兄が結婚するらしい
仕事から帰ると、兄が知らない女の人と台所で夕飯を作っていた。
「ただいま」
「おかえり。もうすぐできるぞ」
兄はいつもどおりだったが、隣の女性はそうもいかないらしく、包丁を置いてこちらへ頭を下げた。
「お邪魔しています」
「どうも」
私も頭を下げてから、もう一度兄を見る。紹介してくれるのを待ったものの、兄は鍋の蓋を開けて中を確認しているだけなので、仕方なく自分から聞くことにした。
「誰?」
「エマ」
「それは名前でしょ」
「ああ。エマ、妹のリサ」
「私の紹介はいいから」
エマさんが笑った。
兄が女性を家に連れてくるのは初めてだった。そもそも恋人がいるという話すら聞いたことがないので、職場の人かとも思ったが、それにしては二人で夕飯を作っているのがおかしい。
「兄の同僚ですか?」
「違います」
「友達?」
二人はなぜか顔を見合わせたまま黙ってしまった。
「結婚する」
「誰と誰が?」
「俺とエマが」
私は鞄を持ったまま二人を見た。エマさんが困ったように笑っているので、兄の冗談ではないらしい。
「いつ?」
「来月」
「何が?」
「結婚式」
「来月?」
「ああ」
「私、今初めてエマさんに会ったんだけど」
「そうだな」
「兄さんが結婚するのも今知ったんだけど」
「今言ったからな」
言っていることは間違っていないのが腹立たしくて、私は鞄を椅子に置いた。
「普通はもう少し前に言わない?」
「言おうとは思ってた」
「いつから?」
「先月くらいから」
一か月も機会をうかがうような話ではない。毎朝顔を合わせているし、三日前には二人で夕飯も食べた。
「三日前、私とご飯食べてたよね?」
「ああ」
「そのとき言えたよね?」
「魚が焦げたから忘れた」
エマさんが横を向いて笑いを堪えている。
「笑ってます?」
「すみません」
「いいんです。私もたぶん他人の兄だったら笑います」
「俺は何かおかしいこと言ったか?」
「兄さんは黙ってて」
兄は納得していない顔をしながら鍋に戻った。
とりあえず着替えてくることにして、二階の自室へ向かいながら来月の予定を思い出す。結婚式なら服も用意しなければならないし、親戚にも連絡が必要だろう。父と母が亡くなってから兄と二人で暮らしてきたので、そういうことは私にも関係してくる。
階段を半分まで上ったところで、嫌なことに気づいた。
「兄さん」
「なんだ?」
「叔母さんには?」
「何が?」
この返事でもう分かったので、私は階段を下りて台所へ戻ると、兄ではなくエマさんを見た。
「うちの親戚には、どこまで話が行ってます?」
「ご挨拶したのは叔父様お一人だけです」
「どっちの?」
「お母様のお兄様の」
そこならまだましだった。父方の叔母に先に知られていたら、私が黙っていたと思われるところだった。
「式には誰を呼ぶの?」
「身内だけだ」
「だから、その身内には連絡したの?」
「これからする」
「来月なのに?」
「まだ三週間ある」
エマさんがとうとう吹き出した。
「エマ」
「ごめんなさい。でもリサさん、私とまったく同じことを言うから」
どうやらこの人も兄に苦労しているらしい。それだけで少し親近感が湧いた。
「結婚、本当に大丈夫ですか?」
「私も何度か考えました」
「エマ」
「あなたが悪いのよ」
エマさんに言われると何も言い返さない兄を見て、ちゃんと結婚するための時間を二人で築いてきたということは伝わってきた。
「付き合ってどれくらいなんですか?」
「二年です」
「二年?」
思わず兄を見る。
「二年間、何も言わなかったの?」
「聞かれなかったから」
「恋人いる? って去年聞いたよね?」
「いた」
「いないって言ったじゃない!」
「言ってない」
「言ったよ!」
「覚えてない」
「じゃあ言ったんでしょ!」
エマさんがまた笑い出したので、兄との出会いから聞いてみたくなった。こんな男と二年付き合って結婚まで決めた人なら、何か相当な事情があるはずだ。
「どこで知り合ったんですか?」
「私の店です。彼が毎週来ていたので」
「店?」
「花屋をやっています」
兄と花屋がどうしても結びつかなかった。
「花、買ってたの?」
「ああ」
「毎週?」
「ああ」
「何のために?」
「墓」
そう言われれば、兄は月に何度も両親の墓へ行っている。私は命日くらいしか行かないので知らなかった。
「最初の一年くらいは、本当に花を買って帰るだけだったんです」
「一年?」
「はい。毎週同じ花を買うので、私が顔を覚えて話しかけるようになって」
「兄さんからじゃないんだ」
「はい」
「エマ」
「本当でしょう?」
兄が鍋を混ぜ始めたので、私は笑いそうになるのを堪えた。
「それでエマさんから?」
「食事に誘いました」
「兄さんは?」
「ついてきました」
「犬みたいに言うな」
「あなた、さっきからそれしか言わないじゃない」
どうやら兄は私が知らないところでも兄だった。
夕飯ができたので三人で食卓につき、私は食べながら式のことを聞いた。兄たちが結婚を決めたのは二か月ほど前で、神殿も食事をする店もエマさんが手配したらしい。エマさんの家族への挨拶も済んでいるので、残っているのは兄が自分の親戚へ知らせることくらいだった。
「それで、結婚したらどこに住むの?」
「ここだけど」
「エマさんが来るの?」
