第7話 コーナー3の洗礼
コーナー3が、迫る。
凪の視界に、急激な右カーブが飛び込んでくる。ガードレールが、まるで壁のように立ちはだかっている。アスファルトの路面に刻まれた無数のタイヤ痕が、この場所の危険性を物語っていた。
侵入速度、時速110km/h。ブレーキングポイント、50m手前。
凪は、距離を測った。目の前の白線を数える。一本、二本、三本。呼吸を整える。心臓の鼓動が、耳の中で響いている。
「……今だ!」
凪は、ブレーキを踏み抜いた。一度で。躊躇なく。全体重をペダルに乗せる。
「ガガガガガッ!」
四輪全てが、路面に食らいつく。ABSのない旧車は、ブレーキの踏み加減が全てだ。強すぎれば、タイヤがロックする。弱すぎれば、減速が足りない。凪は、ギリギリのラインを攻めた。ブレーキペダルを、床の一歩手前まで踏み込む。タイヤが悲鳴を上げる寸前で、止める。
「キィィィィィン!」
金属的な高音。タイヤが、限界ギリギリで路面を掴んでいる。ゴムが焼ける匂いが、車内に入り込んでくる。
荷重が、一気にフロントに移る。車体が、前のめりになる。シートベルトが、肩に食い込む。内臓が、前に押し出される感覚。肋骨に、圧迫感。
速度計の針が、急激に落ちていく。110km/h、100km/h、90km/h、80km/h、70km/h。
凪は、ハンドルを切った。右に。力を込めて。フロントタイヤが、路面を掴む。荷重が乗っているから、グリップがある。シルビアが、滑らかに曲がり始めた。車体が、内側に巻き込まれていく。
コーナーの頂点。
凪は、アクセルを0.5秒だけ戻した。荷重が、さらにフロントに移る。車体が、内側に巻き込まれる。フロントタイヤが、さらに路面を掴む。そして、アクセルを開ける。
「ブォォォン!」
エンジンが咆哮を上げた。後輪に、トルクが伝わる。タイヤが、路面を蹴る。立ち上がり加速。シルビアが、コーナーを抜けていく。
凪は、ほっと息をついた。
「……抜けた」
零の教え通りだ。ブレーキ一発。完璧だった。
だが、安心している暇はない。バックミラーに、再びGT-Rが映っている。黒木蒼。距離、15m。
コーナー3を、完璧なラインで抜けてくる。その走りに、一切の迷いがない。まるで、このコースを何百回も走ったかのような、流れるような動き。
「……しつこい」
凪は舌打ちした。アクセルを、全開にする。直線に入る。速度が上がっていく。80km/h、100km/h、120km/h。
だが、GT-Rの加速は、それを上回る。
「ゴゴゴゴゴゴゴッ!」
圧倒的なパワー。直列6気筒ターボの唸り。400馬力が、4輪を駆動する。4WDの安定感。距離が、縮まっていく。15m、12m、10m。
凪は、歯を食いしばった。ハンドルを握る手に、さらに力が入る。
「……直線じゃ、勝てねえ」
わかっている。馬力が違う。車格が違う。GT-Rは、凪のシルビアより、あらゆる面で上だ。だが、諦めない。
「……コーナーで、抜き返す」
凪は呟いた。前方に、コーナー4が見えてくる。緩やかな左カーブ。侵入速度は、時速100km/h。
凪は、ブレーキを踏んだ。
「キィィィ!」
タイヤが鳴く。だが、GT-Rも同時にブレーキをかけている。両車が、同じタイミングでコーナーに侵入する。
凪は、ハンドルを切った。シルビアが、滑らかに曲がる。だが、GT-Rも、同じラインで曲がってくる。いや、違う。GT-Rのラインが、凪より内側だ。
「……インを突いてくる!」
凪は、咄嗟にハンドルをさらに切った。だが、遅い。GT-Rが、凪の内側に入り込む。並走。
二台が、横並びでコーナーを抜けていく。凪は、横目で黒木を見た。黒木も、凪を見ている。そして、笑っている。余裕の表情。
口が、動いた。何か言っている。読唇術はできないが、凪にはわかった。
「遅いね」
そう言っている。
凪は、何も言わなかった。ただ、前を見る。唇を噛む。血の味がする。
コーナーの立ち上がり。ここが勝負だ。
凪は、アクセルを踏み込んだ。全開。床まで。
「ブォォォォン!」
シルビアが、全力で加速する。だが、GT-Rも同じだ。
「ゴゴゴゴゴゴゴッ!」
圧倒的なパワー。GT-Rが、じわじわと前に出る。凪は、唇を噛んだ。
「……くそ」
