第32話: ライバルの影
峠を走り終えた翌日、凪と零は再び同じ場所にいた。
朝の空気はまだ冷たく、峠の道にはうっすらと霜が残っている。零のZ34と凪のクロが並んで停まり、二人はエンジンを温めていた。
「今日は昨日の復習だ」
零が煙草を吸いながら言った。
「お前が本当に理解したか、もう一度確認する」
「わかった」
凪は短く答える。昨日とは違う、少し自信のある声だった。
零はちらりと凪を見た。少しだけ、口元が緩む。
「行くぞ」
「ああ」
二台のエンジンが目覚めた。Z34の低い唸りと、クロの力強い咆哮。二つの音が峠に響く。
そして、二台は峠へと走り出した。
零が先導する。凪はその後ろを追う。昨日と同じ。でも、凪の走り方は違っていた。
コーナーに入る前、しっかりと減速する。ブレーキを踏む力加減を丁寧に調整し、タイヤが鳴き過ぎないように気をつける。そして、コーナーの頂点でステアリングを切り、立ち上がりでグリップが戻るのを待つ。タイヤが路面を掴んだ瞬間、アクセルを踏む。
クロが応えてくれる。エンジンが吠え、車体が前に飛び出す。
「……いい感じだ」
凪は呟いた。クロが喜んでいる気がする。無理に攻められるより、丁寧に走ってもらう方が嬉しいのかもしれない。
零のZ34が、少しずつ距離を詰めてくる。いや、違う。零が少しペースを落としているのだ。凪の走りを見ているのだと、すぐにわかった。
「……見られてる」
少し緊張する。でも、焦らない。昨日、零に言われたことを思い出す。
「車と対話しろ」
凪はクロの声に耳を傾けた。エンジンの音、タイヤの鳴き、車体の揺れ。すべてが、クロの言葉だ。
次のコーナーに入る。減速、ブレーキ、ステアリング。そして、立ち上がり。グリップが戻るのを感じる。今だ。アクセルを踏む。
クロが応える。完璧だ。
凪は少しだけ笑った。
その時、後方から別のエンジン音が聞こえた。
凪はバックミラーを見る。白い車が近づいてくる。スープラだ。
山本翔太だ。
凪は少しだけ驚いた。また山本がここにいるとは。
山本のスープラが、あっという間に凪に近づく。そして、凪を追い越していった。
速い。
凪は思わず息を呑んだ。昨日見た時よりも、さらに速くなっている気がする。山本の走りは、凪とは全く違う。無駄がなく、滑らかで、まるで峠の道を知り尽くしているかのようだ。
山本のスープラが、零のZ34に近づく。そして、零の横に並んだ。
凪は目を見開いた。山本が零を追い越すつもりなのか、と思ったが、山本はそのまま零の横を走り続けた。
まるで、挨拶をしているかのように。
零のZ34が少しだけペースを上げた。山本のスープラもそれに合わせる。二台が並んで走る姿は、まるでダンスのようだった。
凪は、その光景に見入ってしまった。
そして、次のコーナーで山本のスープラが零を追い越した。いや、追い越したというより、零が道を譲ったのだ。
山本のスープラが先頭を走る。零のZ34がその後ろを追う。そして、凪のクロがさらにその後ろを走る。
三台の車が、峠を駆け上がっていく。
頂上に到着した時、山本のスープラが最初に停まった。零のZ34がその隣に停まり、凪のクロが少し離れた場所に停まる。
三人とも、車から降りた。
山本は零と凪を見て、軽く手を上げた。
「また会いましたね」
零は煙草を取り出しながら、短く答えた。
「おう」
山本は零をちらりと見た。相変わらず、汚れた作業着を着た無愛想なおっさん、という感じの視線だ。でも、昨日よりは少しだけ親しみがある。
そして、山本は凪の方を見た。
「星野、昨日より走りが良くなってるな」
凪は少し驚いた。
「……わかるのか?」
「わかるさ」
山本は笑った。
「昨日は少し荒かったが、今日は丁寧だ」
「車の動きが全然違う」
凪は少しだけ嬉しかった。山本のような実力者に認められるのは、悪い気分じゃない。
「……ありがとう」
「いい師匠を持ったな」
山本は零をちらりと見た。
零は煙草を吸いながら、何も言わない。ただ、煙を吐き出すだけだ。
山本は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
「星野、次のレースは二月十日だ」
「ああ、知ってる」
「山道サーキット。峠を模したコースだから、今の練習が役に立つぞ」
凪は頷いた。
「そのつもりだ」
山本は笑った。
「なら、楽しみにしてる」
「お前と、またレースで走りたい」
凪は少しだけ驚いた。山本の言葉が、嬉しかった。
「……ああ、俺も」
