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4 水瀬の正体

 マルの捜索を開始してから、はや数週間が経った。

 そろそろ限界を感じていた俺は、広域調査に乗り出し、その日はモンキーで、遠く江ノ島の方まで足を伸ばしていた。

 そして、マルを見つけた。

 

 マルは早川の家から遠く離れた町の廃屋の中に、つながれたまま、死んでいた。


 安物のビニール紐が首に食い込み、やせ細った姿は、彼女から預かった写真の幸せそうなマルとは別の猫のように無残だったが、腹にある丸い模様や身体的な特徴、そして首輪が、その猫をマルだと示していた。

 俺は紐を切り、着ていたジャケットでマルを包んで廃屋から運び出した。情けないことに、涙が出た。

 前カゴにマルをそっと入れ、唇を噛み締めた。憤る俺に、通りかかった女性が声をかけてきた。いい大人が泣いていたからだろうか。

「そこの廃屋に、この子が死んでいたんですが。いつからいたか、ご存知ですか?」

「ああ、それねえ」

 女性は眉根を寄せて言葉を続けた。

「近所の子供たちじゃないかしら。可愛いからって、つないでおいたのね。きっと。ずいぶんと前からニャーニャーうるさかったもの」

 目の前が暗くなった。なぜ、助けない?うるさかったなら、覗いてみればいいじゃないか。

 一瞬、殴りかかりそうになって自制した。彼女がマルを殺した訳じゃない。否。彼女を含め、知らぬ振りをしていた大勢の人間に、マルは殺されたのだ。悪いのは、マルをつないだ子等なのは間違いない。しかし。助かる方法もあっただろうに。

 俺は耐え難い脱力感に襲われ、モンキーにまたがった。

 とにかく、早川にマルを返さなくては。

  

 バイクで風を切る間、俺は自分の無力さにも幻滅していた。俺がもっと早い内に見つけていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのだ。

 家に到着し、何も言わずに早川をバイクの前まで連れて行って、マルを引き渡した。かける言葉が見つからなかった。

 早川の大きな瞳から、涙が幾つも溢れてきた。震える手で、マルのやせ細った身体を撫でる。

 「どうして」とも問わない早川に、経緯を途切れ途切れに話した。

「可愛いから?可愛いから、殺されたの?模様が珍しいから?でも、そんなのマルのせいじゃない。だいたい、マルは首輪もしていて、飼い猫だって一目瞭然じゃない。この子を待っている人間がいるってわかるのに、どうして、こんなヒドイ事をするのかなあ。許せないっていうより、悲しいよ」

