第28話: 再びの叱責
ゴールラインを越えた瞬間、エンジンの音が変わった。
「ギィィィン…ブォ…ゴロゴロ…」
金属の悲鳴が、低い唸りに変わる。そして、アイドリングが不安定になる。まずい。やばい。
「…っ」
ステアリングを握る手が、震える。クロを、ピットに向かわせる。速度を落とす。60km/h、50km/h、40km/h。エンジンの音が、ガタガタと揺れる。
「凪」
ヘッドセットから、零の声。低い。冷たい。怒ってる。
「…ああ」
「ピットに入れ」
「…わかった」
ピットに入る。クロを停める。エンジンを切る。
「ブォ…」
エンジンが、静かになった。その瞬間、周りの音が一気に押し寄せてくる。観客の歓声。拍手。スピーカーから流れる実況の声。
「素晴らしい! 素晴らしい走りでした! 星野凪選手、二十三番グリッドから三位! 見事です!」
実況の小林の声が、興奮してる。
「本当にすごかったです! 最後、山本選手を抜いた瞬間、鳥肌が立ちました!」
美月の声。涙声だ。本当に、泣いてる。
車から降りる。足が、震えてる。立てるか不安だったが、大丈夫だった。ヘルメットを脱ぐ。冷たい空気が、顔に当たる。汗が、顔を伝う。
「凪」
零の声。振り返ると、零が立っていた。いつもの死んだ魚のような目。でも、今は違う。怒ってる。間違いなく、怒ってる。
「…零」
「ボンネットを開けろ」
零の声が、低く響く。
「…ああ」
ボンネットを開ける。エンジンルームが見える。零が、覗き込む。俺も、横から見る。エンジンが、熱を持ってる。湯気が、少し上がってる。
零が、エンジンを確認してる。手を伸ばして、触る。目を細めて、音を聞く。匂いを嗅ぐ。全部を、確認してる。
「……」
零が、黙ってる。何も言わない。その沈黙が、怖い。
「…どうだ」
俺が、小さく聞いた。
「壊れてはいない」
零が、答えた。
「……!」
「だが、軽く修理が必要だ」
零の目が、俺を見た。
「オイルが少し焼けてる。ピストンのリングにも、負担がかかってる。このまま走ったら、確実に壊れてた」
「……」
「お前、ギリギリで止まったんだ」
零の声が、低く響く。
「もう一周走ってたら、エンジンは壊れてた」
「……」
何も言えなかった。零の言葉が、胸に刺さる。
「凪さーん!」
橘の声。振り返ると、橘と美咲さんと結衣が走ってきた。
「すごかったです! すごかった! 三位ですよ! 三位!」
橘が、興奮してる。美咲さんが、涙を流してる。
「凪さん、本当によく頑張りましたね」
結衣が、飛びついてきた。
「お姉ちゃん、かっこよかった!」
その言葉が、嬉しい。でも、零の視線が、背中に刺さる。
「橘」
零が、低い声で言った。
「…はい」
橘が、零の顔を見て、表情を変えた。怒ってる。零が、怒ってる。
「少し、凪と話がある」
「…わかりました」
橘が、美咲さんと結衣を連れて、離れていった。結衣が、振り返りながら心配そうに俺を見てる。
「凪」
零が、俺を見た。
「…何だ」
「お前、また同じことをしてる」
零の声が、冷たい。
「……」
「前回、特別戦で何があった」
「…エンジンを、壊した」
「そうだ」
零の目が、鋭い。
「車の声を聞かずに、無理に攻めて、エンジンを壊した」
「……」
「そして、何をした」
「…エンジンを、載せ替えた」
「そうだ」
零が、一歩近づいた。
「エンジンを分解して、全部確認して、中古のエンジンを探して、載せ替えて、組み直して、調整して。どれだけ時間がかかった」
「…二ヶ月」
「そうだ。二ヶ月だ」
零の声が、低く響く。
「あの二ヶ月、お前は何を学んだ」
「……」
「車の声を聞くこと、だろ」
零が、俺の肩を掴んだ。
「なのに、お前は今日、また同じことをした」
「…っ」
「エンジンの音が変わった時点で、気づいてた。俺も、お前も。なのに、お前は止まらなかった」
零の目が、真っ直ぐ俺を見てる。
「俺が、諦めろって言った。なのに、お前は止まらなかった」
「……」
「何を学んだ。エンジン組み換えからやってきて、あの二ヶ月の地獄を、もう忘れたのか」
零の声が、震えてる。怒ってる。でも、それだけじゃない。心配してる。
「…すみません」
小さく答えた。
「すみませんじゃねえ」
零が、俺の肩を離した。
「お前、三位を取った。それは、認める。よくやった」
「……」
「だが、車を壊しかけた。それは、許さねえ」
零が、クロを見た。
「この車は、お前の相棒だろ。お前を、ここまで連れてきてくれたんだろ」
「…ああ」
「なのに、お前はこの車を壊そうとした」
零の声が、低く響く。
「それが、相棒にすることか」
「……」
何も言えなかった。零の言葉が、全部正しい。俺は、またクロを壊しかけた。車の声を聞かずに、無理に攻めた。
「凪」
零が、俺を見た。
「お前が、速くなりたいのはわかる。Bランクに行きたいのもわかる」
「……」
「だが、車を壊してまで勝つ価値はねえ」
零の目が、真っ直ぐ俺を見てる。
「車は、お前の道具じゃねえ。相棒だ。一緒に走る仲間だ」
「……」
「それを、忘れるな」
零が、俺の頭を軽く叩いた。
「…わかった」
小さく答えた。
「次、同じことをしたら、俺はお前を教えない」
「……!」
零の目が、本気だった。
「車を大事にできない奴に、速く走る資格はねえ」
「…わかりました」
