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第5話 スタートライン


レース当日。午前7時。


凪は、零の家のダイニングテーブルで朝食を食べていた。だが、喉を通らない。トーストを一口齧っただけで、胃が重くなる。


「……食えねえ」


凪はフォークを置いた。


「無理に食うな」


零はコーヒーを飲んでいる。


「だが、水分は取れ。脱水症状になる」


零は水の入ったグラスを凪の前に置いた。凪は黙って、それを飲んだ。冷たい水が、喉を通っていく。だが、緊張は消えない。


「……なあ」


凪は聞いた。


「お前、レースの前、いつもこんな感じだったのか?」


「ああ」


零は答えた。


「何度走っても、慣れねえ」


零は窓の外を見た。


「だが、それでいい」


「……それでいい?」


「ああ。緊張してねえ奴は、死ぬ」


零は凪を見た。


「お前、今、怖いか?」


凪は、黙った。怖い。正直に言えば、怖い。だが、それ以上に。


「……楽しみだ」


凪は呟いた。


「走りたい」


零は、僅かに笑った。


「なら、大丈夫だ」


零は立ち上がった。


「行くぞ。先に廃車置き場に寄る」


「……廃車置き場?」


「ああ。お前の車、運ばなきゃならねえ」


零は鍵を手に取った。


「俺の積載車で運ぶ。お前は助手席に乗れ」


午前7時30分。廃車置き場。


零の積載車が、シルビアの横に停まった。4トンロングのキャリアカー。古いが、整備は行き届いている。荷台は油圧式で、地面まで下げることができる。


「手伝え」


零は運転席を降り、荷台の操作パネルを操作した。油圧モーターが唸りを上げ、荷台がゆっくりと傾いていく。地面と水平になったところで止まった。


「乗せるぞ」


凪はシルビアに乗り込み、エンジンをかけた。


「ゴロゴロゴロ……」


低く、重く、力強い音。ゆっくりとアクセルを踏み、荷台に乗せていく。タイヤが金属の荷台に乗った瞬間、独特の音がした。


「ガラガラガラ……」


シルビアを荷台の中央に停める。エンジンを切る。凪が降りると、零は既に固定用のワイヤーを手にしていた。


「前輪、固定するぞ」


零はワイヤーをシルビアの前輪に引っ掛け、荷台のフックに固定していく。その手際は、慣れたものだった。4本のワイヤーで、前後のタイヤをしっかりと固定する。


「……前もやってたのか?」


凪は聞いた。


「ああ。昔、よく運んでた」


零はワイヤーを引っ張り、緩みがないか確認する。


「レース会場に、自走で行けねえ時もあったからな」


零は操作パネルに戻り、荷台を水平に戻した。油圧モーターが再び唸り、荷台が持ち上がっていく。シルビアを載せたまま、荷台が元の位置に収まった。


「乗れ」


零は運転席に向かった。凪は助手席に乗り込んだ。積載車のエンジンがかかる。ディーゼルエンジンの重い音だ。


「ゴロゴロゴロ……」


シルビアとは違う、低くて太い音。


「行くぞ」


零はギアを入れた。積載車は、ゆっくりと廃車置き場を出た。


午前8時。首都高湾岸線。


積載車が、会場へ向かう道を走っていた。凪は助手席で、サイドミラーを見つめている。ミラーに映るのは、荷台に載せられたシルビア。ワイヤーでしっかりと固定され、微動だにしない。


だが、凪の頭の中では、コースが何度も回り続けていた。コーナー1のブレーキングポイント。コーナー3の侵入角度。コーナー7のアクセルワーク。全てが、頭の中で繰り返される。


「……考えすぎるな」


零が言った。


「頭で走るんじゃねえ。体で走れ」


凪は、深呼吸をした。


「……ああ」


積載車は、会場に到着した。首都高湾岸線の一部が封鎖され、特設サーキットになっている。入り口には、巨大なゲートが設置されていた。電光掲示板には、今日のレースタイトルが表示されている。


「Cランク特別戦 参加者10名」


ゲートをくぐると、そこは別世界だった。ピットエリアには、既に何台もの車が並んでいる。全て、ピカピカに磨かれたマシンだ。スポンサーロゴが貼られ、最新の電子制御システムが搭載されている。その周りには、整備士たちが忙しく動き回っていた。