 俺はその場を早々に立ち去り、事務所のソファーに倒れ伏した。何も喉を通らなかったのは、贖罪ではなく、自己欺瞞だと自分でもわかった。




 一週間後、早川から電話があった。

 マルを包んでいたジャケットを返したいと言うのだ。それに、こんな形でもマルを探し出してくれ礼がしたいと。

 俺はバイクを飛ばして鎌倉の家へ駆けつけた。


 訪ねると、早川は作業場で手を真っ白にしながら、人形に和紙を貼っていた。

 洋服は愛らしいワンピースだが、エプロンをしてやる気十分といった感じで、思いのほか元気そうな姿に安堵した。

「今、手を洗いますから、ちょっと待ってて下さいね」

 俺はいつもの丸椅子に腰を下ろし、きびきび動く早川を目で追った。

「時間がかかってしまってごめんなさいね。すぐに返したかったんだけど、クリーニングに出したら、なかなか仕上がらなくて」

 真実からビニール袋に包まれたジャケットを受け取る。クリーニングに出してもらうようなジャケットじゃないのに。どうせ、草臥れた安物だ。思わず恥ずかしくて下を向いた。

「修平さんには本当に感謝しているのよ。マルがあんな姿になったのは、決して修平さんのせいじゃないって事だけは、ちゃんと覚えておいてくださいね」

「でも、もっと早く見つけてれば……」

「そんな暗い顔しないで!そうだ、修平さん、猫が好きだって言っていたでしょう?私、ウチの猫達をたくさん撮ったの」

 ポケットから使い捨てカメラを取り出し、いきなり俺の顔を撮った。明るい声で笑う。

「まだ、あと三枚くらい撮れるわね」

「……それじゃあ、真実さんを撮らせてくださいよ。レイと一緒に」

 俺の足元でグルグルと喉を鳴らしていた、黒猫のレイが同意の声を上げた。

「レイと?いいけど。この子ねぇ、ホントに頭にくるの。水瀬さんに全然なつかないんだもん。男の人でレイを抱っこできるの、修平さんだけなんですよ」

「だからさ、いいじゃん。そのエプロン姿で。いかにも人形作家ですって感じだし。レイを抱っこした写真が欲しい。写真嫌いなのは承知してますけど?」

「うふふ。仕方ないか。いいですよ。レイ、いらっしゃい」

 レイを胸に抱く早川の写真を数枚撮り終え、そのまま、使い捨てカメラを貰って帰ることにした。

 帰り際、こんなことを言った。

「修平さん、心配しないで。私、結構幸せだから」

 水瀬との事を言っていたのだろう。

 その言葉が妙に胸に残った。




 数日後。使い捨てカメラの写真が出来上がったのと、契約より多目の金額がずいぶんと前に振り込まれていたのに気づき、早川の家に電話することにした。

 呼び出し音は一回ですぐにつながった。一瞬、不審に思って受話器を握り締めた。

『どちら様でしょうか?』

 比賀ではない、男の声。俺が相手の名前を確認すると、確かに「早川です」と言う。

「あの、竜塚と申しますが……。真実さんは?……?」

 最後まで言うことが出来なかった。言葉尻にかぶるように、相手の男が声を上げたのだ。

『竜塚さん?え?どうして?マジですか?……あ、あの、俺です。県警の。篠原大和です』

「篠原さん?どう…し…て…」

 電話の向こうの篠原大和という男は、俺がたびたび事件解決の時に世話になっている、神奈川県警の若いエリートで、殺人を扱う課に所属している。彼が巡回勤務などするはずもなく、すなわち、早川真実の身に何かあったという事だ。

 冷や汗が背中を伝い、目の前が俄かに暗くなってきた。

「どうして、篠原さんが、そこに?」

 答えを聞きたくなかった。だが、篠原は声を低くして耳を覆いたくなることを言った。

『早川真実さんが殺害されたので、先発隊として、いつものように現状に来てます。竜塚さんこそ、早川真実さんとはどういったご関係ですか?』

 途中から、篠原が何を言っているのか理解できなくなっていた。

「真実さんが、なんだって?」

『早川真実さんが殺害されたんです。発見されたのは今朝の九時ごろ。自称弟子の男性がこの家に来て見つけました。被害者と面識があるなら、いつものように知恵を貸してくださいよー』

「真実さんが?」

『殺されたんです!どう考えても現場の状況から自殺及び事故死ではありませんので!』

 篠原の「殺された」という言葉で、突如、意識が鮮明になった。驚いてばかりはいられない。誰かが彼女に手をかけたのなら、犯人を捕まえなくては。むろん、俺に逮捕の権限はないが。息を大きく吸い込んで、頭を切り替えた。

「犯人の目星はついているんですか?」

『うーん。それが、発見してまだ間がないですからねー。検視結果とか上がってきてないし。でも、早川さんと交流があった人物の中で連絡が取れない人がいて』

 篠原は、「あ。本当だ。竜塚さんの名前もある」と笑った。相変わらず場の空気を読まない男だ。

『猟奇殺人って可能性もあるんで、最近関わりがあった人をピックアップ中なんですけどね、どうも、水瀬という人物が、これ、偽名っぽいんですよ』

「水瀬さんは、真実さんが好きだった人で、社会的地位の高い、立派な人って聞いたけど」

『痴情のもつれかな。で?竜塚さんはどうします?現場、見に来ますか?』

「良いんですか?」

『ダメって言っても来ちゃうでしょ。協力しないって言っても知りたがるでしょ。特例ですから。どうぞー』

「それじゃあ、バイク飛ばして、今からすぐ行きます」

 電話を切ったその手で、風宮鈴の携帯電話の短縮番号を押した。

 先ほどとは対照的に、ずいぶんと待たされた後、鈴が出た。

「鈴、大変な事が起きたんだ!」

『こっちだって大変なのよ!お姉ちゃん、さっき分娩室に入ったの』

「星絵ちゃん、生まれそうなのか?」

『うん。今、病院。お母さんも側にいるわよ』

 他方では人が死に、他方では生まれようとしている。おめでたい雰囲気の風宮母子に、陰惨な殺人事件の話をするのは、いかがなものか。

 躊躇する俺に、鈴が先を制した。

『それで何?何が大変なの? やっぱりいい、は、なしだからね!』

「…………真実さんが、亡くなったんだ」

『真実さんが?亡くなったって、どうして?』

「殺されたらしい。今、真実さんの家に電話をしたら、篠原君が出てさ。俺、真実さんの家に行ってくるから」

『やだ、ちょっと!私も行くわよ!』

「でも、星絵ちゃん、生まれそうなんだろ?」

『初産の場合、そんなに早く生まれないわ。それに、ここにいたってお姉ちゃんの手伝いは出来ないもの。いい?私が行くまで待っていて!車を飛ばしてくから、事務所の下で拾うわ。くれぐれも、一人で行ったりしないでね。わかった?修!』

