第8話 追走
直線。
凪の前に、一直線の道が伸びている。首都高湾岸線の、最も長い直線区間。約2キロ。ここで、どれだけ前との距離を詰められるか。
凪は、アクセルを床まで踏み込んだ。
「ブォォォォォン!」
エンジンが、絶叫する。回転数が、8000を超える。完全にレッドゾーン。タコメーターの針が、限界を指している。
速度が上がっていく。120km/h、130km/h、140km/h。
風景が、猛烈な勢いで後ろに流れる。ビルが、標識が、全てが一瞬で視界から消えていく。
だが、凪の目は、前だけを見ていた。
前を走る4台。
1位の車は、遥か先だ。約200m。ボディの色すら、判別できない。
2位と3位は、固まって走っている。距離、約150m。
4位は、比較的近い。距離、約80m。銀色のボディ。シビックタイプRだ。
「……まず、あいつを抜く」
凪は呟いた。
シルビアが、さらに加速する。150km/h、155km/h、160km/h。
シビックとの距離が、縮まっていく。80m、70m、60m。
エンジンの音が、変わってきた。
「ブォォォォ……ガガガ……」
微かに、金属的な音が混じる。
凪は、眉をひそめた。
「……何だ?」
だが、気にしている暇はない。シビックが、目の前に迫っている。距離、50m。
凪は、アクセルを踏み続けた。
「ブォォォォォン!」
シルビアが、シビックに肉薄する。距離、30m、20m、10m。
シビックのドライバーが、バックミラーを見た。凪の存在に気づいたのだ。
シビックが、左に寄った。ラインを塞ぐ。
「……邪魔すんな」
凪は舌打ちした。だが、諦めない。
凪は、右に寄った。追い越し車線へ。
だが、シビックも右に寄る。
また、ラインを塞ぐ。
「……っ!」
凪は、歯を食いしばった。
これは、妨害だ。
シビックのドライバーは、順位を守ろうとしている。
凪は、左に戻した。
シビックも、左に戻る。
凪は、再び右へ。
シビックも、右へ。
完全に、ブロックされている。
「……くそっ!」
凪は、ハンドルを握りしめた。
だが、その時。
バックミラーに、何かが映った。
深い青のボディ。
GT-R。
黒木蒼だ。
距離、10m。
猛スピードで、追い上げてくる。
「ゴゴゴゴゴゴゴッ!」
圧倒的な排気音。400馬力のパワー。
凪は、前を見た。シビックが、まだブロックしている。
後ろを見た。GT-Rが、迫ってくる。
「……挟まれた」
凪は呟いた。
前からの圧力。後ろからの圧力。
どちらにも、動けない。
「……どうする」
凪は、考えた。
このまま、シビックの後ろについていれば、GT-Rに抜かれる。
かといって、無理に抜こうとすれば、接触する可能性がある。
「……」
凪は、息を呑んだ。
心臓が、早鐘を打つ。
手のひらが、汗で滑る。
だが、その時。
零の声が、頭の中で響いた。
「焦るな。チャンスは必ず来る」
凪は、深呼吸をした。
「……そうだ」
凪は呟いた。
「焦るな」
凪は、アクセルを緩めた。ほんの少し。
シルビアが、減速する。160km/hから、155km/h、150km/hへ。
シビックとの距離が、開く。10m、15m、20m。
GT-Rが、凪の横に並んだ。
黒木が、凪を見た。
そして、笑った。
まるで、勝ち誇ったように。
GT-Rが、凪を追い抜いていく。
順位が、落ちる。
6位。
だが、凪は気にしなかった。
ただ、前を見る。
GT-Rが、シビックに迫る。
距離、20m、15m、10m。
そして、GT-Rも、シビックにブロックされた。
黒木が、右に寄る。
シビックも、右に寄る。
黒木が、左に寄る。
シビックも、左に寄る。
完全に、ブロックされている。
凪は、小さく笑った。
「……ざまあ見ろ」
凪は呟いた。
そして、アクセルを踏み込んだ。
「ブォォォン!」
シルビアが、再び加速する。
GT-Rとシビックが、前で争っている。
二台の間に、僅かな隙間がある。
凪は、その隙間を狙った。
「……行ける」
凪は呟いた。
速度を上げる。150km/h、155km/h、160km/h。
