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第3話 車の声


翌朝、午前8時。


凪が目を覚ました時、零は既に起きていた。台所からは、コーヒーの香りが漂ってくる。


「……起きたか」


零は振り返った。


「飯は自分で作れ。パンと卵がある」


「……おう」


凪は洗面所で顔を洗い、適当に朝食を済ませた。零は黙ってコーヒーを飲んでいる。その横顔は、相変わらず疲れているように見えた。


「今日は何すんだ?」


凪は聞いた。


「部品が届くまで、座学だ」


零はコーヒーカップを置いた。


「お前に、車の基礎を叩き込む」


「……座学?」


凪は眉をひそめた。


「走らねえのかよ」


「走る前に、知識が必要だ」


零は立ち上がった。


「ついて来い」


零が向かったのは、アパートの裏にある小さな倉庫だった。


扉を開けると、中には古い黒板と、大量の整備工具、そして分解されたエンジンが置いてあった。まるで、小さな整備学校のようだ。


「……何だよ、ここ」


「俺の工房だ」


零は黒板の前に立った。


「昔、弟子を取ってた時に使ってた」


「……弟子?」


「ああ。もう15年前の話だがな」


零はチョークを手に取った。


「今日は、エンジンの仕組みを教える」


零は黒板に図を描き始めた。


シリンダー、ピストン、クランクシャフト。一つ一つの部品が、どう連動してエンジンが回るのか。零の説明は、的確で、わかりやすかった。


「エンジンってのは、爆発のエネルギーを回転に変える装置だ」


零は図を指差した。


「ガソリンと空気を混ぜて、圧縮して、点火する。その爆発力でピストンが押し下げられ、それがクランクシャフトを回す」


「……知ってるよ、そんくらい」


「知ってるだけじゃ意味がねえ」


零は凪を見た。


「お前は、それを感じられるか?」


「……感じる?」


「ああ」


零はエンジンの実物を指差した。


「アクセルを踏み込んだ時、エンジンの中で何が起きてるか。燃焼室でどれだけの圧力がかかってるか。ピストンがどれだけの速度で動いてるか」


零の声は、静かだった。


「それを、お前の体で感じ取れるようにならなきゃ、車と対話なんてできねえ」


凪は、黙った。


零の言っていることが、少しずつわかってきた。


「……つまり、理屈を知った上で、それを体感しろってことか?」


「そうだ」


零は頷いた。


「知識がなけりゃ、感覚は磨けねえ。逆に、感覚がなけりゃ、知識は役に立たねえ」


零はチョークを置いた。


「お前には、才能がある。タイヤの限界を感じ取る能力がある。だが、それだけじゃ足りねえ」


零は凪の目を見た。


「エンジンの声も聞け。サスペンションの声も聞け。車全体が、お前に何を伝えようとしてるか、全部感じ取れ」


凪は、息を呑んだ。


零の目が、真剣だった。


「……やってみる」


凪は頷いた。


座学は、正午まで続いた。


零は次々と知識を叩き込んでくる。エンジンの次は、サスペンション。その次は、ブレーキシステム。タイヤのグリップの仕組み。空力の基礎。


全てが、レースに直結する知識だった。


凪は必死にノートを取った。


零の説明は、教科書のような堅苦しさがない。全て、実体験に基づいている。だから、わかりやすい。


「……休憩だ」


零は時計を見た。


「10分休んだら、次は実技だ」


「……実技?」


「ああ。お前に、エンジン音を聞き分けてもらう」


零は倉庫の奥から、古いラジカセを取り出した。


「これは、俺が昔録音した音源だ」


零はテープを再生した。


スピーカーから、エンジン音が流れてくる。


低く、重く、規則正しい音。


「これは、正常なエンジン音だ」


零は言った。


「次」


零はテープを切り替えた。


今度は、音が少し高い。そして、微かに金属的な響きがある。


「これは?」


零が聞いた。


凪は耳を澄ませた。


「……わかんねえ」


「よく聞け。何か、違和感がないか?」


凪は目を閉じた。


音に、集中する。


低音の中に、微かな高音が混じっている。まるで、金属が擦れ合うような。


「……金属音?」


「正解だ」


零は頷いた。


「これは、ピストンリングが摩耗してる音だ。このまま走らせたら、エンジンが焼き付く」


零は次のテープに切り替えた。


今度は、音が不規則だ。一定のリズムがない。


「これは?」


「……爆発が、バラバラ?」


「そうだ」


零は言った。


「点火プラグの不調だ。燃焼が不完全になってる」


零は次々とテープを流していく。


凪は、必死に聞き分けようとした。


最初は全く区別がつかなかった。だが、何度も聞いているうちに、少しずつわかってきた。


正常な音と、異常な音の違い。


微かな金属音。不規則なリズム。高すぎる音、低すぎる音。


全てが、車からのメッセージだった。


時間が経つのを忘れていた。


凪は、ただひたすらに音を聞き続けた。零が流すテープに耳を傾け、違いを探し、答える。


間違える。


また聞く。


少しずつ、わかってくる。


「……すげえな」


凪は呟いた。


「お前、この音だけで車の状態がわかんのかよ」


「ああ」


零は言った。


「音ってのは、嘘をつかねえ。人間は嘘をつくが、車は嘘をつかねえ」


零はラジカセを止めた。


「お前も、これができるようになれ」


凪は、頷いた。


気づけば、午後2時を過ぎていた。


「……飯、食うか」


零は立ち上がった。


「近くにコンビニがある」


「……ああ」


二人はコンビニでおにぎりとお茶を買い、工房の前のベンチで食べた。


