2 人形作家
2 人形作家
「それで、どっちの依頼もOKしちゃったの?」
昨日とは正反対の、抜けるような晴天の下、風宮鈴《かざみやりん》は呆れた顔で、俺の話を聞き終わるや否や両手を広げた。
「うん」
「う…うん、じゃないでしょ! どうするのよ。大丈夫なの?」
共同経営者とは名ばかりの鈴は、「アルバイトでも雇うおつもりかしら?」と意地の悪い口調で首を振った。
薬王院杳の言うとおり、従業員もいない道楽商売の我が探偵事務所では、依頼のかけもちはしない――正確を期すならば、「できない」だ――が基本である。
鈴は、グレーのトートバッグから手帳を取り出し、もう一度、首を横に振った。
「私、今週は予定がいっぱいなのよ。猫を捜しながら、浩平さんの跡を追うの?」
「浩にいの方はさぁ、まあ、ゆっくりやるよ」
俺はそう答えて、大きく伸びをした。白いベンチの背当てが骨に当たって、凝った身体に効く。
今日は、以前からの約束で鈴と一緒に、鈴の姉を見舞いに来ていた。ここは、その病院の中庭である。
幼いころに、俺の母親が癌で他界し、それ以来兄妹のように育ってきた俺と鈴だったが、俺と星絵、つまりは、俺と鈴の姉とは、兄達と鈴のようにフレンドリーな関係を築くことはなかった。
快活で気後れすることなく誰とでも気さくに打ち解けられる明るい鈴とは逆に、星絵はどこか陰のある、おとなしい女性だった。
彼女の方が年上というせいもあってか、俺はどう接して良いのか幼いながらもわからず、また、彼女も平生では鈴の後ろに隠れていた。
そんな星絵が、小児科医と結婚し、夫の父親が経営する病院で子供を産むことになった。入籍前の懐妊に、誰しもが驚きを隠せなかったが、両家は若い二人を祝福し、今しがた会ってきた星絵の顔はとても穏やかだった。
「星絵ちゃん、安産だといいね」
俺は末っ子だし、親戚の中でも一番年下というポジションだったし、友人たちもまだ誰も子持ちがいないし、なんだか自分の良く知る女性に子供が生まれるのは、不思議な気持ちがする。
「修平は呑気ね…。まあ、お姉ちゃんなら大丈夫でしょ。光司さんのお父さんは産婦人科医で、ちゃんと担当医になったそうだし? 生まれてからだって、旦那が小児科医なら心配ご無用よ」
「星絵ちゃんの旦那さん、光司さんって言うんだ?」
「そう。義兄さん。光司さんは『お兄さん』って呼んでほしいらしいけど、私にとってはね、浩平さんと耀平さんが、『お兄さん』なの」
「俺だって、鈴より年上だぞ」
「修平は『お兄さん』なんて柄じゃないじゃない。『修平』で十分。それで、仕事はどうするの?」
「ハルカだって、どうせ無理を承知で言ってるんだ。大丈夫。いざとなったら、浩にい本人に、『最近、どうしてる?』って聞けばいいじゃん」
再び大きくのびをして、昨日の話を思い出した。
杳曰く。
浩平のスケジュール管理をしている杳の隙をついて、最近、三十分でも時間があると、どこかへ電話をかけ、そして、ふらりといなくなる事があると言うのだ。初めての事態に、杳も探りを入れてみたものの、なかなか要領を得ず、どうやらタクシーを飛ばして遠出をしているらしい以外は不明瞭なのだそうだ。
そして、電話をかけるだけの日があったり、一時間以上連絡が取れなくなったり、そんなことがあった後の浩平は、いつも機嫌が良く、嬉しそうなのだそうだ。
「だってさー。普通に考えたら、彼女とか出来たって事だと思わない? 昼間の時間帯にいなくなるって言っても、じゃあ、夜はどうなんだ、って話で。そこまでハルカだって監視してないと思うし。…してるのかな。まあ、どちらにしたって、無粋な話だよ」
俺は、あの堅物な浩平が、もしやキャバクラ通いなどしているのかと考えると、おかしくて仕方がなかった。
