宿屋の一人娘とドアマット青年
「ごめん、やっぱり君とは結婚出来ない」
「えっ」
マロンは驚いて、手にした豆の鞘を取り落とした。
「結婚式は来週なんだけど……」
「ごめん、でも俺は自分の気持ちに嘘はつけないんだ」
マロンは夕食のための豆を鞘から出しながら、黙り込んだ。
そもそも告白してきたのもハンス、結婚を急かしてきたのもハンスだ。
意味がわからない。
マロンは宿屋『祭鳩亭』の一人娘。
ハンスは農家の次男で婿入り希望である。
貴族でもないし、口約束の婚約だった。
「…………結婚式はどうするの。招待状も送ったし、教会にも寄付して一日貸し切ってあるんだけど?」
「…………ごめん」
ドレスだって母のウエディングドレスを仕立て直した。
ケータリングの手配も終わっている。
婿入りしてくれるのだから、全部マロンの家が支払いをしている。
「ごめんは良いけど、そっちが一方的に取りやめるのだから、かかったお金は全部払ってよね」
マロンは冷静を装いながら、ハンスにそう言った。
内心はショックで波立っていたが……。
ハンスとは幼馴染だったし、相思相愛だと思っていた。
それがいきなり無しになったのだから、動揺して豆を落としても仕方がない。
「え、お金なんてないよ。まだキャンセルできるだろ」
「なにいってるの、キャンセルにもお金がかかるのよ」
「それはそうかもしれないけど、俺は出せない」
「…………」
「…………」
(縋り付いて結婚しても明るい未来はなさそう……)
マロンは将来、祭鳩亭を切り盛りしていかなくてはいけない。
創業二百年、マロンの代で潰すわけにはいかないのだ。
「いいわ。もう帰って」
「本当にごめん」
ハンスが帰り、両親を手伝って夕食の給仕を終えた頃にハンスの父親が訪ねてきた。
マロンの父親と、ダイニングの隅で話し合いが行われた。
ハンスの父親は笑顔で祭鳩亭を出ていった。
「慰謝料を置いていったぞ、金貨三枚」
金貨三枚あればキャンセル料は充分賄え、一枚以上は手元に残る。
「そう……」
「その代わり手配は家でやれってさ」
父親はムスッとした顔で金貨をマロンに手渡した。
「わかった、じゃあ明日──」
「話はまだある」
「えっ」
「あそこの家は中々子供ができなかったから、長男は養子だ」
「そうね」
「長男をくれるそうだぞ」
「え、そんなことある?」
「下働きでもいいと言って、明日から寄越すらしい」
マロンは布巾を持ったまま、固まった。
ハンスの兄、ハロウが優しい人なのは知っている。
だが、代わりにくれると言っても、じゃあそれでと結婚するのは納得がいかない。
「結婚はしないわ、キャンセルする。全部」
父親は渋い顔のまま頷いた。
翌日、着の身着のままで困った様子で現れたハロウは、マロンたちに深々と頭を下げた。
髪はこのあたりでは見かけない不思議な青紫、長い髪はいつ切ったのかわからず顔はよく見えない。
「本当にご迷惑をかけて……」
「はあ」
ハロウの話を聞くと、事の顛末はこうだった。
彼らの農地の横に、とある子爵家の別邸がある。
そこに最近子爵令嬢が静養のため滞在しているそうだ。
王都じゃどうかは知らないが、ハンスはこの辺ではかなり見た目がいい。
で、子爵令嬢がすっかりハンスを気に入ってしまったらしい。
跡継ぎには三男がいるから、養子のハロウだけが邪魔。
そういうことのようだ。
あのお金は子爵家から出たものらしい。
「ご実家は」
「俺、孤児なんで家族はもういなくて。孤児院に戻れる年でもないし」
ハロウは二十一歳、マロンは十八歳。
孤児院は十二歳までしかいられない決まりだったはずだ。
「…………まあ、人手はちょうど欲しかった」
両親はハロウを雇うことに決め、空いていた屋根裏部屋を与えることにした。
薪割りや水汲み、父がやっていた雑用をハロウがやれるなら、損はない。
大きな港町から王都の間にある大きな道沿いに位置するヨウール村の祭鳩亭は、それなりに繁盛していて忙しいのだ。
「屋根裏しかなくてごめんね」
マロンが案内すると、ハロウはようやく少しだけ表情を緩めた。
「いや、嬉しいですよ。自分の部屋なんてなかったし」
「ええっ」
ハンスの実家、トール農場は広い農地を持っていてこの付近では一番大きい農家だ。
祭鳩亭で使う野菜もすべてトール農場のもの。
多少高くはあったが、品質は良かったしハンスのことがあったので取引をしていた。
あの家は、かなり大きな家だったはずだけれど。
「引き取られて数年後にハンスが生まれてからは、馬小屋で寝泊まりしてたんで」
「そう……」
なんだか理解が追いつかないが、ハロウは随分と辛い境遇だったようだ。
「二十歳になった去年から出て行けって言われてたんで、ちょうど良かったんです」
「…………」
出て行けと言われたものの、手元にお金はない。
そんな状況だったようだ。
マロンは横目でチラッとハロウの背中を眺めた。
服は袖も裾も短く、ボロボロだ。
何より病人のように痩せている。
マロンは階段を降りて洗い物をしていた母親に聞いた通りの話をした。
「お父さんの服余ってる?」
「太る前の服がちょうどいいんじゃないかい。とりあえず服を渡すついでに食事を取りに来るよう言いなさい」
「わかった!」
母親が指示した通り、両親の部屋の隅にあった箱に父親が着られなくなった衣服がきれいに畳まれて入っている。
かなり重たかったが、マロンは宿屋の娘なので力には自信があった。
苦労しながら屋根裏に箱を持っていき、ハロウに手渡す。
「これ、お父さんがもう着られなくなった若い頃の服。家にはお父さん以外男がいないし、捨てるしかないものだからどうぞって」
「いいのかい? 見た感じ良いもののようだけど」
「ものが良くたって、あのお腹じゃどうしようもないもの」
マロンが笑い声を上げると、ハロウも口角を上げわずかに笑顔になった。
「ありがとう」
「いいのよ、それと賄い食べに来てってお母さんが言ってた。仕事は明日からでいいって」
その後、マロンは各所に頭を下げたりキャンセル料を支払いに行ったり、招待客に詫び状を書いて忙しい日々を過ごした。
ハロウが来て十日ほど経った頃、井戸のそばで座らされたハロウが、母親に髪を切られていた。
父親の髪も母が切っているので慣れたものだ。
「あらまあ」
「ほんと、あらまあだわ」
蓋をあけてみれば、ハロウはハンスよりかなりの美青年であった。
ハンスが儚げな美青年なら、ハロウはワイルド系美青年と言ったところだろうか。
まだ頬はこけているが若葉色の瞳は快活そうに煌めいている。
マロンは自分の赤毛を撫でながら、まじまじと目の前の青年を眺めた。
「驚いた、随分とハンサムねぇ」
「こりゃ給仕に出せるね。女客が喜びそうだ」
給仕は近隣から雇っているが、皆女性ばかりで見た目がいい。
貴族客も来るので、そういう方針なのだ。
村娘たちは出会いのチャンスだと言い、給仕の仕事は争奪戦である。
今まで男性給仕はいなかったけれど、急な欠員のときはハロウも戦力になる。