だが、他のドライバーたちの車は、全て専用のトランスポーターで運ばれてきていた。企業ロゴの入った大型トラック。空調完備の車両運搬車。


零の積載車は、その中で明らかに古かった。


零は、指定されたピットスペースに積載車を停めた。


「降ろすぞ」


零は運転席を降り、操作パネルに向かった。油圧モーターが唸り、荷台が傾き始める。地面と水平になったところで止まった。


零はワイヤーを外していく。凪はシルビアに乗り込み、エンジンをかける。


「ゴロゴロゴロ……」


低く、重く、力強い音。ゆっくりと荷台を降りる。タイヤが地面に着いた瞬間、周囲の視線が集まった。


古い積載車から降ろされるボロボロのシルビア。その光景は、明らかに異質だった。


凪のシルビアは、その中で浮いていた。ボロボロの外装。塗装の剥げたボンネット。スポンサーロゴなど、一つもない。


「……目立つな」


凪は呟いた。


「気にするな」


零は荷台を元に戻しながら言った。


「車は見た目じゃねえ」


凪はシルビアを降りた。周囲の視線が、突き刺さる。他のドライバーたちが、凪のシルビアを見ている。そして、ささやき声が聞こえてくる。


「あれが、星野凪か」


「Cランク5位の……」


「車、ボロいな」


「積載車もボロいぞ。見たか?」


「どうせ、すぐ壊すんだろ」


凪は、拳を握りしめた。だが、何も言わなかった。ただ、シルビアのボンネットを開け、最終チェックを始める。


「冷却水、OK」


零が、横で確認していく。


「オイル、OK。タイヤの空気圧は?」


「前2.3、後ろ2.1」


「よし。ブレーキパッドは?」


「残り7ミリ」


「十分だ」


零はボンネットを閉じた。だが、その時。


「よお、星野」


声がした。振り返ると、黒木蒼が立っていた。19歳。整った顔立ち。高価なレーシングスーツ。その後ろには、ピカピカのスカイラインGT-R。R34型。ボディは深い青で塗装され、まるで宝石のように輝いている。


「……何だよ」


凪は睨んだ。


「いやあ、君が来るって聞いてさ」


黒木は笑った。


「まさかあんなボロい積載車で来るとは思わなかったよ」


黒木は、零の積載車とシルビアを交互に見た。その目には、明らかな侮蔑があった。


「ボロいね、車も運び方も。よく恥ずかしくないね?」


凪は、何も言わなかった。ただ、黒木を見つめている。


「まあ、頑張ってよ」


黒木は肩を叩いた。


「でも、無理しないでね。怪我したら、可哀想だから」


黒木は笑いながら去っていった。凪は、歯を食いしばった。拳が、震えている。


「……ぶっ潰す」


「落ち着け」


零が言った。


「感情的になるな。それが、奴の狙いだ」


凪は、深呼吸をした。零の言う通りだ。挑発に乗ったら、負ける。


「……わかってる」


零は、凪の肩に手を置いた。


「お前は、走ればいい」


零の声は、静かだった。


「全力で、走れ」


凪は、頷いた。


「……ああ」


午前8時30分。


スピーカーから、アナウンスが流れた。女性の声。明るく、だが機械的な響きがある。


「これより、Cランク特別戦を開始します。参加者は、車両検査エリアへ移動してください」


凪は、シルビアに乗り込んだ。キーを回す。エンジンが、目覚めた。


「ゴロゴロゴロ……」


低く、重く、力強い音。昨日と同じ。クロは、完璧な状態だった。凪は、ゆっくりとアクセルを踏んだ。シルビアが、検査エリアへ向かう。


検査エリアには、AIシステムが設置されていた。巨大なスクリーンと、無数のセンサー。車が通過すると、全てのデータが読み取られる。


「車両ID、S15-2010-7743。ドライバー、星野凪。Cランク5位」


AIの声が響く。


「車両重量、1180kg。エンジン出力、298馬力。安全基準、クリア。出走、許可」


緑のランプが点灯した。凪は、ほっと息をついた。検査を通過した。


「次、スタートグリッドへ移動してください」


凪は、シルビアを走らせた。スタートグリッドは、封鎖された首都高の直線部分にあった。白線で区切られた10のマス。それぞれに、番号が振られている。


凪の番号は、7番。後方スタートだ。


「……クソ」


凪は舌打ちした。だが、仕方ない。ランキング順でグリッドが決まる。Cランク5位なら、7番グリッドは当然だった。


シルビアを7番グリッドに停める。エンジンを切る。静寂。だが、周囲は騒がしかった。他の車が、次々とグリッドに並んでいく。


1番グリッドには、黒木蒼のスカイラインGT-R。2番グリッドには、赤いRX-7。3番グリッドには、白いランサーエボリューション。全て、凪より上位のドライバーたちだ。