GT-Rとシビックに、肉薄する。
距離、10m、5m。
二台が、まだ争っている。
黒木が、右に寄ろうとしている。
シビックも、右に寄ろうとしている。
だが、その瞬間。
二台の間に、僅かな隙間ができた。
「……今だ!」
凪は、ハンドルを切った。
中央へ。
二台の真ん中へ。
「ブォォォォン!」
シルビアが、突っ込む。
左にGT-R。右にシビック。
三台が、横並びになる。
凪は、息を呑んだ。
左右の車との距離、わずか50cm。
ドアミラー同士が、擦れ合いそうなほど近い。
黒木が、驚いた顔で凪を見た。
シビックのドライバーも、驚いている。
凪は、何も言わなかった。
ただ、アクセルを踏み続ける。
「ブォォォォォン!」
三台が、並走する。
その状態で、100m。
そして、前方に、コーナーが見えてきた。
コーナー8。
緩やかな左カーブ。
侵入速度は、時速120km/h。
だが、今、三台は160km/h以上で走っている。
このまま突っ込めば、曲がれない。
誰かが、ブレーキを踏む。
凪は、判断した。
「……先に踏んだら、負ける」
凪は呟いた。
だが、踏まなければ、曲がれない。
ギリギリの判断。
凪は、ブレーキに足をかけた。
だが、まだ踏まない。
左のGT-R。
右のシビック。
どちらも、まだブレーキを踏んでいない。
コーナーが、迫る。
200m、150m、100m。
凪の心臓が、限界まで速くなる。
手のひらが、びっしょりだ。
「……まだだ」
凪は呟いた。
「まだ、踏むな」
コーナーまで、50m。
その時。
シビックが、ブレーキを踏んだ。
「キィィィィ!」
ブレーキランプが点灯する。
凪は、その瞬間を待っていた。
「今だ!」
凪も、ブレーキを踏んだ。
「ガガガガガッ!」
全力ブレーキ。
だが、シビックより、0.5秒遅い。
その0.5秒が、距離になる。
凪は、シビックより前でブレーキをかけた。
侵入速度が、速い。
だが、それでいい。
凪は、ハンドルを切った。
「キィィィィン!」
タイヤが悲鳴を上げる。
車体が、傾く。
横Gが、凪の体を押す。
だが、曲がる。
ギリギリで、曲がる。
コーナーの頂点。
凪は、アクセルを0.5秒戻した。
荷重が、フロントに移る。
そして、アクセルを開ける。
「ブォォォン!」
立ち上がり加速。
シルビアが、コーナーを抜ける。
凪は、バックミラーを見た。
シビックが、後ろにいる。
距離、5m。
抜いた。
順位が、戻る。
5位。
そして、GT-Rは。
GT-Rも、コーナーを抜けてくる。
だが、距離が開いている。
10m。
凪より、遅い。
「……やった」
凪は、小さく笑った。
だが、その時。
エンジンの音が、また変わった。
「ブォォォ……ガガガガ……」
金属音が、明らかに大きくなっている。
凪は、眉をひそめた。
「……クロ、大丈夫か?」
エンジンが、応えない。
ただ、唸り続ける。
「ブォォォ……ガガガ……」
凪は、温度計を見た。
水温が、上がっている。
通常は、90度。
今は、95度。
「……やばい」
凪は呟いた。
オーバーヒートの兆候だ。
だが、止まるわけにはいかない。
凪は、アクセルを踏み続けた。
「……頼む、クロ」
凪は呟いた。
「もうちょい、頑張ってくれ」
エンジンが、応えた。
排気音が、一瞬高くなる。
「ブォォォン!」
まるで、吠えたように。
凪は、前を見た。
前方には、3台の車が見える。
1位、2位、3位。
まだ、遥か先。
だが、諦めない。
「……まだ、行ける」
凪は呟いた。
手のひらの汗を、ハンドルに擦りつける。
心臓が、早鐘を打っている。
だが、恐怖はない。
あるのは、ただ一つ。
「……楽しい」
凪は、笑った。
エンジンの異音。
上がる水温。
追ってくるGT-R。
全てが、凪を興奮させる。
「……最高だ」
凪は呟いた。
アクセルを、さらに踏み込む。
「ブォォォォン!」
シルビアが、限界を超えて走る。
前方に、次のコーナーが見えてくる。
コーナー9。
急カーブ。
ここで、さらに順位を上げる。
凪は、ハンドルを握りしめた。
「……来い」
凪は呟いた。




