1 雨の日の訪問者
1 雨の日の訪問者
雨の日が好きだ。霧雨も、豪雨も、どんな雨も。
それに、客が来ないことへの、かっこうの言い訳になる。
「こんな寒い雨の日になんか、わざわざウチみたいなヘボい探偵事務所に依頼に来る奴なんか、いないっつーの」
誰も聞いていないのを承知で、静かな部屋で口に出して言い訳を吐いてみる。少しは気が楽になった。
昨年の春に、誰でも入れる三流大学を規定ぎりぎりで卒業して、ここ、横浜市関内に探偵事務所を開いてから、無駄な言い訳にもずいぶんと慣れた。
一代でホテル王となった、豪傑と謳われる父親と、なるべくしてなった俺とは大違いの、出来の良い優等生の長兄。それから、自己主張が激しくて要領の良い次兄から解放されるべく、幼馴染の風宮鈴を巻き込んで、ここを開いたはいいが…。
遠ざかれば遠ざかるほどに、父や兄達の手の上で遊ばせてもらっているのを痛感し、最近ではいささかうんざりしていた。
このオフィスを借りるのも、ローンを組むのも、すべては「竜塚グループ会長の末子」「ドラゴンパークホテルの総支配人の末弟」という肩書が伝家の宝刀のごとく大車輪で活躍し、はっきり言ってそれが説明できさえすれば他は何も必要ない。社会的地位なんて、金でくらませることができる。現金でさえ、「家の方に請求書をまわしてください」の一言で、持たずに買い物ができたりもする。やったこと、ないけど。
やれないだろう? やっぱり。人として。っていうか、男としては。
繰り返し聞かされる小言は、「出来が悪くて」でも「迷惑かけるな」でもなく、毎回「戻ってこい」なのに。
それでも、俺に才能があるのか、ただ単に運が良いだけなのか、犬猫探しから浮気調査まで、些細で深刻な仕事をしつつ、今までこの小さな事務所に寝泊まりしながらでも他人様に迷惑かけずに生きてこられた。それだけは褒められてしかるべきだと思う。
「でも……、客が来ない」
いっそ、ハッピでも来て呼び込みするか?
俺は再び窓の外を眺めて、「や、やっぱ。雨だし」と呟いた。
俺の大好きな雨はやむ気配もなく、滔々と滝のごとく降り続いている。陰雨に塗り込められたて気温も下がり、良い具合にやる気も下がってきた。
すると、その時、複数の階段を上る足音が聞こえてきた。
この亀ビルという細長いビルは、一階に一フロアしかなく、まして上がってくるには錆びついた外階段を一列になって上るしかない。上の四階と五階は空きテナントだから、もう少し上ってくる音が長ければ、客だ。
来たとなったら来たで、せっかく早く看板を下ろしてのんびりしようと思ったのに。などと、愚痴が出る。
足音は期せずして、我が、竜宮探偵事務所の前で止まった。
俺は姿勢を正して、ノックしてきた扉の向こうの相手に「どうぞ」と低い声で言った。
「失礼します」
そう言って姿を現したのは、こんなボロイ探偵事務所には、およそ似つかわしくない立派な背広を着た男だった。それも三人。
誰もが大手企業の重役と思しき年齢と威圧感を備え、肩や足にわずかに残る水滴を手で払いながら、部屋へ入ってきた。「竜塚修平先生? ですね?」
奇妙な半疑問形で、真ん中の恰幅の良い男が重低音で言った。
「先生」と呼ばれた奇態さよりも、俺は久しぶりにバイトの面接でも受けているような気分になって、どちらが客だがわからない落ち着きのなさで、何度もうなずきながら三人にソファーを進めた。
まごつきつつ、出がらしのお茶を三人の前に置き、今一度顔を見渡した。
俺の名前を確認したということは、トイレを借りに来た訳ではないだろう。嫌な違和感でいっぱいになりながら、かすれた声で「それで……?」と首をかしげた。
「初めてお目にかかります。アポイントメントもなく、大勢で押し掛けまして、申し訳ありません。私の名前は、蝶野と申します」
縦の幅よりも横の幅の方が広そうな、真ん中に座る男が頭を下げた。
次に、蝶野の右隣に座る、神経質そうな男が眼鏡を触りながら頭を下げた。
「私は、猪埜と申します」
「はじめまして、鹿原です」
最後に、一番人のよさそうな小柄な鹿原が頭を下げた。慌てて俺も頭を下げる。
なるほど、三人そろって猪鹿蝶ということか。キャラクターと名前が合致してないけど。
「早速ですが、竜塚先生にお願いしたいことがありまして、本日こうして参りました。聞いてくださいますか?」
