第4話 レース前夜
翌朝、午前7時。
凪は、零の家のダイニングテーブルで朝食を食べていた。トーストと目玉焼き。シンプルだが、温かい。零は、黙ってコーヒーを飲んでいる。
「今日は、何すんだ?」
凪は聞いた。
「お前の走りを、仕上げる」
零はカップを置いた。
「午前中は、コースの最終確認。午後は、実走だ」
「……実走?」
「ああ。明日のレースと同じコースを、お前に走らせる」
零は立ち上がった。
「準備しろ。30分後に出る」
午前8時。首都高湾岸線。
零のZが、高速道路を走っていた。助手席の凪は、窓の外を見つめている。このコースは、何度も走ったことがある。だが、今日は違う。明日、ここで戦う。
「……あそこが、スタート地点か」
凪は呟いた。
「ああ」
零は車を路肩に停めた。
「降りろ」
二人は車を降り、コースを歩き始めた。アスファルトの路面。白線。ガードレール。全てを、目に焼き付ける。
「コーナー1」
零は最初のカーブを指差した。
「ここは、ブレーキングポイントが難しい」
零は路面を見つめた。
「侵入速度は、時速100km/h。50m手前でブレーキ。一気に70km/hまで落とす」
「……100から70?」
「ああ」
零は歩き出した。
「コーナーの頂点で、アクセルを開け始める。ハーフスロットルから、徐々に全開へ」
凪は、零の後をついていく。零の説明は、的確だった。どこでブレーキを踏み、どこでハンドルを切り、どこでアクセルを開けるか。全て、数字と感覚で語られる。
「コーナー3」
零は急カーブの前で止まった。
「ここが、一番の難所だ」
零は路面を指差した。
「侵入速度は、時速110km/h。だが、ブレーキングポイントを間違えると、確実にガードレールに突っ込む」
凪は、コースを見つめた。カーブは、想像以上に急だった。
「……ここ、曲がれんのか?」
「曲がれる」
零は断言した。
「だが、条件がある」
零は凪を見た。
「ブレーキは、一度で決める。荷重を一気にフロントに乗せる。そうすれば、フロントタイヤが路面を掴む」
「……一度で?」
「ああ。二度に分けたら、荷重が分散する。グリップが足りなくなる」
零はコーナーの頂点まで歩いた。
「ここで、ハンドルを切る。同時に、アクセルを0.5秒だけ戻す」
「……0.5秒?」
「ああ。それ以上長いと、減速しすぎる。それ以下だと、荷重が足りない」
凪は、息を呑んだ。0.5秒。そんな短い時間で、判断できるのか?
「できる」
零が言った。まるで、凪の心を読んだように。
「お前には、才能がある」
零は凪の肩を叩いた。
「信じろ」
二人は、コース全体を歩いた。12のコーナー。2本の直線。全てを、確認する。零の説明は、止まらなかった。ブレーキングポイント。ハンドルの切り角。アクセルの開け方。全て、実戦で使える知識だった。
気づけば、正午を過ぎていた。
「……飯、食うか」
零は車に戻った。
「午後から、実走だ」
午後1時。
凪は、シルビアのハンドルを握っていた。エンジンは、既にかかっている。
「ゴロゴロゴロ……」
低く、力強いアイドリング。昨日、零が直してくれた。クロは、完璧な状態だった。
「行くぞ」
零が助手席から言った。
「まずは、流す。コース全体を感じろ」
凪は頷いた。アクセルを踏む。シルビアが、ゆっくりと発進する。首都高に入る。交通量は少ない。平日の昼間だからだ。凪は、アクセルを踏み込んだ。
速度が上がっていく。60km/h、80km/h、100km/h。エンジンの音が、変わっていく。低音から、少しずつ高音へ。回転数が、3000rpmを超える。
「……コーナー1、来る」
凪は呟いた。ブレーキを踏む。
「キィィィ」
タイヤが鳴いた。荷重がフロントに移る。ハンドルを切る。シルビアが、滑らかに曲がった。
「……曲がれた」
「当たり前だ」
零が言った。
「お前の車は、ちゃんと整備されてる。言うこと聞く」
凪は、アクセルを踏んだ。立ち上がり加速。エンジンが唸る。
「ブォォォン」
排気音が、トンネルに反響する。速度が、また上がっていく。100km/h、120km/h。風景が、流れていく。だが、凪は冷静だった。ハンドルを通して伝わる振動。タイヤが路面を掴む感覚。エンジンの鼓動。全てが、凪に語りかけている。
「……クロ、調子いいな」
凪は呟いた。
「コーナー3、来るぞ」
零が言った。
「落ち着いて、ブレーキ一発で決めろ」
凪は、深呼吸をした。コーナーが近づいてくる。侵入速度、時速110km/h。50m手前。今だ。ブレーキを踏み込んだ。
「ガッ!」
強烈な減速G。身体が前に投げ出される。シートベルトが食い込む。荷重が、フロントに乗った。ハンドルを切る。
「キィィィィン」
タイヤが悲鳴を上げた。だが、滑らない。グリップが、ギリギリで保たれている。コーナーの頂点。アクセルを、0.5秒だけ戻す。荷重が、さらにフロントに移る。車体が、内側に巻き込まれる。今だ。アクセルを開ける。