凪は、黙々とおにぎりを頬張っていた。


「……なあ」


零が口を開いた。


「お前、コンテナの荷物はどうすんだ?」


「……は?」


「寝袋とか、工具とか」


零は缶コーヒーを飲んだ。


「このまま、俺の家に泊まるつもりなら、取りに行った方がいい」


凪は、手を止めた。


「……いいのかよ。ずっと泊まって」


「構わねえ」


零は空を見上げた。


「どうせ一人だ。部屋は余ってる」


凪は、何も言えなかった。


「……じゃあ、後で取りに行く」


「ああ」


零は立ち上がった。


「飯食ったら、部品が来る。そしたら、お前の車を直す」


午後3時。


廃車置き場に、トラックが到着した。


「……部品が来たか」


零は立ち上がった。


二人は零のZに乗り込み、廃車置き場へ向かった。トラックの運転手は、部品の入った段ボールを降ろしていく。


「ラジエーター、オイルクーラー、ターボのタービンブレード……全部あるな」


零は部品を確認した。


「よし。今から組み付ける」


「……今から?」


「ああ。今日中に終わらせる」


零は工具箱を開けた。


「手伝え」


作業が始まった。


零は黙々と古いラジエーターを外していく。ボルトを一つ一つ緩め、ホースを外し、本体を引き抜く。


その手際は、朝見た時と同じように完璧だった。


「ラジエーター、持ってろ」


零が言った。


凪は新しいラジエーターを両手で支えた。


重い。


金属の塊が、手のひらに食い込む。


「……動くなよ」


零は配管を繋ぎ始めた。


その指先が、正確にホースを差し込んでいく。一切の迷いがない。まるで、何百回も同じ作業をしてきたような動きだ。


「……お前、本当にすげえな」


凪は呟いた。


零は答えなかった。


ただ、黙々と手を動かし続ける。


時間が過ぎていく。


夕日が、廃車置き場を赤く染めていく。


零はエンジンブロックのヒビを溶接し、オイルクーラーを取り付け、配管を繋いでいく。


凪は、その横で工具を渡し、部品を支え、零の指示に従った。


二人の間に、会話はない。


だが、それは不快な沈黙ではなかった。


むしろ、心地よかった。


零の呼吸と、自分の呼吸が、同じリズムで刻まれている。


車を直すという、同じ目的のために。


夕日が沈み、空が暗くなっていく。


零は作業灯を点けた。


白い光が、エンジンルームを照らす。


「ターボ、外すぞ」


零は言った。


凪は頷いた。


ターボチャージャーは、エンジンの心臓部だ。ここを間違えたら、全てが台無しになる。


零は慎重に、だが迷いなくボルトを外していく。


ターボ本体を取り外し、タービンブレードを確認する。


「……やっぱり、摩耗してる」


零は新しいタービンブレードを取り出した。


「これに交換する」


零の手が、タービンハウジングを分解していく。


古いブレードを外し、新しいブレードを組み込む。


その動きは、まるで時計職人のようだった。


0.1ミリ単位の精度で、部品を組み付けていく。


「……すげえ」


凪は、ただ見とれていた。


零の手が、車と対話しているようだった。


時間が経つのを忘れていた。


空は完全に暗くなり、星が見え始めていた。


「……よし」


零は、ようやく手を止めた。


「組み付け、完了だ」


時計を見ると、午後10時を回っていた。


「……7時間も、やってたのか」


凪は呟いた。


「ああ」


零は額の汗を拭った。


「だが、まだ終わりじゃねえ」


「……まだ?」


「エンジン、かけてみろ」


零は言った。


「ちゃんと動くか、確認する」


凪は運転席に座り、キーを回した。


セルモーターが回る。


一回。


二回。


三回。


エンジンが、目覚めた。


「ゴロゴロゴロ……」


低く、重く、だが滑らかな音。


アイドリングが安定する。


回転数が、800rpmで一定になる。


「……音、変わった」


凪は呟いた。


「当たり前だ」


零はボンネットを覗き込んだ。


「冷却水の温度、正常。オイル圧、正常。回転数、安定」


零は頷いた。


「問題ねえ」


零はアクセルを軽く煽った。


「ブォン、ブォン」


エンジンが応える。


排気音が、力強い。


「……タービンも、ちゃんと回ってる」


零は満足そうに頷いた。


「よし。これで大丈夫だ」


凪は、ハンドルを握りしめた。


クロが、生き返った。


エンジンの振動が、ハンドルを通して伝わってくる。


規則正しく、力強く、まるで心臓の鼓動のように。


「……ありがとな」


凪は呟いた。


零は、ボンネットを閉じた。


「礼はいらねえ」


零は空を見上げた。


「お前は、ただ勝てばいい」


凪は、頷いた。


「……ああ」


零は工具箱を片付け始めた。


「今日は、これで終わりだ。明日、最終調整をする」


「……明日?」


「ああ。レースは明後日だ」


零は凪を見た。


「明日一日で、お前の走りを仕上げる」


凪は、息を呑んだ。


零の目が、鋭く光っていた。


「……わかった」


二人は、零のZに乗り込んだ。


エンジンをかけ、廃車置き場を後にする。


車内は、静かだった。


だが、凪の胸の中では、何かが燃え始めていた。


明後日。


レース。


絶対に、勝つ。


零の期待に応えるために。


そして、自分自身のために。


窓の外を、街の灯りが流れていく。


凪は、その光を見つめながら、拳を握りしめた。


「……行くぞ、クロ」


心の中で、呟いた。

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