やり手の母親は、そう宣言した。
料理担当の父親は反対すらしなかった。
一ヶ月が過ぎ、特に変わったことも起こらず平坦な日々が戻ってきた。
変化といえば祭鳩亭の裏の荒れ果てた大きな庭で、ハロウが畑を作って野菜を育て始めたくらいだ。
父親はベビーリーフを口にして頷いた。
「いいな、これ。つみたての野菜、最高だ」
ちょうど隣のジーナ婆ちゃんが、土地家屋を売りたがっている。
母親は自家栽培の野菜を気に入ったので、そこを買うことに決めた。
廃業した小さな農家だったので、充分な広さのある土地と、古いが小さな家がある。
ジーナ婆ちゃんは息子さんの家に行くそうである。
「良いんですか」
「いいのよ、屋根裏じゃ窮屈でしょ?」
母親は若い男女が同じ家なのもね、とゴニョゴニョ言いながらハロウにジーナ婆ちゃんが引っ越したらそこに住むように言った。
それを昼食をとりに来ていたジーナ婆ちゃんが小耳にはさみ、じゃあ家財道具は置いていくと言ってくれた。
「どのみち、あたしゃ大事なものだけ持っていくつもりだったからね」
ハロウは黙ってみんなに頭を下げた。
背が高いので、屋根裏は本当に窮屈そうだった。
よかった、とマロンも笑顔になった。
ジーナ婆ちゃんが引っ越しを済ませるまでの間、ハロウは放置されていた農地を整備して新たな野菜を育て始めた。
マロンも手が空いたときは手伝ったので、引っ越しの日には小さな芽が整然と並び、ジーナ婆ちゃんは感慨深く畑を眺めてハロウに礼を言った。
「トール農場が値上げしてきた」
ある日父親が少し怒った顔で家族に告げた。
自家栽培を始め、買う量が少し減ったからなのだろうか。
マロンはそう思いながら父親の話を聞いた。
「それに最近は品質が良くない」
「そうねえ、今朝のレタスなんて萎びてた」
母親も不満そうに鼻を鳴らし、帳簿とにらめっこを始める。
「なあ、ハロウ。なんでかわかるか」
「多分……今までは俺がほとんどやってたからじゃないかな」
「あの広い農場を?」
「うん。ああでも全部じゃない。雑草を抜いたり虫を取ったり肥料作って与えたりくらいかな。収穫や植えるのは他の人もやってたから」
「ふうん」
「大きな農場だから水源も整備されてたしね」
「元々はハンスがマロンの婿に来ると思ってトール農場と取引していただけだしなぁ……」
「農家は他にもあるわ。別にトール農場じゃなくてもいいわよ。他の農場さんから売り込みも来てるんだし」
母親が少し怒った顔で言い捨てた。
結婚取りやめの時は何も言わず見守ってくれた両親だが、やはり怒っていたようだ。
(それに……トール農場と縁が切れるならなんかこう、スッキリするかも?)
「ハロウを返せって言ってこないかしら」
母親の呟きに、ハロウが顔を上げなんてことないように告げた。
「トール家は……ここに来る前に役場で養子縁組解除の手続きをしてきたので」
「え、縁組まで解除してから来たの? 準備がいいこと」
母親があきれたように呟き、お茶を淹れに席を立った。
養子を取るのはよくあることだが、解除は滅多に聞かない話だ。
重大な犯罪を起こせば別だけれど。
「まあ……なら、向こうも何も言ってこないんじゃないか」
破談の原因になった子爵家のおかげかどうかは知らないが、トール農場は羽振りがいいらしい。
祭鳩亭の売上がなくても問題ないだろう。
令嬢とハンスが着飾ってあちこちで散財している噂はマロンの耳にも入ってきている。
ヨウール村は農村なので人口こそ少ないが王都まで行く道が集まっており、重要な補給地点でもあるので中心部はかなり栄えている。
その一等地にある祭鳩亭は一番格の高い宿屋なのである。
(それでも貴族令嬢のほうがいいと思ったんでしょうね。私は家を継ぐと言っても平民なわけだし)
取り引き停止を告げても、先方はどうでもよさそうにサインして契約書を投げてきたそうだ。
うちの野菜がなくなったら、困るのはお前らだぞと言い残して。
栽培に場所を取る野菜はさすがに育てられないので、足りない分は近隣の専門農場と契約を結べた。
今まで一本化していた仕入れは、取引先が増えたことで帳簿だけは少し面倒になった。
でも、それだけである。
しばらくして、野菜くずがもったいないと言って母親とハロウが鶏を二十羽ほど飼い始めた。
手が回らず空いたままの土地に柵と小屋を作って平飼いを始めたのである。
マロンは最初可愛いと喜んだが、雌鶏たちは思っていたより獰猛で卵拾いは内心ビクビクしながらだ。
「飼料は買うぶん、丸儲けでもないけど」
「うん」
「朝採り卵はいい看板になるって親父さんが言ってた」
ハロウを手伝って草むしりをしていたマロンは、柵の向こうの雌鶏を眺めながら頷いた。
「確かにあの卵は美味しい。餌がいいからかしら」
「うん、よく走っていっぱい食べてるからね。それにちょっとかわいそうだけど卵を産まなくなったら肉にもなるし」
「そうね」
マロンは違う畝に向かったハロウの後ろ姿を見つめ、ずいぶん変わったと今更ながらに驚いた。
食事をしっかりとり、睡眠をとっているハロウはこの半年で身体が二回りほど大きくなったように感じる。
相変わらず痩せ型ではあるけれど、頬はもうこけていない。
顔色も良く、とても元気そうだ。
だが、お給料が出ているというのにハロウは全く出掛けている様子がない。
小さな家と宿屋、そして畑だけが彼の世界だった。
時々給仕に駆り出されるので村娘たちの視線を集めているけれど、浮いた話もない。
何度か夜更けにトール農場の三男がハロウを訪ねて小さな家に入っていくのは見たことがある。
ハロウの話では、三男のライルだけが彼を気にかけて食べ物を融通してくれていたとか。
(ハロウは何が楽しくて生きているのかしら。お酒も飲まないし……買い物もしないなんて)
「ねえ、商店街に行ったりはしないの」
マロンは引き締まった背中に話しかけるとハロウは立ち上がり、振り返った。
「そうだねえ、あんまり欲しいものがないから」
「草むしりばかりじゃないの」
「ハハハ、そうだね。でも草むしりは好きなんだ。本当に小さい頃……引き取られたのが二歳くらいらしいから、きっとその前なんだけど」
「うん」
「多分、母親と草むしりしてた記憶があってね。その時間がとっても好きだった」
マロンは手元の黒い土をすくい上げた。
しっとりとした土は柔らかく、ひんやりしている。
「二歳くらいの記憶なんて私にはないかも」
「それが、多分俺が母親かなって思ってるだけで顔も何も覚えてないんだよね。女の人なのは覚えてるけど……」
「へえ……」
「その後、引き取られたんだと思う」
「それ、トール農場の思い出じゃなくて?」
「うん。思い出の土は赤かった。トール農場の土は黒いから。だから草むしりをしていると、なんだか幸せなんだよ」
ハロウはきっぱりと違うと言い、マロンも納得して頷いた。
この土、このあたりの農場の土は黒っぽいのだ。
「そうだったんだ」