 電話は派手な音と共に切れた。

 俺は鈴が来るまで落ちつかず、動物園の熊のように事務所内を行ったり来たりして待った。

 星絵の病院から、この事務所までは車で二十分もあれば着く。果てない時間に思われた二十分は、文字通り果てない時間を経て、ビルの出口で待っていた俺の前に、濃紺のミニクーパーが滑るように止まった。

「乗って、修平!」

 俺は無言で助手席のドアを開けた。助手席の上に、鈴の鞄が無造作に投げ出されていたので、その鞄を抱えて座った。

「飛ばすわよ?ちゃんとつかまってて!」

「事故るなよ。それと、星絵ちゃんの方は大丈夫なのか?」

 鈴は前を向いたままニッコリと笑った。

「お母さんがついてるから大丈夫。嫁ぎ先の病院で産むんだし。それより、真実さんの方はどうなの?殺人って断定された訳?篠原さんは何て?」

「現場の状況から推察するに、殺人と言う線は間違いないって。それと、水瀬さんが偽名を使っていたらしくて。どう思う?」

「偽名?何でよ。怪しいわね」

 言いながら、力が入ったのかグンと車が加速した。対応しきれず、頭をシートにぶつける。おまけに、鈴の鞄まで落としてしまった。

 拾おうと手を伸ばすと、鞄の中から小冊子がポロリと出てきた。手に取り、への字口で鈴に迫った。

「何、これ?」

「お姉ちゃんの母子手帳。万が一、スピード違反で捕まっても、緊急事態ですって切り抜けられるかと思って」

「おまえなあ……。そんな言い訳が警察に通じる訳ないだろ。だいたい、今から子供が生まれる星絵ちゃんの母子手帳を持ってきちゃってどうするんだよ。しかも、生まれそうな母親が運転してて、父親は鞄を抱えて助手席か?」

「だ、誰が、修平に父親役を演れって言ったのよ!アンタは私の兄役に決まってるでしょ!」

「それは申し訳ありませんでした。どっちにしても、くれぐれも安全運転でお願いしますね」

 自分で運転ができない以上、黙って従うしかない。

 それにしても、他人の母子手帳なんて初めて触った。実家には自分の母子手帳が未だに保管されているのだが、小さくて黄ばんでいて、それが現役で活躍していた頃など想像できない。

 物珍しくてよく見ると、B6判の小冊子の表紙はパステルカラーでおもちゃの絵が描かれており、イラストの下に母子名の記入欄がある。そこには『風宮星絵』の上に二重線が引かれていて、隣に『山本星絵』とあった。

 ちょうど信号で止まったため、鈴は母子手帳を横目に見て「ああ」と顎を引いた。

「各都道府県の知事が妊娠の届けがあり次第、発行するんだけどね。それ。ウチのお姉ちゃん、できちゃった結婚だったでしょ?しかも、最初はシングルマザーをやるつもりだったから」

