第33話: 山の神
峠での特訓が続いた。
二月に入ってから、凪と零は毎日のように峠を走っていた。朝早く、まだ霜が降りている時間帯に峠に向かい、何度も何度も同じコーナーを走る。
凪の走りは、日に日に変わっていった。
最初は、零に言われた通りに走っていた。アクセルを踏むタイミング、ブレーキを踏む力加減、ステアリングを切る角度。すべてを零の指示通りに。
でも、今は違う。
凪は、自分で考えて走るようになっていた。
クロの声を聞きながら、最適なタイミングを探る。タイヤが路面を掴む感覚を確かめながら、限界を見極める。エンジンの唸りを聞きながら、回転数を調整する。
それは、零に言われた通りの走りじゃない。
凪自身の走りだった。
「いい感じだな」
零が煙草を吸いながら言った。
二人は峠の頂上で、車を停めていた。朝日が昇り始め、空が少しずつ明るくなっている。
「ああ」
凪は短く答えた。
「クロと話せてる気がする」
零は少しだけ笑った。
「そうか」
「でも、まだ足りない」
凪は零を見た。
「何が?」
「速さだ」
零ははっきりと言った。
「お前の走りは丁寧になった。車を大事にする走りになった」
「それは、いいことだ」
「でも、それだけじゃ勝てない」
凪は唇を噛んだ。
零の言葉が、胸に刺さる。
「お前が目指してるのは、Bランク昇格だ」
「そのためには、上位三位に入らなきゃいけない」
「山本がいる。工藤がいる。鈴木がいる。葵がいる」
「みんな、お前より速い」
「だから、お前はもっと速くならなきゃいけない」
凪は拳を握った。
「……どうすれば?」
零は煙草を消した。
「車を大事にしながら、限界まで攻める」
「それが、お前に必要なことだ」
凪は眉をひそめた。
「……矛盾してないか?」
「してない」
零ははっきりと答えた。
「車を大事にするってのは、車を遅く走らせることじゃない」
「車の限界を理解して、その範囲内で最速を目指すことだ」
凪は零の言葉を噛みしめた。
「お前は今、車を壊さないように走ってる」
「それは正しい」
「でも、それだけじゃ足りない」
「車を壊さない範囲で、どこまで攻められるか」
「それを見つけるのが、お前の課題だ」
凪は深く頷いた。
「……わかった」
零は新しい煙草に火をつけた。
「じゃあ、もう一本走るか」
「ああ」
凪は力強く答えた。
二人は再び車に乗り込んだ。エンジンが目覚める。Z34の低い唸りと、クロの力強い咆哮。
そして、二台の車は再び峠を駆け下りた。
今度は、零が少しだけペースを上げた。
凪はそれを追う。でも、今までとは違う。零との距離が、なかなか縮まらない。
「くそっ」
凪は思わず呟いた。
零が速すぎる。いや、違う。今までは零が手を抜いていたのだ。凪のペースに合わせて、ゆっくり走っていたのだ。
でも、今は違う。
零が本気を出し始めている。
凪は必死に追いかけた。アクセルを踏み、ブレーキを踏み、ステアリングを切る。クロが応えてくれる。でも、零のZ34は遠ざかっていく。
コーナーに入る。凪は丁寧に走る。グリップが戻るのを待ち、アクセルを踏む。
でも、遅い。
零はもっと早くアクセルを踏んでいる。タイヤが少しだけ滑っているはずだ。でも、零はそれをコントロールしている。
「……そういうことか」
凪は理解した。
零が言いたいのは、これだ。
車を壊さない範囲で、限界まで攻める。
タイヤが滑るギリギリまで攻めて、でもコントロールを失わない。
エンジンが唸るギリギリまで回して、でも壊さない。
それが、零の走りだ。
凪は、もう一度アクセルを踏んだ。
今度は、少しだけ早く。
タイヤが少しだけ滑った。でも、凪はステアリングを切ってコントロールした。
クロが応えてくれる。
「……これだ」
凪は呟いた。
「これが、限界だ」
次のコーナーに入る。凪は、さっきより少しだけ速く走った。タイヤが滑るギリギリのラインを攻める。
クロが悲鳴を上げる。でも、まだ大丈夫だ。まだコントロール下にある。
凪は、初めて感じた。
車の限界と、自分の限界が、同じ場所にあることを。
零のZ34が、少しだけ近づいてきた。
いや、違う。凪が追いついたのだ。
凪は笑った。
「行くぞ、クロ!」
そして、もう一度アクセルを踏んだ。
峠を下り終えた時、零が車を停めた。凪もクロを停める。
二人とも、車から降りた。
零は凪を見て、少しだけ笑った。
「いい走りだった」
凪は息を切らしながら、答えた。