山本は少し考えるような顔をして、零を見た。
「神崎さん、でしたっけ」
零はちらりと山本を見た。
「ああ」
「やっぱり、どこかで聞いたことがあるような気がするんですよね、その名前」
零は何も言わない。ただ、煙草を吸い続けるだけだ。
山本は首を傾げた。
「まあ、思い出せないんですけど」
「気にするな」
零は短く答えた。
山本は少し笑った。
「そうですね。まあ、星野をよろしくお願いします」
「……ああ」
零は煙草を消した。
山本はスープラの方へ歩き出した。
「じゃあ、俺はこれで。また峠で会いましょう」
「ああ」
凪は短く答えた。
山本はスープラに乗り込み、エンジンをかけた。そして、峠を下っていった。
凪と零だけが残された。
二人は並んで、峠の景色を眺めた。
「……零」
「何だ」
「山本は、零のことを本当に知らないみたいだな」
零は少しだけ笑った。
「ああ、知らないだろう」
「でも、神崎って名前には引っかかってる」
「どこかで聞いたことがあるんだろうな」
零は新しい煙草に火をつけた。
「でも、俺のことは思い出さない」
「なぜ?」
「俺は二十年前に引退した」
零は静かに答えた。
「あいつが十歳の時だ。顔なんて覚えてるわけがない」
「それに」
零は少しだけ自嘲気味に笑った。
「今の俺は、ただのこ汚いおっさんだ」
「AAAランクの『白い亡霊』とは、誰も結びつけない」
凪は零を見た。零は相変わらず無表情だが、少しだけ寂しそうに見えた。
「……でも、いつか気づくかもしれない」
「気づくかもな」
零は肩をすくめた。
「でも、それはそれだ」
凪は少し考えた。
「……零は、山本のこと、どう思ってる?」
零は少し考えてから、答えた。
「いい走りをする」
「才能がある」
「Bランクに戻るのも時間の問題だろう」
凪は頷いた。
「……俺も、そう思う」
零は凪を見た。
「お前も、負けてられないな」
「ああ」
凪は力強く答えた。
「俺も、Bランクに上がる」
零は少しだけ笑った。
「なら、もっと練習しないとな」
「ああ」
凪も笑った。
二人は再び車に乗り込んだ。エンジンが目覚める。Z34の低い唸りと、クロの力強い咆哮。二つの音が峠に響く。
「行くぞ」
零が言った。
「ああ」
凪が応える。
そして、二台の車は再び峠を走り出した。
山本のスープラが走り去った後、凪は少しだけ考えていた。
山本は、確かに速い。Bランクから降格したとはいえ、その実力は本物だ。第一戦で一位を取ったのも納得できる。
でも、凪は負ける気がしなかった。
山本は速い。でも、凪にはクロがいる。零がいる。橘家族がいる。
ひとりじゃない。
凪は、初めてそう思った。
これまで、凪はずっとひとりで戦ってきた。誰も信じず、誰にも頼らず、ただ自分の力だけで走ってきた。
でも、今は違う。
零が教えてくれた。クロと対話することを。車を大事にすることを。
橘家族が支えてくれた。レースに出るための資金を。応援を。
そして、クロが応えてくれた。凪の無茶な走りに、何度も何度も応えてくれた。
凪は、ひとりじゃない。
その事実が、凪を強くしていた。
零のZ34が、また少しペースを上げた。凪はそれを追う。焦らず、丁寧に。クロと対話しながら。
コーナーに入る。減速、ブレーキ、ステアリング。立ち上がり。グリップが戻る。アクセルを踏む。
クロが応える。完璧だ。
凪は笑った。
「ありがとう、クロ」
そして、もう一度アクセルを踏む。
零のZ34が、また少しだけ近づいてくる。でも、凪は焦らない。
一歩ずつ、確実に。
それが、凪の新しい走り方だった。
峠を下り終えた時、零が車を停めた。凪もクロを停める。
二人とも、車から降りた。
「どうだった?」
零が聞く。
凪は少し考えてから、答えた。
「楽しかった」
零は少しだけ笑った。
「そうか」
「ああ」
凪も笑う。
「山本に負けない気がする」
零は煙草を取り出した。
「根拠は?」
「クロがいるから」
凪ははっきりと答えた。
「零がいるから」
「みんながいるから」
零は煙草に火をつけた。
「……そうか」
そして、少しだけ笑った。
「なら、勝てるな」
凪は頷いた。
「ああ、勝つ」
二人は並んで、峠の景色を眺めた。
風が冷たい。でも、心は温かかった。
凪は、初めて思った。
レースは、ひとりで走るものじゃない。
みんなと一緒に走るものだ。
クロと、零と、橘家族と、そして、これから出会うみんなと。
凪は、もうひとりじゃない。
そして、それが凪を強くしていた。