「その予定です」
父と母が亡くなってから兄と二人で住んできた家には部屋が余っているので、エマさんが来ても狭くはない。それなら、私が家を出ても兄が一人になることはない。
「じゃあ、ちょうどよかった」
「何が?」
「私も来月には出るから」
「なんで?」
「結婚するから」
それまで食べていた兄の手が止まった。
「誰と?」
「恋人と」
「恋人がいるのか?」
「二年前から」
「聞いてないぞ」
「聞かれなかったから」
兄は何か言いかけたものの、途中で思い当たったらしい。
「……いや、聞いたぞ」
「いつ?」
「二年前。恋人はいないのかって」
「そのときはいなかったよ」
「二年前から付き合ってるんだろ?」
「兄さんに聞かれた次の月からね」
「じゃあ、ほとんど二年じゃないか」
「だから二年って言ったの」
「そのあと一度も聞いてないの、あなた」
エマさんに言われると、兄は何も言い返せなかった。
「相手は誰だ」
「マーク」
「知らない」
「会わせてないからね」
「叔母さんたちは?」
「知ってるよ」
「誰が?」
「みんな」
「父さんの弟も?」
「マークと一緒に挨拶に行ったよ」
「母さんの兄さんも?」
「半年前に」
「俺には?」
「まだ」
「なんで俺だけなんだ」
「結婚しても、兄さんが結婚するまではここにいるつもりだったから」
「結婚しても?」
「うん。マークにもそう話してた」
父と母が亡くなってからずっと二人で暮らしてきた家を、自分が結婚したからと先に出ていく気にはなれなかった。兄が一人で暮らせないと思っていたわけではないが、マークも急がなくていいと言ってくれていたので、兄が結婚するまでは今までどおりここで暮らすつもりだった。
「だから親戚には言って、俺には言わなかったのか?」
「そう」
「来月結婚するのに?」
「結婚してもここにいるつもりだったし」
「俺が今日何も言わなかったら?」
「来月もここにいたよ」
「夫はどうするんだ」
「今までどおり別々に暮らすつもりだった」
「それでいいのか?」
「マークはいいって言ってたよ」
「俺は聞いてない」
「今言ったからね」
さっき兄が私に言ったのと同じ言葉が返ってきたせいか、エマさんがまた笑い出した。
「笑うな」
「ごめんなさい。でも、それはあなたが悪いわ」
兄はエマさんには言い返さず、私のほうへ話を戻した。
「それで、結婚するのはいつ決まった?」
「半年前」
「式は?」
「来月」
「来月?」
「うん」
「なんで今まで言わなかった?」
「今言ったでしょ。兄さんが結婚するまではここにいるつもりだったから」
「それでも普通は言うだろ」
「兄さんもね」
「俺は言おうとは思ってた」
「私も思ってたよ」
「いつから?」
「先月くらいから」
「それは俺と同じだろ」
「でも私は親戚には言ってる」
「俺だってこれから言う」
「来月なのに?」
「まだ三週間ある」
今度は私とエマさんが一緒に笑った。
「なんだ」
「さっきも聞いたから」
「私もです」
兄はまだ納得していないようだったが、これ以上続けても自分に返ってくると分かったのか食事に戻った。
「ところでリサさん、結婚式は来月のいつなんですか?」
「二十二日です」
エマさんが兄を見たので、また何かあるのかと思っていると、兄までこちらを見てきた。
「俺たちも二十二日だ」
「え?」
「どこの神殿?」
「中央神殿だけど」
「私たちもです」
同じ日に同じ神殿で結婚するとは思わなかったが、時間を確認すると私たちは午前で兄たちは午後だった。
「私たちは午前の式が終わったら昼に食事会だけど、兄さんたちは?」
「式のあとだから夜だ」
「じゃあ、ちょうどいいじゃない」
「何が?」
「叔母さんたち、私の式に出て昼ご飯を食べたら、そのまま兄さんの式にも出られるでしょ。夜は兄さんたちの食事会に行けばいいし」
「そうだな」
遠くから来る親戚もいるので、別の日に二度来てもらうより一日で済むほうが楽だろう。私とマークは昼食会が終わったら着替えればいいし、兄とエマさんも午前中は普通の礼装で私たちの式に出ればいい。
「エマさんのご家族は?」
「せっかくですし、リサさんの式にも出たいと言うと思います」
「じゃあ、マークにも聞いてみます。たぶん兄さんたちの式にも出るって言うと思うけど」
知らないところで同じ日に同じ神殿を取っていたせいで、別々だったはずの二つの結婚式が、朝から夜まで続く一つの予定になってしまった。
「これなら叔母さんたちも喜びそう」
「ああ」
「兄さんも早く連絡してね。自分の式なんだから」
「分かった」
珍しく素直に返事をしたので、これでようやく親戚にも話す気になったのかと思ったが、兄は食事を続けながら何か考えている。
「でも、お前の式に来るなら全員神殿には来るんだよな?」
「来るよ」
「じゃあ、そのとき言えばいいか」
「何を?」
「俺も今日結婚するって」
「だめに決まってるでしょ!」
「午後なんだから間に合う」
「そういう問題じゃない!」
エマさんが笑い出した。
「エマ」
「ごめんなさい。でも、あなたならそう言うと思った」
「兄さん、明日中に全員に連絡して」
「三週間あるぞ」
「明日!」
結局、自分の結婚のことくらい自分で知らせてほしいという私の願いは、最後まで叶いそうになかった。