昼間に頻々に会えるとなると、会社員ではないだろう。学生か、さもなければ、夜に仕事を持っていて、昼間は身体が空く女性ということになる。
「女の人って断言できないでしょ?」
「女じゃん?って言ったら、ハルカがギャアギャア怒りやがて大変だった。でも、浩にいだって、いい年齢なんだから。いない方がおかしいって」
「修平は、浩平さんに彼女がいても構わないの?」
「どういう意味だよ。ハルカじゃあるまいし」
「……別に。ただね、私は嫌だな。浩平さんに女がいるなんて話。そっちは修平に一任する。私は口を出せないし。手伝うなら、もう一方の猫捜しにするわ」
もしかすると、鈴は浩平が好きなのかもしれない。そういえば、浩平は鈴の面倒をよく見ていたし。
鈴と目が合った。咄嗟に鈴の方が目を反らす。肩までの跳ねっ返りの髪が踊って、俺の鼻先をかすめた。
「今、ものすごく見当違いなこと、考えてたでしょ。私は『お兄さん』を取られるのが嫌なだけ。いい?馬鹿な邪推している暇があったら、猫探しの方、詳しく教えて」
俺はそっと胸をなで下ろしつつ、うなずいた。
くたびれた鞄から、ファイルを取り出して鈴に示す。
「明日、会いに行かなくちゃいけないんだ」
依頼相手は、早川真実という二十代の女性。職業は人形作家と言っていた。飼い猫の「マル」を捜してほしいそうだ。
鈴は俺の汚い字を凝視して、ふと顔を上げた。
軽く空を見つめ、そして、膝を打つ。
「この人知ってる。人形作家のMANAでしょう!」
「有名人?」
「一部では。精巧な人形を作る新進気鋭の若手作家よ。個展も作品発表もしないことで有名なの。なんでも、『自分の作る人形は、万人が鑑賞する芸術作品ではなく、ただの一人のための商業作品だ』って言っててね。彼女に人形を作ってもらうために、何年も先まで予約待ちをしなくちゃいけないんですって。愛猫家としても有名で、猫をいっぱい飼ってるのよ。猫雑誌に載ってた!」
俺は依頼主がそんな有名人だった事よりも、鈴が猫雑誌を読んでいるということに驚いた。
鈴はバツが悪そうに、「立ち読みしたの」と付け足した。
「そっかー。すごい人に頼まれちゃったんだな。こっちも手抜きは無理だな」
「ナマのMANAに会えるのよ。凄いじゃない。明日は同行できないけど、頑張ってね」
猫好きに悪人はいないという持論を信じて頑張ろう。
鈴に肩を叩かれて、なけなしのやる気を出すことにした。
「それじゃあ、明日、この人に会った後、もう一度電話するよ」
それから少し、くだらない話をしてから鈴と別れた。
次の日は、杳が事務所に来た日と同じような、暗い雨の降る日だった。
しかし、億劫がっていては仕事にならない。
一度ヘルメットを取って、レインコートを羽織ったが、窓の外を眺めれば気が滅入るばかりで、電車とバスを乗り継いで出かけることにした。
車があれば問題はないのに。けれど、俺には免許も車を買う余裕もないのだ。おまけに、こんな場所では駐車場代もバカにならないし、雨の日には面倒だが、まあ、仕方ない。
一張羅のスーツを着て、傘を手に事務所を出た。人に会うときの礼儀だと思っているが、着るたびに些か緊張する。
距離的にはさして遠くなくても、電車を乗り継いで行かなくてはならず、早川の家に向かう道中で、鈴に教わった猫雑誌のバックナンバーを広げてみた。
『らぶねこ九月号』。簡単なプロフィールが載っていた。
『MANA(本名・早川真実)。二十八歳。地元の高校を卒業した後、M美大の造形学科在学中に、ベルギーに長期留学。帰国・大学卒業後、自宅のアトリエにて個別注文の人形を制作。現在は、鎌倉にて大勢の猫たちと一人暮らしをしている。独身』