「でも、相手の人が妊娠を知って結婚を承諾したって言っていたっけ。後から籍を入れたから、旧姓の横に新しい名前なんだ」

「女性は結婚すると名前が変わっちゃうからね。夫婦別姓だって浸透してないし。修平のお母さんだって、生まれた時の名前を返上して、竜塚になったんでしょ?」

「母さんの旧姓?」

 ずっと心に引っかかっていた糸くずが、また胸の中で渦を巻き始めた。なぜか感じていた疑問。

「修平のお母さんって、旧姓は何て言うの?」

 鈴の質問で、身体が凍りついた。

 思い出した。どこかで聞いたような気がすると、訝っていたことを。

「母さんの旧姓……水瀬だ」

「水瀬?それって……」

「浩平が、容疑者になってるかもしれない」

 さすがに急ブレーキを踏みはしなかったが、鈴が動揺して「何かの間違いじゃ…」と呟いた。

 だが、思い返せば、それでつじつまが合う。

 水瀬の顔を知る比賀に、俺と水瀬が似ていると言われたし、水瀬が造らせている人形も俺に似ている。おまけに、人形の名前は「シュウ」だ。

「浩平を尾行した時、実家の付近で見失ったことがあったんだ。俺は家に帰ったのかと思っていたけど、真実さんの家に、自分の人形を見に行っていんだと思う」

 どうして気付かなかったんだろう。実家と早川真実の家は近い。あの時、ちゃんと家に帰って確かめていたら、と思うと、悔しさがこみ上げる。

「でも、偽名まで使って修平の人形を造ってもらうなんて変じゃない?薬王院さんにだって内緒にしておくことないでしょ?」

「そこがポイントだよ。浩平はハルカが俺ばかりを贔屓するのを嫌ってるって知ってるんだ。俺の人形なんか発注したら、ハルカに何て言われるか」

「でも、修平は死んでいないじゃない。どうして、そんな人形なんて造る必要が?」

 鈴の疑問には答えず、俺は急いで携帯電話を出して、浩平に電話をかけた。もしかしたら、警察から連絡が行っているかもしれない。

 くだらない杞憂で終われば構わないが、万が一という事もある。気が急いた。

 咄嗟に浩平の携帯電話ではなく、会社の社長室にかけてしまったので、浩平ではなく杳が出た。

「浩平は?浩にいはどうした?」

 勢い込んで言う俺に、杳は「フン」と鼻を鳴らした。

『今、席をはずしておいでです。何か御用ですか?』

「何か、変な電話とかかかってきてない?ええと、警察から、とか」

『おやおや。何か警察の御厄介になるような事をしでかしましたか?』

 杳の話す遠く後ろの方で、携帯電話が鳴った。呼び出し音が途切れた数秒後に、浩平の声で「なんだって?」と叫ぶ声が聞こえた。言っている側から、警察からの確認電話が入ったらしい。

「ハルカ、よく聞けよ。詳しい説明をしている暇はない。とにかく、浩平が警察に事情聴取されるかもしれない事態が起きた。俺は浩にいを信じているから、決して悪いようにはならないと信じている。俺が心配なのは、お前がキレて、警官を殴ったりしないかだ。頭に血が上って、浩にいの不利になるような事は絶対にするなよ」

『…………何を、言ってるんですか?』

「もう少ししたら、警察官が会社に来るだろうから、おとなしく任意同行に応じろって事だ。下手に騒ぐとお前まで引っ張られるからな。また連絡する」

 すぐ目の前に真実の家が見えてきたので、電話を切って鞄にしまいなおした。

 杳が動揺した声で何か言っていたが、聞かなかったことにした。伝えねばならないことは言っておいたのだ。

「修平、着いたわよ」

 出陣の合図を送るかのように、鈴が毅然と言った。

 閑静な住宅地には似つかわしくない物々しい状況になっていた。あちらこちらにロープやテープが張られ、紺色の制服を着た鑑識官が忙しなく出入りしている。

 鈴の車を見つけて、篠原大和が手を振った。

 細身の体躯に、高級そうなブルーグレーの背広をピシっと着こなし、警察官にしてはやや長めの髪をかきあげて、殺人現場だというのに笑顔で会釈する。

 俺はいつものように手を上げ、「どうも」と言った。

「早かったですねぇ。えっと、ちょっと中はまだ……」

 篠原は玄関ドアに手をかけた俺の手を引いて、庭へと促した。鈴も俺の後ろについてくる。

 

 冬枯れして、寒々しい庭の中央に立ち、篠原は「さて」と手帳を開いた。

 庭から作業場を覗き見たが、シートが張られていて中の様子がわからない。

 ただ、警察官に交じって、黄色い頭が右へ左へ動いていることから、どうやら比賀がいるのは確かなようだ。

 俺の視線をたどって、篠原が頷いた。

「第一発見者は彼です。比賀俊一。美大生だそうで。何から話したらいいですかね?何を聞きたいですか?」

「殺人と断定された理由は何ですか?」 

 務めて冷静な声を出そうとしたが、上手くいかなかった。そんな俺を篠原は目を細めながら見て「じゃあ」とゆっくり語りだした。

「順を追って説明しましょうか。えっとね。まず、発見されたのは今朝の九時。死亡推定時刻および死因はまだ剖検の結果待ちということで、詳しくは不明です。すいません。どうも、頭を殴られ後、首を絞められてますね。凶器は被害者宅にあった花瓶と、被害者が首に巻いていたスカーフ、かな。金品を盗まれた様子も、争った形跡もないことから、顔見知りによる犯行とみてます。ただ、死体を損壊するやり方が、ちょっと、アレなので。まあ、痴情怨恨か、精神異常者による猟奇的な犯行でしょうかね。事故と自殺はありえません。……と、いう具合です」

「死体の損壊って、何があったんですか?」

「俺も驚いたんですけどねー。被害者の早川真実さんは死後、殺害現場となった二階のリビングから下の作業場まで運ばれ、そこで、爪を抜かれ、髪の毛を切られ、衣服も脱がされて、人形を置いている台の上で、人形にかぶせていた白い布に包まれていました。あ、でも、暴行の形跡はありません。それで、被害者の爪や髪の毛は、人形の腹の中から発見されました。なんか、不気味でしょ?」

