3 兄と猫と
3 兄と猫と
ポスターを早川真実の家の付近に数百枚貼った後も、マルの行方はようとして知れず、残念ながら、手がかりも全くなかった。
仕事を受けた以上、この程度で「はい、おしまい」と降参する訳にもいかない。
俺は連日、アスファルトに顔を寄せ、手製の猫捕獲ボックスを仕掛けたり、這いつくばってマルを捜した。
生来の猫好かれ――なんという造語だ――のため、日に何度も猫達には出会う。だが、一番会いたいマルにだけは、どうも尻尾さえも拝めなかった。
時には、近所の暇な(言いかえれば自衛意識の旺盛な、頼もしい)主婦からも意見を聞いた。
近所における早川の評判が概して良好で、猫をたくさん飼っている人にありがちな、ご近所さんとの摩擦もないらしい。
誰か、悪意のある近隣住民がマルをどこかへ捨てた、などと言う線は消えた。
本格的にマルを捜し始めて一週間。俺はもう一つの面倒な依頼をようやく思い出した。
長兄である、竜塚浩平の素行調査。何が悲しくて三十路半ばの兄を追わなくてはならないのか。これなら猫の方がましというものだ。
嘆いていてもはじまらないので、仕方がなく浩平に直接アタックすることにした。
携帯電話を握ってはしまい、ボタンを押そうとしては止め、マルを捜しながら決心がつくまでそうしていたが、太陽が真上に来る頃、ようやく電話をかけた。
「浩平?おっ、俺だけど……」
実兄を相手に吃る自分を笑う余裕などなかった。言葉が続かなくて息苦しくなる前に、電話の相手は大きな声で嬌声を上げた。
仮にも、ドラゴンパークホテルの総支配人にして、竜塚グループの社長たる竜塚浩平は、三十六歳という年齢を一切感じさせない奇妙な喜びようで答えた。いつものことだが。
『どうしたんだ!修平!まさか、お前が電話をくれるなんて! ん?どうした?何か困ったことでもあったのか?』
「今……平気?」
『平気だとも!ちょうど杳の車で移動中なんだ。どうした?元気ないじゃないか。――コラッ、杳!ラジオ消せ!』
杳が心の中で舌打ちする姿が目に浮かぶようだ。浩平に向かってではない。俺に向かって。
浩平はなおも「どうした?」と甘ったるい声で続ける。
「実は…えと、えっと。……最近、元気? 何か、変わったこととか、ない?」
『ないよ。父さんも耀平も元気でやってる。修も元気にしてるか?ちゃんとゴハン、食べてるんだろうな?甘いものばかり食べていたら、身体に悪いぞ。杳の話しじゃ、お前、事務所に寝泊まりしているそうじゃないか。俺が事務所の近くにマンション買ってやるから、きちんとした家に住んで、規則正しい生活をしなさい。防犯面だって、その方が安心だから。家に帰るのがどうしても嫌だと言うなら、お兄ちゃんも強くは言わない。でも、何も事務所に寝泊まりしなくたっていいだろう?なんなら、家政婦でも雇って、ちゃんと栄養管理もできれば文句ないけど。それから……』
「ああっ、わかった!ありがとう、いつも心配してくれて!でも、俺は大丈夫だから!」
『大丈夫なもんか!修は疲れるとすぐに熱を出すだろ。すぐにお腹も壊すし。バテると痩せるし。お前が病気で倒れた時、誰もいなかったらと思うと恐ろしくて仕方ないよ。そうだ、杳を毎日見回りに行かせようか?俺が行きたいところだけど、なかなか身体が空かなくてな。ううん、やっぱり、管理人がしっかりしたマンションを買うべきだな。知り合いの不動産屋なら、駅前に……』
「いいってば!本当に!俺は大丈夫だから!いざとなったら鈴が来てくれるし、ハルカに毎日来られたら、逆に具合悪くなるよ。だから、浩にいちゃんは心配しないで。仕事、頑張って!」
『修平…なんて優しい子なんだ。今度、絶対に時間を作るから。晩飯でも食おうな。そうだ。修の好きな銀座のケーキ屋のチョコレートケーキ、送っておくから。それと…』
「う、うん。ありがとう。じゃあ、浩にいちゃんも元気で!」
…………不覚だ。駄目もいいとこ。話しにならないとはこのことだな。
俺は笑顔で電話を無理やり切り、深々とため息を吐いた。
返す手で、鈴に電話をかける。
『あら、修平、その声はいよいよ浩平さんに電話したのね?それで、いつものように言われたって訳?』
我が幼馴染はエスパーだったのか。
鈴は軽く笑って、「仕方ないわよ」と窘めた。
『いつも言ってるように、浩平さんは修平が心配でたまらないだけ。あの優しさを皮肉と受け取ったら、私が許さないんだからね。それで、その愚痴を言うために電話してきた訳じゃないでしょうね』
「それもありつつ。……マルがさ、みつからなくて。ちょっと助けてほしい」