顔写真は載っていなかった。極端に写真を嫌うらしい。会って拝む楽しみが増えた。
雨の中、到着した早川の家は、古い木造建築の一戸建てで、庭には大木が気ままに茂り、とても女性が一人で住んでいるようには見えない。全てが雑然としていて、周囲の家々の瀟洒な雰囲気から完全に浮いていた。人形作家の家らしくない。というのは、俺の勝手なイメージが悪いからか。
それに、番地で指定された時には気づかなかったのだが、この界隈は、鎌倉の中でも古くから残る閑静な住宅地として有名な地域で、ここから車で十分も行かぬ所に、俺の実家がある。
猫が家の方まで逃げていたらどうしようかと、一瞬目を伏せた。
いいや。ここで怯んではいけない。
一人で住むには広すぎるであろう家を眺めて、今一度気合いを入れた。物事は良い方に考えよう。この辺りは裏道も知っている。猫を探しやすいじゃないか。
俺は体についた水滴を手で払って、呼び鈴を鳴らした。
どんな美人人形作家が迎え出てくれるのかと期待して待つと、にわかにドアが開いた。
「今日、お約束しておりました、竜宮探偵事務所の竜塚と申しますが・・・」
「こんな天気の中、わざわざすみません。どうぞ」
出てきたのは、よれよれの青緑色のジャージを着た、これまたイメージとはほど遠い女性だった。
真っ黒のボサボサな髪を無造作に輪ゴムで引っ詰め、化粧っけの全くない顔に、時代遅れの大きなフレームの黒縁眼鏡をかけている。先ほどからしきりにジャージのズボンをずり上げているのは、ウエストのゴムが伸びているためだろう。胸元にはご丁寧に高校の名前まで入っている。
「すいません。今、作業中なもので」
俺の不躾な視線に気づいたのか、早川はそう言って「どうぞ」と再び付け足した。
玄関を上がるとすぐ目の前に階段があり、その脇のドアの向こうが作業場になっているようだった。一階部分が全て仕事場で、二階が住居スペースになっているらしい。
「上がってください」
階段の上から声が降ってきて、慌てて靴を脱いだ。
そのとき、階段の隅にいた黒猫が俺の顔を見て「にゃあ」と鳴いた。
「やあ、おじゃまするよ」
挨拶すると、黒猫はグルグルと咽を鳴らして足にすり寄ってきた。
子猫と成猫の中間くらいだろうか。人間で言うなら少女くらいの黒猫を抱き上げ、頭をなでると、いっそう咽を鳴らして俺の腕に頭をすり寄せる。
その可愛らしい姿に相好を崩し、抱き抱えたまま階段を上って室内に入った。
殺風景でいて、乱雑なダイニングキッチン真ん中に、様々な物が積まれていて本来の板面が見えない足の低いテーブルがある。早川はそれをごっそり片腕でなぎ払った。雑誌や書類などが大きな音を立てて派手に落ちたが、できた空間に満足げにうなずく。軽く手を降り、「さあ」とこちらを向いた。
「さあ、座ってくださ…」
言葉が終わる前に、振り向いた笑顔が氷った。
俺が何か気に障る事でもしたのかと、小首を傾げると、早川はいきなりはち切れたように笑いだした。
「すごい!どうして?」
何の事かさっぱりわからない。
俺と腕の中の黒猫を交互に見るため、しどろもどろに口ごもった。必死に言い訳をつくろう。
「いや・・・。あの、玄関先で、この子が挨拶してくれたから、俺の方も『おじゃまするよ』って。それで、なんか、可愛いもんだから、だっこしちゃったんですけど、えと、触っちゃいけなかったとか?」
「違うの!そう、レイが?すごいわ!」
早川は興奮した様子のまま、「まあ、座って」と座布団を差し出してきたので、おとなしくそれに従った。
「マルの捜索をお願いしたものの、今日になってどうしようかと正直迷っていて。でも、レイが気に入ったのなら、お願いしなくちゃね」
俺の膝の上で丸くなる黒猫レイの頭を撫でながら、優しく笑んだ。