 絶句した俺の背中に、鈴がぎゅっとつかまった。

 何の目的で、そんな残忍な事をするのだろうか。

「俺にコワイ顔しないでくださいよ。こっちも聞きたいことがあるんだし。あの、水瀬という人物の正体がわかったんですけど、修平さんはご存知ですか?」

「……すいません。俺の、長兄です」

「やっぱりー。そうですよね。竜塚なんて変わった名前、そういるもんじゃないと思ったけど。そっか、お兄さんでしたか」

「浩平さんが第一容疑者ってこと?」

 ようやく鈴が声を上げた。篠原の両手を取って、激しく揺さぶる。

 首を横に振り、「違うわよね」と呟く。

 篠原は、鈴をなだめながら、肩に手を置いた。

「容疑者ではなく、重要参考人です。たぶん署に御同行願って、色々とお聞きする予定ですけど、失礼がないよう、配慮します。なにせ、トップ企業の社長さんですからね。ウチの署長ともお知り合いだそうで。修平さんのお兄さんってだけでも、少しは待遇が良くなりますよ、きっと」

 俺は馴れ々しい篠原の手をピシャリと叩いて、不安そうな鈴の背中を撫でた。

「どうして兄が怪しいと?偽名なんて使ってたからですか?」

「いや、普通に考えて、一番怪しいでしょ。痴情怨恨、恋愛のもつれ。比賀俊一が言うには、早川さんは修平さんのお兄さんを好いていたそうで。……なんて。俺はそんな単純な話じゃないと思ってますけど。偽名については、ご本人に真意を教えてもらいますよ。それからです」

「兄の秘書に、任意同行には応じるようにと電話をしておきました。疚しい事がなければ、捜査には協力するべきですから」

 篠原は何度も頷いて「どうも」と言った。目が合うと、切れ長の細い目をより細くしてニッコリと笑う。

 しばらく沈黙の時が流れ、頭上を鳶が旋回していった。海が近いからだ。

 高く澄んだ空を仰ぎみると、猫が俺の足元にすり寄ってきて、悲しい声で鳴いた。

 猫はレイだった。篠原が先んじていきなりしゃがみこみ、レイに手を伸ばす。

「君、美人だねぇ。名前は何て言うの?」

 レイは篠原の手をすり抜けて、俺の顔を見上げる。なおも追いかけようとする篠原に、「猫、好きなんですか?」と一応尋ねると、猫のような顔になった。

「猫好きっていうより、猫バカですよ。残念。この子、人を見ますね。修平さんが好きみたいだ」

 レイは尻尾をひるがえして逃げていった。その後ろ姿を見送って、篠原が「さて」と腰を上げる。

「現場とかは、そのまんま。だと、思います」

 篠原は「たぶん」と付け加えて、庭から籐椅子の置かれたサンルームを通り、乱雑な作業場へと入った。むろん、俺達も後に続く。

 

 作業場には先ほどの警察官たちも比賀も、鑑識官も誰もおらず、妙にガランとしていた。

 日ごろ、比賀が人形の土台と格闘していた作業台はきれいに片づけられ、後ろを振り返ると、人形が陳列してあった台に色々な白文字が書かれていた。警察官が捜査のために書いたものらしい。

 篠原は、人形の陳列台の一つに歩み寄り、見本品の人形にかぶせられていた布をはがした。

「こういう白い布に、早川さんは包まれていたんです。あとね、彼女の爪や髪の毛がねじ込まれていた人形は、鑑識が持って行っちゃってますけど、確か、シュウという名前の人形だそうです」

「俺の腹の中に入ってたって言うんですか」

 篠原に、兄が俺の人形を造らせていたと言うと、頓狂に声を上げて関心を示した。

「奇妙な兄弟ですねー。本物、いるのに。だって、小さい子の人形でしたよ、あれ」

 見たのだろう。しきりに「ふうん」と呟いて、はたと顔を上げた。

「すいません。じゃ、上を見ましょうか。ここ、目ぼしい物は押収されてます」

 