『へえ。珍しい。うん。いいよ。でも、その前に。会ったんでしょ?MANAに。どんな人だった?』
俺は鈴に促されて、早川真実の印象を鈴に教えた。俺が感じた人柄、容姿、弟子である比賀俊一事。
『いやぁ、そんなに素敵な人なら、私も一度お会いしたいわね』
そこまで弾む声で明るく言い、続けて、急に声が低くなった。
『修平の好きな人、ですもの』
「ち、違うって。『好き』の意味が違う。たとえば、俺が鈴を『好き』なのと同じだよ」
『同じ……なの?…そう、わかった』
「なんで声が低いままなんだよ!」
不可解なまま、鈴は「あっそ」と素っ気なく電話を一方的に切った。
俺のモンキーのシートの上で、三毛猫が丸まり直してこちらをちらりと見る。
「わからないね、女の子は」
三毛猫は高い声で「みゃあ」と鳴いた。猫の言葉はわからなかったが、慰めてくれていると思うことにした。
翌日。日曜日の朝。いつもと変わらぬ明るい笑顔で、風宮鈴が事務所にやって来た。
事務所の簡易キッチンで朝食とお弁当を作ってくれ、それを持ってマルを捜した後、早川の家へ向かった。
一週間前を最後に、早川を訪ねていない。いつも電話で済ませていたのだ。それにしても、鈴がマル捜しに協力してくれることよりも、怒っていないことが嬉しかった。おまけに、重ねてそんな自分の情けなさに呆れた。
昼まで目いっぱい捜して、やはり見つからず、空振り。
申し訳なさで小さくなりながら、鈴を伴って早川家の呼び鈴を鳴らした。
出てきたのは、先日とあまり変わらぬ容貌の比賀だった。俺の顔を見て、軽い調子で「どうも」と手を上げた。
「今日はカノジョ連れッスか?」
比賀は鈴を見るなり鼻の下を伸ばして、俺を肘でつついた。
すかさず鈴がフォローする。
「はじめまして。私は修平の仕事上のパートナーをしています、風宮鈴と言います。比賀さんですよね?お話は修平からかねがね……」
「そういう訳なんで。真実さん、いる?」
鈴は妙に「仕事上のパートナー」を強調して、もう一度比賀に微笑んだ。サービス過剰だ。
比賀は俺と鈴を交互に見やると、にんまりと笑って、鈴に「比賀俊一です。はじめまして」と握手を求めた。
そんなの、握ってやらなくていいのに。
「あ。先生なら、上にいますよ。今日は予定がないから大丈夫でしょう。上がってください」
鈴と比賀の間に腕を入れつつ、「ありがと」と笑って、階段を上った。
途中、階段に座っていた黒猫のレイが大きく目を見開いて、俺にすり寄ってきた。
「あら、可愛い。真っ黒なのね」
鈴が、抱き上げたレイの頭に手を伸ばす。すると、レイは耳を後ろにして鼻に皺を寄せた。
「レイは人に慣れないらしい。俺はほら、例の特異体質」
「違うのよ。人を見てるんだわ。この子」
鈴は不服そうな顔をして、足早に階段を上がった。
階段を上がりきった所にある、もう一つのドアをノックして、「修平です」と呼ばわる。
すぐに中から早川の声がして、ドアが開いた。
出迎えた彼女は……俺は驚いて、抱きかかえていたレイを落としてしまった。
早川真実は、真っ黒で硬そうだった長い直毛を、肩の辺りでバッサリと切り落とし、なおかつ女性らしい柔らかなパーマをかけていた。印象が全く違う。
しかも、全く化粧っ気のなかった顔には、唇に淡いピンク色の口紅がひかれ、肌色もずいぶんと明るい。
「そうか……。それに、眼鏡……」
思わず口に出てしまった。時代遅れの黒ぶち眼鏡ではなく、フレームが小ぶりのしゃれた眼鏡になっていた。
想像を超える変貌ぶりで、その、ええと、垢ぬけて、とても美人になっていた。
呆然と立ちすくむ俺に、鋭い鈴の視線が突き刺さった気がしたが、動けないまま口をだらしなく開けていた。
一方、鈴は比賀にしたのと同じ自己紹介をし、優雅にお辞儀をした。
「はい。どうぞ、中へ。あら?修平さん、どうしたんです?そんな顔して」
仕草もどことなく女性っぽく――いや、彼女は元より女性ではあるが、柔らかくなった気がする。
「すげぇ……綺麗になったなあ、と、思って……」
鈴が俺の足を踏んだ。かなり痛かった。
早川は前とは変らない笑い方で噴き出すと、手を叩いて大笑いした。
「何言ってるんですか!髪の毛を切って、眼鏡を変えただけよ。ほら、修平さんが来た日にね、美容院に行ったの」
そういえば、ホワイトボードに《三時~美容院》と書いてあったっけ。
狐につままれた気分だ。ぎこちなく、俺と鈴は床に座り、スカートをひるがえしてキッチンへ行く早川を見送った。
早川はまだ笑っている。
