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第31話: 言葉の距離

峠の空気は冷たい。


二月に入ってから、気温はさらに下がった。吐く息が白く、アスファルトに降りた霜が朝日を反射してキラキラと光る。


凪は、クロのボンネットに両手を置いて、エンジンの熱を感じていた。


まだ温かい。


さっきまで、零と一緒に峠を走っていた。


何度も、何度も。


同じコーナーを繰り返し、同じラインを試し、何度も失敗した。


そして今、凪は工房の駐車場で、クロのエンジンを冷ましている。


零は工房の中で、何か作業をしている。


二人とも、何も話していない。


「……おい」


工房の奥から、零の低い声が響いた。


凪は顔を上げる。


零が工具を片手に、こちらを見ていた。


「今日はもう終わりだ。帰れ」


「…ああ」


凪は短く答えた。


でも、足は動かない。


心の中に、何かが引っかかっている。


さっき、峠で零が言ったこと。


『お前の走り方は、間違ってる』


あの言葉が、ずっと胸に刺さったままだ。


凪は、アクセルを踏むタイミングを早めた。


コーナーの立ち上がりで、もっと速く加速したかった。


でも、零はそれを否定した。


「早すぎる」と。


「タイヤが滑る」と。


「もっと我慢しろ」と。


凪は、零の言う通りにした。


アクセルを遅らせた。


タイヤのグリップを確認してから踏んだ。


でも、遅い。


遅すぎる。


こんなんじゃ、山本に勝てない。


工藤にも勝てない。


「零」


凪は、無意識に零の名前を呼んでいた。


零が振り返る。


「……何だ」


「さっきの走り方、本当にあれでいいのか?」


零は眉をひそめた。


「何が言いたい」


「遅い」


凪ははっきりと言った。


「あのタイミングじゃ、遅すぎる。もっと早く踏まないと、タイムが出ない」


零は工具を置いた。


ゆっくりと凪の方へ歩いてくる。


「お前、何を言ってる?」


「俺の言い方が悪かったか? もう一回説明してやる」


「いや」


凪は首を振った。


「説明は分かってる。でも、納得できない」


「零の言う通りにやったら、確かに安定する。でも、それじゃ速くない」


「俺は、速く走りたい」


零の目が、鋭く光った。


「速く走りたい、か」


「じゃあ聞くが、お前は車を壊してもいいのか?」


凪は唇を噛んだ。


「……壊さない」


「壊すだろ」


零の声が冷たくなる。


「お前は二ヶ月前、エンジンを壊した」


「そして二週間前、また壊しかけた」


「まだ懲りてないのか?」


凪は拳を握る。


「……あれは、仕方なかった」


「仕方ない?」


零が一歩近づく。


「お前が無理に攻めたからだ」


「車の悲鳴を無視したからだ」


「何が仕方ないんだ?」


凪の胸が熱くなる。


怒りなのか、悔しさなのか、自分でもわからない。


でも、言葉が止まらなくなった。


「だって、あのタイミングで攻めなきゃ勝てなかった!」


「工藤に抜かれそうだった!」


「あそこで譲ったら、もう追いつけなかった!」


「だから、やるしかなかった!」


零は無表情だ。


「だから、エンジンを壊した」


「違う!」


凪は声を張り上げた。


「エンジンは壊れてない! ギリギリで持ちこたえた!」


「俺は、クロを信じて走った!」


「クロも、俺を信じて応えてくれた!」


「それのどこが間違ってる!?」


零は黙っている。


ただ、じっと凪を見つめている。


凪の心臓が激しく鳴る。


呼吸が荒い。


自分でも驚くほど、感情が溢れていた。


「……お前は」


零がゆっくりと口を開いた。


「車を道具だと思ってるのか?」


凪は息を呑む。


「それとも、相棒だと思ってるのか?」


「……相棒だ」


凪は即答した。


「クロは、俺の相棒だ」


「なら」


零は一歩近づく。


「相棒を、限界まで追い込むのか?」


「相棒を、壊れる寸前まで酷使するのか?」


「それが、お前の言う『信頼』か?」


凪は言葉に詰まった。


零の言葉が、胸に突き刺さる。


でも、違う。


何かが違う。


「……違う」


凪は顔を上げた。


「クロは、俺と一緒に走りたいって言ってる」


「クロは、限界まで走りたいって言ってる」


「俺が止めたら、クロが悲しむ」


零は目を細めた。


「お前、車の気持ちがわかるのか?」


「わかる」


凪ははっきりと答えた。


「俺には、わかる」


「クロが何を求めてるか、わかる」


「クロは、速く走りたい」


「俺と一緒に、誰よりも速く走りたい」


「それが、クロの声だ」


零は長い沈黙の後、深くため息をついた。


「……お前、本当にバカだな」


凪は眉をひそめる。


「バカ?」


「ああ、バカだ」


零は工房の壁に背中を預けた。


「車の気持ちがわかる? 笑わせるな」


「車は喋らない。車は感情を持たない」


「お前が聞いてるのは、車の声じゃない」


「お前自身の欲望だ」


凪は反論しようとして、口を閉じた。


零の言葉が、心の奥に響く。