「今もマロンが話し相手になってくれるから、楽しいよ」
「え……そ、そう?」
「うん。あっちでは誰とも滅多に話さなかったし」
「そ、そうなんだ。あ! 私、もう洗濯物取り込まなきゃ。またあとで」
「うん、手伝ってくれてありがとう」
マロンは走る必要もないのに全速力で隣の畑から離脱し、宿屋の裏手で壁に背を預け胸に手を当てた。
「ゼェゼェ……運動不足かしら。ふう、そうね。そうだわ」
動悸が激しいが、これは走ったせい。
顔が熱いのも、走ったせい。
マロンは息を整えながら、目の前ではためくリネン類を眺めた。
しばらくしてエプロンを外してガシャガシャと井戸のポンプを動かし、土だらけのエプロンと手を洗ったマロンは洗濯物を取り込み始めた。
リネン類はどの値段の部屋のものでもきっちりアイロンを当てておくのが、祭鳩亭のルールである。
のんびりしている時間はあまりない。
野良仕事用の洗ったエプロンはしばらく干しておけば夜には乾くだろう。
裏口から畳んだ洗濯物を運び、必要なものにはアイロンを当てていく。
手が空いた母親がやって来て、仕上がったリネン類をきっちり畳んでくれた。
「今朝お貴族様に出した目玉焼きがね」
「うん」
「黄身が二つあって、小さなお嬢様が大喜びだったよ」
「へえ……お貴族様でも当たりだって喜ぶのね」
「伯爵夫人が多めにチップを置いていったよ」
「ハロウの話では若い雌鳥が産む卵はそういうの多いって」
「あんた、最近ハロウの話ばっかりだね」
マロンはアイロンを強くリネンに押し付けた。
「そ、そんなことない!」
「そうかい、まあそういうことにしておこうか」
「違うったら」
「はいはい」
母親はビシッと畳まれたリネン類を持って出ていった。
マロンはアイロンを片付け、父親を手伝うために厨房へ向かった。
夕食の下準備はそれなりに忙しい。
言ってしまえば朝食から夕食まで、近隣の村人も食事をしにやってくるので忙しくない時間帯がない。
泊まり客が使うダイニングと村人が使う食堂は分けられているけれど、共通のメニューは大量の下拵えが必要になる。
下拵えの時間帯は村から手伝いが何人か来ていて、今は数人の奥さんたちが木箱に腰掛けつつ芋の皮を剥いている。
「マロンちゃん、来たのかい」
「うん、まだある?」
「あと二箱」
「うわ、今日は芋が多いのね」
マロンも適当な木箱に腰掛け、小さなナイフを手に取った。
昨日父親が商人から油を買っていたので、人気メニューの芋揚げをするのだろう。
塩を振るだけの芋揚げだが、油が新しい時しか出さないメニューなので、大人気なのだ。
食堂出入口に立ててある看板には芋揚げあり、と書かれている。
芋揚げがある日は子供を連れてくる村人も多いので、奥さんたちは朝から芋を剥き続けている。
ちなみに大量のじゃがいもは、早朝にハロウと一緒に畑から掘り起こして近くの水路でざっと泥を落とし、井戸水で綺麗に洗ったものだった。
(やだ、本当にハロウのことばっかり考えてる)
マロンは顔が熱くなるのを感じて俯いた。
母譲りの豊かな赤毛が顔を隠してくれた。
「マロンちゃんの髪は本当に綺麗だねぇ」
「女将さんより赤いんじゃないかい」
「若いから……見てよ、この艶」
「ほんとだねぇ」
奥さんたちは年を取ったら髪がパサパサすると言って笑い声を上げた。
芋剥きが終わり、マロンは泊まり客用のダイニングの給仕のためお仕着せに着替えた。
食堂の給仕は普段着にエプロンだが、ダイニングでは黒いワンピースにアイロンを当てた真っ白のエプロンをつける。
今日は二人来られなくなったので、ハロウも駆り出されている。
最近黒いお仕着せを母親が仕立てたばかりで、ハロウがダイニングに立つのはまだ三回目だ。
「スープとサラダはハロウが出して。ここに説明が書いてあるから覚えて、出すときに言うだけよ」
「わかりました」
緊張気味のハロウに、母親が指示を出している。
高級店のような説明はしないが、泊まり客には簡単な料理紹介をしてお出ししているのだ。
特にトラブルもなく、食事は進んでいく。
マロンがメインの肉を運んだとき、父に油を納品した馴染みの商人が口を開いた。
「なあ、マロンちゃん。あの青年なんだが」
「はい、なんでしょう」
「いや、知り合いに似ててな。名前は何という?」
「ハロウです」
「そうか。まあ年が全然違うから別人なのはわかるが、昔世話になった人によく似ている」
「そうなんですね」
商人との話はそこで終わり、滞在中にその話が蒸し返されることはなかった。
数週間後、お給料をもらったマロンは友人と中心地にあるちょっと小洒落たカフェに出かけた。
少し離れた席にハンスがいて一瞬目が合ったが、すぐに目を逸らされた。
無関係の他人となった今、マロンから話しかける理由もない。
むしろせっかく美味しいケーキを食べに来たのを台無しにされた気分である。
注文を済ませ、友人のサラと最近会ったことを話しているとハンスの向かいに座っていた女性が振り向き、マロンを不躾に眺め回したあとうっすら笑って再び背を向けた。
金色の髪をしたいかにも貴族令嬢といったドレスを纏っている。
席が離れていたので美人かどうかはわからない。
(失礼な人ねぇ……ハンスにピッタリだわ)
心のなかで毒づきながら、マロンはサラの話に相槌を打った。
「それでね、結局そこで頼むのはやめたの」
サラの家は鍛冶屋で、お兄さんが後を継いだばかりだ。
そんなサラの関心は、もっぱら生まれたばかりの姪っ子のことで、可愛い服をどこで注文するか叔母として悩んでいるといったところだ。
「果樹園のアンナおばちゃんは? 今は何もしてないけれど、王都でお針子してたことがあるって聞いたことあるよ」
「え、そうなの? 引き受けてくれるかしら。聞いてみようかな」
楽しい時間はあっという間に終わり、会計を済ませてサラと別れたあとマロンは商店街をぶらぶらと見て回った。
今日は貴重な休日、のんびり好きなことをして過ごしたい。
陶器屋の店先で、可愛らしいマグカップを眺めていると、背後からいきなり刺々しい声がした。
「ちょっと、そこのあなた」
振り返るとさっきの貴族令嬢っぽい人と、その後ろにハンスがいた。
何事かと思って黙っていると、真っ白な白粉を塗りたくった令嬢が苛立たしげに扇をパチンと閉じた。
「これだから田舎者は。ハンスに未練がましく付きまとうのはおよしなさい。手切れ金は受け取ったのでしょう?」
「え……? 手切れ金? 未練って」
「図々しいわね、さっきだってわざわざつきまといに来たんでしょう」
どういうことかとハンスを見ると、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべている。
「ベティ、マロンは見たまんま田舎者だし、俺に振られてショックなだけですよ」
「それはそうでしょうけど。未練がましく付きまとうのは違うでしょう」
(ハンスに会ったのは破談以来なんですけど……?)