部屋の乱雑さは相変わらずだ。猫もぞろぞろ出てくる。
「まだ変な顔をしてますよ、修平さん? それで、今日はどんな?」
出されたコーヒーを一口飲んで、ようやく落ち着いた。
「鈴が、真実さんに会いたいって言うもので。すいません。ええと、でも、午前中は捜索してきました。一応、こことここにはいなくて」
俺は地図を広げて、今日まで捜して、見つからなかったポイントに丸印をつけた。
「相手も動くので、いなかったからと言って注意は怠らず、もう少し聞きこみとかしてみようかと思っています。迷い猫を保護している人とかいるかもしれないので」
「そう。そうね。じゃあ、そんな感じでこれからもよろしくお願いします」
早川は軽く俺に頭を下げ、今度は鈴に身体を向けてニッコリと微笑んだ。
「で、風宮さん、どうして私に会いたいなんて言ったんです?」
真意が掴みかねる俺とは違い、鈴は決意を秘めた目で早川を見つめて答える。
「以前、雑誌でMANA先生の記事を読んだんです。私も猫が好きだから、どんな方なのかな、って。ただの好奇心です」
鈴もニッコリと微笑む。
二人して微笑み合うこと十数秒。先に早川が噴き出した。
「あはははは。ごめんなさい。そんなに警戒しないで。私の事も、『先生』なんて止めてください。名前で呼んでね。私も『鈴さん』って呼んでいいかしら」
「構いませんけど……」
「だから、警戒しないで大丈夫。私、修平さんのこと、狙ってないから」
「はあ?」
思わず頓狂な声を上げてしまったのは俺だ。鈴はちらりと俺の顔を見て、「はい」と言った。
「私ね、好きな人がいるの。だから、修平さんとは何でもありません。彼、女の子を褒めるのが上手いし、一緒にいて楽しい人だけど、年下は好みじゃないの」
さりげなくヒドイ事を言われた気がする。俺は軽く反撃してみた。
「それって、『水瀬さん』の事ですか? この間は『好きな訳じゃない』って真っ赤になってたくせに……」
「一週間前はね。でも、なんだかわかっちゃったんだもん。水瀬さんと一緒にいると、他の人と一緒にいるのとは違うドキドキがあるし、側にいてほしいな、って思うし」
「そういうの、わかる」
「鈴さんも?」
「うん。私は一緒にいた時間が長すぎて、ドキドキしたりすることはあまりないけれど。特別なんだ、って痛感しちゃうときがあって」
「そうそう。何か、何だかわからないけれど、他の人とは違うの。代わりはいない感じよね?」
「だけど、相手は気付いていない」
「私もなの。一方通行で…。それも楽しいけど」
唐突に打ち解けてしまった。彼女達は、長年の親友のように俺を無視して話しに花を咲かせ始めた。
居づらくなり、俺は階段を一人で降りて、比賀のいる作業場に顔を出した。
「あれえ、修平さんだけお帰り? さっきの彼女はどうしたんッスか?」
「真実さんと何やら恋愛話で盛り上がってる。意味がわからん。……だけどさ、真実さん、どうしちゃったの?」
俺は側にあった丸いスチール椅子を引き寄せて座り、作業を止めて手を洗う比賀に口を尖らせた。
「ああ、あの変貌ぶり?」
「そう。美人になるのはいいけどさ。マジで驚いたよ、俺」
比賀は手を拭いて「あははは」と破顔一笑した。
「俺もね、びっくりしましたよ。大学があるから、週三ペースとかで通わせてもらってるんだけど、急に美人になっちゃってんだもん。俺は、アーティストとしての彼女をすごく尊敬してるから、『女性』って意識はなかったんスよぉ。意識させない格好をしてたしねぇ。でも、最近じゃあ、あのくたびれた高校ジャージ姿はほとんど見ないし、身の回りの事とかも気を遣うようになりましたよ」
「例の『水瀬さん』の事で?」
「先生も言ってました?曰く、『水瀬さんにだらしない格好を見せたくないっていうよりは、水瀬さんの事が好きな女がだらしないんじゃ、失礼だ』って。俺にゃあよくわかんねえけど」
向かい合って座った比賀は、青いカップを両手で包みこむようにして持ち、複雑な表情で長いため息をついた。
「俺もね、先生が綺麗になるのは大賛成ッスよ。目の保養っつーか?でも、最近の先生、ちょっと変わり過ぎかなあって思うんスよ」
「そんなに急に変わった?」
「急っていうか……全くそんな事してなかった人だから」
「君がそんなに保守的だとは意外だな」
こんな作業場で粘土をこねているよりは、ライブ会場でダイブしたり、モッシュピットで暴れている方が似合いそうだ。
比賀は自分のくたびれたTシャツをつまんで笑った。
