第36話: 実況の少女
二月十日、朝。
零の四トンロングのキャリアカーが、工房の前に停まっていた。
凪のクロが、その荷台に載せられている。黒く、ボロく、でも力強いシルビア。明日の戦いに向けて、静かに眠っている。
「準備はいいか?」
零が運転席から顔を出した。
凪は荷物を手に、頷いた。
「ああ、大丈夫だ」
「なら、乗れ」
凪は助手席に乗り込んだ。零がエンジンをかける。キャリアカーの重いエンジン音が、工房の前に響く。
「行くぞ」
「ああ」
キャリアカーが走り出した。
凪は後ろを振り返った。クロが、しっかりと固定されている。落ちる心配はない。零の固定は、完璧だ。
「緊張してるか?」
零が聞いた。
凪は少し考えてから、答えた。
「……少し」
「そうか」
零は短く答えた。
「緊張するのは、悪いことじゃない」
「緊張してるってことは、本気だってことだ」
凪は頷いた。
「……ああ」
キャリアカーは、高速道路に入った。山道サーキットまでは、約二時間の道のりだ。
凪は窓の外を見た。
景色が流れていく。
今日は、第二戦だ。
山道サーキット。峠を模したコース。凪が、この二週間で走り込んできた峠と似たコースだ。
凪は、準備ができていた。
零との特訓で、凪は成長した。車と対話できるようになった。車の限界を理解して、その範囲内で最速を目指せるようになった。
そして、山本との走りで、タイヤを滑らせながらコントロールすることを学んだ。
凪は、もう二週間前の凪じゃない。
凪は、強くなっていた。
「……零」
「何だ」
「俺、勝てるか?」
零は少し考えてから、答えた。
「勝てる」
凪は零を見た。
零は前を見つめたまま、続けた。
「お前は、この二週間ですごく成長した」
「車を大事にする走りができるようになった」
「それに、限界まで攻めることもできるようになった」
「だから、お前なら勝てる」
凪は胸が熱くなった。
零の言葉が、嬉しかった。
「……ありがとう、師匠」
零は少しだけ笑った。
「礼はいらねえ」
「お前が頑張ったからだ」
凪は頷いた。
二人は黙って、前を見つめた。
キャリアカーは、山道サーキットへと向かっていく。
山道サーキットに到着した時、すでに多くの車が集まっていた。
凪は窓の外を見た。
ピットエリアには、様々な車が並んでいる。GT-R、RX-7、フェアレディZ、スープラ。どれも、改造されたレーシングカーだ。
零はキャリアカーを駐車場に停めた。
「着いたぞ」
「ああ」
凪は車から降りた。
零がキャリアカーの荷台に上がり、クロの固定を解き始める。凪もそれを手伝った。
クロがゆっくりと荷台から降りてくる。
凪は、クロのボンネットに手を置いた。
「よし、クロ。今日も頼む」
クロは何も答えない。
でも、凪には聞こえた気がした。
クロの声が。
「任せろ」と。
凪は笑った。
「よし、行くぞ」
凪はクロに乗り込んだ。エンジンをかける。低く、力強い音。クロが目覚めた。
凪はクロを運転して、ピットエリアへと向かった。零は、キャリアカーをそのままにして、歩いてついてくる。
ピットエリアに到着すると、すでに多くのドライバーが集まっていた。
凪は、いくつかの顔を見つけた。
山本翔太。白いスープラの隣に立っている。
工藤陸。黒いGT-Rの前で、ピットクルーと話している。
佐々木葵。赤いRX-7を調整している。
田中健。明るく他のドライバーと話している。
みんな、凪のライバルだ。
凪は深く息を吸った。
緊張する。
でも、怖くはない。
凪は、準備ができていた。
「星野!」
誰かが凪を呼んだ。
凪は振り返った。
山本翔太だった。
「おはよう」
山本は笑顔で言った。
「おはよう」
凪は短く答えた。
「準備はどうだ?」
「完璧だ」
山本は笑った。
「そうか。なら、楽しみだな」
「ああ」
凪も笑った。
山本は少し考えてから、言った。
「今日は、お互いにベストを尽くそう」
凪は頷いた。
「……ああ、そうする」
山本は凪の肩を叩いた。
「じゃあ、また後でな」
「ああ」
山本は自分のピットへと戻っていった。
凪は、少しだけ嬉しかった。
山本のような実力者が、凪をライバルとして認めてくれている。
それは、凪にとって大きな自信になった。
「星野選手!」
また誰かが凪を呼んだ。
凪は振り返った。
茶色のショートボブ、大きな茶色い瞳、小柄な女性が走ってきた。