「付きまとってはいませんし、未練もありませんのでご安心ください。思い出しもしてませんから」
マロンはそう言って、返事を待たず足早にその場を後にした。
(なんなのかしら、本当に失礼だわ!)
お貴族様相手に失礼だったかもしれないが、マロンは令嬢に名乗られたわけではないので、多分大丈夫だろう。
知らなかったといえば通るはずだ。
周囲にはたくさんの人がいたし、この国の法律はそこまで平民に無体ではない。
買い物を楽しむ気分はすっかり削がれてしまったので、マロンはふくれっ面のまま帰宅することにした。
「あら?」
宿に戻るとやけに慌ただしい雰囲気だ。
中に入って事情を聞いたところ、急な予約が入って満室になったのだという。
今は祭や収穫期でもないので、満室になることはあまりない時期だ。
七割か八割くらいの客数のはずなのだけれど。
「手伝おうか」
「ああ、マロン。悪いね、十人以上の予約があって。違う日に休暇をあげるから頼めるかい」
「いいよ。着替えてくるね」
マロンは母親の頼みを快く引き受け、着替えるために自室へと向かった。
泊まり客は夕食前に到着することが多い。
今はまだ夕方になる前だから、お客様が来るまでまだ少し猶予がある。
この時間から十室以上の準備は大変だろう。
リネン類は当日に用意するのが母の信念だから。
シーツや枕カバーは掛けて放置すると埃を吸うから、当日に掛けるのだ。
「さーて、やりますか!」
部屋の掃除は泊まり客が来なくても毎朝終わらせてある。
今やるべきことは手分けしてシーツを張り、カバーをかけること。
連泊でも毎日シーツを取り換え、毛布や羽根布団のカバーを掛け換えるのが、祭鳩亭のやり方だ。
安宿とは違うんだからというのが母の言い分であるが、マロンとしてはここしか知らないのでそれが当たり前だ。
家業は年中無休、家族旅行など行ったことはない。
冠婚葬祭で急遽父か母どちらかと遠出することはあっても、連泊の経験がない。
なので、祭鳩亭のやり方がマロンにとっての『普通』なのである。
ハロウはハロウで、急遽使うことになった客室に薪を運び込んでいる。
日中は暖かいが早朝や夜更けは肌寒くなる季節だ。
薪代は嵩むが、ちゃんと宿泊費に乗っている。
これは宿泊時に説明をして、使わなかったお客様には出立時にお返ししている。
暖炉に入れてある、すぐに火をつけられる状態のものが一回分、近くの薪箱に入れられた分が一回分。
どちらも三時間ほど部屋を暖める分量である。
燃え残りがいくらあっても、火が入れられれば一回分としてカウントされる。
燃えさしや煤けた薪は、他のお客様に回せなくなるからだ。
それは厨房に回される仕組みになっている。
「ふう、間に合った。全部終わったわ」
「突然で忙しかったけど、満室なんて嬉しいことだよ。薪も入ったし、水もハロウが水がめを満たしてくれたから思ったより早く終わったね」
母親の言葉に通いのメイドやマロンは頷き、宿泊客が到着するまでの少しの間に休憩を取ることとなった。
「受け入れはマロン、案内は私……部屋の利用についての簡単な説明はメイドのみんなにやってもらうから、それが終わったら帰っていいよ」
村娘のメイドたちは「はぁい」と返事をし、賄いのパイの切れ端を楽しんだ。
父親はいつも端を落とすとき、大きく切ってくれる。
おかげで端と言ってもちゃんと具が入っていて、食べ応えがある。
受付用のグレーの白襟ワンピースに着替えたマロンは、鏡の前で髪を簡単に結い上げた。
記帳と料金をいただくだけなので、エプロンは無しだ。
白い襟に汚れがないか再度チェックして、マロンは受付台の前に立った。
「いらっしゃいませ、ようこそお越しくださいました」
予約名簿と照らし合わせ、サインをいただき支払いを受ける。
だが油断は禁物だ。
いつかの商人もそうだが、前もってまとめた預かり金を置いていくお客様もいる。
そういうお客様は預かり金から引いておくだけだが、間違っても二重請求にならないようにしなくてはいけない。
帳面にも領収書にも預かり金から差し引き、と書かなければ後から大変なことになってしまうのだ。
一度やらかしたことのあるマロンは、慎重に受付を進めていった。
「これで頼む。十二名、三泊」
最後の団体客──当日予約のお客様が硬貨の入った革袋をドスっとカウンターに乗せた。
「十二名様ですね、ありがとうございます」
革袋には銅貨や銀貨を含め、三日分ピッタリの金額が入っていた。
「お部屋の説明はメイドが致します。薪が用意してありますが、使われなかった分は使用量を見てお帰りの際に差額をお返しします。薪の料金は暖炉横に記載してあります」
「おう、わるいな」
「領収書はどのように書きましょう」
「白楼傭兵団と」
「まあ! 竜殺しの白楼傭兵団」
「すごーい!」
「悪いな、娘さんたち。今回はおっさんしか来てないんだ。今度は若いのも連れてくるからよ」
「キャー、嬉しい!」
通りがかったメイドたちが黄色い声を上げた。
白楼傭兵団はマロンが生まれる前、王国を襲った白龍を討伐した有名な傭兵団である。
その人気たるや、王国の騎士団と引けを取らない勢いだ。
女将の視線で黙った村娘たちは現金なもので、ウキウキとメイドの仕事に戻っていった。
(近くで魔物がでたという話もないし、有名傭兵団がこの村に三連泊ってなんの用なのかな)
マロンはきちんと白楼傭兵団様と書き入れ、宿の印章を押して代表者に手渡した。
本人が言ったように、男性たちはみんなマロンの父親と同じか少し上の者ばかりだ。
数十人規模の傭兵団が動くにしては、人数も少ないし、なんだか偏った人選のように見える。
(詮索しても仕方ないわ、受付はこれで終わり。後はきちんと帳簿をつけたら給仕のお手伝いをしなくちゃ)
幸い、数字に間違いはなくマロンはお仕着せに着替えてダイニングへと向かった。
傭兵団の目的が判明したのは、二日目の夜だった。
急な欠員で給仕に駆り出されたハロウを見て、全員が勢いよく立ち上がったからだ。
「ハロルドだ」
「ハロルド」
「絶対ハロ坊だ」
「おお……ジュピターそっくりじゃねえか」
「生きてると俺ぁ信じてた!」
「青紫の髪だ、間違いねえよ」
前日も今日も、傭兵団は何かを待つように最後に食事に降りてきた。
他のお客様はすでにお部屋に戻っていたので彼らが多少騒いでも問題ではないのだが、ハロウは目を白黒させ、固まっている。