「いきなりすいません。びっくりされたでしょう?」
「あ、ああ、ええまあ」
「この猫ね、レイっていうんですけど、ちょっと訳ありで。いつもは私以外の人には絶対になつかない子なんです。うちにいる子達は、みんな、保健所から引き取ったり、保護団体や愛護団体からもらったりした子ばかりなので、人間が嫌いな猫ばかりなもので。特にレイは人見知りが激しくて……。あら?」
早川が語る間に、どこからわいて出てきたのか、様々な体色の猫達がぞろぞろと出てきて、俺のあぐらをかいた膝頭や腰に頭をすり寄せて「にゃあ」と鳴いていく。
「本当に不思議な方ですね。みんな『歓迎します』って言ってるわ。まあ、アヤメまで?」
レイとは対照的に真っ白な美猫が、早川の言葉に長い尻尾を一振りした。
「何匹いるんですか?」
「完全室内飼いの猫は、いなくなったマルを含めて六匹です。そのほかに、どうしても家に入ってくれない通い猫が三匹います」
すり寄る猫達の頭や顎の下を撫でていると、みな、思い思いに俺に体を預けたり丸くなる。
「俺、昔からなぜだか猫に好かれやすくって。外で猫に会うと、みんな寄ってきて、膝の上に乗りたがるんですよ。猫好きが猫に好かれるんだから、嬉しいんですけど」
「見ればわかります。本当に猫がお好きみたい。猫の方もね。良かったわ。猫探しで、まさか猫嫌いの人が来るとは思っていなかったけど、竜塚さんのような人なら安心ね。……ごめんなさい、お茶を煎れますね。それから、マルの話もしなくちゃ。事務的なことも。まずは竜塚さんから、どうぞ」
どうぞと言われても、猫があちらこちらで身体を預けていて、なかなか身動きが取れない。幸せそうな猫たちの邪魔をしないように細心の注意を払いながら、鞄から手作りのパンフレットを取り出し、料金設定などを説明した。
早川は聞くなり即座に「お願いします」と契約書にサインをして微笑んだ。
よく笑う女性だ。第一印象の不格好さとは違い、笑むと花が咲いたように場が和む。
人形作家と言われて、気難しくて無愛想な人物を想像していた。まして大勢の猫と暮らしているなどと、人間嫌いでもあるのかと勘違いしていたところもある。見当が外れて、正直ホッとした。
「今日、マルちゃんの写真をお借りして、ポスターを作ります。近隣に貼って、とりあえず情報を募集しましょう。俺も、この付近を捜しますから。あ、それから、俺のことは『修平』って呼んでください。自分の名字、あんまり好きじゃなくて」
「そう?じゃあ、私も名前で呼んでください。人形を作るときの名前もMANAですし」
「知ってます。ずいぶんと有名だとか?」
早川は破顔一笑して、「違いますよ」と手を大きく振った。「全然有名じゃないです」と。
「それに、有名になりたい訳じゃないしね。修平さんは、有名になりたいって願望、あります?」
「俺は……どうかな。半々。ものすごく有名になって、今の仕事に反対している身内に認めてもらいたい部分もあるけど、逆に探偵として有名になるってどーよ、って思う。それこそ、有名になるために探偵を選んだ訳じゃないですから」
「よく、テレビに出てる人とかいるじゃない?」
「大変なことになるだろうな。俺の家、ちょっと特殊だから」
実兄の素行調査を依頼されている弟というのは、客観的に見てもかなり異常だろう。……自分で言っておいて思い出した。浩平の方も調査せねば…。
不意に黙った俺に、早川は雪崩をおこした周囲から、アルバムを捜しだしてテーブルの上に開いた。
猫ばかり写っている。しかし、どの猫も生き生きとした表情で、撮り手が愛情を持って接しているのが伝わってくる写真だった。