「ブォォォォン!」
エンジンが咆哮を上げた。後輪が、僅かに滑る。だが、制御できる。カウンターステアを当てる。車体が、安定した。
「……抜けた!」
凪は叫んだ。
「いいぞ」
零が言った。
「その調子だ」
凪は、笑っていた。クロが、応えてくれた。ちゃんと、対話できた。
「次、コーナー7だ」
零が言った。
「ここは、ブレーキを使うな」
「……使わない?」
「ああ。アクセルを抜くだけで曲がれる」
凪は、コースを見た。緩やかなカーブ。だが、侵入速度は時速90km/h。
「……本当に?」
「やってみろ」
零の声は、確信に満ちていた。凪は、アクセルを全開にした。速度が上がる。80km/h、90km/h。コーナーが近づく。アクセルを抜く。エンジンブレーキがかかる。荷重が、フロントに移る。ハンドルを切る。瞬間。車が、ピタリと曲がった。ブレーキを使わずに。
「……マジかよ!」
凪は驚いた。
「言っただろ」
零が言った。
「車は、理解すれば応えてくれる」
凪は、胸が熱くなった。クロが、ちゃんと聞いてくれている。自分の意思を。
実走は、夕方まで続いた。凪は、何度もコースを走った。最初は、慎重に。次第に、スピードを上げていく。ブレーキングポイントを遅らせ、侵入速度を上げ、立ち上がりを速くする。
零は、その全てを見ていた。時折、アドバイスを出す。
「もっと早くブレーキを抜け」
「ハンドルの切り角が浅い」
「アクセルの開けが遅い」
凪は、その全てを実行した。一つ一つ、修正していく。車が、どんどん速くなっていく。タイムが、縮まっていく。
「……ラスト1周だ」
零が言った。
「全力で行け」
凪は、頷いた。深呼吸。アクセルを、踏み込んだ。
「ブォォォォン!」
エンジンが、全開で唸る。回転数が、5000、6000、7000と上がっていく。タコメーターの針が、レッドゾーンに近づく。速度が、120km/h、140km/hと上がる。
コーナー1。ブレーキ。
「ガッ!」
減速G。ハンドルを切る。
「キィィィン」
タイヤが鳴く。だが、滑らない。立ち上がり。アクセル全開。
「ブォォォン!」
排気音が、空気を震わせる。直線。全開加速。
「ダダダダダッ!」
連続した爆発音。まるで、機関銃の掃射。風景が、流れる。ビルが、ガードレールが、全てが後ろに飛んでいく。
コーナー3。難所。侵入速度、時速115km/h。ブレーキ、一発。
「ガガガッ!」
強烈な減速。ハンドルを切る。アクセルを、0.5秒戻す。車体が、内側に巻き込まれる。アクセルを開ける。後輪が滑る。カウンター。安定。抜けた。
「ブォォォォォン!」
エンジンが、絶叫する。回転数が、8000を超えた。レッドゾーン。だが、まだ行ける。
コーナー7。ブレーキなし。アクセルを抜く。ハンドルを切る。車が、ピタリと曲がる。完璧。
ゴール。
凪は、アクセルを緩めた。
「……はあ、はあ……」
息が荒い。全身が汗だくだ。心臓が、早鐘を打っている。だが、胸の奥が、熱い。
「……やった」
凪は呟いた。
「……完走した」
零は、何も言わなかった。ただ、時計を見ている。
「……5分38秒」
零が言った。
「悪くねえ」
凪は、驚いた。
「……それって、速いのか?」
「ああ」
零は頷いた。
「Cランク上位なら、5分40秒台だ」
零は凪を見た。
「お前、明日勝てるぞ」
凪は、笑っていた。
「……マジかよ」
「ああ」
零は、また僅かに笑った。
「だが、油断するな」
零は空を見上げた。
「明日、相手も本気で来る」
凪は、頷いた。
「……わかってる」
夕日が、首都高を赤く染めていた。二人は、車を降りた。
「今日は、これで終わりだ」
零は言った。
「明日、朝8時に会場に行く。それまで、ゆっくり休め」
「……ああ」
凪は、シルビアのボンネットに手を置いた。
「……クロ、明日、頼むぞ」
エンジンは、まだ熱い。冷却水が、循環している音が聞こえる。
「カラカラカラ……」
まるで、応えているように。凪は、笑った。
「……ああ。一緒に、勝とうな」
午後11時。廃車置き場。
凪は、一人でシルビアの前に立っていた。零は、先に家に帰った。だが、凪は、もう一度クロを見たかった。明日、戦う相棒を。
ボンネットを開ける。新しいラジエーター。オイルクーラー。ターボ。全て、零が直してくれた。
「……ありがとな、零」
凪は呟いた。ボンネットを閉じる。月が、出ていた。冷たい、だが美しい月が。
「……明日だな」
凪は空を見上げた。緊張は、もうない。あるのは、ただ一つ。期待。走ること。勝つこと。零に、自分の走りを見せること。
「……行くぞ、クロ」
凪は呟いた。風が、吹いた。冷たい、だが心地よい風が。凪は、廃車置き場を後にした。零の家へ向かう。明日のために。