蝶野がことさら声を低めて俺を睨んだ。なにやら、怪しげなニオイがしてきた。
「どのようなご用件で? ご依頼の内容によっては、お受けできかねることもございますが」
「簡単な事です。ある方の素行調査をしていただきたい。タイムスケジュールを作っていただきたいのです」
蝶野が何度もうなずいて、猪埜に顎をしゃくった。
それに反応して、猪埜が膝の上に抱えていた銀色のアタッシュケースを机の上にドンと置き、俺を見据えた。
「調査費用はそちらの言い値で結構。とりあえず相場の三倍は今、即金で持ってきています。こちらも時間がありません。竜塚先生にぜひとも首を縦に振っていただかなければ、我々も社に戻れません。どうか、お願いします」
胡散臭い。咄嗟に思った。
蝶野の「ある方の」という言い方がまた輪をかけている。彼らでさえ、会社での地位は平社員ではないことが一目瞭然だ。それなのに、そんな蝶野が「ある人」ではなく、「ある方」と言うという事は、それ以上の人物。しかも、俺のような弱小探偵に名指しで来ることもおかしい。
「もっと詳しくおっしゃっていただかないと。それに、社会的地位の高い方の素行調査となると、人員もそれなりに必要で、ウチみたいな小さな所よりも、大手の興信所などをご利用になった方がよろしいのではないかと……」
「何をおっしゃいますか! 竜塚先生だからこそ、こうしてお頼み申し上げているのです。ええ、先生のおっしゃる通り、多少は難しい仕事かもしれません。ですが、我々も、先生を見込んでお願いしているのです!」
鹿原が甲高い声でいきなりまくしたてた。
「こう言えば、信用してくださいますか? 私どもは刀糸紡績を通じて、夜刀家会長と昵懇の仲でして、会長のお孫さんの事件をお聞きしたんです。それで、竜塚先生に、我々も是非に、と!」
もみ手でもしかねない勢いだ。いや、してるか。
「せめて、調査対象者の『ある方』というのが誰なのか教えていただかないと……」
「では?」
「いえ、違います。……どなたの素行調査をご希望なんですか?」
答えようとする鹿原を、蝶野が片手で制して身を乗り出した。低い声を、聞き取れないほどに低める。
「わが社の社長です。最近、秘書でも行動をつかみ損ねておりまして。なに、若い社長ですから、外に女でも囲っておりますと後々厄介ということで。そこで、夜刀家会長ご推薦でもあり、口が堅いと評判の竜塚先生にお願いしたのです。こう言っては大変失礼ですが、なまじ大きな興信所に頼んで事が大きくなり、社長本人のお耳に入ってしまっては困りますし。これは我々が独断で決めた事なのです。どうか、ご内密にしていただきたい」
「他の誰でもなく、竜塚先生にお願いしたいのです」
「即金を置いていく用意は出来ています。この金を見過ごされるのはあまりに軽挙と申せましょう。どうぞ、ビジネスなのですから、ご心配なさらずお受けいただきたい」
猪鹿蝶の順で、強引に俺の手を握った。
「先生は誤解されていらっしゃるようだが、これは別に犯罪行為でも何でもありません。社長に内密のまま進めたいというだけで、他に後ろ暗い条件や理由はありません。それに、我々の上司に、『竜塚先生ならば簡単なことだから』と推されました。その言葉を反故にはできない」
「この一件が無事に済みました暁には、当社の人事関係に絡む身辺調査なども大規模にお任せする用意もあります。先生には才能がおありだ。枯渇させるのは勿体ないですよ!」
「失礼ですが、先生のような方が構えるオフィスにしては、あまりにも淋しいように感じます。少しでも、先生の御身分に相当するようなオフィスをお持ちになりませんか?」
こんなに「先生」を連呼されたのは初めてだ。俺は少しずつ勘違いし始めていった。
「依頼は、蝶野さんの会社の社長さんの素行調査をするだけなのですね? どのくらいの期間、調査すればよろしいんですか?」
「受けてくださいますか!」
「もう一人、共同経営者がおりまして、普段なら私一人でも仕事を選びますが、このように大金が絡む問題ですと、彼女にも許可を取りたいので、後日ご連絡を……」
「な、なにを今更! 早いところ是と言うてください! どうして躊躇するんですか! わからん人ですなあ!」
蝶野の態度が変わってきた。明らかにイライラと眉根を寄せ、居丈高に俺を見下ろす。困った愚息を見る目だ。
