第9話 限界との対話
コーナー9が、迫る。
凪の視界に、急激な右カーブが飛び込んでくる。このコースで、コーナー3に次ぐ難所だ。侵入速度は、時速110km/h。ブレーキングポイントを間違えれば、確実にガードレールに突っ込む。
凪は、前を走る3台を見た。1位と2位は、まだ遥か先。だが、3位の車が、視界に入ってきた。距離、約50m。白いランサーエボリューション。
「……届く」
凪は呟いた。アクセルを、さらに踏み込む。
「ブォォォ……ガガガガ……」
エンジンの金属音が、さらに大きくなっている。凪は、温度計をちらりと見た。水温が、100度を超えている。完全にオーバーヒートの領域だ。
「……クソ」
凪は舌打ちした。だが、アクセルを緩めるわけにはいかない。ランサーとの距離が、縮まっている。50m、40m、30m。
コーナー9まで、あと200m。凪は、ブレーキングポイントを計算した。50m手前。あと150m。ランサーは、既にブレーキングの準備に入っている。速度を落とし始めている。
凪は、まだアクセルを踏み続けた。速度が、120km/h、130km/h、140km/hと上がっていく。ランサーとの距離が、さらに縮まる。30m、25m、20m。
そして、ブレーキングポイント。凪は、ブレーキを踏んだ。
「ガガガガガッ!」
全力ブレーキ。タイヤが悲鳴を上げる。速度が、急激に落ちていく。140km/h、120km/h、100km/h、80km/h。荷重が、フロントに集中する。車体が、前のめりになる。
ランサーが、目の前にいる。距離、わずか10m。凪は、ハンドルを切った。右に。ランサーの内側を突く。
「キィィィィン!」
タイヤが、限界ギリギリで路面を掴む。シルビアが、ランサーの横に並ぶ。
ランサーのドライバーが、驚いた顔で凪を見た。だが、凪は見返さなかった。ただ、前を見る。コーナーの頂点を目指す。
二台が、並走したままコーナーに突入する。凪は、アクセルを0.5秒戻した。荷重が、さらにフロントに移る。車体が、内側に巻き込まれる。
そして、アクセルを開ける。
「ブォォォン!」
シルビアが、立ち上がり加速する。ランサーより、0.3秒早い。その差が、距離になる。シルビアが、ランサーの前に出る。
「……抜いた!」
凪は、小さく叫んだ。順位が、上がる。4位。
だが、喜んでいる暇はない。エンジンの音が、さらに悪化している。
「ブォォォ……ガガガガガ……キィィィン……」
金属音に加えて、高音の悲鳴が混じっている。明らかに、異常だ。凪は、温度計を見た。水温が、105度。赤いゾーンに入っている。
「……やばい」
凪は呟いた。このまま走り続けたら、エンジンが壊れる。だが、止まるわけにはいかない。前方には、2台の車が見える。2位と3位。いや、違う。さっき3位だったランサーを抜いた。今、前にいるのは、1位と2位だ。
凪は、歯を食いしばった。
「……もうちょいだ」
凪は呟いた。
「頼む、クロ。もうちょいだけ、頑張ってくれ」
エンジンが、応えた。排気音が、変わる。
「ブォォォォン!」
まるで、最後の力を振り絞るように。凪は、アクセルを踏み続けた。
前方に、長いトンネルが見えてくる。湾岸線の名物、約1キロのトンネル。ここを抜ければ、ゴールまであと3キロ。
凪は、トンネルに入った。視界が、一瞬暗くなる。そして、オレンジ色の照明が、車内を照らす。排気音が、トンネルに反響する。
「ブォォォォォン!」
シルビアの音が、何倍にも増幅されて聞こえる。凪は、その音に包まれながら、前を走る2台を見つめた。
1位は、黒いボディ。距離、約100m。2位は、赤いボディ。距離、約60m。
凪は、2位を狙った。
「……あと少し」
凪は呟いた。アクセルを、床まで踏み込む。もう、これ以上は踏めない。
「ブォォォォォン!」
エンジンが、絶叫する。回転数が、8500に達する。完全に限界を超えている。だが、シルビアは応えてくれた。速度が、150km/h、155km/h、160km/hと上がっていく。