GT-Rが、凪の横を通り過ぎていく。排気音が、耳を劈く。順位が、一つ落ちた。6位。
凪は、ハンドルを握りしめた。手のひらが、汗でびっしょりだ。
「……まだだ」
凪は呟いた。
「まだ、終わってねえ」
前方に、コーナー5、6が連続で現れる。S字コーナー。右、左、右と続く複合コーナー。ここは、技術が問われる。
凪は、深呼吸をした。零の教えを思い出す。
「車の声を聞け」
凪は、耳を澄ませた。エンジンの音。タイヤの音。サスペンションの軋み。全てが、凪に語りかけている。
「……わかった」
凪は呟いた。
コーナー5に突入する。ブレーキを踏む。だが、強くは踏まない。軽く、優しく。車に負担をかけないように。
「キィ……」
タイヤが、小さく鳴く。荷重が、フロントに移る。
ハンドルを切る。右に。
シルビアが、滑らかに曲がる。まるで、水の上を滑るように。
凪は、アクセルを戻した。0.3秒だけ。荷重が移る。そして、すぐにアクセルを開ける。
「ブォン」
短い加速。
立ち上がり。
すぐに、コーナー6。今度は左。
凪は、同じように操作した。ブレーキ、ハンドル、アクセル戻し、アクセル開け。全てが、流れるように繋がる。呼吸と、操作が、同期する。
「……気持ちいい」
凪は呟いた。クロが、応えてくれている。凪の意思を、理解してくれている。
S字コーナーを抜ける。
凪は、前を見た。GT-Rが、まだ先を走っている。だが、距離が開いていない。むしろ、縮まっている。
「……やった」
凪は、小さく笑った。S字コーナーで、稼いだ。GT-Rは、パワーはあるが、コーナリングはシルビアの方が上だ。
距離が、10mまで縮まった。
「……まだ、いける」
凪は呟いた。アクセルを、全開にする。
「ブォォォォン!」
シルビアが、加速する。GT-Rを追う。
前方に、コーナー7が見えてくる。
零の教えを思い出す。
「ブレーキを使うな」
凪は、ハンドルを握りしめた。
侵入速度、時速90km/h。
ここで、差をつける。
凪は、アクセルを全開にした。速度が上がる。80km/h、90km/h。
コーナーが近づく。
GT-Rが、ブレーキを踏んだ。
「キィィィ!」
ブレーキランプが点灯する。
凪は、アクセルを抜いた。ブレーキは踏まない。
エンジンブレーキがかかる。荷重が、フロントに移る。
ハンドルを切る。
瞬間。
車が、ピタリと曲がった。
ブレーキを使わずに。
「……!」
凪は驚いた。
本当にできた。
零の言った通りだ。
そして、GT-Rとの距離が、一気に縮まった。
GT-Rは、ブレーキを踏んだ分、減速している。
凪は、ブレーキを使わなかった分、速度を保っている。
立ち上がり。
凪は、アクセルを開けた。
「ブォォォン!」
シルビアが、GT-Rに並ぶ。
並走。
黒木が、驚いた顔で凪を見た。
凪は、笑った。
「……どうだ」
凪は呟いた。
アクセルを、さらに踏み込む。
シルビアが、GT-Rの横を抜けていく。
順位が、戻る。
5位。
凪は、前を見た。
前方には、4台の車が見える。
1番グリッドからスタートした車たちだ。
まだ、遥か先。
だが、諦めない。
「……まだ、行ける」
凪は呟いた。
バックミラーを見る。
GT-Rが、まだ追ってくる。
「ゴゴゴゴゴ……」
圧倒的な排気音。
黒木の顔が、真剣になっている。
もう、笑っていない。
「……来い」
凪は呟いた。
手のひらの汗を、ハンドルに擦りつける。
心臓が、早鐘を打っている。
だが、恐怖はない。
あるのは、ただ一つ。
高揚感。
走ることの、喜び。
「……楽しい」
凪は、小さく笑った。
エンジンが、応えた。
排気音が、一瞬高くなる。
まるで、吠えたように。
「ブォォォォン!」
シルビアが、さらに加速する。
前方に、長い直線が見えてくる。
ここで、どれだけ前との距離を詰められるか。
凪は、アクセルを床まで踏み込んだ。
「……行くぞ、クロ」
凪は呟いた。
回転数が、7000、8000と上がっていく。
レッドゾーン。
タコメーターの針が、振り切れそうだ。
速度が、120km/h、140km/h、150km/hと上がる。
風景が、流れる。
ビルが、ガードレールが、全てが後ろに飛んでいく。
凪は、前だけを見た。
前を走る4台。
その背中を。
「……追いつく」
凪は呟いた。