「猪埜君も何とか言ってくれ」
水を向けられた猪埜は、アタッシュケースを開いて、中に詰まった札束を俺に握らせ、
「この金が欲しくないんですか! 欲しいでしょう! 欲しくない訳がない!」
どうしてそんなに断言できるんだ。そりゃあ、欲しいけど。
威圧的な中年男性に気おされて、俺は視野狭窄に陥っていった。まるきり俺一人が悪いことをして叱られているようで、恐怖すら感じる。
そういえば、明日が家賃を支払う最終期日だったっけ。そのくせ、ガスストーブなんか買ったから金がないし。最近、肉も食ってないな……。
「竜塚先生! 簡単な事です! 『受ける』と言ってください! そうすれば、この金も、将来の名誉も貴方のものだ! おわかりですな?」
まるで、神の言葉のごとく、蝶野の低い声が事務所内に響いた。
猪埜が札束ごと俺の手を握り締めて、ひきつった笑いで「早く!」と言う。
三人から代わる代わるねじ込まれる事、約十分。
正常な理性と判断力は蒸発し、俺はこの怪しい依頼を受けざるを得ない心境になった。
「わかりました。この一件、お引き受けしましょう」
その一言で、三人の猪鹿蝶が「おおっ」と歓声を上げた。ホッと胸をなでおろし、浮かしていた腰をようやくソファーに落ちつける。
「いやぁ、その言葉を聞いて安心しました。良かった。本当に良かった」
そんなに喜んでもらえれば、俺としても嬉しい。もしかして、俺って凄い探偵だったのかも。
「竜塚先生に了承してもらわなければ、薬王院さんに何と言われるか! 嗚呼、本当に良かった!」
鹿原の甲高い声に、俺は一瞬、凍った。
「今、何て……」
薬王院などという名前が世の中にホイホイいるとは考えられない。襟足の辺りがチリチリと焦げるような、くるぶしが溶けるような。何とも嫌な苦いものが胃からせりあがってきた。
「相変わらずですね。修平さんは」
ゆっくりとドアが開いて入ってきた男は、漆黒のロングコートについた水滴を払いながら、俺の顔を見て軽く会釈をした。
「……ハルカ……」
嫌な予感は的中した。
「お久ぶりです。ここも、いつもと同じ。汚いですね」
薬王院杳《やくおういんはるか》は、猪鹿蝶を片手で追い払うと、俺の目の前に腰を下ろし、口の端をつり上げて笑った。
この男、薬王院杳などという、流麗な美女のような名前からはかけ離れた、大柄な偉丈夫で、俺の長兄の、秘書である。
一回りも年の違う兄、浩平が父親の仕事を手伝いうようになって初めて秘書を持ったのは、もう十年も前だ。浩平にとっては、最初の部下が杳ということになる。
正しくは、杳は「秘書」ではなく、「側近」で、杳を中心とする若手グループが、今の竜塚グループの推進力になっている。
杳は「浩平様」の「出来が悪くて、浩平様や会長に迷惑ばかりかけている頭痛の種」である俺を嫌っていて、会うたびにチクチクと嫌味を言いやがる。兄が俺を気にかけるのは、兄の勝手であり、俺が頼んだことでも何でもないというのに。
杳にとってはとにかく俺という存在自体が気に入らないらしい。
自信家で、何でも出来て、偉そうで、理論整然としていて、俺が苦手な要素が服を着て―それも、仕立ての良い高級なスーツを着て―いつもふんぞり返っている。しかも、俺に甘い兄の前では決して俺を悪く言わず、猫をかぶっている。
「なんでハルカがここにいるんだよ……」
「『どうして?』……愚問ですな。私は蝶野達の上司ですから」
血の気が引いた。一瞬にして、爪先まで真っ白になった。こいつが絡むとろくなことがない。この男は『浩平様』と、会社の利益しか考えない男だ。
俺は馬鹿にしきった顔で微笑む杳から目を反らし、気まずい顔の猪鹿蝶を一瞥した。こいつら、知っていて俺にお世辞を言っていたのか。ちくしょう。
「まさか、本気じゃないよな? 俺に、浩にいの素行調査をしろなんて」
「本気です。正式な契約ですよ、これは。修平さんになら簡単でしょう? 他の誰でもなく、『竜塚先生』になら」
そう言って、杳は珍しく声をあげて笑った。
ああ、何て腹の立つ奴だ。この顔を浩平にも見せてやりたい。
父や兄達は杳を信用しきっているし、次兄の耀平も、杳とは同い年という共通点もあってか、大変仲が良い。俺だけ孤軍奮闘して、そして、負けっぱなしの上、誰からも理解されない。
杳は長い脚を組みかえて、おもむろに煙草をくわえた。すかさず蝶野がライターを差し出す。
