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序章

 序章 


 一月二十一日。今年の場合、大寒。例年は二十日だったと記憶しているのだが、今年は俺の誕生日にあたってしまった。

 暦の上で一番寒い日、というだけで、なぜか心まで寒々しい。

 

 誕生日を心待ちにしなくなったのは何時からだったろう。

 家を出て、あたたかく祝ってくれる人がいなくなってからだろうか。いや、祝ってくれる人は、今でもいる。いることはいるが。


 俺は布団にもぐりなおし、小さく首を捻った。

 俺に母親の思い出はない。兄に優しくされたのは幼いころだけだし、父に褒められた記憶もない。

 こんなに感傷的になるのは、今日が一月二十一日だから。きっとそう。何もない今日だから。

 

 おもむろに目を開けた。茶色い、木目の美しい天井。手に触れているのは、柔らかな羽根布団。

「あ、そっか。事務所じゃないんだっけ…」

 思わず、一人呟いた。この家に居候に来てから、初めての冬。


 去年の春、とある事件がきっかけで、この禾又(かゆう)|家に転がり込んだ。

 家主の禾又睦月さんとその娘の葉月との、気がねない暮らしは思いのほか快適で、改めて感謝しつつも、いつまでも独り立ち出来ない自分にうんざりもする。俺は甘えている。


 時計は八時を回っていた。俺は気合を入れて、布団の上に身体を起こした。

 張り詰めた空気の冷たさに身体がこわばった。

「修平さん、起きました?」

 引き戸の向こうから、葉月の声がした。

 少し逡巡した気配の後、葉月が戸の向こうから顔を覗かせる。

「起きてます?」

「起きてる。なんだよ、オマエ、学校は?」

「ボクの学校、休校です、って。大雪警報発令中ー」

 道理で寒いはずだ。俺は布団の上に広がったままのカーディガンを羽織り、起き上がった。

「睦月さんは? 仕事?」

「うん。今朝早く。あのね、すごい雪。庭なんか真っ白で、テンション上がっちゃうです」

「この時期の雪なんか、珍しくないだろ」

 両の手を引く葉月の後ろ姿を見ながら、俺は幼いころに散々聞かされた話を思い出した。

「俺が小さい頃にも大雪が降ったことがあるんだ。その時、母さんが俺をおんぶしたまま五回もコケたらしくて。だから今でも俺の頭は絶壁なんだそうだ。危ないから、用もなく外には出るなよ」

 葉月の歩みがぴたりと止まった。そのまま振り返り、俺の子頭部を背伸びをして撫ぜる。

「あ、本当。修平さん、後頭部が真っ平らだ」

「そういう事。雪はいいから、飯、食わせろ」


 廊下を右折して、そのままダイニングキッチンへ直行。葉月もおとなしくついて来た。

 椅子に座り、ぼんやりと葉月越しの窓を眺めると、外は真っ白に煙り、俺は小さく震えた。

「修平さん、今晩、何食べたいですか? 父さんがね、今夜は修平さんの好きなものにしよう、って」

 なんでも好きなもので良いって、と言いながら、葉月が目の前に湯気の立ち上るコーヒーを置く。

 手慣れた手つきでパンをトースターに入れ、ふと俺の顔を見た。

「寒いの?」

 俺が頷くより早く、葉月は俺の後ろに回って、母親がするように――とは申せ、俺も葉月も母親がどんなものか知らない――ギュウっと抱きしめた。葉月の赤いセーターが顎のあたりでチクチクと乾いた肌をくすぐる。


 不意に葉月の力が抜け、次の瞬間、少女の人格が入れ替わった。快活な葉月ではなく、その声は降る雪より白く透明な、柚月の声で俺を呼んだ。

「……竜塚さん? ああ、朝食の途中でしたか。すみません。今、作りますから」

 柚月が俺の背中から離れた。背中の肉もうっすらと剥がれたように、一層寒くなった。

 身体を捻ってリビングを見れば、どうやら向こうは暖かく暖房が焚かれているようだ。俺は柚月が出すバタートーストや目玉焼きを無言でかき込み、礼もそこそこにリビングに逃げた。

