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偽聖女は停戦文書を届けたい

作者: 阿久屋 九零乗
掲載日:2026/09/17

 死にかけた人間を拾うのは、捨てられた財布を拾うより面倒だ。財布なら持ち主を探すか懐へ入れるかで済むが、人間には水と手当てと事情の説明が要る。


 街道脇の斜面を下りたミラは、その面倒を背負い込んだことを早くも後悔していた。白い外套の女は倒木にもたれたまま浅い息を繰り返し、脇腹から流れた血が銀糸の刺繍を黒く汚している。近くには車輪の外れた馬車が転がり、御者と護衛らしい男たちはすでに息絶えていた。


「聞こえる? 返事ができるなら名前と、刺した奴がまだ近くにいるか教えて」


「エリアーヌ……追っ手は、分かりません。あなたは?」


「ミラ。通りすがりの冒険者よ。運が悪かったわね。お互いに」


 傷口へ布を押し当てるとエリアーヌは痛みに顔をゆがめた。それでも首から下げた銀の聖印を握り、弱い光を傷へ流し込んでいる。治癒術を使えるなら放っておいても助かるかもしれないと考えたが、その期待はすぐに消えた。


「毒を受けました。治癒では追いつきません。馬車の床に革筒があります。それを王都のヴィクトル陛下へ届けてください」


「嫌よ。私は薬師じゃないけど、町まで運ぶくらいはできる。届け物は元気になってから自分でなさい」


「合意書が届かなければ明後日の夜明けに総攻撃が始まります。前線の兵だけではありません。国境の三つの町が巻き込まれます」


 革筒には両国の紋章を重ねた封蝋があり、素人目にも町の配達札とは違う。エリアーヌの説明によれば両軍の司令官はすでに停戦へ合意しており、残るのは国王の批准だけだった。しかし伝令の到着が遅れれば合意は破棄されたと見なされ、ローデン軍は予定どおり進軍するという。


「そんな大事な物を、偶然通りかかった女に預ける?」


「馬車を見つけて逃げずに下りてきた方です。傷を見て荷物だけ奪うこともしなかった。ほかに選べる方がいるなら比べました」


 褒められた気はしなかった。候補が一人しかいない採用試験など試験とは呼べない。それでも明後日の夜明けという言葉を聞いたあとで立ち去れば、次に眠るたび三つの町が夢へ出てきそうだった。


 ミラは馬車から革筒を拾い、横倒しになった座席の下で小さな鞄も見つけた。中には教会発行の通行状と薬瓶が収められている。薬瓶の印を確かめたエリアーヌは解毒薬だと答えたが、一人では栓を抜く力も残っていない。


「これを飲ませたら何時間で歩ける?」


「毒が抜けるまで丸一日は必要です。王都へは早馬でも一日半。私を連れていけば間に合いません」


「なら近くの村へ運ぶ。生きていたらあとで代金を払いなさい。聖女様なら踏み倒さないでしょう」


 エリアーヌを背負って林道を進むと、一刻ほどで炭焼き小屋が見つかった。老夫婦へ金貨を渡して事情を伏せたまま看護を頼み、ミラは水と食料を補充する。別れ際にエリアーヌは聖印と白い外套を差し出した。


「王都の検問は軍と教会が共同で管理しています。和平使節の聖女でなければ御前会議まで通してもらえません」


「これを着て聖女のふりをしろと? 先に言っておくけど、私は祈りの文句を一つも知らないわよ」


「病人には祝福を求められます。額へ手を置いて『白き冠の慈悲が共にありますように』と唱えてください。治してほしいと頼まれたら、王命を優先して力を温存していると答えれば通せます」


「聖女ってずいぶん便利な言い訳を持っているのね」


「それを本人へ言った方は初めてです」


 エリアーヌは血の気を失った顔で笑った。ミラは外套を受け取り、自分の革鎧がなるべく見えないよう前を合わせる。丈が短く脛までしか隠れなかったが、聖女にも背の高い者くらいいるだろう。