「格好は良いんス。ただ、仕事にちょっと支障を来しているのがね。――今、仕事がダブってるって言ってたじゃないっすかー。一方は、先生が熱を上げてる、水瀬さんの《シュウ》。もう一方は、作るのが今回で三体目のお得意様、持田さんの《キヨコ》。カウンセリングに時間がかかるってのはわかるんだわ。持田さんの方は、もう聞かなくても大体わかってるし。でも、ちょっと水瀬さんの方に肩入れしすぎてると思うんスよ。俺は。先生の良い所は、製作者の想いを込めない、クールな所じゃん。だから、今の状況、俺的にはムカツクっていうか……」
「妬いてるんだね」
「違うっつってんじゃんかよ!」
「ううん。男として妬いているんじゃなくて、弟子として、先生を取られるのが嫌なんだろう? 真実さんには《クールで客観的なアーティスト》でいてほしい訳だ」
俺はコーヒーを一口飲んで、比賀に微笑みかけた。
「その顔、反則ですよ。怒る気が失せる。いいよな。顔がイイ奴って」
「君、矛先がズレてる」
「女なら一発でしょ。あ、なんか、腹立ってきた。……って、ああ、そうか。わかった」
殴られるかと思ったら、比賀は自分の膝を打って俺の顔をまじまじと覗きこんだ。
俺の頬に両手をあて、「うん」と再度頷く。
「アンタ、水瀬さんに似てる。水瀬さんが来てると、先生、ものすげえ、メロメロになっちゃって、腹が立つからさあ、帰り際とかに睨んでやんだわぁ。そうすっと、さっきと同じような顔で『さようなら』って言うんだぜ。アホか、っつーの。でも、アイツに微笑まれると、怒ってたこっちが馬鹿らしくなるんだよな」
「俺は君に睨まれたら、微笑まずに逃げるけどね」
「あはは。ああいうタイプは一緒に飲みに行きたくねえな。女の子、みんなそっちに行きそうだもん」
「そんなにいい男と似てるなんて、光栄だね」
「あ、ワリィ。水瀬さんの方が、アンタよりイケてる。金持ちっぽいし。よく見ると似てねえかも」
今時の若者らしい、悪意のない言い方だったので、二人で声を上げて笑った。
一瞬だけ強く光った棘はなくなり、比賀はとても打ち解けた顔でコーヒーを呷った。
その姿を横目で見てから、改めて作業場を見渡す。
土足のまま作業するため、床には木材の破片や木屑が転がり、よく見ると二階同様に乱雑だ。早川らしいと言えば、早川らしい。
「今、何を作ってたの?」
俺は土台――というか、大きな木の机の上にある白い粘土の塊を指差して言った。
「これは土台にかぶせる粘土の大本。これを練って練って薄く延ばして土台にかぶせる訳。いい?」
比賀は立ちあがって、空のコーヒーカップを持ったまま、白い布がかぶせられた人形の前に立った。
「先生が作る人形っていうのは、等身大が基本な訳よ。だから、軽過ぎてもリアリティがないし、重すぎても持ち運ぶのに支障があんじゃん? でぇ、本当の人体の構造に似せて、胴体の部分は背骨の代わりの心棒に針金で肋骨みたく枠組みを組むんだ。それに薄く伸ばした粘土を肉付けしてあらかた作って、その上から和紙を貼る。手足も各々、軽い木材を芯にして、後からくっつけるんだよ」
「和紙を?表面は石膏とかじゃないんだ?」
「粘土が固く固まるから、石膏みたいに見えるだけで、ウチでは石膏は使わないし、死人の人形を作ってるんだから、型取りもしない。あえて最後に木芯は抜かないけど、仏像の脱活乾漆造りの要領と似てるかな。和紙の上に麻布を貼って、また和紙を貼って。そういうのを繰り返して作ると、かなり皮膚っぽくなる。先生が凝り性だから、髪の毛も人毛を買って自作するし、夜とか結構コワイッスよ」
試作品の人形が一斉にこちらを見たような錯覚を覚えた。怪談は苦手だ。胃が痛くなる。
俺は身体に布をかけた少年の人形を向こうへ押しやろうと手を伸ばした。
すかさず、比賀の制止の声がかかる。
「すいません、腹は押さないでください。人間と一緒で、腹の所にはガードがないんですよ。スポンジとか入れるんスけど、今は製作中だから」
「殴ったら、穴が開いちゃうの?これ?」
「穴、開けたら、亡くなってる人形のモデルと、ウチの先生に、ものすごーく恨まれますよ」
「やらないよ。そんな恐ろしい事!」
どだい、他人が一生懸命作った作品を壊すような無粋で野蛮な真似はしない。
比賀は俺のおびえぶりに苦笑して、人形の布を外した。
「俺は恨まれるとかってより、こんなに美しいものを破壊するなんて、そんな冒涜、絶対に許さねえ。自分が殴られるより痛えと思う。――先生はね、製作中の人形を絶対に触らせてくれないんだ。今、俺が作ってるのは、あくまでも試作品。先生の技術を学ぶのが精一杯で、精神までは手が回ってねえ。先生が年に数体の人形しか制作しないのは、自分の魂を削ってるからだって思う。マジでスゲエんだよ、MANAって人は」