「これが、マル。お腹に丸い模様があるから、マル。単純でしょ。室内飼いの猫だけど、たまに脱走しちゃうんです。でも、ちゃんとご飯のときには戻ってくるのに、もう一週間も戻らなくて……」
マルは、白地に黒いバイカラーの猫で、早川の言うとおり、腹の真ん中に丸く黒い毛が生えている。片方の耳がギザギザだし、鼻の横に傷があるため、個体識別しやすそうだ。緑がかった金色の目が可愛い猫だ。
「可愛いですね、マルちゃん――痛ッ!」
マルを褒めたとたん、膝の上で寝ていると思っていたレイが片方の爪を出して、俺の太ももに刺さった。
早川がそれを見て、また大笑いする。
「レイったら、ヤキモチ焼かないの!ごめんなさいね、修平さん。レイは人に懐かないものだから、あんまり『可愛い』って言われたことがなくて。マルに焼いてるんですよ。ねえ、レイ?」
レイは返事をせずに、長い尻尾を上下させた。ふてくされた仕草が可愛らしく、レイの耳元に「レイちゃんも可愛い」と言うと、今度は「みゃあ」と鳴いた。
「すごいわ。手慣れたものね。人間の女性に対してもそうなのかしら?」
口を尖らす早川を見て、俺も噴き出した。
「そうだったら、もっと幸せになってたかも」
「あら、残念。せっかく口説いてもらおうと思ったのに。でも、私みたいなの、口説いてもしょうがないですよね」
思えば、ここは彼女の自宅だ。忘れていたが、男の俺が上がりこんで長居しては申し訳ない。
しかし、早川は平然と笑った。
「人形作りの注文の時は、この部屋でお話を聞きますから。人形というものは十分芸術作品になり得るものだと思っているし、芸術的な人形を作る人もいるけれど、私は一人の人のための人形を作りたいの。たくさんの人が鑑賞する対象としての人形ではなく、ある人にしか価値がわからないような人形を。――そんな風に思っていたら、いつしか亡くなった人の人形を作るようになっていたんです。最初は叔母から、事故で亡くなった娘の、生前のままの姿の人形を作ってほしいって言われて。私は死んだ従姉妹を知っていたけれど、姿をそのまま写し取った型代は作りたくなかったから、叔母から丹念に話を聞いて、叔母の胸に生き続ける従姉妹を、と思って作りました。出来た人形は、生きていた頃の従姉妹とあまり似ていなかったけど、叔母は喜んでくれた。とても嬉しかったんです。それから、口コミで広まっていって、生前の若かったころの妻を作ってくださいって言われたり、別れた夫に引き取られた息子の代わりを作ってください、とか。『自分の作品を手放すなんて』って批判されたこともあったけど、出来た人形に私の思い入れなんか入ってちゃダメなんです。お客様の気持ちだけ入っていればいい。そうやって人形を作っている手前、どんな作品に仕上げていくかは、お客様との話し合い…聞き取りに依るところが大きくて。思い出とかいっぱい聞かなくてはいけないから、一番落ちつけるこの部屋でじっくり聞いて作ります。……話し、ズレちゃいました?」
「少しズレたけど、真実さんがどんな人なのかわかった。凄いですね。立派だ」
「立派だなんて、そんなことありません。意固地なだけです。ようするにね、私が仕事を引き受ける人は、相当切羽詰まっている人ばかりだし、頭の中は思い出でいっぱいなんです。私の格好とか、そんなの気にする人はいないと思って」
「まあ、確かに、しんみりと思い出を聞くのに、ドレスは必要ないもんな」
よれよれのジャージには、ちゃんとした意味があったのかと、反対に嘆息した。すると、早川は自分の格好を大げさに見分し、口を尖らす。
「私、洋服って大事な所が隠れていて、寒くも熱くもなければ同じだと思うんです。こまめに掃除しても、猫がいるからすぐに汚れるし。確かに、少しは考えろって言われるけど」