「あの、いったい……」
困惑したマロンの声に、女将が先に我に返った。
「孤児のこの子を知っているんですか? もし知り合いなら──」
「知ってるも何も、前の団長の忘れ形見だよ」
もじゃもじゃ髭の大男が涙ぐんで呟いた。
「ハロルドが三歳になったくらいに白龍が襲撃してきて、母親はその少し前に病気で亡くなってて」
「前の団長がアウローラの村の女に金を払ってハロルドを預けて討伐に──」
「前団長がとどめを刺したけど、傷が大きくて助からなくて」
「俺達はせめてハロルドだけは真っ当に育てるつもりで村に迎えに行ったら、ハロルドも女もいなくて」
「何ヶ月かしてようやく見つけたと思ったら、捨てたとほざきやがって……」
傭兵団は一斉に喋りだし、収拾がつかなくなった。
騒ぎを聞きつけた父親が顔を出し、意外なことに傭兵たちを落ち着かせ、話を整理し始めた。
「つまり、あなたたちはずっと探していたと……前の団長のお子を」
「ああ、ずっと探していた」
「ですが、俺の名前はハロウです。ハロルドではありません。俺を拾ったシスターから聞いてます。自分でハロウと名乗ったんだよって。小さかったので二歳くらいだったと……」
「そりゃあアレだろ、みんなハロ坊とかハローって呼んでたから……」
「いいやお前は絶対ハロルドだ。ジュピターそっくりじゃねえか。その髪は珍しいし、目の色だって俺の妹のアンナにそっくり……ウウッ」
今の団長さんが泣き始めた。
「なるほど。前団長の忘れ形見であり、あなたの甥でもあると」
マロンの父親は落ち着いた声で繰り返した。
「そうだ! ハロ坊にはケツに赤いアザがあったはず!」
「あったあった、蝶みたいな形で右羽の上にホクロが──」
「左ケツだぞ!」
傭兵たちがまた騒がしくなった。
父親が手を上げ、傭兵たちを黙らせた。
「ケツ……いえ、尻のアザは今私が確認してきますから、話はそれからです」
ハロウはマロンの父親と別室にいき、すぐ戻ってきた。
「アザもホクロもありました。左尻に」
ハロウは自分の尻情報を公開され、なんとも情けない顔をしている。
マロンはそれがおかしくて笑い声をあげた。
それを皮切りに、場はお祝いムード一色になった。
大声を出さない約束で、母親がワインの小樽を提供した。
ハロウは傭兵たちの間に座らされ、質問されたり泣かれたりで忙しそうである。
母親が下がっていいと言ったので、マロンは自室に戻って寝支度を始めた。
ベッドに入っても、寝付けない。
(ハロウは……傭兵さんとおじさんと一緒に行ってしまうのだろうか)
孤児だと思ってたのに、探してくれてる身内がいたなら一緒に行くほうが自然だよね。
捨てた女性が他国で預かった子を捨てたと言ったせいで、傭兵団は国内ではハロウを探さず他国で捜索していたようだ。
(きっとハロウはそのほうが幸せなんだ。でも)
でも、の続きは考えたくない。
それを認めてしまったら、恋と同時に失恋してしまう。
(…………でも)
行ってほしくはない。
マロンはギュッと目を閉じ、眠気が訪れるのを待った。
翌日、ハロウは休みをもらって傭兵さんたちと過ごし、昼過ぎからどこかに一緒に出かけていた。
その間、マロンはいつも通り働いた。
四日目の朝、来たときと同じように白楼傭兵団は騒がしく出立していった。
遠くの畑にいるハロウは、いつものように草むしりをしている。
(ついていかなかったんだ……良かった)
マロンは少しホッとした自分がとても身勝手な気がして俯いた。
(真面目だから急に辞めるのは嫌だったのかも。そのうちやっぱり叔父さんのところに行くのかな)
いつもなら草むしりの手伝いに行くマロンだが、今日は足が進まない。
結局畑には背を向け、振り替えてもらった休日だったので二度寝をすることにした。
「ううん、寝過ぎちゃった。首が痛い」
昼過ぎに目を覚ましたマロンは、大きなあくびとともに伸びをした。
なんとなく窓辺に寄って宿の前の通りを眺める。
小さい頃から好きだった景色だ。
馬車の優しいガタゴトという音、雑踏のざわめき。
時折道を渡っていく猫。
「うわ、ハンスじゃん」
トール農場の主人と息子のハンスが宿に向かって来ている。
マロンの部屋の真下を通り、裏口へと向かったようだ。
(どうせろくでもない用事よ、きっと)
階下に向かうと、厨房の前に母親がいた。
「お察しの通り、ハロウに帰ってこいってさ」
母親は呆れたように肩をすくめた。
「帰るも何ももう無関係なんでしょ」
「養子縁組解除してるからね。あと、アンタとよりを戻してやっても良いってさ」
「は?」
母親がくすくすと笑い始め、奥様ネットワークから仕入れた噂を話し始めた。
子爵令嬢の名前はエリザベスと言うのだが、そのエリザベス嬢は王都で何かやらかして『静養』に来ていたらしい。
子爵はハンスとエリザベスを急いで結婚させようとしていたようだが、先日立派な紋章付きの馬車が来た後、エリザベス嬢はあっという間に修道院に連れて行かれてしまったらしい。
エリザベス嬢は王都に大量の手紙を送っていたらしく、高位貴族の機嫌を損ねたのでは? と言うのがもっぱらの噂だ。
「修道院ねぇ……」
「厳しいと評判の北の修道院らしいよ」
「ふうん。でも私は関係なくない?」
「ハンスはあのお嬢さんと持参金たっぷりで所帯を持つ気だったらしいけど、当てが外れたんだろうね。まあ、お父さんが追い払ってくれるよ」
「もう八ヶ月、ううん九ヶ月経ってるのよ。はいそうですか、うれしいって言うと思ってるのかしら」
「思ってそうだねえ、あの家なら」
数日後、新しい油が来たので芋揚げの日がやってきた。
マロンは久しぶりにハロウの畑に行き、一緒に芋を掘った。
「久しぶり」
「うん、久しぶり」
ハロウの声も話し方もいつも通りだ。
「今日は昼間の芋揚げを任せてもらえることになったんだ」
「そう……え?」
「あれ、知らなかった? 最近厨房に入ってるんだけど」
「厨房によくいるとは思ってたけど、え? どういうこと」
「何回か料理を見てもらってて、料理をやらないかって」
「お父さんが?」
「うん。料理の才能がありそうだって」
「じゃあ、ハロウは出ていったりしない……のね?」
唐突な質問に、ハロウは首を傾げた。
それから少し微笑んで、返事をした。
「ああ、叔父さんには誘ってもらったんだけどね。俺はここが好きだから」
「好き、だから……」