白い布の下から現れた少年の人形は、頭の大まかな造りと手足、それに腹にぽっかりと穴をあけた胴体といった姿だったが、比賀の言う通り、崇高な美しさを感じた。
「そんなMANA先生が、どうして今回は一遍に二体も造ってるんだ?」
「水瀬さんの方はだいぶ前からの予約だったけど、持田さんが急にどうしても、って横やりを入れてきて。こっちの《キヨコ》は、持田さんの死んだ娘さんで、一体目は先生がこんなに有名になる前に、死んだときの十五歳の姿を造ったらしいんだ。で、二体目は生きていたら高校入学だからって。今回は、生きていたら今年で二十歳だから、成人式に振りそでを着せてあげたいらしいよ。どうしても、二十歳の《キヨコ》が欲しいんだとさ」
「そんな風に想ってたら、本物のキヨコさんは死ぬに死ねないじゃないか」
「死生観って人それぞれじゃん?俺には持田さんのこと、わかんねえけど」
彩色が施される前の、真っ白なキヨコはどことなく早川真実その人に似た顔をしていた。
俺も幼いころに母親を亡くしているが、人形になって再び戻ってきてほしいとは思わないし、母と同じ顔の人形を飾りたいとは思わない。
「ここへ来る客は、どっか病んでるんだよ。それも、先生が治してるって感じ。だから、実際には人形を造らないで終わっちゃう人も大勢いるんだよね。先生が人形を量産しないもう一つの理由はそれ」
「彼女なら、そんな凄い事もできそうだ」
比賀は自分が褒められたかのように、誇らしげに胸を反らせた。
「あたりまえじゃん」
素直に言える、比賀の若さが羨ましかった。
そこへ、鈴が二階から降りてきた。ようやく会話が一段落ついたらしい。
連れだって家を辞す時、早川は俺ではなく鈴に「また来てね」と言った。二人は共通の秘密を持つ友人になったらしかった。
「比賀君と何を話していたの?」
帰りの電車の中で、鈴が俺の腕に手を絡めながら言った。
「俺の方こそ聞きたいよ。真実さんと何を話してたんだ?」
「修平が先よ」
「……別に。比賀君に人形の造り方とか聞いてただけだよ。それで、鈴は?」
「そうねえ、主に洋服の話し、化粧の話し、音楽の話し…とか」
その「とか」が一番怪しい。どうせ俺の悪口でも言っていたのだろう。だらしがない、とか。
鈴は俺に寄りかかったまま目を閉じた。
「いい人ね。鈴さん。あたしより年上だけど、可愛いわ。水瀬さんの事、本当に好きなんだって。私達、二人とも上手くいくといいねって言ったの」
俺にはいまいち、どういう意味か理解しかねた。
今更、鈴に空々しい恋愛感情など抱いている訳ではないが、それでも幼馴染以上には想っている。彼女が他の男を想う時間など、一分一秒たりともあってほしくない。それを癒えない自分の弱さを隠し、俺は黙っていた。
降りる駅に近付いて、俺は思いつきを口に乗せた。
「俺が初めて会った真実さんは、今日の真実さんと全く別人のようだった。女性は誰か好きな人が出来ると、綺麗になるんだな」
「あんまり変わらないのもいるけどね」
「どこに?」
「ここに」
鈴は自分の鼻を指差して笑った。
「さあ、帰ろう。今日は私が晩御飯も作ってあげるわ。どうせ、あの簡易キッチンじゃあ、簡単なものしか出来ないけど。煮物くらいならできるから。南瓜の煮つけと肉じゃが、どっちがいい?」
「今日、泊まっていけよ」
「…………バ~カ」
一笑に付されてしまった。
半分本気で半分冗談だった言葉は、怒っているのか呆れているのか、はたまた照れているのかわからない口調ではぐらかされた。
その割に、その日の晩御飯は南瓜の煮つけと肉じゃがとほうれん草の胡麻和えと大根と油揚げの味噌汁という、俺の好物ばかりが並んだ。
むろん、風宮鈴は門限の十時前には帰って行った。
数日後、雑事にかまけて早川の家から足が遠ざかっていると、俺の代わりに会いに行ってきたと、鈴が事務所にやってきた。
真っ白い、雪のようなコートを脱ぎ、鈴は両手をこすり合わせてソファーに座った。
「どうだった?彼女、元気だった?」
鈴にコーヒーを手渡し、俺は脚を組み替えた。その膝頭を鈴が手の平でピシャリと叩いた。
「それが聞いてよ。びっくりしちゃったわよ、私!」
今日はいつもの跳ねっ返りの髪の毛を三つ編みにしているため、髪の毛の束が肩にかかっている。
「真実さんね、髪の毛を赤っぽい茶色にして、化粧もね、すっごく上手で、この間よりも一層美人になってたの!」
「俺も行けば良かった」
「バカ」