「興味は他にもあって、そっちまで手が回らない、とか?」
「したいことがあるの。しなくてはならないこと。今は人形作りと猫だけで手いっぱい。今回も、仕事が重なって忙しいんですよ。本当なら、マルも自分で捜したいけど、難しくて」
「そのために俺がいるんですから。真実さんに代わって、必ずやマルちゃんを捜しだしますよ」
ここで太鼓判をボーンとは押せないが、大きな事を言って笑いかけた。
「ありがとうございます。それで……一つ頼みがあるんですけど…あの、マルの調査状況を逐一教えていただきたいんです。修平さんがちゃんとお仕事をしているかどうかとかじゃなくて、『今日はどの辺りを捜したけど、いなかったよ』って、そんな事で良くって。他の仕事との兼ね合いもあるでしょうから、毎日じゃなくてもいいです。でも、進捗状況を教えてほしいんです」
何を言われるのかと身構えたが、そんなことはお安い御用だ。
俺はレイの頭を撫でながら、大きく頷いた。
「真実さんのお仕事のお邪魔でなければ、捜した帰りにここへ寄ってもいいし、構いませんよ。大切なご家族がいなくなったんだ。ご心配でしょう?俺の方は大丈夫ですから」
「ああ、良かった。本当に。――レイ、貴女の目はずいぶんと正しかったわね」
レイは顔を上げて、誇らしげにひと鳴きした。
結局は長いしてしまった事を詫びて、真実の家を退出した。
帰り際、レイが何度も鳴いて俺を引きとめたが、連れて帰る訳にもいかず、苦笑しながら手を振った。
外はすっかり晴れていて、今にも歌いだしそうな柔らかな陽光が輝いていた。
来た時と同じく電車を乗り継いで事務所に戻り、真っ先にマルのポスターをパソコンで作った。
猫探しには根気が必要だ。今回の件は、マルが家猫だったことから、何らかの理由で帰れなくなった可能性がある。遠くへ行きすぎて迷子になったとか、最悪、子供に悪戯されて、どこかへ繋がれているとか。何事もなく元気でいてくれると良いのだが。
事務所を開いてから、家には帰らずにここで寝泊りをしているため、ソファーに寝転んで、少し仮眠をとった。
いや、仮眠のつもりがそのまま熟睡してしまったらしい。夕飯も食わないまま、気がつくと朝になっていた。
朝――と言っても、世間的にはお昼前。差し込む光で目が覚めた俺は、とりあえず近くの銭湯へ行き、その帰りに食えるものを買って事務所に戻った。
風呂に入っても目が覚めず、まだぼんやりとしながら、見切り品のリンゴと菓子パンをコーヒーで流し、腹ごなしを終えた。こんな生活をしていたら、いつか倒れるな、俺。
今日はいい天気なので、愛車のモンキーにまたがり、昨日作ったマルのポスターをリュックに詰めて早川の家へ向かった。わずかに春の香りがする風が心地よく、鼻歌でも出そうな頃、早川の家に着いた。
バイクを停め、呼び鈴を鳴らす前に、何気に玄関ドアを引くと、抵抗なく開いた。
不用心だと思いつつ、二階に向かって「すいません」と呼ばわった。すると、傍らのドアが開き、見知らぬ若者が現れた。
「どちらさん?」
男に厳しい口調で言われても、その姿に驚いてしばし言葉が出なかった。
若い男は、二十代前半くらいだろうか。黄色い髪の毛をポニーテールにして、耳と鼻にシルバーピアスがいくつも輝いている。サイケデリックな柄のシャツを二の腕までまくっているのだが、肘の内側に剣のタトゥーまで見える。
男はぴったりとした黒い革パンのポケットに手を入れて、「ねえ、どちらさんですか?」と言った。
「あ、ええと、昨日、真実さんに、猫のマルちゃんの捜索を依頼された、竜塚探偵事務所の竜塚と言いまして……」
俺の言葉尻にかぶって、男が「ああ!」と大声を上げた。