「うん、みんな親切だし自分の家もあるし。ただ、トール農場のことがあるから役場に行って叔父さんが養子縁組してくれてさ」
「そんなにすぐ出来るものなの?」
「解除のときは関係者はみんな顔見知りだったし、今回は白楼傭兵団の団長って肩書きが強くて、すぐ手続きしてもらえたんだ。俺のことは元々役場の人も知っていたし」
「なるほど、そうだったのね」
「こないだトール農場の人たちが来ただろう」
マロンはゆっくり相槌を打った。
「ええ」
「あのとき、俺も厨房にいたんだよ」
ハロウが笑いを堪えて喉を鳴らした。
「ああ、ハロウに帰ってこいって言ったって聞いたわ」
「そうそう、その代わりハンスが婿に入ってやるからって」
「いらないわ」
「ブフッ、親父さんが塩一袋全部あの親子の顔面にザーッと」
「やだ、見たかったわ」
「玉ねぎの皮より役に立たない婿なんて願い下げだーっ! てね」
「あら。玉ねぎの皮は良い出汁が出るし、染め物も出来るからハンスより有能だわ」
「確かに」
なんとなくぎこちなかった雰囲気は消え失せ、マロンはまた楽しくハロウと他愛のない話を楽しんだ。
(ハンスのこと、当時は好きだと思っていたけれど……好きって本当はこんなにハラハラドキドキするものだったのね)
どうやら、そう思い込んでいただけでハンスへの気持ちは恋愛以前だったようだ。
(あの頃の私は、恋してる自分が好きだっただけなのかも)
ハンスのことは今更考えても仕方ない。
マロンの中ではすでに終わった過去の人だ。
二人は井戸水で洗い終わったジャガイモを厨房に運び入れ、奥さんたちと皮むきに取り掛かった。
芋揚げの日のジャガイモの皮は食べるのに向かない部分は別に分けられている。
綺麗な物は水に晒し、水分を布で取ったあとカラリと揚げられて賄いのおやつになる。
少し大地の香りがするパリパリの皮はとても美味しくて奥さんたちが絶賛している。
オーブンに並べてオリーブオイルを回し掛け、焼くこともある。
ジャガイモの皮も役に立つのだ。玉ねぎの皮と同じくらいに。
◆
──トール農場がいよいよ駄目らしい。
そんな話を聞いたのはそれから数ヶ月ほど経った頃だった。
母親と近所の奥様たちからの伝聞だけれど。
「今度は何をやらかしたの?」
「畑が駄目になったんだとさ」
母親は呆れたように肩をすくめた。
「畑?」
「野菜がまともに育たなくなったらしいよ」
「ええっ、あんなに広い農場なのに?」
トール農場はヨウール村で一番大きな農場だ。
野菜の品質が落ちたとは聞いていたが、育たなくなったとは初耳である。
「市場の人から聞いたんだけどね、なんでも土が駄目になったんだってさ。肥料を入れても思うように育たないらしいよ」
「へえ……」
マロンには農業の詳しいことはわからない。
ただ、ハロウが毎日のように畑を見回り、土を触ったり匂いを嗅いだりしているのは知っている。
「ハロウに聞いてみようかしら」
「そうだね。あの子なら何かわかるかもしれない」
ちょうど昼食を取りに来たハロウに話すと、彼は少し考え込んだ。
「多分、土が疲れちゃったんだろうな」
「土って疲れるの?」
「うん。同じ場所で何度も野菜を作ってると、土の中の養分が偏ったり、病気が出やすくなったりするから」
「へえ」
「だから俺は肥料を作って入れたり、植えるものを変えたりしてたんだけどね」
「そうだったの」
「うん。トール農場はずっと同じ畑を使ってたから、結構大変だったんだ。俺の意見なんて聞いてもくれなかったし」
ハロウは何でもないことのように言った。
「俺がいなくなってから、肥料も変えず適当なことしてたんじゃないかな」
「さあ……」
「畑を休ませれば少しずつ良くなると思うけど、広いからなあ」
ハロウはそこで話を終え、昼食のスープを飲み始めた。
マロンはしばらく彼を眺めていた。
あれだけ大きな農場を支えていたのは、どうやらハロウだったらしい。
本人はそんなこと、少しも自慢しないけれど。
それから数日後、トール農場の主人が祭鳩亭にやってきた。
「ハロウを呼んでくれ」
受付に立っていたマロンは、思わず眉を寄せた。
「何のご用でしょう」
「いいから呼べ。畑のことで聞きたいことがある」
「ハロウは仕事中です」
「少しくらいいいだろう。うちで育ててやったんだぞ」
「…………」
マロンは返事をせず、母親を呼んだ。
事情を聞いた母親は、表に出てきてにっこり笑った。
「畑のご相談ですか。それなら仕事としてお受けしますよ」
「は?」
「ハロウは今、近隣の農家さんからも相談を受けておりますので。料金については本人とご相談ください」
「何を馬鹿なことを! あいつはうちの息子だったんだぞ!」
「昔は、でしょう?」
母親は笑顔を崩さなかったが、マロンには分かっている。
母親がこんな声音の時は、すごく怒っている時なのだ。
「養子縁組はそちらから解除なさったんですよね」
「それは……」
「今のハロウは白楼傭兵団の団長さんのご子息ですから。ご相談でしたら、きちんとお仕事としてお申し込みくださいね」
トール農場の主人は顔を真っ赤にした。
「このっ……。あいつは……恩知らずだ!」
「あら、どなたのことです?」
母親が首を傾げた。
「ずっと働かせて、お給料も払わなかったそうじゃありませんか」
「食わせてやった!」
「そうですか。では、もうお話はありませんね」
母親は用もないのに音を立てて受付の帳簿を開いた。
「次のお客様がお見えになりますので、お引き取りください」
主人は何か言いかけたが、結局そのまま帰っていった。
ハロウが『適当なことをしていたんじゃないか』と言ったその言葉が正しかったとわかったのは、秋の収穫期を迎えてからだった。
トール農場では、売り物になる野菜がほとんど採れなかったのである。
量が少ないだけならまだよかったのだが、形が悪く、育ちきらず、病気の出たものも多かったという。
奥様ネットワークによると、慌てて肥料を大量に入れた畑では、かえって野菜が傷んでしまったのではないかという話だ。
そして、トール農場の夫妻やハンスたちが豪遊していたツケが回ってきた。
収穫を当てにしていた借金の返済日がやってきたらしい。
「なんでも、質の悪い金貸しから借りてたらしいよ」
母親が教えてくれた。
「金貸し?」
「子爵令嬢との結婚で持参金が入るからって、土地を担保にして借りてたんだとさ」
「ええっ」