睨まれてしまった。
「でも、なんでそんなに急に、髪の毛いじったり化粧したりしてんの?」
「はたと目覚めたみたい。普通は好きな男のが出来てデートする時とか、会社で働くことになったときとか、そういうターニングポイントが設定されてるけど、真実さんは、それがなかったんですって。今回は水瀬さんショックなんじゃない?修平は女の子が綺麗になるのは賛成でしょ?」
「嫌いじゃないけど、好きな子が綺麗になりすぎちゃうのは、ちょっと不安だな…」
自分に自信がないから、あまり綺麗過ぎてしまうと、自分と釣り合わないのではないかとか、余計な心配をしそうだ。綺麗になる前の彼女に惚れたのだから、あんまり変わられても戸惑ってしまう。
「ふぅぅん」
今度は上目遣いに見られた。赤くなって、笑っているらしい。
カップを覗きこみ、「おかわり」と差し出してきたので、新しくコーヒーを淹れながら、俺も「そういえば」と続けた。
「水瀬さんの事も聞いた?」
「うん。すごくかっこいいって言ってた。まあ、惚れた人間のフィルター付きだから、どうだかわからないけど。あの人に似てるって。俳優の…」
鈴は、ある若手俳優の名前をそらんじた。くっきりとした二重の甘い顔で、個性的な演技もするその俳優は鈴のお気に入りだ。それなら、鈴も気に入るかもしれない。
「顔はどうとしても、いい人なのよ。水瀬さんって。――今、真実さんが造ってるのは、水瀬さんの亡くなった弟さんの人形で、中学へ上がる前に事故で急逝してね、今回は、憔悴してるお母さんにプレゼントするためなんですって」
「貰っても嬉しいと思う?」
「わかんないけど。その弟君と水瀬さんは血がつながってなくて。義母の連れ子なのよね。つまり、本当のお母さんじゃない継母に、大枚はたいて贈ろうとしてるって訳。金持ちっぽい発想だわ」
「俺には理解しがたい」
「金持ちはいいわよ?」
「貧乏で悪かったな」
家へ帰れば金はあるが、帰れないのだから、金がないということだ。
金か……と遠い目をした瞬間、電話のベルがけたたましく鳴った。嫌な予感がする。
電話に出たとたん、受話器を置きたくなった。
『どうも、杳です』
「あ。ああ……」
『お久しぶりです。全然報告がないもので、お忙しいとは思いましたが、催促の電話をかけさせてもらいました』
言葉は丁寧だが、口調が嫌みだ。杳は慇懃無礼に笑って、「忙しくは……ないでしょうけど?」と付け足した。
「それが、すげえ忙しいんだよ」
『猫を捜すのが?それはそれは。……浩平様は相変わらず行方をくらますことがあります。なるべく早く成果を出してください』
押し殺した声から殺意すら感じる。俺は一寸黙ってから、曖昧に頷いた。
『私は修平さんではなく、修平さんの中にわずかに流れる、浩平様と同じ血を信じていますので、私の期待を裏切らないよう、頑張ってください。言い訳は聞きたくありませんので、失礼します』
反駁も許さず、一方的にプツっと電話は切れてしまった。
「ありゃ、完全にキレてんなあ」
杳を怒らすことなど慣れている。しかし、そのままという訳にもいかない。
「はあ。水瀬さんのような、弟や継母想いの優しい兄もいれば、ウチの浩にいみたいに、弟に心配ばかりかける兄貴もいるんだからな」
「心配ばかりかけているのは修平の方でしょ。そろそろ観念したら?」
鈴に肩を叩かれて、俺は溜息を吐いた。
猫も見つからない。浩平も何をやっているのかわからない。これじゃあ駄目過ぎる。
その日は鈴に牛蒡と砂肝の煮物を作ってもらって美味しく食べた。明日から頑張るために。
翌日、俺は意を決して浩平を尾行することにした。
正午間近に、杳から連絡が入ったからだ。どうやら、昼休みを利用してでかけるつもりらしい。
杳は浩平に仕事をたっぷり押しつけられ、足止めをくらっている。
俺は浩平乗るタクシーを愛車のモンキーで追いかけた。タクシーは小一時間程走って、見なれた街にたどり着いた。――鎌倉だ。
タクシーを降りた浩平は、迷いもなく歩きだす。
その先にある場所……実家だ。
俺は直感的にそう思い至り、同時に落胆した。
「家に帰ってただけじゃん……」
バイクを路肩に停め、念のために浩平の後をつけた。
浩平はコートの襟を立てて、寒風の中、目を細めて低く雲の垂れこめた冬空を見上げながら歩く。時折、行き交う観光客を目で追い、実に楽しそうだ。
机の上の書類とばかり向かい合い、息が詰まっていたのだろうか。解放された背中を見て、俺は複雑な気持ちになった。