 生きて王都へ着けば詐称の罪で牢へ入れられ、失敗すれば追っ手に殺される。どちらにもならない第三の道を探しながら、ミラは街道へ戻った。


     ◇


 追っ手は日が沈む前に現れた。三騎の男が後ろから迫り、先頭の一人が教会騎士の徽章を掲げて道を空けるよう命じてくる。


「王都大聖堂の命令だ。聖女エリアーヌを保護する。馬を止められよ」


 ミラは振り返らず手綱を引き、乗ってきた栗毛馬を街道脇の細道へ向けた。保護を命じられた騎士が背後から弓を構えるはずはない。風を切った矢が白い外套をかすめた瞬間、馬腹を蹴って林の中へ駆け込む。


 一本道では三人を振り切れないが、木々の間なら騎馬の利点を潰せる。ミラは沢の手前で馬から飛び下り、鞍を叩いてそのまま走らせた。自分は水へ入って足跡を消し、倒木の陰で追っ手が二手に分かれるのを待つ。


 一人目が沢へ下りたところで背後から膝を蹴り、口を塞いで剣の柄を首筋へ叩き込んだ。二人目は物音を聞いて引き返したが、狭い斜面では長剣を振り回せない。ミラは相手の手首を短剣で裂き、落とした剣を沢へ蹴り落とした。


「誰の命令?」


「異端者め。聖女を名乗れば天罰が下るぞ」


「本物を殺しかけた奴が天罰の心配をしてくれるの? 親切ね」


 男の顔から強がりが消えた。ミラが偽物だと見抜いたのではなく、初めから馬車襲撃の事情を知っている。問い詰めようとしたところへ三人目の矢が飛び、捕らえた男の胸を貫いた。


 ミラは倒れた男を盾にして林の奥へ転がり込む。矢を放った騎士は追わず、仲間の馬を回収して街道を引き返した。死んだ男の懐を探ると大聖堂の通行証と、白曜石の指輪を押しつけた命令書が出てきた。文章は馬車の回収と使節の保護を命じているだけだが、末尾には「革筒は封を保ったまま焼却せよ」と追記されている。


「保護って言葉の意味を、教会は辞書から引き直した方がよさそうね」


 命令書を革筒と一緒に鞄へ押し込み、逃げた馬の代わりに騎士の馬を奪う。死者への窃盗は趣味ではないが、いまさら一つ罪が増えても大差はなかった。


 翌朝には王都東門の尖塔が見えた。門前には避難民と荷馬車が列を作り、検問の兵士たちが通行証を一枚ずつ確かめている。ミラが聖印を掲げると教会の助祭が駆け寄り、泥と血で汚れた外套を見て息をのんだ。


「エリアーヌ聖女様、ご無事でしたか。ガスパール司祭が案じておられます。すぐ大聖堂へご案内いたします」


「先に王城へ向かいます。陛下へ直接お渡しする物がありますので」


「司祭の許可なく御前へ出ることはできません。まず傷の手当てを」


 助祭は丁寧に頭を下げながら馬の轡をつかんだ。周囲の兵士は教会内部の話だと思って口を挟まない。ここで強引に突破すれば偽物だと騒がれ、城門までたどり着く前に拘束される。


「白き冠の慈悲が共にありますように」


 ミラは助祭の額へ手を置き、教えられた文句を唱えた。不意を突かれた助祭が轡から手を離す。その隙に馬を進ませると避難民たちが次々に膝をつき、兵士まで慌てて道を空けた。


「聖女様、私の娘にも祝福を!」


「申し訳ありません。王命を優先して力を温存しています。白い冠の、その……慈悲は皆さんと一緒です!」


 教えられた文句を早くも間違えたが、避難民からは感極まった声が上がった。訂正する時間はない。ミラは馬上で片手を上げたまま門を抜け、自分が何に手を振っているのか考えないことにした。


