第6話 スタートダッシュ
緑。
信号が、緑に変わった。
凪は、クラッチを離した。瞬間、シルビアが飛び出す。いや、飛び出そうとした。だが、クラッチミートのタイミングが、0.1秒早かった。
「ガクン!」
車体が、前のめりになる。エンストしかけた。回転数が、一瞬落ちる。5000rpmから、3000rpmへ。
「くそっ!」
凪は、すぐにアクセルを踏み直した。エンジンが、再び唸りを上げる。
「ブォォォン!」
だが、その0.1秒のロスが、致命的だった。周囲の車が、一斉にスタートしている。凪の横を、白いランサーエボリューションが駆け抜けていく。その排気音が、耳を劈く。
「ダダダダダッ!」
4気筒ターボの乾いた音。速い。圧倒的に速い。
凪は、歯を食いしばった。アクセルを、床まで踏み込む。
「ブォォォォォン!」
シルビアが、ようやく加速を始めた。回転数が、急激に上がる。4000、5000、6000、7000。タコメーターの針が、レッドゾーンに迫る。
後輪が、路面を掴む。グリップの限界ギリギリで、車体が前に押し出される。速度が、上がっていく。60km/h、80km/h、100km/h。
だが、前を走る車との距離は、縮まらない。それどころか、開いていく。
凪は、前を見た。1番グリッドの黒木蒼のスカイラインGT-Rが、既に遥か先を走っている。その後ろに、赤いRX-7。さらにその後ろに、白いランサーエボリューション。
凪の順位は、8番。スタート前より、一つ落ちた。
「……クソが!」
凪は、ハンドルを握りしめた。だが、焦ってはいけない。零の言葉を思い出す。
「焦るな。レースは長い」
凪は、深呼吸をした。アクセルを、さらに踏み込む。シルビアが、応える。
「ブォォォォン!」
排気音が、トンネルに反響する。速度が、120km/h、140km/hと上がる。風景が、流れていく。ビルが、ガードレールが、全てが後ろに飛んでいく。
前の車が、見えてきた。灰色のシビックタイプR。7番グリッドからスタートした車だ。凪と同じように、スタートで出遅れたらしい。
「……抜く」
凪は、呟いた。アクセルを、さらに踏み込む。もう、床に張り付いている。これ以上は、踏めない。
だが、シルビアは応えてくれた。回転数が、8000を超える。レッドゾーン。エンジンが、絶叫している。
「ブォォォォォォン!」
排気音が、空気を震わせる。まるで、獣の咆哮。速度が、150km/hに達した。
シビックとの距離が、縮まっていく。50m、40m、30m。
凪は、左にハンドルを切った。追い越し車線に出る。シビックと並ぶ。
相手のドライバーが、凪を見た。驚きの表情。だが、凪は見返さなかった。ただ、前だけを見る。
アクセルを、全開で維持する。シルビアが、シビックを抜き去る。
「……一台」
凪は呟いた。順位が、7位に戻った。
だが、喜んでいる暇はない。前方に、コーナー1が迫っている。
「……来る」
凪は、アクセルを緩めた。速度を、落とし始める。150km/hから、140km/h、130km/h。
前を走る車たちが、一斉にブレーキランプを点灯させた。赤い光が、連なる。まるで、赤い川のように。
凪も、ブレーキを踏んだ。
「キィィィィ!」
タイヤが悲鳴を上げる。荷重が、フロントに移る。車体が、前のめりになる。シートベルトが、肩に食い込む。
速度が、急激に落ちていく。130km/h、120km/h、110km/h。
コーナーが、近づいてくる。
侵入速度は、時速100km/h。零の教えを思い出す。
「50m手前でブレーキ。一気に70km/hまで落とす」
凪は、ブレーキを踏み続けた。速度計の針が、100km/hを切る。90km/h、80km/h、70km/h。
だが、その時。
前を走っていた車が、急ブレーキをかけた。
ブレーキランプが、一瞬で真っ赤に染まる。
「ガガガガガッ!」
タイヤがロックする音。白煙が立ち上る。
「……やばい!」
凪は、咄嗟にハンドルを切った。右に避ける。ギリギリで、前の車を回避する。
だが、避けた先には、別の車がいた。
青いインプレッサ。
凪との距離、わずか5m。
「くそっ!」
凪は、さらにハンドルを切った。左に戻す。車体が、激しく揺れる。タイヤが、悲鳴を上げる。
「キィィィィィン!」
グリップが、限界に達する。あと0.1秒、あと0.1度ハンドルを切ったら、スピンする。
凪は、直感でハンドルを戻した。車体が、ギリギリで安定する。
インプレッサとの距離、2m。
凪は、そのままアクセルを踏んだ。
「ブォォン!」