「アンタが『奇跡の男』!レイが気に入った唯一の人ね。先生に聞きましたよ!へえ、レイって猫のくせに面食いだったんだ。ああ、先生なら今、降りてきますよ。さっきまで客が来てたんでね。こっちへどうぞ。人形作りに興味があるんでしょ?」
男が半分身を引いて、仕事場のドアを開けた。
躊躇する俺に、男が破顔一笑した。
「自己紹介が遅れましたね。俺はMANA先生の押し掛け弟子の比賀俊一です。週に何度か、こうして通って、教えてもらってるんッスよ」
笑うと子供っぽい顔になる。見た目よりは怖くなさそうだ。
俺は安心して比賀の後についた。
昨日、ちらりと覗いた仕事場は、二十畳はあろうかという広いワンフロアに、様々な人形作りの道具やパーツが並んでいる。アトリエというよりは作業場に近い雰囲気だ。
壁に沿って置かれた大きなチェストの上に、少年や少女の人形が、白磁色の肌を晒して並ぶ姿は、見慣れぬ俺には不気味だ。精巧に作られているからこそ、美的な感動よりも、リアリティが迫ってくる。
「ああ、それねえ、見本品なんッスよ。今作ってるのは、そっちの女の子のヤツと、これね」
比賀がシーツのような真っ白い布の上に座る少年を抱っこして笑った。その人形と俺の顔を交互に見比べて、鼻を鳴らす。
「あれえ、コイツ、竜塚さんになんか似てねえ?」
「コラ!比賀クン、触っちゃ駄目!」
唐突に早川の声が飛んできて、比賀が飛び上がらんばかりに驚いて、人形をそっと置いた。
「先生……」
「先生って言い方もなしでしょ?……修平さん、ごめんなさい。お待たせしちゃった?」
早川は、昨日とは打って変わった姿をしていた。
髪の毛を肩に流し、ハイネックのセーターに、ロングスカート。アクセントに、鮮やかな色のモヘアのショールを掛け、微笑む。
「比賀君に人形を見せてもらってたから……ええと、あの……」
ちょっとした違いなのに、女性とはかくも変わるものなのか。それに、俺の態度も。
早川は静かに歩みより、「じゃあ、二階へ」と笑みを深めた。
呆然と立つ俺の裾を比賀が引っ張った。
「ほら、見とれてないで、さっさと行く!先生ねえ、最近、水瀬さんって――客なんだけどさ、その人が来ると、ああしてオシャレするようになってさあ。ビックリした?大丈夫。中身は変わってないから」
比賀の気さくな調子に、ようやく足が動いた。
俺は早川の後について階段を上り、昨日通されたダイニングに、すり寄ってきたレイを抱えて入った。
この部屋も、雑然とした雰囲気は変わらないものの、昨日とは違って片付いており、あれだけ堆く積み上げられていたローテーブルの上には、色鮮やかな果物が描かれたテーブルクロスまでかかっている。
早川が振りかえり、口をあんぐりと閉じられない俺に座を勧めた。
「ちょっと座っててください。私、着替えてきます」
ロングスカートと黒髪をひるがえして、早川がドアの向こうに消えた。
残された俺は、ぼんやりと腑に落ちない気持ちで部屋を見回した。
よく見ると片付いている、という訳でもなさそうだ。どこか別の部屋で大移動したのだろう。
室内を見回る内に、テレビの横のホワイトボードが目に入った。
テレビの画面と同じくらいの大きさのそれには、あらかじめ消えないインクでノートのように横罫線が数本入っていて、その行間に行儀よく女性らしい文字で何事か書かれている。
『八時/打ち合わせ(水瀬様)』
『比賀クン朝~』
『三時/ 美容院。予約済み』
その他にも、野菜の名前――買い物メモ代わりなのだろう――や、電話番号、次の日の予定まで雑多に記されていた。
「お待たせしました」
もう少し近寄ろうと腰を浮かせたタイミングで、早川が隣室から戻ってきた。
ハイネックのセーターはそのままだが、ロングスカートはジャージに代わり、長い髪の毛はゴムこそ輪ゴムではないものの、引っ詰めて頭頂に束ねられていた。