 ガスストーブと床暖房のダブルタッグで、広いリビングは文字通り楽園と化しており、ソファーに埋もれながら、安堵のため息を吐いた。

 そこへ、コーヒーカップを両手に持った柚月が苦笑しながら現れた。

「そんなに、寒かったんですか?」

「寒かった」

「冬生まれなのに、ですか? それとも……」

 柚月はカップをテーブルへ置き、自分はココアを飲みながら俺の隣に座った。

「誕生日、おめでとうございます」

「なんで……知ってるんだ?」

「風邪には風邪薬。と、同じくらい常識です」

 昨日から鼻を啜っていたのを知っていたのだろう。柚月はエプロンのポケットからドリンクタイプの売薬を取りだし、コーヒーの横に置いた。

「そんな訳ないだろ? 睦月さんに聞いたのか?」

「それじゃあ、近所のヒマワリ内科に行くと、風邪の場合はいつでも同じ抗生物質と鎮痛剤しか処方してくれない、っていうのと同じくらい、常識ですから。…あの、液状の風邪薬って、嫌いでしたか?」 

「これ、効くんだけどなぁ、どうも苦手で」

 漢方の甘くて苦い味はどうにも慣れない。飲んだ方が病気になるんじゃないかと思うほど、マズイ。

 俺はせっかくだけど、と、机の端に薬を追いやり、豪快に鼻をすすった。誕生日に風邪をひいているっていうのも、なんだか情けない。

「今日は盛大に誕生パーティーでもしようと葉月が張り切っていたので、何か御馳走でも作ろうかと思ったんですが。何か食べたい物、ありますか?」 

「この大雪じゃあ、買い物にも行けないだろう? 危ないからいいよ。別に、祝ってもらうほどめでたい訳でもないし」

「父さんが帰りにケーキを買ってくるそうですから、買い物があれば大学に電話して一緒に頼めばいいんです。ボクも葉月も父さんも、竜塚さんのお誕生日、一緒にお祝したいです」

 柚月の大きな瞳に見上げられて、ドキッとしてしまった。

 暗く重い理由があって、この娘は数奇な運命をたどってしまった。この愛らしい顔立ちでさえ、彼女を不幸にする要因にしかならなかった。長い睫毛、二重のぱっちりした瞳、心持ぽってりとした赤い唇は、均衡を崩すことなく人形のように、俺の目の前で怪訝そうな顔をしている。

 ジタバタするのも、ひねくれるのも、ばかばかしくなってしまった。

「ありがとう、柚月。でもな、雪の日に大荷物を持って歩くのは危険だから。今日は家にあるもので済まそう」

 俺が笑顔で柚月の頭を撫でると、ようやく柚月も笑顔でうなずいた。大人びた表情が和らいで、やはり柚月は笑っているほうが可愛い。

「そうだ。どうせ今日はどこへも行けないんだし、アルバムを見せてください。誕生日に自分を振り返るのもいいじゃないですか。『振り返るほどの人生じゃない』っていうのは、なしですからね」

 柚月が珍しく、葉月のような軽口を言った。

 俺は精いっぱい嫌そうな顔をして立ちあがり、そしてまた座りなおした。

「駄目、ですか?」

「寒いから嫌だ。俺のアルバム、部屋の本棚にあるんだよ。廊下って寒いじゃん。だから、嫌だ」

「ボクが取ってきます。本棚のどの辺りですか?」

 それから暫くして、柚月がワインレッドの古ぼけた布張りのアルバムを二冊抱えて戻ってきた。

「あっちこっち引っかき回さなかったろうな?」

 葉月ではなく柚月ならば大丈夫だろうが、軽い口調で聞くと、柚月は花が咲くように微笑した。

「葉月に探してもらったから。……竜塚さんの部屋って、色々な物があって楽しいですね」

「さりげなく気になることを言うなッ」

 笑いながら、柚月が机の上にアルバムを広げる。

「これだけですか?」

「うん。あとは実家だ。これは俺が幼稚園くらいまでと、高校の時の。ごく最近のは事務所にある」

 長兄が写真魔かというほど、俺の写真ばかりバカバカと撮りまくり、それが実家にアルバム数十冊分ある。やれ小学校の運動会だ、文化祭だ、近所の子供会の遠足だ、クリスマス会だ、と、イベントごとに整理してあり、何を考えているのか、それは俺の部屋でも居間でもなく、長兄の部屋に鎮座しているのだ。