2位の車との距離が、縮まっていく。60m、50m、40m。赤いボディが、はっきりと見えてくる。RX-7だ。ロータリーエンジンの甲高い音が、トンネルに響いている。
「キィィィィン……」
凪は、その音を聞きながら、さらに加速する。RX-7との距離が、30m、20m、10mと縮まる。
だが、その時。
エンジンから、白煙が上がった。
ボンネットの隙間から、白い煙が噴き出す。冷却水が、沸騰している。完全にオーバーヒートだ。
「……クソっ!」
凪は、舌打ちした。だが、アクセルを緩めなかった。
「……まだだ!」
凪は叫んだ。
「まだ、止まるな!」
エンジンが、応える。排気音が、さらに高くなる。
「ブォォォォォォン!」
まるで、凪の意思に応えるように。白煙を吐きながら、シルビアは走り続ける。
RX-7に、並んだ。並走。凪は、横目でドライバーを見た。若い男。20代前半。真剣な顔で、前を見ている。
凪は、アクセルを踏み続けた。
「ブォォォォォン!」
シルビアが、RX-7の横を抜けていく。順位が、上がる。3位。
だが、その瞬間。
「カンッ!」
エンジンから、金属音がした。明らかに、何かが壊れた音だ。凪は、息を呑んだ。
「……クロ!」
だが、エンジンは止まらなかった。煙を吐きながら、異音を発しながら、それでも走り続ける。
「ブォォォ……ガガガガ……カンカンカン……」
凪は、涙が出そうになった。
「……ありがとな」
凪は呟いた。
「お前、最高だよ」
トンネルを抜ける。視界が、一気に明るくなる。青い空が、目に飛び込んでくる。
前方に、1位の車が見える。黒いポルシェ911。距離、約80m。まだ、遥か先だ。
凪は、アクセルを踏み続けた。だが、速度が上がらない。エンジンが、限界に達している。
「……くそ」
凪は、唇を噛んだ。このままでは、1位に追いつけない。
だが、その時。バックミラーに、何かが映った。深い青のボディ。GT-R。黒木蒼だ。距離、20m。猛スピードで、追い上げてくる。
「ゴゴゴゴゴゴゴッ!」
圧倒的な排気音。400馬力のパワー。凪は、前を見た。1位のポルシェ。後ろを見た。GT-Rが迫ってくる。
「……挟まれた」
凪は呟いた。前に行くか。後ろを守るか。
凪は、判断した。
「……前だ」
凪は呟いた。後ろは、どうでもいい。ただ、前に行く。それだけだ。
凪は、アクセルを踏み続けた。エンジンが、悲鳴を上げる。
「ブォォォ……ガガガガ……カンカンカン……」
白煙が、さらに濃くなる。視界が、煙で霞む。だが、凪は止まらなかった。
「……行け!」
凪は叫んだ。
「クロ、行けえええっ!」
エンジンが、応えた。最後の力を振り絞る。
「ブォォォォォォン!」
シルビアが、加速する。速度が、155km/h、160km/hと上がる。
ポルシェとの距離が、縮まる。80m、70m、60m。
だが、GT-Rも追ってくる。距離が、15m、12m、10mと縮まる。
前方に、コーナー10が見えてきた。最後のコーナー。ここを抜ければ、ゴールまで一直線だ。
凪は、ブレーキに足をかけた。だが、その時。
「カンッ! ガシャアアン!」
エンジンから、大きな音がした。何かが、完全に壊れた。パワーが、一気に落ちる。加速が、止まる。
「……くそっ!」
凪は、ブレーキを踏んだ。
「キィィィィ!」
タイヤが悲鳴を上げる。速度が落ちる。160km/h、140km/h、120km/h。
GT-Rが、凪の横に並んだ。黒木が、凪を見た。そして、笑った。まるで、勝ち誇ったように。
GT-Rが、凪を追い抜いていく。順位が、落ちる。4位。
凪は、歯を食いしばった。
「……くそ」
だが、諦めない。コーナー10に突入する。凪は、ハンドルを切った。シルビアが、曲がる。だが、立ち上がりのパワーがない。エンジンが、完全に限界だ。
「……クロ」
凪は呟いた。
「まだ、頑張れるか?」
エンジンは、応えなかった。ただ、異音を発し続ける。
「ブォォォ……ガガガガ……」
凪は、ゴールを見た。あと2キロ。まだ、遠い。
「……行くぞ」
凪は呟いた。アクセルを、踏み続けた。