「ずいぶんと偉そうじゃん。杳。俺は騙された側だろ。素行調査なんてしないからな」
「騙されていたとは心外ですな。ちゃんと依頼内容をお伝えした上で、引き受けられたでしょう? だいたい、蝶野達から名刺も受け取らず、社名も聞かないまま依頼を受けるなんて、軽率すぎますね。この三人がわが社の者だったから良かったようなものの、いかがわしい会社の者だったらどうされますか? 浩平様や会長にいいと言われているからとは申せ、竜塚グループの名に泥を塗るような事だけはしないでください。私が許しません。……それにしても、社会的地位のありそうな中年男性に強引にされれば呆気なく落ちるだろうという、私の予想は見事に的中した訳ですね。わかりやすい方だ。おまけに大金が絡めば、なお弱い。こんなはした金、竜塚家に戻ればいくらでも自由にできるでしょう? 浩平様が『戻ってこい』とおっしゃってくださっている間に、素直におなりなさい」
「説教しにきたのか?」
「説教に聞こえましたか? それは修平さんに疚しい気持ちがあるからでしょう」
「……」
「仕事もないのでしょうが。きちんと代金を出しますから、ビジネスとして、仕事をしてください」
「確かに仕事は少ないよ。でも、ウチの会社関係の仕事だけは、干されても何をされても絶対にしないぞ。家の言いなりには絶対にならない!」
「子供みたいに駄々をこねないでください。これだけの金があれば、当分はこの貧しい生活を維持していけるはずですよ」
「大きなお世話だ!」
俺は勢いよく立ちあがって、事務机の上にあるファイルに手を伸ばした。俺にだって、事件依頼の一つや二つ……ない。
肩を落とした俺の耳に、いきなり電話のベル音が飛び込んできた。拾い物の割には、気の利いた時に鳴る電話だ。
俺は杳の吐きだす紫煙を目で追いながら、受話器を取った。
「はい、竜宮探偵事務所です」
『あの……チラシを見てお電話したんですけど、そちらで猫を捜してくれるとか?』
電話の相手は若い女性のようだ。
杳に背を向け、何の予定も書かれていないスケジュールノートを広げて、彼女に先を促した。
『うちで飼っている雄猫で、五日前から帰ってこなくて……』
杳が後ろで「間違い電話ですか?」と皮肉を言っているのが聞こえ、俺は勢い込んで「必ず捜しだしますよ」と請け負った。
早川真実と名乗ったその依頼主に、詳しい話を聞く約束を取り付け、電話を切った。
一呼吸置き、俺は心の中で気合いを入れて、杳に向き直った。
「そういう訳で、今、依頼が入ったから。そっちの依頼はお断りする。こっちだって遊びじゃないんだ。身内の問題は後回し。ほら、帰れ」
しかし、杳は怯むどころか、いつもの嫌な笑いを浮かべて、ゆらりと立ち上がった。
百九十センチ近くある杳が、俺を見下ろす。
「いけませんよ、修平さん。契約は契約だ。こちらの方が、成立が早い」
「どこに証拠が? 俺はそんなこと言ってないっての」
「証拠なら、ここに……」
杳の手が猪埜の背広の内ポケットに伸び、そこから、何やら小さな機械を取りだした。丸いボタンを押すと、先刻からの会話が冒頭から再生された。
「き、汚ねぇ! 録音なんかしてたのかよ!」
「修平さんこそ、汚い言葉ですね。いけませんよ、竜塚家の三男がそんな言葉づかいをしては」
「何言ってんだ。返せよ、それ!」
俺は杳の手の中の、小さなレコーダーを取ろうとしたが、奴は長身に任せて手を高く掲げで素早くかわす。おまけに、反対の手で俺の肩を掴み、上体が揺らいだところへ、腰を払ってこともなげに俺をソファーに座らせた。
俺は尻もちをついた格好となり、まったくもって忌々しい。
「彼らは嘘など言っていません。これは竜塚グループにとって、大変由々しき問題です。修平さんにも無関係ではない。しかも、貴方は前金を受け取ったではありませんか」
「あ……、あ、あれは、その人がお金ごと俺の手を握っただけで、俺は別に……って…あれ?……」
悔しさが頂点を越し、逆に冷静になってきた。
いつも長兄のSPのように、どこへ行くにもくっついていく腰巾着の杳が、どうして浩平の素行調査なんて、しかも、この俺に頼むんだ
杳の腰の低さ――これでも、杳にしてみれば俺に頭を下げているのと同じなのだ――も異常だ。
