌汁を飲んでいたじゃないか。
いや――待て。
今夜、田部さんの味噌汁を飲んだのは何も佳奈子だけではない。
畜生――そういうことか。
「はい。私が魔法をかけたのは、神木さんの方です」
「だけど、いったいぜんたい、どんな魔法を――」
「簡単に言えば、自白剤みたいなものですね。無意識の本音を意識化して、かつ言葉に出すようになる魔法です」
「あー……」
ってことは、なんだ。要約すれば、僕が意地っ張りだったってだけの話になるのか?
「そういうことですね」
「そこは嘘でもフォローしてください……」
彼女の方が、僕よりもほんの少しだけ大人だった、あるいは、僕よりもほんの少しだけ、自分に正直だった。そういうことなのだろう。
「というわけですので、神木さん。これで契約は履行されたとみなしてよろしいでしょうか」
「はい。結構です。ありがとうございました」
「それでは、えっと、対価をお支払いいただきます」
「対価?」
「ええ。当社のサービスは後払いになっておりますので」
そういえば、それをすっかり失念していた。
そりゃそうだ。向こうはボランティアでやっているのではない、商売なのだ。消費者に支払いの義務が生じるのは当然の話。
「わかりました。いくらですか?」
というか、いま、持ち合わせがあっただろうか。
「いえ、弊社はサービスの対価としてお金をいただいているわけではありませんので」
「そうなんですか?」
「はい」
「まさか、おまえの魂をよこせだなんていいませんよね。それじゃ魔法使いじゃなくて悪魔です」
「いいえ。私たちがいただいているのは《記憶》です」
「記憶?」
「はい。この懸案を解決中の、魔法および魔法使いに関する記憶をいただきたいのです」
「それは、機密漏洩のための記憶消去――みたいなものなんでしょうか」
「そう考えていただいても差し支えはありませんが、実際のところはもう少し複雑な事情がありまして。単に神木さんの記憶を消すのではなく、私たちがもらいうけるという形になりますね」
「はあ――」
「詳しいことを話してもいいんですけど、お互い、時間の無駄ですから」
どうせ忘れちゃいますしね、と。
軽い口調で田部さんは言う。
そうか。そうなるんだな、と。
理由はよくわからないけれど、ちょっとだけ感慨深さに浸る僕。
「それは、僕はどうすればいいんですか?」
「ああ、特に何もしていただかなくて結構ですよ。これから寝て起きて、あしたの朝にはきれいさっぱり。佳奈子さんとお話しした内容などは覚えていても、それに私が関係していたことも、それから魔法の存在も、忘れてしまっているという寸法です」
「ありがとうございました。たぶん、田部さんがいなければ、僕は自分の本音に気づけなかったと思います」
「そんなことはありません。いずれ、ご自分でも気づいていたはずです」
「けれど、タイミングが重要なことって、結構あるでしょう?」
「そうかもしれなせんね」
にこりと笑って、
「それでは、そろそろ失礼いたします」
と言って、田部さんは立ち上がる。
「よっこらしょ、と」
見た目は大学生みたいなのに、大きなカバンを持ち上げるときの掛け声だけは、急にお歳を召すみたいだ。
「それでは、神木さん。もしかしたら、またどこかでお会いするかもしれませんね」
「コマーシムに、二度目の依頼をすることはないと思いますが――」
「そうですね。リピーターってほとんど皆無なんです、この仕事」
そりゃそうだろう。それに、
「街中で偶然すれ違っても、もう僕が田部さんに気づくことはないんですね」
「そうなります」
何事もないように言う田部さんだけど、もしそうなのだとしたら、それはまたずいぶんと――。
「さびしくは、なりませんか? 自分だけが一方的に依頼主のことを覚えているっていうのは」
「そう言ってくれる方がいるだけで、充分ですよ」
慣れてますしね、と言う田部さんの表情からは、それが本心なのかそれともただの建前なのか、僕には判断できなかった。
「本当に、ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。――それでは、今度こそ、失礼いたします」
玄関ドアを開けて、外へ出ていく田部さん。
表に出て見送ろうか、とも思ったけれど、僕はそうはしなかった。
部屋に戻って、手帳を開き、あしたの予定を確認する。
時計を確認。
そろそろ、入浴して床に就いた方がよさそうだ。
面倒なのでシャワーで済ませ、やかんでお湯を沸かしてインスタントのカフェオレを飲む。
田部さんの童顔を思い出しながら、今後の、佳奈子との新しい関係に思いをはせる。
そうこうしているうちに、眠たくなってきたので、寝ることにした。
ベッドに横になると、スムーズに眠りに落ちることができた。
たぶん、夢は見なかったと思う。
*****
「――以上が報告です」
魔法使い派遣会社・コマーシムのオフィス。その奥に位置する社長室で、社長の光橋に向かって田部は語った。神木という男性から依頼された、このたびの懸案の経過報告である。
「うむ。ご苦労」
「どうして人って最初から自分の気持ちに素直になれないんでしょうね――」
そうすれば、今回だってわたしがこんなに大変な思いをすることはなかったのに、と田部はつぶやく。
「それこそ、フロイト先生が看破した無意識とやらの作用なんだろうさ。人は、複雑だ」
「そうですね……」
「たとえば、他人の目から見たら複雑怪奇に見える君の趣味だって――」
「わたし、そんな変な趣味、持ってません」
「ほら、その自己認識が、つまり、無意識の力だと言える」
「はあ……」
「ま、とにかくお疲れさま。次の仕事が入るまで、ゆっくり休んでくれ」