 細い階段を上がり、部屋へ通じるドアを開けた。こちらには、まだ数人の私服刑事達と比賀がいた。刑事は篠原に目をやり、左右にわかれる。

 刑事達の動きにつられて、比賀がこちらを向いた。

 覇気がなく、蒼白な顔で、目を真っ赤に腫らしていた。

 俺の顔を見て、「修平さん」と駆け寄ってきた。

「比賀君、しっかりして」

「修平さん、先生が、先生が! 俺、どうしたらいいんですか?先生が!」

 混乱した比賀を抱き寄せ、背中を叩いた。比賀は嗚咽を漏らし、しがみつきながら号泣した。

 篠原を除く刑事達が皆、不躾な目で俺達を見ていたので、輪から外れて座った。鈴も比賀の肩をさすって、涙交じりに「大丈夫?」と呟いた。

「ゆっくりでいいから、今朝の様子を聞かせてもらえないかな」

 ひとしきり泣いて落ちついた頃を見計らって、極力優しい声で促してみた。比賀は抵抗もせず、口を開いた。

「今朝九時頃に来たら、玄関の鍵が開いてて……。変だな、とは思ったんスけど。下から先生を呼んで。返事がなかったけど、二階のドアのカギは預かってなかったし、そのままやるつもりで作業場に入って。そんなの、いつもの事だったし、作業場の鍵は持ってるし。でも、作業場も鍵が開いてたんス。変だな、変だなって思いながら見渡したら、工具がぶちまけられててさ。いくら片付けが嫌いな先生でも、道具をしまわないのは怒る人だから、見つかったら俺のせいにされるかも、って慌てて片づけて。ペンチとか拾いながら、人形の陳列台を見ると、一体、人形が増えてたんだよ。それで……一体、一体、白い布を剥がしていったら……最後に、先生が……」

 そこから先は、声が詰まって言葉にならなかった。

 比賀は唇をかみしめ、拳を何度も自分の太ももにぶつけた。

「そうか。辛かったね……。昨日はここへは来なかったの?真実さんに変わった様子とか、なかった?」

「俺は昨日、昼まで寝ていて、サークルの先輩と二時くらいから、横浜の美術館へ行って。それから、先輩の友達と数人で夜遅くまで飲んでた。だから、昨日一日、先生には会ってねえ。変わった様子ってなんだよ!あんなことしたの、誰だよ!」

 唐突に激昂した比賀を必死でなだめながら、昨日の二時頃まではアリバイがなかったのかと思った。性分とはいえ、俺は酷い性格をしているな。

「修平さん、ちょっと……」

 そこへ、篠原の声がかかった。俺は立ちあがって、比賀を鈴に任せて篠原の側へ寄った。

「今、竜塚浩平さんへ連絡を取っている同僚から電話がありまして、どうも、お兄さんは修平さんがいないと、何も話したくないと言って動いてくれないみたいなんですよ。お手数ですけど、俺と一緒に竜塚グループ本社まで行っていただけませんか?」

「願ってもないことです。兄がわがままを言って申し訳ありません」

 たぶん、浩平は偽名を使っていたことや、俺の人形を内緒で造っていたことへの言い訳がしたいのだろう。

 杳と俺を同席させて、面倒のないようにしたいのだ。長い付き合いだから、考えている事くらいわかる。

 俺は鈴を呼び、比賀に気を落とさないよう励まして、東京大手町にある、本社ビルへ向かった。



 

 周囲の巨大ビルが立ち並ぶ一角に、竜塚グループの本社は威風堂々とあった。こちらが気後れするほど、偉そうなままだった。このビルに臆することなく入れる日は来るのだろうか。何度来ても、心が折れる。


 しかし、今日は警察官である、篠原大和刑事が一緒なため、篠原の後ろを歩いて、最上階にある社長室へと難なく進めた。

 最上階のフロアは数部屋の個室があるが、すべて社長専用の部屋で、エレベーターが開くと、フカフカの絨毯と、険しい顔の薬王院杳が出迎えていた。

「こちらです。浩平様がお待ちですので、どうぞ」

 杳に促されて入った部屋は、VIP専用の応接室で、豪華な革張りの応接セットが部屋の中央に鎮座していて、壁には高級そうな絵画が飾られており、コーナーテーブルの上には美しい薔薇が高そうな花瓶に負けじと咲き誇っていた。

 

 応接セットの一人用の椅子に、我が長兄、浩平が座っていた。

 その浩平が、俺の顔を見るなり飛び上がって力任せに抱きついてきた。のけぞって、ドアに頭を打ちそうになった。こらえるのに足を踏ん張らなくてはいけなかった。クラリスがルパンに再会したときのように、大の男が思いっきり飛んでくると、かなり怖い。

 しかも、警察に事情を聞かれているこの状況を不安がり、身内の俺を見て安堵したのかというと、予想に反して……いや、予想通り、ただ単に俺に会えた嬉しさを身体いっぱいで表現しただけだ。