     ◇


 王城へ着くころには聖女帰還の知らせが先回りしていた。衛兵は疑いもせず正門を開き、ミラを御前会議が開かれている白銀の間へ案内する。広間には国王と重臣たちが集まり、その右手には純白の祭服を着たガスパール司祭が立っていた。


「よくぞ戻られました、エリアーヌ。負傷したと聞き心を痛めておりました」


 司祭は両手を広げて歩み寄り、慈愛に満ちた笑顔を見せた。右手には命令書と同じ形の白曜石の指輪が光っている。


「ご心配をおかけしました。ですが先に陛下へお渡しする物がございます」


「旅の疲れで判断が鈍っておられるのでしょう。聖女を休ませて差し上げなさい」


 ガスパールが指を動かすと二人の教会騎士が左右から近づいた。王国の衛兵ではなく大聖堂の兵士であり、腰の剣へ手を添えている。ミラは革筒を抱えたまま後退し、国王へ向かって声を張った。


「停戦合意書の原本です。両国の前線司令官と教皇代理の署名があります。明日の夜明けまでに批准されなければ総攻撃が始まります」


 広間がざわめき、ヴィクトル王が杖を鳴らして立ち上がった。ガスパールの笑みは崩れなかったが、騎士たちはミラとの距離を一気に詰める。


「その革筒は偽物です。聖女は敵国に捕らわれ、偽書へ署名させられたのでしょう。教会が真偽を確認いたします」


「だったら陛下の前で封を調べれば済む話でしょう。どうして焼却する必要があるの?」


 ミラは鞄から命令書を抜き、国王の足元へ滑らせた。侍従が拾い上げて内容を読み、国王へ差し出す。ガスパールは初めて口を閉ざし、白曜石の指輪を祭服の袖へ隠した。


「知らぬ文書です。印章など盗めば押せます。そもそも、その女がエリアーヌ本人である証拠もない」


「それは正解。私はミラ・クロイツという冒険者よ。エリアーヌ本人はあなたが差し向けた連中に襲われ、街道沿いの小屋で療養している」


 重臣たちのざわめきが怒号へ変わった。教会騎士が剣を抜き、近くにいた侍従を突き飛ばしてミラへ斬りかかる。ミラは白い外套を相手の顔へ投げつけ、腰の短剣で剣筋をそらした。


 二人目の騎士が革筒を奪おうと腕を伸ばす。ミラは筒を国王へ放り投げ、空いた手で相手の顎を殴り抜いた。ヴィクトル王は杖を捨てて革筒を受け止め、衛兵たちが遅れて教会騎士を床へ押さえ込む。


「ガスパール司祭を拘束せよ。革筒の封は余と宰相が確認する。教会の者には触れさせるな」


「陛下、偽聖女の言葉を信じるおつもりですか。戦時に教会の救済がなければ民は飢えます。軍も負傷兵を支えられない。停戦を急げばローデンに立て直す猶予を与えるだけです」


「三年かけて双方を立て直せぬほど疲弊させた戦を、さらに続けよと申すか」


 国王が封蝋を重臣たちへ示す。軍務卿はアルヴェリア軍司令官の印章に間違いないと認め、外交官も教皇代理の署名を確認した。ガスパールはなおも教会の権限を唱えたが、拘束された騎士の一人が命令を受けた経緯を話し始めると声を失った。


 拘束された騎士たちの証言から、ガスパールが前線から届く和平案を握り潰し、最後には正式な使節まで殺そうとした経緯が明らかになった。戦争が終われば戦時寄進が減り、救済物資の配分を通して得た教会内での影響力も弱まる。信仰のためでも国のためでもなく、自分が玉座の隣に立ち続けるためだった。