「ゆっくり休めた試しなんかありませんよぅ。社長は人遣いが荒いです」
「それを言うなら、巷の人々の魔法使い遣いが荒いと言ってほしいな。それに、依頼が多いということは好ましいことじゃないか」
「そうですね――。それでは」
失礼します、と社長室を退出する。
コマーシムのオフィス。オフィス自体は、それほど広くはない。空間移動系の魔法を得意とする魔法使いが勤めているため一瞬で「通勤」が可能であり、それゆえに在宅勤務が認められているからだ。だから、オフィスにデスクをおいて毎朝電車で出勤しているようなもの好きな社員は、田部を含めて十名弱。あとは、受付に常駐している双子。
あの双子のことは、正直言って田部もよくは知らない。そっくりなんだかまるで似ていないんだか、印象もつかみどころがない。聞くところによると社長が海外出張から連れて帰ってきたのだというが、自分が入社して以来、少年めいた容姿が成長している様子はない(もっともそれは、魔法使いならばみな似たり寄ったりとも言えるけれども)。社長が積極的に語らぬことならば、詮索はせぬが吉だろう、と納得している。
自分のデスクに戻ると、隣の安岡美季が声をかけてきた。
「おつかれー」
「ほんとだよー、もう……」
答えると、田部は机に突っ伏した。突っ伏したままで言う。
「わたしはさ、何が嫌いって報告書の作成ほど嫌いなものはないんだから」
「脳筋だもんねー、悠は」
「脳筋って言うな。行動派って言え」
「一緒じゃん」
「ぜんぜん違う! 脳筋って言ったらどっちかって言うと武闘派っしょ」
「ああ、鳥嶋さんみたいな」
「そうそう」
笑っていると、
「聞こえてるぞ」
いつの間にか背後に本人が立っていた。あわてて愛想笑いでごまかしておく。
「そのわたしがさ、今回はどっちかっていうと頭使わなきゃいけない懸案だもん。がんばったのだよ」
「よしよし。それではお姉さんがこのピーナッツをあげよう」
「柿ピーのピーナッツ好きじゃないからってわたしに食べさせるの、やめようよ」などと言いつつも、もらえるものはありがたく頂いておくのが田部の流儀である。「っていうか、ピーナッツ食べないならわざわざ柿ピー買わなくていいじゃん。ピーナッツ抜きの柿の種を買いなよ」
「わかってないなー、悠は。あたしはさ、ピーナッツをよけるという行為にロマンを感じてるわけ。ただ漫然と目の前の柿の種を食べるんじゃなくて、そこに選別という作業が加わることによって、柿の種は神聖さを獲得するのだよ」
「ふーん、そう」
さっぱり理解できない。
「あ、また増やしたんだ、ストラップ」
安岡が、田部の携帯電話に目をつけて言う。
「うん。今回はちょっと大変な懸案だったからね。なんていうか、自分へのご褒美?」
そう言って田部は、携帯電話を顔の前に掲げる。ぶら下がっているのは、数種類の、お気に入りのストラップたち。
「へへー、いいでしょ」
「いやまったく」
「えー、なんで?」
「だって貝でしょ、それ」
「そうだよ。かぁいいじゃん」
「わかんないよ、可愛くないよ」
「そう?」
「デフォルメされたキャラとかならともかくさ、リアル貝じゃん、あんたの場合」
「リアル貝とか言うと生もの付けてるみたいじゃん。ちゃんと作りものだよ」
「そうだけど、見た目の話」
「キュートだと思わない?」
「だから、ぜんぜん。で、何? 今度は。私には全部一緒に見えるんだけど」
「ぜんぜん違うじゃん! これがアサリでしょ、で、こっちがシジミ。わかりやすいとこだとこれがサザエでー、これがカキでー、あ、これはムール貝ね。で、今度はハマグリ買ったんだー。えへへ」
「へえ……。ところでさ、あんたの魔法のことだけど」
「ん?」
「まえから気になってはいたんだけどさ、どうして味噌汁なの? なんかめちゃくちゃ不便じゃん。相手に味噌汁飲ませなきゃいけないって、そのおぜん立てこそ魔法でなんとかしたくならない?」
「まあね――」
「だから、変だなー、って」
変だということに関してはそっちだって同じだろう、と言い返してやりたくなった。そもそも十人十色の十の色がみんなショッキングカラーというのが魔法使いの世界である。「ふつう」の人がいたらその方が変だ。
「子どものころにね」
反論してもよかったが、そちらの方が手間だろうと考えて田部は安岡に向かって言う。
「うん」
「神のみぞ知る、っていうことばがあるでしょ。わたし、あれ、ずっと神の味噌汁だと思ってて」
「ああ――赤い靴はいた女の子が『いい爺さん』に連れられて外国に行っちゃった、みたいな」
わたしは「ニンジンさん」だと思っていたよ、という田部に、安岡はよっぽど食い意地の張った子どもだったんだね、と返す。
「うるさいな。とにかく――神様ってのは万能の存在でしょ? ってことは、神様の味噌汁ってものすごく偉大な力があるんだな、って」
「そこまでは考えないよ、なかなか……」
「まあ、それで、気がついたら魔法の発動条件が味噌汁になっちゃってた。三つ子の魂百までって、あれ、ほんとだね」
「はあ――?」
開いた口がふさがらない、という顔をして――事実口が開きっぱなしになっていた――安岡は田部に、一言でいえば「やっぱりあんたは変だ」というようなことを滔々と語りはじめた。
こうなると、彼女の話はなかなか終わらないな……。田部は、口では適当に安岡の話に相槌を打ちながら、頭の中ではまったく別のことを考える。
――今日の晩ごはん、お味噌汁の具は、何にしようかな。
〈Fin〉
友人から設定をいただいて書いた話です。
友人も同じ世界観で一本短編を書いてくれたので、この会社に対する描写で説明不足な部分があるとしたら、その作品との整合性を取るためだと理解してやってください。