「……ありがとう」
「わかったか?」
「ああ」
凪は頷いた。
「車を大事にしながら、限界まで攻める」
「それが、速さだ」
零は煙草に火をつけた。
「そうだ」
「お前は、それができるようになった」
凪は嬉しかった。零に認められるのは、悪い気分じゃない。
「でも、まだ足りない」
零は続けた。
「お前は、まだ俺に追いついてない」
「俺はまだ、本気を出してない」
凪は驚いた。
「……まだ?」
「ああ」
零は煙を吐き出した。
「俺が本気を出したら、お前は絶対に追いつけない」
「でも、それでいい」
「お前が追いつくべきなのは、俺じゃない」
「山本だ。工藤だ。葵だ」
「お前のライバルたちだ」
凪は深く頷いた。
「……わかった」
零は煙草を消した。
「次のレースまで、あと一週間だ」
「それまでに、もっと走り込め」
「お前なら、できる」
凪は力強く答えた。
「ああ、やる」
二人は並んで、峠の景色を眺めた。
風が冷たい。でも、心は熱かった。
凪は、初めて思った。
自分が強くなっていることを。
ひとりじゃなくなったことを。
そして、勝てるかもしれないことを。
その日の午後、凪は工房でクロの整備をしていた。
零が隣で、工具を片手に何かを調整している。
「タイヤ、そろそろ交換した方がいいな」
零が言った。
凪はタイヤを見た。確かに、溝が減っている。
「……金、足りるか?」
「大丈夫だ」
零は短く答えた。
「橘さんのスポンサー料が残ってる」
「それに、俺も少し出す」
凪は驚いた。
「零が?」
「ああ」
零は何でもないように答えた。
「お前が勝つために必要なら、出す」
凪は胸が熱くなった。
「……ありがとう」
零は何も言わなかった。ただ、工具を握りしめて、黙々と作業を続けた。
凪は、改めて思った。
零は、本当に優しい。
口では厳しいことを言うけど、いつも凪のことを考えてくれている。
凪は、零に出会えて良かったと思った。
「零」
「何だ」
「俺、絶対に勝つ」
零は手を止めて、凪を見た。
「……そうか」
そして、少しだけ笑った。
「なら、頑張れ」
凪は頷いた。
「ああ」
二人は再び作業に戻った。
工房の中に、工具の音だけが響く。
でも、その音は心地よかった。
凪と零が、一緒にクロを作り上げている音。
それは、家族の音だった。
その日の夕方、凪は峠に一人で来ていた。
零は用事があると言って、工房に残っていた。凪は、一人で走りたいと思った。
クロのエンジンが目覚める。
低く、力強い音。
凪はアクセルを踏んだ。
クロが走り出す。
峠の道を、一人で駆け上がる。
コーナーに入る。減速、ブレーキ、ステアリング。立ち上がり。グリップが戻る。アクセルを踏む。
クロが応えてくれる。
完璧だ。
凪は笑った。
「ありがとう、クロ」
そして、もう一度アクセルを踏む。
今度は、少しだけ深く。
タイヤが少しだけ滑る。でも、凪はコントロールを失わない。
「これが、俺の走りだ」
凪は呟いた。
「車を大事にしながら、限界まで攻める」
「それが、俺の走りだ」
次のコーナーに入る。凪は、さっきより速く走った。タイヤが悲鳴を上げる。でも、まだ大丈夫だ。
クロが応えてくれる。
「ありがとう、クロ」
凪は何度も何度も呟いた。
「ありがとう」
「一緒に走ってくれて」
「一緒に戦ってくれて」
「ありがとう」
クロは何も答えない。
でも、エンジンの音が、少しだけ優しく聞こえた。
峠の頂上に到着した時、凪は車を停めた。
そして、車から降りた。
空は、夕焼けに染まっていた。
オレンジ色の光が、峠を照らしている。
凪は、その景色を見つめた。
美しい。
凪は、初めて思った。
峠が、こんなに美しいことを。
レースが、こんなに楽しいことを。
走ることが、こんなに幸せなことを。
凪は、クロのボンネットに手を置いた。
まだ温かい。
「クロ」
凪は呟いた。
「次のレース、一緒に勝とう」
クロは何も答えない。
でも、凪には聞こえた気がした。
クロの声が。
「ああ、一緒に勝とう」と。
凪は笑った。
そして、再び車に乗り込んだ。
エンジンが目覚める。
低く、力強い音。
凪は、峠を駆け下りた。
夕焼けの中を、一人で。
でも、ひとりじゃなかった。
クロがいる。
零がいる。
橘家族がいる。
そして、これから出会うみんながいる。
凪は、もうひとりじゃない。
凪は、強くなっていた。
そして、勝つ準備ができていた。