マロンは思わず声を上げた。
「持参金って結婚した時に持っていくものよね?」
「普通はね。結婚自体、口約束だけだったらしいよ」
「…………」
「子爵様は結婚させるおつもりだったらしいけどね。正式な契約を結ぶ前に、お嬢様が修道院送りになっちまったから」
「それで借金だけ残ったの?」
「そういうこと」
母親は呆れ果てた顔で頷いた。
ハンスとその両親は子爵家と縁続きになるのだからと高価な衣服や宝飾品を買い込み、農地を三男に丸投げし王都でも随分と散財していたらしい。
三男は先日農場から逃亡した。
何故マロンがそれを知っているかと言うと、ライルをこの地から逃したのがハロウだからだ。
「ふうん」
農場の収入が落ちても、持参金でどうにかなると思っていたのだろう。
だが結婚も収穫もなくなり、借金だけが残ったのである。
「それで、どうなったの?」
「金貸しが土地を差し押さえるんだとさ」
「農場全部?」
「担保に入れた分はね。あとは家財道具も売って返すことになるんじゃないかい」
「…………あらまあ」
マロンはそれ以上、何も言えなかった。
数日後、トール農場の親子が揃って祭鳩亭にやってきた。
今度は母親もハンスも一緒である。
「ハロウ! ハロウはいるか!」
大声に驚いて受付から顔を出すと、三人は真っ青な顔をしていた。
奥方の衣服は高級そうで宝石をじゃらじゃら付けていたが、なんとなく薄汚れている。
「何事ですか」
「ハロウを呼んでくれ! すぐ!」
「ですから、何のご用でしょう」
「畑を何とかしてもらわなきゃ困るんだ!」
「そうよ、なんとかしてよ」
トール農場の主人は受付台に両手をついた。
「今すぐ来てくれれば、また家に置いてやる! 飯もちゃんと食わせてやるから!」
「…………」
マロンはしばらく主人を見つめた。
「お給料は?」
「は?」
「ハロウにお仕事をお願いするんでしょう。お給料はいくらですか?」
「家族なんだからそんなもの──」
「家族じゃありませんよ」
背後から声がして振り返ると、厨房から出てきたハロウが立っていた。
厨房用の白いエプロンをつけ、袖を肘まで捲っている。
「ハロウ! こそこそ隠れやがって」
「お前、帰ってこい! 今ならまだ間に合う!」
「何がですか?」
「畑だよ! お前ならどうにかできるだろう!」
「そうよ、今までやっていたでしょ! 簡単なことじゃないの!」
ハロウは少し困ったように眉を下げた。
「無理ですよ」
「なっ……」
「今からじゃ、次の収穫期まで立ち直れないんじゃないかな」
「そこを何とか!」
「土を休ませて、状態を見ながら少しずつ戻していくしかないと思いますよ」
「どれくらいかかる!」
「畑によりますけど……一年で元通りになるとは限りません」
「それじゃ困るのよ! 何とかしなさいよ!」
奥方が金切り声をあげ、トール農場の主人の顔から血の気が引いた。
「そ、そんな……」
「俺がいなくなってからどういう管理をしていたのかも、見ていないからわかりませんし」
「お前がちゃんと教えていかなかったからだろ!」
ハンスが怒鳴った。
「お前がいなくなったせいで、うちはこんなことになったんだぞ!」
「そうだぞ! ハロウがちゃんとやってれば!」
マロンは呆れて口を開きかけたが、その前にハロウが静かに言った。
「毎日、畑を見て、草を抜いて、虫を取って、肥料を作って。作物の様子を見て、植える場所も考えてました」
「だから、それを──」
「俺の畑じゃないのに、やる必要がどこに?」
「今まではやっていただろう!」
ハロウは穏やかに話し始めた。
「今は祭鳩亭の畑と、頼まれた農家さんの畑を見ています。厨房の仕事もありますし」
「そんな小さな畑より、うちの農場のほうが大事だろう!」
「俺には、他人の畑より今の仕事のほうが大事です」
きっぱりとした返事にトール農場の主人は口をぱくぱくさせた。
「お、お前……誰のおかげで大きくなったと思ってる!」
「さあ」
ハロウは首を傾げた。
「少なくとも、ここに来てからのほうがずっと大きくなりましたけど」
マロンは思わず吹き出した。
(確かにそう……)
祭鳩亭に来た頃のハロウは、頬がこけ、服の袖から覗く腕も細かったが今はすっかり逞しくなっている。
「そ、それは……!」
「それに今の父はここにいていいと言ってますし」
「それとこれとは話が違うだろう!」
ハロウはにっこり笑った。
「困ったことがあったら、今の父に相談するように言われてますから」
そのとき、今まで黙っていたハンスがマロンに向き直った。
「マロン!」
「…………なに?」
「俺、考えたんだ」
「何をよ」
「やっぱり俺たち、結婚するべきだと思うんだよ」
「…………は?」
マロンは思わず間の抜けた声を上げた。
「ほら、俺たち幼馴染だし。もともと結婚する予定だっただろ?」
「あなたが破談にしたんでしょう。もう一年も前の話じゃないの」
「それはそうだけどさ。もうベティもいないし」
「…………」
「俺、今度こそちゃんと婿入りするから」
ハンスは妙に自信ありげに胸を張った。
「もう貴族令嬢なんかに目移りしないって約束するよ」
マロンはしばらくハンスを見つめた。
何故マロンがまだハンスと結婚したいと思っていると思うのか、不思議としかいいようがない。
「…………それで?」
「え?」
「だから、どうして今更私があなたと結婚すると思ったの?」
「だって、マロンは俺のこと好きだっただろ?」
「昔はね。仲も良かったしそう思ってた」
「だったら!」
「でも今は好きじゃないわ」
きっぱり答えると、ハンスは目を丸くした。
「えっ」
「それに、あなたが婿入りして何をしてくれるの?」
「何って……」
「料理はできる? 帳簿や人員管理は?」
「…………」
「お客様の応対は?」
「そんなの女の仕事だろ!」
「じゃあ、薪割りや水汲みは?」
「下働きの仕事じゃないか!」
ハンスの声は大きくなっていき、その両親はウンウンと頷いている。
「じゃあ、あなたには何ができるの?」
「…………」
ハンスは黙り込んだ。
「うちは宿屋なの。婿に来るなら、家業を一緒に支えてくれる人じゃないと困るわ」
「で、でも、俺は見た目だっていいし!」
「見た目でお客様のお腹は膨れないわ。それにハロウの方がかっこいいじゃないの」
背後で母親が吹き出し、ハンスがハロウを睨みつけた。
