第35話: 峠の終わり
二月九日。
次のレースの前日だった。
凪と零は、最後の調整のために峠に来ていた。朝の空気は冷たく、峠の道には薄い霜が降りている。
零のZ34と凪のクロが並んで停まり、二人は車から降りた。
「今日で峠での特訓は最後だ」
零が言った。
凪は頷いた。
「わかった」
零は少し考えてから、続けた。
「お前、この二週間でどれだけ成長したか、自分でわかってるか?」
凪は少し考えた。
「……少しは」
零は首を振った。
「少しじゃない」
「お前は、すごく成長した」
凪は驚いた。零が、こんなにはっきりと褒めるのは珍しい。
「最初、お前は車を壊すことしか考えてなかった」
零は静かに話し始めた。
「限界を超えて走って、エンジンを壊して、それでも走り続けた」
「でも、今は違う」
「お前は、車と対話できるようになった」
「車の声を聞いて、車の限界を理解して、その範囲内で最速を目指せるようになった」
凪は胸が熱くなった。
零の言葉が、嬉しかった。
「だから、明日のレースは自信を持て」
零は凪をまっすぐ見た。
「お前なら、勝てる」
凪は力強く頷いた。
「ああ、勝つ」
零は少しだけ笑った。
「じゃあ、最後の走り込みをするか」
「ああ」
二人は再び車に乗り込んだ。エンジンが目覚める。Z34の低い唸りと、クロの力強い咆哮。二つの音が、峠に響く。
そして、二台の車は峠を走り出した。
最後の特訓。
凪は、これまで学んだすべてを出し切った。
車と対話しながら、限界まで攻める。タイヤが滑るギリギリのラインを攻めて、でもコントロールを失わない。エンジンが唸るギリギリまで回して、でも壊さない。
それが、凪の走りだった。
零のZ34が、凪のクロを追う。いや、違う。今日は、零が少しだけ本気を出していた。
凪は必死に逃げた。零に追いつかれないように、全力で走る。
コーナーに入る。減速、ブレーキ、ステアリング。立ち上がり。グリップが戻る前に、アクセルを踏む。タイヤが滑る。でも、凪はコントロールを失わない。
クロが応えてくれる。
「ありがとう、クロ!」
凪は叫んだ。
そして、もう一度アクセルを踏んだ。
零のZ34が、ぐんぐん近づいてくる。でも、凪は諦めない。
次のコーナー。凪は、さっきより速く走った。タイヤが悲鳴を上げる。でも、まだ大丈夫だ。
零のZ34が、凪の真後ろまで迫る。
でも、凪は逃げきった。
峠の頂上に到着した時、凪が先に車を停めた。零のZ34がその隣に停まる。
二人とも、車から降りた。
凪は息を切らしていた。全力で走ったから、身体が熱い。
零は凪を見て、笑った。
「よく逃げきったな」
凪も笑った。
「……ギリギリだった」
「でも、いい走りだった」
零は凪の肩に手を置いた。
「お前、本当に成長したな」
凪は嬉しかった。
零のこの言葉が、何よりも嬉しかった。
「……ありがとう、師匠」
零は少しだけ照れたような顔をした。
「礼はいらねえ」
「お前が頑張ったからだ」
凪は深く頷いた。
二人は並んで、峠の景色を眺めた。風が冷たい。でも、心は温かかった。
「……零」
「何だ」
「明日、勝ってくる」
零は頷いた。
「ああ、期待してる」
凪は力強く答えた。
「任せろ」
その日の午後、凪と零は工房に戻った。
クロの最終調整をするためだ。
零が工具を片手に、クロのエンジンルームを覗き込んでいる。凪はその隣で、タイヤの空気圧をチェックしていた。
「エンジン、問題ないな」
零が言った。
「タイヤも大丈夫だ」
凪が答えた。
零は工具を置いて、クロのボンネットを閉めた。
「これで準備完了だ」