 呑気に「痩せたんじゃないか?修平?」などと俺の顔を撫でまわす。

 この状況に、俺と杳以外のすべての人間が口を開けて驚いた。さすがの鈴さえも。

 浩平の隣のソファーに座っていた刑事などは、目を白黒させて、それまでの浩平とのギャップに苦しんでいるようだ。なんだか、申し訳ない。

「修平、金曜日に送ったケーキ、食べた?晩御飯にしたとか言うなよ。お兄ちゃん、怒るからな」

 なおも、俺の頭を撫でようとする浩平を引きはがし、ソファーに座らせて空気を変えるために咳払いをした。

「食った。美味かった。ありがとう。でも、そうじゃなくて。俺の人形を造らせてたってどういう事だよ。言い訳したくて、俺を呼んだんだろ?」

「この一件に絡んで修平を呼べば、来てくれるだろうと思ったんだ。それに、早川さんと親しかったとか、お兄ちゃんだって聞いてないぞ」

「『聞いてない』はこっちのセリフだ。まったく。ほら、さっさと白状しろ」

 ようやく場が取り繕われ、めいめいソファーに座りなおした。

 杳が俺と浩平を一緒にするのを嫌がる原因の一つがこれだと思う。

浩平は俺に対しては、豆大福に黒蜜たっぷりかけて、クッキーで挟みました、みたいに甘く、それまでの二枚目から一枚多くなって、完全に三枚目になってしまう。

エグゼクティブなデキるビジネスマンであるところの、格好いい浩平社長を崇拝する杳には、相当痛いはずだ。たぶん。今も、目頭を押さえて辛そうにしている。泣いているのかもしれない。

 俺は溜息を吐いて、突き刺さる杳の視線から耐えた。

「それでは、まずは早川真実さんとのご関係からお聞かせいただけますか?」

 埒が明かないと思ったのか、篠原が身体を乗り出して、もっともな事から始めた。

 浩平は背筋を伸ばし、途端に顔がキリッと引き締まって、いわゆる営業用の声で答えた。

「人形の制作を頼んでいたので、アーティストと顧客。です」

「偽名を使って、早川さんに近付いた理由は?」

「作っている事を誰にも知られたくなかったからです。秘書の杳にも、修平本人にも。二人にバレたら、邪魔されるに決まってますからね」

杳がたまらず、口をはさんだ。

「わ、私は、浩平様のなさりたいことを妨害するなんて!そんな、失礼極まりない事はいたしません!」

 みんなの視線が唇を噛む杳に集中する中、浩平は妙に可愛い声で「うん」と頷いた。

「でもさ、絶対に嫌がるだろ?これは会社の金を使わない、プライベートな趣味だから、杳を煩わせたくなかったんだ。杳、気を悪くした?」

 浩平に見上げられて、杳の顔は真っ赤になった。

 拳を握りしめ、勢いよく首を左右に振った。

「め、めっ、滅相もございません!」

 今時、「滅相もございません」なんて言う奴、いないよな。と、その場にいる全員が思ったに違いない。

「コホン、それで、どうして存命されている弟さんの人形を?あの早川という人は、死んだ人の人形しか作らんのでしょう?」

 篠原の隣の中年刑事が咳払いをして元へ戻した。

「そうよ。しかも、浩平さんたら、幼いころの修平の人形を作ってもらっていたんでしょう?作り話まで用意して」

 鈴の意見に、浩平はまたも素直に「うん」」と言った。

「弟が死んだという話を造ったのは、その方がやりやすいと思ったからだし、彼女は死んだ人の人形ばかり作っていた訳ではないよ。離れ離れになった人の人形も作っていた。だから、最後の最後で、ちゃんとご説明した。嘘はよくない。うん。そうだろ、修平?」

「じゃあ、最後に真実さんに本当の事を打ち明けたのか?」

「まあね。彼女に『結婚を前提にお付き合いしてほしい』って言われたから、『貴女を騙していた俺でも良いとおっしゃるのですか?』って」

「初耳です!浩平様!」

「誰にも言ってないから。杳が知らなくても当たり前だよ。そういう顔をするから嫌だったんだ」

 刑事の目の色が変わった。警察側は浩平が犯人だと目算を付けているのだから仕方ない。

 俺は浩平の肩に手を置いて、顔を覗き込んだ。

「それで、浩にいはなんて言ったんだよ」

「『考えさせてください』って。いきなり『こちらこそー』なんて言えないだろ。彼女は『待ちます』って言ってたよ」

 篠原が静かに質問する。

「早川さんを愛してはいなかったんですか?」

「愛してる?俺が愛しているのは、この会社と仕事と、一番大切な、家族だけだ」

「では改めてお尋ねしますが、どうして弟さんの人形を?我々は、死んでもいない弟の人形を造らせていたという点が非常に気になるんです。それに託けて彼女に近づき、親しくなりたかったのではありませんか?そして、彼女に受け入れられず、殺害した。彼女を以前から知っていて、機会を待っていたとか?」