「ハロウなんか、うちじゃ役立たずで馬小屋に寝てたんだぞ!」
「知ってるわ」
「使えない奴より俺のほうがいいだろ」
「あなたたちが家族として認めずに馬小屋に寝かせていたんでしょう?」
「…………」
「うちではちゃんとお部屋があったし、今は自分の家もあるわ。お給料だって払ってる」
マロンはハロウを見た。
「野菜も育ててくれるし、お料理もできるし、お客様にも親切だし」
「…………」
「何より、一緒にいて楽しいもの」
ハロウが目を丸くしたが、その瞬間マロンは自分が何を言ったのか気がつき顔が熱くなった。
「と、とにかく! あなたと結婚する気はありません!」
「そんな……」
ハンスは呆然としている。
「俺、これからどうすればいいんだよ……」
「働けばいいんじゃない?」
「えっ」
「お仕事を探したら?」
「農場がなくなるんだぞ! そいつのせいで──」
「ハロウは関係ない」
「何もかも失うんだぞ、俺達は」
マロンは首を傾げた。
トール農場の人たちが身を持ち崩したのはわかるが、ハロウは全く関与していないではないか。
むしろ着の身着のまま追い出したのは彼らのほうだ。
「ハロウだって、ここに来たときは何も持ってなかったわよ」
「…………」
「でも、毎日ちゃんと働いて、今は自分の家もあるもの」
ハンスは何も言えなくなった。
そこへ、厨房から父親が顔を出した。
「おい、マロン。何をやってるんだ」
「あ、お父さん」
「芋揚げができたぞ。お客様がお待ちだ」
「はーい!」
マロンは振り返った。
「そういうことなので、お引き取りください」
「マロン!」
「お元気で」
マロンはハンスに背を向けた。
後ろでハンスたちが何か言っていたが、もう関係ない。
後は母親に任せて給仕に行かなくては。
結局その後、トール農場の土地は金貸しに差し押さえられ、売りに出された。
土の状態が悪いため買い手はなかなかつかず、結局かなり安く買い叩かれたらしい。
それでも借金は返しきれず、奥方は僅かな現金を持って出ていき、主人とハンスは農場を手放して王都へ働きに出たという。
マロンがその話を思い出したのは、ハロウと一緒にニンジンを収穫していたときだった。
「ハンスたち、王都に行ったんですって」
「そうなんだ」
ハロウはニンジンについた土を軽く払いながら頷いた。
「仕事が見つかるといいね」
「そうね」
マロンは頷いた。
ハンスのことは、もうどうでもいい。
それよりも目の前のニンジンのほうが大切だ。
「わあ、立派!」
「今年はいい出来なんだ」
「本当ねえ。これならお父さんも喜ぶわ」
「うん。来年はもっとよくなると思うよ」
ハロウは嬉しそうに笑った。
マロンはその笑顔を見つめ、なんだか胸が温かくなった。
「ねえ、ハロウ」
「うん?」
「私ももっと畑のこと、教えてもらおうかな」
「いいよ。何から知りたい?」
「そうねえ……まずは美味しいニンジンとジャガイモの育て方から!」
「ハハハ、じゃあ明日から一緒にやろうか」
「うん!」
マロンは大きなニンジンを受け取り、しげしげと眺めた。
「明日の朝、残りも収穫するの?」
「そうだね。マロンが手伝ってくれるなら嬉しいな」
「もちろん!」
「ありがとう。マロンが一緒だと楽しいから」
「…………っ」
不意打ちを喰らい、マロンはニンジンを抱え直した。
この人は、どうしてこういうことを平気で言うのだろう。
「そ、そういえば、ハロウってお休みの日も畑にいるわよね」
「そうだね。ほかにあまりすることもないし」
「たまには街に出かけたりしないの?」
「うーん……」
ハロウは少し考え込んだ。
「マロンは休みの日、何をしてるの?」
「私? 友達とお茶を飲みに行ったり、お買い物したり……」
「楽しそうだね」
「楽しいわよ」
「じゃあ、今度一緒に行こうよ。駄目かな?」
「だ、駄目じゃないわ!」
思ったより大きな声が出てしまった。
ハロウは少し驚いた顔をしたあと、嬉しそうに笑った。
「よかった。じゃあ、休みが一緒だった時にでも」
「う、うん」
マロンは再びニンジンを抱え直した。
心臓がうるさい。
「そうだ、マロン」
「な、なあに?」
「俺、ずっと思ってたことがあるんだけど」
「うん……?」
ハロウは珍しく言い淀んだ。
それから、自分の首の後ろを掻いた。
「マロンって、笑ってるとすごく可愛いよね」
「…………え」
「初めて会ったときから、そう思ってたんだ」
マロンは固まり、頭の中が真っ白になった。
指先だけがプルプルと震えている。
「だから、あの……」
ハロウは少し照れくさそうに笑った。
「今度の休みは、二人だけで出かけたいんだけど。いいかな」
「…………」
「マロン?」
「…………うん」
ようやく返事をすると、ハロウはホッとしたように笑った。
「よかった」
その笑顔があまりにも眩しくて、マロンは思わず俯いた。
腕の中には大きなニンジン、それに負けないほどお互いの顔は真っ赤。
何だかとんでもなく間抜けな姿だと思う。
「…………デートよね?」
小さな声で尋ねると、ハロウは少し目を丸くした。
それから、ゆっくり頷いた。
「うん。デートのつもりで誘ったんだけど」
「…………っ!」
マロンはニンジンを落としそうになった。
ハロウが慌てて手を伸ばし、マロンの手ごとニンジンを支える。
「ご、ごめん!」
「うん……」
大きな手が、マロンの手を包んでいる。
ハロウはニンジンを受け取ると、空いたほうの手を差し出した。
「じゃあ、約束」
「…………うん」
マロンがそっと手を重ねると、ハロウは優しく握り返した。
土仕事で硬くなった、大きな手だった。
でも、驚くほど温かい。
「マロン」
「なあに?」
「楽しみにしてる」
「…………私も」
二人は顔を見合わせ、なんとなく笑った。
祭鳩亭の厨房から、父親がマロンを呼ぶ声がする。
もうすぐ夕食の仕込みが始まる時間だ。
「行かなきゃ」
「うん」
それなのに、ハロウは手を離さない。
「…………ハロウ?」
「もうちょっとだけ」
ハロウが照れくさそうに笑う。
「こうしててもいい?」
マロンは真っ赤になりながら、小さく頷いた。
厨房から、もう一度父親の声がした。
「おおーい! ニンジンはまだかー!」
「い、今行くー!」
二人は慌てて手を離した。
ハロウが笑い始め、マロンもつられて笑った。
明日のニンジンの収穫も、次のお休みも。
なんだか、何もかもが楽しみになってきた。