凪は、ハンドルを握りしめた。手のひらが、汗で湿っている。


「……落ち着け」


凪は自分に言い聞かせた。だが、心臓の鼓動が止まらない。胸の中で、何かが暴れている。


その時、助手席のドアが開いた。零が乗り込んできた。


「……何してんだよ」


凪は聞いた。


「最終確認だ」


零は凪を見た。


「お前、今、どんな気持ちだ?」


凪は、黙った。どんな気持ちか。怖い。緊張してる。だが、それ以上に。


「……ワクワクしてる」


凪は呟いた。


「走りたい。勝ちたい」


零は、頷いた。


「なら、大丈夫だ」


零は、ドアを開けた。


「お前は、ただ走ればいい」


零は車を降りた。だが、ドアを閉める前に、もう一度振り返った。


「……一つだけ、覚えとけ」


「……何だよ」


「車を、信じろ」


零の目が、真剣だった。


「クロは、お前の言うこと聞く。だから、信じろ」


凪は、頷いた。


「……ああ」


零は、ドアを閉じた。そして、ピットエリアへ戻っていく。その背中を、凪は見つめていた。


「……ありがとな、零」


凪は呟いた。


スピーカーから、再びアナウンスが流れた。


「全車両、スタートグリッド配置完了。これより、5分後にスタートします」


凪は、深呼吸をした。キーを回す。エンジンが、再び目覚めた。


「ゴロゴロゴロ……」


低く、重く、力強い音。凪は、アクセルを軽く煽った。


「ブォン、ブォン」


エンジンが応える。回転数が、上がって、下がる。凪は、ハンドルを握りしめた。


周囲の車も、エンジンをかけ始めた。低音が重なり、空気が震える。10台のエンジン。10人のドライバー。全員が、同じ目的のために、ここにいる。勝つために。


「あと3分です」


アナウンスが響く。凪は、前を見た。1番グリッドの黒木蒼のスカイライン。その排気音が、特に大きい。RB26DETT型エンジン。2.6リッター直列6気筒ターボ。出力は、400馬力を超える。凪のシルビアは、300馬力。100馬力の差。


「……関係ねえ」


凪は呟いた。


「馬力じゃねえ。走り方だ」


凪は、アクセルを踏み込んだ。回転数を上げる。3000rpm、4000rpm、5000rpm。エンジンが唸る。


「ブォォォォン」


排気音が、空気を震わせる。凪は、クラッチを踏んだ。ギアを1速に入れる。


「あと1分です」


アナウンス。凪の心臓が、早鐘を打つ。手のひらの汗が、ハンドルに染み込む。だが、手は震えていない。


「……行くぞ、クロ」


凪は呟いた。エンジンが、応えた。排気音が、一瞬高くなる。まるで、吠えたように。


信号機が、スタートグリッドの前に設置されていた。今は、赤く光っている。


「30秒前」


アナウンス。凪は、アクセルを踏み込んだ。回転数を、さらに上げる。5000rpm、6000rpm。タコメーターの針が、レッドゾーンに近づく。エンジンが、絶叫している。


周囲の車も、同じだった。10台のエンジンが、全開で唸っている。その音が重なり、まるでオーケストラの序曲のようだった。


「10秒前」


凪は、目を閉じた。深呼吸。コースが、頭の中に浮かぶ。コーナー1。コーナー3。コーナー7。全てのブレーキングポイント。全てのアクセルワーク。


「5、4、3、2、1」


凪は、目を開けた。信号を見つめる。赤いランプ。


「……来い」


凪は呟いた。


信号が、黄色に変わった。


凪の世界が、止まった。音が、消える。周囲の車も、観客も、全てが消える。あるのは、ただ一つ。目の前の信号だけ。


黄色のランプが、点滅する。心臓が、一回、鳴る。


そして。


信号が、緑に変わった。


凪は、クラッチを離した。

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