凪は頷いた。
「……ありがとう、零」
零は何も言わなかった。ただ、クロのボンネットを軽く叩いた。
「頑張れよ、クロ」
凪は少し驚いた。零が、クロに話しかけるなんて。
零は少し照れたような顔をした。
「……何だ、変か?」
凪は首を振った。
「いや、嬉しい」
零は少しだけ笑った。
二人は工房の前に座って、缶コーヒーを飲んだ。
夕日が、工房を照らしている。
「……零」
「何だ」
「零って、いつから車が好きなんだ?」
零は少し考えた。
「覚えてないな」
「気づいたら、好きになってた」
凪は頷いた。
「俺もだ」
零は缶コーヒーを飲んだ。
「お前、なんで車が好きなんだ?」
凪は少し考えた。
「……自由だから」
「自由?」
「ああ」
凪は頷いた。
「車に乗ってると、どこへでも行ける気がする」
「誰にも縛られない、自由な気がする」
零は少しだけ笑った。
「そうか」
「零は?」
凪が聞いた。
零は少し考えてから、答えた。
「……生きてる気がするから」
凪は零を見た。
零は遠くを見つめている。
「俺は、車に乗ってる時だけ、生きてる気がする」
「それ以外の時間は、ただ生きてるだけだ」
凪は、零の言葉の重さを感じた。
零は、何かを失ったのだろう。
二十年前に、何かを失って、それ以来、車だけが零の生きる理由になったのだろう。
凪は、何も言えなかった。
ただ、黙って缶コーヒーを飲んだ。
二人は並んで、夕日を眺めた。
風が冷たい。でも、二人は動かなかった。
「……零」
「何だ」
「俺、明日勝ったら、何か奢ってくれるか?」
零は少し笑った。
「何がいい?」
「焼肉」
凪は即答した。
零は笑った。
「焼肉、か」
「ああ」
凪も笑った。
「橘家族も呼んで、みんなで食べたい」
零は頷いた。
「わかった」
「勝ったら、奢ってやる」
凪は嬉しかった。
「じゃあ、絶対に勝つ」
零は笑った。
「ああ、頑張れ」
二人は缶コーヒーを飲み干した。
そして、再び工房の中に入った。
明日のレースに向けて、最後の準備をするために。
その日の夜、凪は橘家に電話をかけた。
「もしもし、社長?」
凪が言うと、健太の明るい声が返ってきた。
「おお、凪! 明日はいよいよレースだな!」
「ああ」
凪は頷いた。
「準備はどうだ?」
「完璧だ」
「そうか! 楽しみだな!」
健太の声が、弾んでいる。
「社長」
「何だ?」
「明日、勝ったら焼肉奢ってくれるか?」
健太は笑った。
「焼肉? いいぞ! 勝ったら、いくらでも奢ってやる!」
凪は笑った。
「ありがとう」
「結衣も楽しみにしてるぞ。お姉ちゃんが走るの、見たいって」
凪は少しだけ照れた。
「……頑張る」
「ああ、頑張れ! 俺たちも応援してるからな!」
電話を切った後、凪は少しだけ笑った。
橘家族も、楽しみにしてくれている。
零も、期待してくれている。
クロも、応えてくれる。
凪は、もうひとりじゃない。
明日のレース。
凪は、みんなのために勝つ。
そして、自分のために勝つ。
その夜、凪はクロの隣で寝た。
工房の中は冷たかったが、凪は気にしなかった。
クロの隣にいると、安心する。
凪は、クロのボンネットに手を置いた。
「明日、一緒に勝とう」
凪は呟いた。
「お前と一緒なら、勝てる気がする」
クロは何も答えない。
でも、凪には聞こえた気がした。
クロの声が。
「ああ、一緒に勝とう」と。
凪は笑った。
そして、目を閉じた。
明日のレースのために。
峠での特訓は、終わった。
でも、凪の戦いは、これから始まる。
二月十日。
山道サーキット。
凪の新しい戦いが、始まる。