「ごめんなさい。ちょっと、お客様だったもので」
「水瀬さんってですか?」
彼女の頬が心なしか桃色になった。
「比賀クン?」
「ええ。まあ。それに、あそこにも」
俺はホワイトボードを指差した。
「……お仕事ですからね!」
「俺に念を押さなくてもいいですよ。ただ、仕事相手と打ち合わせをするときはジャージで十分だって言ってなかったかなあ、と思って・それに、朝の八時からってのも、早過ぎじゃないですか?」
見ず知らずの水瀬某に妬いたのではなく、単純に疑問に思った。
しかし、俺の言葉を早川は意地悪と受け取ったらしい。顔を一層赤らめ、口を尖らせた。
「お仕事の前に寄ってもらったんです!水瀬さん、忙しい方だから。……それより、今日の成果はどうだったんですか?」
「忘れてた。ポスターを作ったので、見てもらおうかと思って」
俺はリュックから自作のポスターを取り出し、テーブルの上に広げた。
に十分ほど、早川とマルの捜索ポイントやポスターを張り出す場所を相談し、話は再び雑談に戻っていった。
「俺、人形は一人で作るものかと思ってたから。比賀君を見て驚きましたよ。彼、美大生?」
「そう。元は私のお客様だったの。いえ、違うわね。私が作った人形を後学のために、って嘘をついて買ったんだから」
「どういう事です?」
早川の口調は穏やかで、どうやら怒っている訳ではないらしい。俺は崩れた正座をそのままに首を傾げた。
「私の人形が欲しいからって、存在しない死んだ妹の話をでっち上げて依頼してきたの。巧妙に出来ててね、白血病で、小学校四年生の夏休みに亡くなった、とか言って」
「もしかしたら、今まで真実さんが作ってきた人形の中にも、そういうのがあったかもしれませんね」
「うん。だから、そうまでして私の人形を欲しかったのなら、弟子になる?って言ったんです。格好はあんなだし、口は悪いし、男のくせにお喋りだけど、根は真面目で素直な子なのよ」
「ふうん……」
「あ、でも!」
急に早川が俺の肩を掴んだ。勢い込んで言葉を続ける。
「付き合ってるとか、そんなことは全然ありませんから!家に泊まらせることもないし、私、年下に興味ないから!変な詮索は止めてくださいね!」
「うん、ま。真実さんが好きなのは、『水瀬さん』ですもんねー」
「そう!」
言ってから、早川は口を押さえて真っ赤になった。
軽く出た当て推量が、ばっちり当たったようだ。
早川はがっくりと肩を落として、世も果てもないくらい暗い顔で俺を一瞥した。
「意地悪」
「意地悪じゃないですよ。いいじゃん。好きなら。どうして嫌がるの?」
「好きじゃないのよ。別に、そう…『好き』なんかじゃ……嫌だ、好きだなんて!ああ、もう!どうしよう。違うんだってば!」
小学生でさえ、今時こんな反応はしないだろう。それほど狼狽して、顔を赤くしたり青くしたりしている。見守る猫達が不安げに早川にすり寄った。
「三十路手前の女が、こんなに照れるなんておかしい?」
「そんなに不躾な顔で見てました?」
「火星人でも見るみたいな顔でね。だから!違うのよ!別にね、そういう意味でなく!勢いで『うん』って言っちゃっただけで」
「それで保留しておきましょう」
「悔しい。そんなウソツキを見る目で言われても、全然嬉しくない!」
「聞いてほしいなら、聞きますけど?」
「結構です!」
肩を怒らせてそっぽを向く彼女は、何とも可愛らしく、俺は大笑いしてしまった。
結局、その場は笑いながら退室し、帰り際に一階の作業場で人形の土台と格闘中の比賀に「マナ先生、何かしたんですか?」と問われた。
「二人だけの秘密」
そう言って、マルのポスターを片手に早川の家を出た。