シルビアが、インプレッサの横をすり抜ける。サイドミラー同士が、擦れ合いそうなほど近い。
「……抜けた!」
凪は、息をついた。だが、安心している暇はない。コーナー1は、まだ終わっていない。
前方で、事故が起きていた。
最初に急ブレーキをかけた車が、ガードレールに接触している。黄色いS2000。ボディが、大きく凹んでいる。
その隣で、別の車がスピンしていた。黒いMR-S。コントロールを失い、路面を滑っている。
「ギャアアアアッ!」
タイヤが路面を削る音。白煙が、視界を覆う。
凪は、その間を縫うように走った。ハンドルを右に、左に、細かく切る。車体が、蛇行する。だが、それが正解だった。
スピンしているMR-Sを避け、ガードレールに接触したS2000を避け、凪は、コーナー1を抜けた。
「……はあ、はあ……」
凪は、荒い息をついた。心臓が、早鐘を打っている。手のひらが、汗でびっしょりだ。
だが、順位は上がっていた。
事故に巻き込まれた車が、2台。さらに、インプレッサも抜いた。
現在の順位、5位。
「……やった」
凪は、呟いた。
コーナー1を抜けた先には、短い直線がある。その先に、コーナー2。
凪は、アクセルを全開にした。
「ブォォォン!」
シルビアが加速する。速度が上がっていく。80km/h、100km/h、120km/h。
前を走る車が、見えてくる。
4台。
1番は、黒木蒼のGT-R。まだ、遥か先だ。
2番は、赤い車。距離、約50m。
3番は、白い車。距離、約40m。
4番は、銀色の車。距離、約30m。
凪は、4番の車を狙った。
「……追いつく」
凪は呟いた。アクセルを、床まで踏み込む。
エンジンが、全力で唸る。
「ブォォォォン!」
回転数が、8000を超える。レッドゾーン。タコメーターの針が、振り切れそうだ。
速度が、140km/h、150km/hと上がる。
銀色の車との距離が、縮まっていく。30m、25m、20m。
だが、その時。
コーナー2が迫ってきた。
凪は、ブレーキを踏んだ。
「キィィィ!」
タイヤが鳴く。速度が落ちる。150km/h、130km/h、120km/h。
緩やかな右カーブ。侵入速度は、時速120km/h。
凪は、ハンドルを切った。シルビアが、滑らかに曲がる。
コーナーの頂点。
凪は、アクセルを戻した。0.5秒だけ。荷重が、フロントに移る。
そして、すぐにアクセルを開ける。
「ブォォン!」
立ち上がり加速。
シルビアが、銀色の車に迫る。
距離、15m。
「……もう少し」
凪は呟いた。
だが、その時。
バックミラーに、何かが映った。
深い青のボディ。
大きなフロントグリル。
スカイラインGT-R。
黒木蒼だ。
凪は、息を呑んだ。
「……嘘だろ」
黒木は、1番グリッドからスタートして、トップを走っているはずだ。
なのに、なぜ凪の後ろにいる?
凪は、バックミラーを凝視した。
GT-Rが、猛スピードで追ってくる。
距離、約30m。
いや、縮まっている。25m、20m。
その排気音が、聞こえてくる。
「ゴゴゴゴゴ……」
低く、重く、圧倒的な音。RB26DETT型エンジン。400馬力を超えるパワー。
凪は、理解した。
「……コーナー1で、やられたのか」
黒木も、コーナー1の混乱に巻き込まれたのだ。急ブレーキをかけた車を避けるために、減速した。順位を落とした。
そして今、猛烈な勢いで追い上げてきている。
凪は、前を見た。
銀色の車との距離、10m。
後ろを見た。
GT-Rとの距離、15m。
凪は、判断した。
「……前を追う」
凪は呟いた。
銀色の車を抜かなければ、GT-Rに追いつかれる。
凪は、アクセルを全開にした。
「ブォォォォン!」
シルビアが、全力で加速する。
銀色の車との距離が、縮まる。10m、8m、5m。
だが、GT-Rも同じだ。
距離が、縮まってくる。15m、12m、10m。
前方に、コーナー3が見えてきた。
最難関。
侵入速度、時速110km/h。
零の教えを思い出す。
「ブレーキは、一度で決める」
凪は、ハンドルを握りしめた。
手のひらが、汗で滑る。
心臓が、早鐘を打つ。
だが、恐怖はない。
あるのは、ただ一つ。
「……行くぞ、クロ」
凪は呟いた。
エンジンが、応えた。
排気音が、一瞬高くなる。
まるで、吠えたように。
コーナー3が、迫る。
凪は、ブレーキに足をかけた。
後ろから、GT-Rが迫る。
「ゴゴゴゴゴゴゴッ!」
圧倒的なパワー。
凪は、前だけを見た。
「……追ってきやがった」
凪は呟いた。
だが、その目には、炎が灯っていた。
負けるもんか。
絶対に。