零が、小さく息を吐いた。
「…今日は、よくやった。三位。60pt獲得。年間目標の第一歩だ」
零の声が、少しだけ優しくなった。
「でも、車を労れ。そうじゃなきゃ、次はねえ」
「…はい」
零が、クロのボンネットを見た。
「明日から、修理だ。オイル交換、ピストンリングの確認、全部やる」
「…はい」
「一週間で直す。お前も、手伝え」
「…はい」
零が、ボンネットを閉めた。
「さあ、表彰台に行くぞ」
「…はい」
表彰台に向かう。橘たちが、待っていた。
「凪さん、大丈夫ですか?」
橘が、心配そうに聞く。
「…大丈夫です」
「零さんに、怒られましたね」
「…はい」
橘が、小さく笑った。
「でも、それだけ零さんが凪さんを心配してるってことですよ」
「……」
「零さん、本当はすごく嬉しそうでしたよ。凪さんが三位を取って」
橘の言葉に、少し救われた気がした。
表彰台に向かう途中、声をかけられた。
「星野選手!」
振り返ると、美月が走ってきた。息を切らしてる。
「…はい」
「あの、インタビュー、お願いできますか!」
美月が、マイクを持ってる。
「…はい」
「ありがとうございます!」
美月が、嬉しそうに笑った。カメラが、回ってる。
「星野選手、三位おめでとうございます!」
「…ありがとうございます」
「最後の勝負、すごかったです! 山本選手を抜いた瞬間、鳥肌が立ちました!」
美月の目が、キラキラしてる。
「…ありがとうございます」
「あの、どうやって抜いたんですか? すごく難しいタイミングでしたよね?」
「…師匠の指示を聞きながら、車の声を聞いて、走りました」
「車の声?」
「…はい。車が、何を求めてるか。それを、聞きました」
美月が、少し驚いた顔をする。
「そうなんですね…。素晴らしいです」
美月が、少し涙声になった。
「私、星野選手のファンになりました」
「…え?」
「本当です! あの走り、本当に感動しました! これから、星野選手のレース、全部見に来ます!」
美月が、笑顔で言った。
「…ありがとうございます」
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
「…何ですか」
「星野選手にとって、車ってどんな存在ですか?」
美月の目が、真剣だ。
「…相棒です」
即答した。
「一緒に走る、仲間です」
「……」
美月が、涙を流した。
「素敵です…」
美月が、小さく呟いた。
「頑張ってください! 応援してます!」
「…はい」
美月が、去っていった。その背中を見送って、俺は再び歩き出した。
表彰台に上がる。三位の台。トロフィーを受け取る。重い。でも、嬉しい。
観客が、拍手してくれる。歓声が、響く。でも、俺の心は、まだモヤモヤしてる。零に怒られた。車を、壊しかけた。
クロを見る。パドックに停まってる。ボロい。傷だらけ。でも、今日も走ってくれた。最後まで、俺を運んでくれた。
「…ありがとう」
小さく呟いた。
表彰台を降りて、パドックに戻る。零が、クロの横で待っていた。そして、その後ろに、白いトラックが停まっていた。四トンロングのキャリアカー。積載車だ。
「…これ」
「俺のトラックだ」
零が、答えた。
「クロを載せて、工房に運ぶ」
「……」
「エンジンが不安定だ。自走で帰るのは、リスクが高い」
零が、トラックの荷台を下ろす。
「乗せるぞ。手伝え」
「…はい」
クロをトラックに載せる。ゆっくりと、慎重に。零が、ウインチを操作する。クロが、荷台に上がっていく。
「…ごめん」
クロに向かって、小さく呟いた。
トラックに、クロが載った。零が、固定する。タイヤを、チェーンで縛る。全部を、確認する。
「よし」
零が、荷台を上げた。
「乗れ」
「…はい」
トラックの助手席に乗る。零が、運転席に乗る。エンジンをかける。
「ブォォン」
トラックのエンジン。ディーゼルの音。力強い。
会場を出る。空が、オレンジ色に染まってる。夕方だ。一日が、終わる。
「零」
「…何だ」
「明日から、修理、手伝います」
「当たり前だ」
零が、窓の外を見たまま答えた。
「お前が壊しかけたんだ。お前が直せ」
「…はい」
零が、小さく笑った気がした。
「一週間で直す。次のレースは、二月十日。まだ、三週間以上ある」
「…はい」
「その間に、ちゃんと車を直して、お前も反省しろ」
「…はい」
トラックが、静かに走る。後ろに載ってるクロ。今日、頑張ってくれたクロ。そして、俺が壊しかけたクロ。
「…ごめん」
小さく呟いた。
家に着いた。トラックを、工房の前に停める。零が、荷台を下ろす。クロを、工房に入れる。ゆっくりと、慎重に。
クロが、工房に入った。零が、固定を外す。
「今日は、これで終わりだ」
零が、言った。
「明日、朝六時から修理を始める」
「…はい」
「遅れるな」
「…はい」
零が、トラックに乗り込んだ。
「お疲れ様でした」
「…ああ」
トラックが、去っていった。
工房に一人残される。クロを見る。ボンネットに手を置く。まだ、少し温かい。
「今日、ありがとう」
小さく呟いた。
「そして、ごめん」
もう一度、呟いた。明日から、また修理だ。また、エンジンと向き合う。でも、今度は違う。ちゃんと、車の声を聞く。ちゃんと、クロを大事にする。
「…約束する」
小さく呟いた。そして、工房を出た。