蝶野達が嘘を言っていないとすると、杳も浩平の行動を掴み損ねているというわけで……これは確かに由々しき問題かもしれない。
「杳はいっつも浩にいと一緒だろ? 俺が探る必要なんてないじゃん。まさか、ただ単に『浩平様』の仕事ぶりを見せて、俺に改心させようって魂胆じゃないよな?」
「ふぅん。その手もありましたか。修平さんは浩平様のご活躍ぶりを見れば、その自堕落でほぼニートな現状を改めると?」
「俺が聞いてんだよ」
杳に初めて動揺の色が見えた。苦節十年間いびられ続けてきて、初めて見る顔だ。どうやら、浩平の行動がわからずに、一番困っているのは杳のようだ。
「……なぁーんだ。頼れる腹心なんて看板背負ってるくせに。もう要らないって言われた?」
「な、なにを根拠に!」
おや、いい調子だ。この男のウィークポイントはここだったのか。もっと早く知っていれば、快適な思春期を過ごせたのになあ。
「浩にいだって、もっと自由になりたいんじゃん? あの年で彼女もいないなんてさー」
「貴方なんかと一緒にしないでください!」
杳が目の前の机を思い切り拳で殴った。ドスンという大きな音が事務所内に響いて、猪鹿蝶が身体を震わせる。俺も少しだけ驚いた。
「俺とは似ても似つかぬ、優秀で賢いお兄様が粗忽な真似でもしたら、乳母としては気が気でないってか? た変だなー。お前もー。……でもな、これだけは言っておくぞ。俺は竜塚グループに関わる仕事は一切しない! 絶対だ!」
俺も負けじと机を叩いた。しかし、ポコンと変な音がしただけで、どうにも迫力に欠けた。情けない。
上目遣いに杳の様子を窺うと、固く目を瞑り、見たこともない表情で何事か逡巡していた。
少し待つと、煙草の火を揉み消し、座りなおして溜息を吐いた。
「それでは、私個人からの依頼というのならどうですか? 金も、私のポケットマネーから出しましょう。何度も申し上げますが、浩平様はまだお若く、大変魅力的な方です。正直に言って、実に個人的に浩平様が心配なのです。性質の悪い女に引っかかっているとは考えにくいのですが、わざと私を遠ざけて、ふらりと外出されるのはどうにも解せません」
「なんだよ。やっぱりただのヤキモチかよ。依頼主が誰かって問題じゃなくて、実家に関わる仕事がイヤだって言ってんだよ。それに、杳はいつも目が届く所にいた浩にいが、どこか遠くに行っちゃうようで嫌なだけだろ?」
杳はうなずかなかった。もう一本煙草を取り出して、ゆっくりと煙を燻らせ、ただ軽く顎を上げた。
「『修平さんなら』という言葉も嘘ではありません。誰にも、浩平様のプライベートを覗かせる気はありませんが、実弟の貴方になら、いたしかたない。今一度、考えてはくださいませんか?」
レコーダーを机の上に置いて、俺の眼を見据える。ここで頭でも下げれば可愛いのに、杳はそんなことは決してせず、口調を変えた。
「浩平様は、今やマスコミにも顔を出されるお方です。貴方にとっては『一番上のお兄ちゃん』かもしれませんが、ここにいる蝶野や猪埜を含め、私ども、グループの系列傘下で働く人間は、浩平様の将来が即ち自らの将来でもあるのです。低俗な週刊誌に嘘で固められた無責任な記事でも載って、わが社のイメージと株価が下落しては、修平さんだってこんな道楽商売はしていられなくなりますよ。現在の貴方がいるのは、優秀なお父様やお兄様方、そして竜塚グループが合っての事と、お考えください」
「脅迫じゃん。それ」
「脅迫?……そう感じたのでしたら、それでも結構。浩平様のためならば、どんな汚名でも着ましょう。貴方に戯言を言われたくらい、痛くも痒くもありませんね」
一々癪に障る事を言う奴だ。
杳に対峙したまま、しばらく考えた。
考えて、俺は決断した。
「杳に恩を売っておくのも悪くないかも。俺の恩はめちゃくちゃ高価いぞ。なにせ、俺にしか出来ない事なんだろ? これは金のためじゃないからな。覚えておけよ。それでもいいのか」
「……靴でも舐めろとか言われると、困りますけど」
「そんな冗談が言えるなら安心だな。わかったよ。詳しいことを聞くよ」
「はい。では……」
杳は個人的な感情を一切排した顔で、姿勢を正した。浩平の後ろに控えている時の顔だ。
いつの間にか猪鹿蝶はいなくなっており、俺は杳から浩平の奇行のあらましを聞くことになった。
二人きりの事務所の窓に、雨が激しく打ち付けていた。