ヘッドセットとマイクを持っている。
柊美月だ。
第一戦で、凪のファンになったと言ってくれた実況だ。
「おはようございます!」
美月は息を切らしながら、笑顔で言った。
凪は少し驚いた。
「……おはよう」
「覚えてますか? 私、柊美月です! 前回のレースで実況をしてました!」
「……ああ、覚えてる」
凪は頷いた。
美月は嬉しそうに笑った。
「良かった! 覚えててくれて!」
「今日も、星野選手の実況をさせてもらいます!」
凪は少し戸惑った。
「……そうか」
美月は少し考えてから、言った。
「あの、星野選手、少しお時間いいですか?」
「簡単なインタビューをしたいんです!」
凪は少し考えた。
インタビュー。
凪は、そういうのが苦手だった。
でも、美月の目が、キラキラしている。
断れない。
「……わかった」
美月は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます!」
美月はマイクを取り出した。
「じゃあ、始めますね!」
凪は頷いた。
美月はマイクを凪に向けた。
「星野選手、今日のレースに向けて、どんな準備をしてきましたか?」
凪は少し考えてから、答えた。
「……峠で、走り込んだ」
「峠ですか!」
美月の目が輝いた。
「山道サーキットは峠を模したコースですから、ぴったりですね!」
「……ああ」
凪は短く答えた。
美月は続けた。
「前回のレースでは三位でしたが、今回の目標は?」
凪は少し考えた。
何と答えるべきか。
正直に言うべきか。
凪は、決めた。
正直に言おう。
「……三位以内」
美月は少し驚いた。
「三位以内、ですか?」
「ああ」
凪は頷いた。
「俺、今年Bランクに上がる」
「そのためには、毎回三位以内に入らないといけない」
「だから、今日も三位以内を狙う」
美月は感動したような顔をした。
「すごい! 野心的ですね!」
「でも、素敵です!」
凪は少し照れた。
美月は続けた。
「星野選手にとって、レースとは何ですか?」
凪は少し考えた。
レースとは、何か。
凪にとって、レースとは。
「……自由だ」
凪は答えた。
「車に乗ってると、自由を感じる」
「誰にも縛られない、自由を」
美月は目を輝かせた。
「素敵です!」
「私も、レースが大好きなんです!」
凪は少し驚いた。
「……そうなのか?」
「はい!」
美月は嬉しそうに笑った。
「私、昔カートレーサーだったんです」
「でも、怪我をして、走れなくなって」
「それで、実況になったんです」
凪は美月を見た。
美月の目が、少しだけ寂しそうだった。
「……そうか」
凪は短く答えた。
美月は笑顔を取り戻した。
「でも、今は実況が楽しいです!」
「ドライバーの皆さんの走りを見られるのが、すごく嬉しいんです!」
凪は頷いた。
「……そうか」
美月は少し考えてから、言った。
「星野選手、応援してます!」
「今日も、素敵な走りを期待してます!」
凪は少しだけ笑った。
「……ありがとう」
美月は嬉しそうに笑った。
「インタビュー、ありがとうございました!」
「じゃあ、私は実況ブースに行きますね!」
「頑張ってください!」
「ああ」
凪は短く答えた。
美月は走り去っていった。
凪は、その背中を見送った。
美月は、明るい。
レースが好きで、ドライバーを応援してくれる。
凪は、少しだけ嬉しかった。
ファンがいるのは、悪いことじゃない。
「凪」
零が声をかけた。
凪は振り返った。
零が、クロの隣に立っている。
「もうすぐブリーフィングだ」
「……わかった」
凪はクロに近づいた。
零が、クロのボンネットを軽く叩いた。
「頑張れよ、クロ」
凪は笑った。
「零、クロに優しいな」
零は少し照れたような顔をした。
「……うるさい」
凪は笑った。
そして、クロのボンネットに手を置いた。
「クロ、今日もよろしく」
クロは何も答えない。
でも、凪には聞こえた気がした。
クロの声が。
「任せろ」と。
凪は深く息を吸った。
そして、ブリーフィングルームへと向かった。
今日のレースが、始まる。
山道サーキット。
峠を模したコース。
凪が、この二週間で走り込んできた場所。
凪は、準備ができていた。
クロと一緒に。
零と一緒に。
橘家族と一緒に。
美月と一緒に。
凪は、もうひとりじゃない。
凪は、みんなと一緒に戦う。
そして、勝つ。