ずっとワンマンな父親の意見に逆らうことなく、いい子で居続けた浩平。俺はそれを意気地無しだと思っていた。だが、実は兄弟の中で一番大変な道を選んだのかもしれない。浩平を見ていれば、杳が俺に愚痴を言いたくなる気持ちもわかる。
それほど、鎌倉の静かな街並みを歩く浩平は、幸せそうな、解き放たれた顔をしていた。
ぼんやりと浩平の後を追い、浩平の視線の先を追う内に、ふと、その姿が消えた。
どこか路地に入ったのかもしれない。慌てて辺りを見渡した。しかし、どこにもいない。
消えた場所から十分も歩かない場所に実家があるのは間違いない。きっと家に帰ったのだろう。昼間なら、父親もいないし、のんびりとお茶の一杯でも飲める。見知らぬ女の所へ通っている訳ではないのだ。好きにさせてやったらいい。
俺は杳に電話をかけ、一部始終を話した。
「ハルカが心配するような事じゃないよ。どうってことないじゃん」
「…………そうですか。良かった」
初めて聞く声で、杳は電話の向こうで溜息を吐いた。その後、いつもの刺々しい声に素早く替わり、
《浩平様の事ですから、大丈夫だとは信じていましたが。それにしてお意地悪なお方だ。私に一言おっしゃっていただければ、ご自宅だろうとどこだろうとお連れして差し上げるのに。――ただ、今回は家に帰られただけ、とうこともあります。引き続き、調査をお願いします》
「まだやるの?」
『はい。――修平さんのこと、ほんの少しだけ、見直しましたよ。やっぱり浩平様の弟君だけありますね』
杳の最大級の賛辞に、俺は背筋が凍った。気味が悪すぎる。
俺は早々に「じゃあ」と電話を切った。
浩平が嬉しそうに見つめていた、低い空を見上げる。
夏のコバルトブルーに胸をときめかせるのではなく、こんな寒々しい鉛色の空を心地よさそうに見つめる浩平の心情を考えた。俺も、しっかりしなくては。浩平にすまない気持ちになった。
バイクまで戻り、ついでにマルを捜してみようとエンジンをかけた時、早川真実の家も近いことを思い出した。
美人になったと誉れ高い彼女の顔を見て帰るのも良いだろう。
ふらりと立ち寄った俺を早川はいつもの笑顔で迎えてくれた。
確かに鈴の言うとおりだった。黒かった髪の毛は明るい色になり、眼鏡もコンタクトにしたようだ。かけていない。
「真実さん、変わったねえ」
しみじみ言うと、お茶を出しながら早川は首を傾げた。
「久しぶりに会うからそんな事、思うのよ。でもね、聞いて!三キロ痩せたの!」
ウエストに両手を当て、腰を捻る。元々太っているとはいえない体躯だったが、よりほっそりと女性らしい華奢なスタイルになっていた。
柔らかいシフォンスカートをつまみ、お姫様のように「どう?」と微笑んだ。
「綺麗になった。うん。すごいね」
「そう?嬉しい!あのね、あと、最近ネイルアートとか興味が出てきて。この仕事だから爪を伸ばす訳にはいかないけど、つけ爪とかしてみようかな、って。鈴ちゃんがしてたパールピンクのネイル、すっごーく可愛かったんですよー。フレンチネイルは上品に見えますしね」
「恋をすると、女性は綺麗になるって」
「違います。私、自分の身体とか顔とか、全然いじってなかったから、おもしろいんです。すごくちょっとの変化でも、顔の印象って変わってくるし、化粧はお絵かきと一緒。洋服やダイエットは人形を造ってるようなものかな。誰かに見せたいから、っていうのではありません」
「水瀬さんに見せたいんじゃないの?」
「それは、また、別!」
顔やスタイルばかりでなく、話し方や雰囲気も明るく女性らしくなった。少し暗くなっていた気持ちが晴れて、俺もつられて笑った。
部屋の中も、装飾品が増えて、ざっくばらんな雰囲気は変わっていないものの、優しくなったような気がする。
テレビの横には相変わらずホワイトボードがあり、そこに「来客」の文字を見つけた。
「持田さんって、人形を頼んでる人?これから来るんですか?だから、そんな可愛い格好してるって訳?」
ホワイトボードを指差しながら言うと、小さく首を振った。
「これは…。これはね、今、ちょっと水瀬さんが家へ寄ったから」
「入れ違いかあ。見たかったのに」
「お昼休みに抜けてきただけですって。私じゃなく、人形を見に来たのよ。残念だけど」
そこへチャイムが鳴り、階下から比賀の声がした。案の定、持田という男が来ているらしい。
早川と一緒にドアから顔を出し、階段を覗き込むと、比賀の隣りに壮年の男性が立っているのが見えた。
比賀が俺に手を振り、「そこで持田さんと一緒になったんです。作業場、借りますよ。先生」と、一階の部屋へ消えた。