「お前は、速く走りたい」


「誰よりも速く、限界まで走りたい」


「だから、クロにそれを求める」


「そして、クロがそれに応えてくれると信じてる」


「でもな」


零は凪をまっすぐ見た。


「それは、お前の願望だ」


「クロの願いじゃない」


凪は拳を握りしめた。


「……じゃあ、クロは何を望んでる?」


零は少しだけ、表情を緩めた。


「生き延びることだ」


「壊れないことだ」


「お前と、もっと長く走り続けることだ」


凪の胸が締め付けられた。


「お前が無理に攻めて、クロを壊したら」


「クロはもう走れない」


「お前と一緒に走ることも、できなくなる」


「それでもいいのか?」


凪は黙り込んだ。


零の言葉が、重く心に沈む。


「……すまん」


凪は小さく呟いた。


「俺、間違ってた」


零は何も言わない。


ただ、静かに凪を見ている。


「俺、クロのことを考えてるつもりだった」


「でも、本当は自分のことしか考えてなかった」


「クロを、自分の欲望のために使ってた」


凪の声が震える。


「……ごめん、クロ」


クロは何も答えない。


ただ、静かにそこに立っている。


黒く、ボロく、でも力強く。


凪の涙が、一粒、地面に落ちた。


「泣くな」


零の声が、いつもより優しかった。


「お前が気づいただけで、十分だ」


凪は涙を拭った。


「……零」


「何だ」


「俺、どうすればいい?」


零は少し考えてから、口を開いた。


「クロと対話しろ」


「対話?」


「ああ」


零はクロに手を置いた。


「車は喋らない。でも、応えてくれる」


「お前がアクセルを踏めば、エンジンが吠える」


「お前がブレーキを踏めば、タイヤが鳴く」


「お前がステアリングを切れば、車体が傾く」


「それが、車の言葉だ」


凪は零の言葉を噛みしめた。


「お前は、その言葉を聞け」


「そして、応えろ」


「車が苦しそうなら、休ませろ」


「車が走りたそうなら、走らせろ」


「それが、対話だ」


凪は深く頷いた。


「……わかった」


零はクロから手を離した。


「じゃあ、もう一回走るか?」


凪は顔を上げる。


「今から?」


「ああ」


零はZ34の方へ歩き出した。


「お前が本当に理解したか、確かめる」


「ついて来い」


凪は一瞬驚いたが、すぐにクロのドアを開けた。


「……ああ、行く」


エンジンが目覚める。


低く、力強い音。


クロが応えてくれた。


凪は、初めて気づいた。


この音が、クロの声なんだと。


峠の道を、二台の車が走る。


前を行くのは零のZ34。


後ろを追うのは、凪のクロ。


でも今日は、いつもと違う。


凪は、アクセルを無理に踏まない。


タイヤの限界を感じながら、丁寧に走る。


コーナーの立ち上がりで、グリップが戻るのを待つ。


そして、タイヤが路面を掴んだ瞬間、アクセルを踏む。


クロが応える。


エンジンが吠え、車体が前に飛び出す。


「……これか」


凪は呟いた。


「これが、対話か」


クロが喜んでいる気がした。


無理に攻められるより、丁寧に走ってもらう方が嬉しいのかもしれない。


凪は、初めて笑った。


「ありがとう、クロ」


そして、もう一度アクセルを踏む。


今度は、クロの声を聞きながら。


峠の頂上で、零が車を止めた。


凪もクロを停める。


二人とも、車から降りた。


「どうだった?」


零が聞く。


凪は少し考えてから、答えた。


「……楽しかった」


零は少しだけ笑った。


「そうか」


「ああ」


凪も笑う。


「クロと、ちゃんと話せた気がする」


零は煙草を取り出し、火をつけた。


「なら、よかった」


二人は並んで、峠の景色を眺めた。


風が冷たい。


でも、心は温かかった。


「……零」


「ん?」


「さっきは、ごめん」


「気にするな」


零は煙を吐き出した。


「お前が自分の気持ちを言えるようになったのは、いいことだ」


「イエスマンのままじゃ、成長しない」


凪は少し驚いた。


「……イエスマン?」


「ああ」


零は凪を見た。


「お前、今まで俺の言うことを何でも聞いてた」


「それは悪いことじゃない」


「でも、それじゃお前の走りは生まれない」


「お前は、お前の走りを見つけなきゃいけない」


凪は零の言葉を噛みしめた。


「……ありがとう、師匠」


零は少しだけ笑った。


「師匠、か」


「ああ」


凪も笑う。


「人前では、師匠」


「でも、二人の時は、零」


零は煙草を消した。


「……好きにしろ」


でも、その声は優しかった。


二人は再び車に乗り込んだ。


エンジンが目覚める。


Z34の低い唸りと、クロの力強い咆哮。


二つの音が、峠に響く。


「行くぞ」


零が言った。


「ああ」


凪が応える。


そして、二台の車は再び峠を駆け下りた。


今度は、もっと深く。


もっと確かに。


車と対話しながら。


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