喪服のパティシエと、裸足のコメディアン
漆黒のドレスを纏い、夜明け前の厨房に立つ女、琴乃。彼女の指先が生み出すのは、宝石のように冷たく、完璧な造形の菓子だ。かつて愛する夫と共に歩んだこの場所で、彼女は夫を亡くしたあの日から、自分自身の時間も冷凍庫の中に閉じ込めてしまった。
彼女が自分一人のためだけに焼く朝食の菓子。それは、誰にも分かち合わない、孤独という名の儀式だった。
店の向かいにある、今にも崩れそうなアパートのベランダ。そこには、赤鼻をつけた男、文彦が立っている。彼はかつてお茶の間を賑わせたコメディアンだったが、今は見る影もない。妻に去られ、世間に忘れられ、残ったのは使い古したギャグと、震える指先だけ。
文彦は毎朝、琴乃がオーブンに火を入れる時間に合わせ、ベランダで全力のパントマイムを披露する。壁にぶつかったり、見えない風に吹き飛ばされたり。琴乃の凍りついた横顔に、一筋の亀裂を入れるためだけに。
ある朝、文彦は派手に転んで、商売道具の赤い鼻を琴乃のテラスへ飛ばしてしまった。
「すまないね、お嬢さん。それは僕の、なけなしの魂なんだ」
取りに来た文彦の足元を見て、琴乃は眉をひそめた。彼は雪の降る朝だというのに、薄汚れたサンダルを履き、手にはコンビニの安売りパンを握りしめていた。
「そんなものを食べて、誰を笑わせるつもり? 砂糖の質も、バターの香りも知らない喉で吐き出す言葉に、誰が救われるというの」
琴乃は文彦を店内に招き入れた。彼女が彼のために用意したのは、ガトー・ア・ラ・リュミエール。光のケーキだ。
表面は吸い込まれるような漆黒のチョコレートで覆われている。しかし、文彦が震える手でフォークを差し入れると、中からは溢れんばかりの鮮やかなオレンジのムースが顔を出した。それはまるで、深い絶望の底に隠された、剥き出しの希望のようだった。
文彦が一口食べると、オレンジの爽やかな酸味と、カカオの重厚な苦味が舌の上で踊った。サクサクとした生地の食感が、彼の萎縮した脳を心地よく叩く。
「……美味しい。ああ、生きてる味がする」
文彦の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。赤い鼻を付け直す暇もなく、彼は子供のように声を上げて泣いた。その顔は、どんな変顔よりも滑稽で、どんな芸よりも真実味に溢れていた。
それを見て、琴乃の唇が、数年ぶりにわずかだけ弧を描いた。
「ふふ。合格よ。世界で一番、不器用な泣き顔ね」
窓の外では、夜の終わりを告げる朝日が差し込み始めていた。黒いドレスを着たパティシエは、少しだけ重いカーテンを開けた。
「明日の朝も、その不細工な顔を見せてくれるかしら。とびきり苦いキャラメルを用意しておくから」
文彦は涙を拭い、照れ臭そうに笑った。二人の間には、まだ名前のない、けれど確かな甘い予感が漂っていた。