男は躊躇せず階段を上がってきて、部屋の中央へ座った。あれだけ俺の回りにゴロゴロしていた猫達が一斉に物陰や隣室に隠れてしまった。
鋭い眼光をまともに受け、俺は軽く頭を下げた。猫達と逃げたい。
「持田さん、いらっしゃい。この人は、ウチのマルを探してくれている探偵さんなの。それで、こちら、持田寛成さん。ウチのお客様」
早川に促されて、持田に名刺を渡した。一応、持っているのだ。しかし、持田は俺の名刺など見もせずに、背広のポケットにしまうと早川に相好を崩した。
年のころは五十台後半か六十台だろうか。頑固そうなところが自分の父親を彷彿とさせる。苦手なタイプだ。俺は完全に眼中にないらしい。
「すいません。俺、お邪魔みたいなので。失礼します」
俺が立ち上がると、早川が慌てて俺の手を引いた。
「あら、どうして?まだいいじゃありませんか。コーヒーだって、まだ飲んでないですよ?」
彼女に他意はないらしい。持田と二人きりになりたくないのではなく、持田の俺に対する嫌悪感を感じていないだけだ。戸惑う俺に、持田が低い声で「座りなさい」と言った。
理不尽だ。こういうのは、好きじゃない。
「久しぶりにお会いして、悩みがなさそうなのは良かったですよ」
不機嫌のあまり、嫌味が出た。俺の悪い癖だ。それも早川には通じなかったようで、笑顔のまま、「そうね」と微笑んだ。
「ええ。でも、私も好きな人がいる身ですからね。悩むことだっていっぱいありますよ。そう。持田さんに聞きたかったんですけど、男の人って、会社の女の子を呼び捨てにしたりするかしら?持田さんも、秘書の子を呼ぶときに、名前で呼んでいました?」
「どういうことかな」
「水瀬さんが家へ来ているとき、携帯がよくかかってくるんですよ。その時の相手の人がどうも女の人みたいで。どなたですか?って聞いたら、秘書ですって言うの」
「カノジョなんじゃないんスか?」
俺の横槍に、早川は子供のように頬を膨らませた。
「水瀬さん、彼女はいないって言ってたもん!」
持田は彼女の問いには答えず、肩に手を置いて話題を変えた。
「それよりも、私のキヨコはどうかね?期日には間に合いそうかな?」
「ああ、それは」
持田の興味は水瀬某などではなく、自分の人形のことなのだ。キヨコの話をし出した二人を置いて、俺はそうっと階下へ逃げた。
作業場では、比賀がボンヤリと煙草をふかしていた。
「ここ、禁煙じゃないの?」
「うわあ、びっくりした。え?なに?」
飛び上がって俺に向き直った比賀は、今日は黄色の長髪を一つに結わき、その髪の束が勢い余って振り返った比賀本人の頬に音を立てて当たった。
「ウケ過ぎっすよー。修平さん。あー。マジ、びっくりした。え?なに?もうお帰りですか?」
比賀は、笑う俺に咥え煙草のまま椅子を勧めてくれた。
「本来のお客様が来ちゃったからね。逃げてきた。なんか、苦手なんだ。ああいう管理職タイプ」
「あのくらいの年齢のオヤジなんか、あんなもんじゃん?でも、骨董級に堅物。マジメでさ、俺のこともあんまり良く思ってねえんじゃないかな。今日も、『なんだ、そのふざけた格好は』っていきなり怒鳴られた。人形を造るのに、格好なんか関係ねえっつーの」
「それで不貞腐れて、煙草を吸ってたわけ?」
「ま、そんなところかな。あのオッサン、昔は土建関係の小さい会社の社長だったんだって。金は持ってるけど、使い道を知らないんだよね。全然遊ばずに年ばかり経っちゃったパターン」
「そういえば、例の水瀬さんって人も社長なの?さっき真実さんが言ってたんだけど?」
早川の言葉を思い出した。秘書を持っているとすれば、かなり大きな会社だろうか。
「俺もよく知らねえけど。着てるもんとかは、高そうなの着てんねー。俺も電話に出てんの、見たことあるけど。確かに相手の女の子には、命令口調だったからなあ。そういうプレイ?」
「違うと思う」
何プレイだ。
「どうして、修平さん、水瀬さんのことそんなに気にするんスか?」
「性分?探偵としての。っていうと聞こえがいい?うん、本当は、なんかさ。聞いたことある気がするんだよねー。水瀬さんって名前」
「ふうん。本当かよ。上手く逃げただけじゃん?ま、そういう事にしといてやるよ」
比賀と顔を見合わせて笑った。
早川の顔を見るという、当初の予定は叶ったので、そのまま挨拶せずに帰途に着いた。
その夜、早速、浩平に電話をかけて日頃の労をねぎらうと、兄はとても嬉しそうに「ありがとう」と言った。
「修平が喜べば、それが一番嬉しい」と言った兄の言葉の意味がようやくわかった気がした。