「余はこの合意を批准する。早馬を東部軍へ出せ。ローデン公国の使節にも批准書を渡し、夜明けまでに両軍へ停戦を告げよ」


 ヴィクトル王が署名すると広間の全員が動き出した。ミラはようやく肩から力を抜き、床に落ちた白い外套を拾う。借り物を泥まみれにしたうえ剣で裂いてしまったため、エリアーヌには代金を請求されるかもしれない。


「ミラ・クロイツ。褒美を望むなら申してみよ。余に与えられる物であれば用意する」


「詐称と騎士の馬を盗んだ件を不問にしてください。それから食事と寝床を。二日ほどまともに寝ていません」


「国を救った者の望みがそれだけでは、余の体面が立たぬ」


「では金貨で。体面を損なわないくらい多めにお願いします」


 国王は数秒黙ったあと声を上げて笑った。ガスパールが連行され、血と泥の残る広間にようやく別の音が戻ってくる。こうして合意書は期限に間に合い、夜明けを待たず両軍へ停戦命令が届けられた。


     ◇


 三日後、王城の客室で目を覚ましたミラは窓の外から聞こえる歓声に眉をひそめた。停戦を祝うには朝が早すぎる。扉を開けると侍女が駆け込み、城門前に集まった群衆が聖女へ一目会わせてほしいと願っていると告げた。


「聖女なら大聖堂にいるでしょう。私は偽物だと陛下の前で話したわよ」


「エリアーヌ聖女様も昨夜お戻りになりました。ご本人が、命を救って使命を果たしたミラ様こそ白き冠に選ばれた方だと証言なさいまして」


「あの女、余計なことを」


 客室へエリアーヌが入り、まだ青白い顔で楽しげに笑う。傷は治癒術で塞がっているものの歩くには杖が必要らしい。ミラは裂けた外套を返して謝ったが、エリアーヌは受け取らず両手を胸元で組んだ。


「それは差し上げます。街道の聖女には旅の外套が必要でしょう」


「誰が街道の聖女よ。私は冒険者。報酬をもらって剣を振る仕事なの」


「王都ではすでに、傷ついた使者から使命を受け継ぎ、三人の騎士を退け、祈り一つで東門を開かせた聖女の話が広まっています」


「一人は殴って一人は斬った。祈りで開いたのは門番が勘違いしたから。ずいぶん都合よく削ったわね」


「物語とはそういうものだそうです」


 エリアーヌ自身も説明したらしいが、群衆は謙遜まで聖女の徳へ数えて聞き入れなかったという。治癒術を使えない事実については、すべての力を停戦の奇跡へ注いだため失われたのだという話まで生まれていた。


 窓の下から「街道の聖女様」と呼ぶ声が重なる。逃げようにも正門と裏門には群衆が集まり、厩舎の馬丁までミラの祝福を待っているらしい。偽名を使わなかったことが今になって悔やまれた。


「白き冠の慈悲が共にありますように。これさえ言えば、ひとまず皆さんは帰ってくれると思います」


「間違えて覚えているのよ。白い冠の慈悲でしょう?」


「最初に教えた方が正しいです」


 ミラは両手で顔を覆った。戦争を終わらせる書類は無事に届いた。黒幕も捕まり、褒美の金貨も約束されている。それなのに旅へ戻るための道だけが、どこにも見当たらない。


「今回だけよ。顔を見せて、二度と聖女と呼ぶなと言ってくる」


「はい。皆さん、きっと感銘を受けます」


「どうして?」


「地位を望まない清廉な聖女だと」


 エリアーヌが扉を開けると歓声が城全体を震わせた。ミラは裂けた白い外套を頭からかぶり、処刑台へ向かう囚人のような足取りで廊下へ出る。


 その日からアルヴェリアでは、聖女は必ずしも治癒術を使うとは限らないと信じられるようになった。剣を腰に下げ、報酬を金貨で要求し、祈りの言葉をたびたび間違えることもある。


 ミラが街道の聖女ではなく、ただの冒険者だと人々に納得させるまでには、停戦合意書を届ける旅よりもはるかに長い時間がかかった。

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