 浩平に詰め寄った先の中年刑事に、杳が凄い目で睨んだ。

 今にも殴りかかりそうな杳を、浩平は片手で制して涼しい顔で言った。

「彼女を知ったのは、仕事上の知り合いに教わって興味を持って。一年半ほど前にお電話したので、その時に話したのが初めてかな。人形作りの順番が回ってきたから、お願いした。というだけです」

「それでは、その時に好意を寄せて?」

「少々恥ずかしいという気持ちが自分にもあったので言えませんでしたが、面倒なのではっきり言います。――弟の人形を造らせたのは、修平が事務所を開業してからそちらに寝泊まりするようになり、帰ってこなくなって淋しかったからです。二十二年前に母が亡くなって以来、掌中の珠のように慈しんできた、最愛の修平に会えない日々は、本当に辛かった。だから、リビングに修平の人形を座らせてこうと思ったんです」

「……なぜ、少年時代の人形を?」

「小さい方が安いからです」

 唖然とした。いや、絶句した。

 俺一人が、浩平らしい飄々とした物言いがおかしくて、ゲラゲラと腹を抱えて笑ったが、みな一様に目を点にして、しばし空気が凍った。


 それでも、俺を見つけた時の、浩平の豹変ぶりを目の当たりにした以上、浩平の言葉を信用したらしく、その奇行も腑に落ちたらしい。刑事達はブツブツと口の中で不満を呟いていたが、一応は納得したようだった。


「わかりました。それでは次に、昨日の行動を教えてください。会社は休みでしたね?」

「そろそろ人形が出来上がると言うことで、前々日の約束通り、朝十時に早川さんのお宅を訪ねました。二階へ上がってお茶を飲んで、早川さんに『結婚を前提に付き合ってほしい』と言われ、先ほど申し上げた通り、本名やら嘘をついていた事を詫びました。悪いと思ったので、会社の電話番号や、いなかった時に困ると思って杳の名前を教えて。昼食を一緒にと誘われたのですが、女性から真面目な顔でそんな事を言われたことがなかったので、少々焦りましてね。飯を食う気になれなくて、ご辞退しました。出るときに時計を見たので、十一時四十分だったのは確かです。そのあと、気分転換にブラブラと小一時間程度歩いて、いつも行く喫茶店で軽食を摂りました。それで……」

 浩平の言葉を継いで、杳がテキパキと答えた。

「今度、都内にある当社のホテルのレストランが一新するので、そのレストラン選考のための食事会が夕方からありました。ですから、私が頃合いを見計らって、午後二時三十分に喫茶店モカへ車でお迎えに上がりました。その後は夜十二時過ぎにご自宅へお送りするまで、私や社のスタッフが浩平様のアリバイを証言できます」

「逆に、喫茶店へ行くまでのアリバイがないんだな?それに、最後に被害者に会っているのはアンタってことになる」

「言葉に気をつけた方がいいですよ、宮本さん」

 篠原が中年刑事に耳打ちをした。ちらりと送った視線の先には、杳が鬼のような顔で仁王立ちしていた。金棒を持ったらさぞかし似合いそうだ。

 宮本と呼ばれた刑事は、ばつが悪そうに手帳を閉じ、「まあ、追々わかってくるだろう」と捨て台詞を吐いた。

 それを聞いて、俺は心がざわざわと落ちつかず、浩平の目を覗き込んだ。

「最後に聞きたいんだけど、浩にいは、真実さんを殺してないよな?」

 浩平は垂れ下がり気味の目じりを一層垂れさせて、柔らかく微笑した。

「そんなこと、してない。だって。したら、修平が悲しむだろう?」

 その言葉は、どんな告白よりも浩平の人間性が現れていて、疑う余地がなかった。

 俺も杳も、たぶん鈴も、浩平が犯人でないことは確信している。ただ、本人の口から「やっていない」という言葉を聞きたかった。


 さも全部話してすっきり、みたいな顔で「仕事があるんで」と立ちあがった浩平につられて、その場は散会となった。

 それ以上は何も言わせずに、杳が刑事達をまとめてエレベーターに乗せ、空になって帰って来たエレベーターに、俺と鈴と篠原を乗せた。

 扉が閉まる直前、杳が俺に言った。

「頼みます。修平さん」

「お前になんか頼まれなくたって、俺の大事な兄貴の事なんだぞ。犯人は俺が必ず捕まえてやる」

「捕まえるのは貴方ではないでしょう?警察です」

 

 大嫌いだった杳の減らず口が、その時ばかりは頼もしく思えた。


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