「チビの時の写真は、母さんも写ってるからさ。それと、高校時代のは浩平が焼き増しさせろってうるさかったから、嫌がらせにネガごと持ってきた。中学くらいまでは、せっせと俺のイベントに付きまとってたけど、高校に入っちゃうと浩平も仕事が忙しくて来られなかったからな」

「浩平さん、かわいそう!」

「どこが!」

 アルバムをめくりながら、柚月が眉を寄せた。

「ボク、浩平さんの気持ち、わかります」

 馬鹿な友人達と、馬鹿面下げて写っている馬鹿写真のどこにそんな魅力があるのか、俺には到底理解できない。偏差値が良くもなく悪くもなく、ドロドロと貯まった無個性な中流意識の行くような学校で、周りの顔ぶれも中学時代に見知った顔と同じという、面白味のない所だった。制服だって、中学の時とほとんど変わらぬ紺色のブレザーで、唯一、高校生になってネクタイを締める事と、靴がそれまでの白い運動靴ではなく、茶色や黒の革靴に変わっただけだ。神を染めたりといった、微々たる校則違反もないまま、大変、無難な高校生活だった。

「これなんか、今のオマエと同い年だぞ。クラスにいるだろ。こんなアホ」

 真っ白いTシャツに紺色のホットパンツという、やけに若々しい恰好の俺が、赤い鉢巻を頭に巻いて、なにがそんなに嬉しいのかピースサインをして笑っている。いや、本当に恥ずかしい。

「今の高校生より、幼い感じがしますね。竜塚さんも可愛い」

「そりゃ、携帯もなけりゃ、プリクラも出始めの頃だぞ。大昔もいいところだ」

 俺は柚月から乱暴にアルバムをひったくった。

 すると、ふわりと一葉の写真がアルバムから舞落ちた。柚月がすかさず写真を拾い取った。

「竜塚さん……これ…誰ですか? この女性……」

 写真を俺にぐいぐい押しつける。顔が険しい。

「恰好から察するに、そんなに昔の写真ではありませんね? 誰なんですか!この女!」

「お前は俺の女房か! い、いいだろ、別に」

 唇を噛んで、写真から顔をそむけた。真っ黒い子猫を胸に抱いた、若い女性の肖像。その写真の中で、時が止まったままに微笑む彼女の笑顔を、俺は未だに正視できない。

「竜塚さん! では、どうしてこんなアルバムに隠すように挟んであったんですか?」

「まだ直視出来ないんだ。事務所に置いておきたくなかったんだ!」

「……だったら破って捨てます」

 柚月が写真を引き裂こうとする。俺は慌ててその手を引き止めた。

「わかった。話すから。話すから、破らないでくれ。彼女の写真はそれだけしかないんだ。それしか…」

 忘れていた感情が目の奥から溢れてきた。

 あの恐怖と惨劇。

「竜塚さん、泣いてるんですか?」

 俺の涙が柚月の手にポタリと落ちた。


 あれから三年の春が過ぎ、もう四年も経とうとしている。そろそろ話せるかもしれない。

 俺は彼女の名前を、記憶に封印していた名前を、下を向いたまま呟いた。


「彼女の名前は、早川真実。お前に会う前に、彼女と知り合った。どこから話そうか。

 

 ――あれは、雨の日だった。今日のように寒い、もしかしたら、今日よりもずっと寒い日だった」


 柚月は俺の手を握ったまま、深くうなずいた。

 物語は、三年前の冬にさかのぼる。








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