第24話: 新年の誓い
一月一日。午前零時。新年が来た。
工房の外で、花火が上がる音が聞こえる。遠くから、歓声が届く。でも、俺は動かなかった。クロの横に座り込んで、ただボンネットに手を置いていた。冷たい。金属の冷たさが、手のひらに染み込んでくる。
「…新年か」
小さく呟いた。今日から、全てが始まる。ポイントがリセットされる。全員が、ゼロからのスタート。俺も、昨日まで積み上げてきた760ptが、全部消える。でも、それでいい。新しい戦いが、始まる。Bランクへの挑戦が、始まる。
「お前と一緒に、行くぞ」
クロに向かって、呟いた。エンジンは冷たいまま。でも、この車は生きてる。俺の相棒だ。
工房のドアが開く音がした。振り返ると、零が立っていた。いつもの死んだ魚のような目。でも、今日は少しだけ違う。何かが、宿っている。
「…起きてたのか」
「…ああ」
「眠れねえか」
「…お前もだろ」
零が、小さく笑った。珍しい。零が笑うなんて。零が俺の隣に座る。二人で、クロを見つめる。ボロい。傷だらけ。スポンサーステッカーが貼ってあるだけで、他は何もない。
「…零」
「何だ」
「本当に、Bランクに行けるのか」
「行ける」
即答だった。
「お前には、才能がある」
「…でも、Cランク二百人の中で、上位三人だぞ」
「そうだ」
零が、クロのボンネットに手を置いた。
「簡単じゃねえ。一年かかる。でも、お前ならできる」
「……」
「昨日、見ただろ。AAAの連中を」
「…ああ」
「あいつらも、最初はお前と同じだった。ボロい車で、金もなくて、ただ走りたいだけで。でも、諦めなかった。一年、また一年と積み上げて、あそこに立ってる」
零の目が、遠くを見た。
「…零は、どうだったんだ」
「俺か」
零が、小さく笑った。
「俺は、三年かかった。Cランクで一年。Bランクで一年。Aランクで一年。そして、AAランクを飛ばして、AAAに行った」
「……」
「でも、お前はもっと速く行ける」
零が、俺を見た。
「お前には、俺がいる」
その言葉が、胸に響いた。
「…ありがとう」
「礼はいらねえ」
零が立ち上がる。
「さあ、寝ろ。明日から、本格的に動く」
「…明日?」
「ああ。最初のレースは、一月十五日だ。Cランク公式戦。百pt獲れるチャンスだ。無駄にするな」
零の声が、いつもの冷たさに戻った。
「…わかった」
零が工房を出ていく。その背中を見送って、俺は再びクロを見つめた。二週間。たった二週間で、レースの準備をする。
「…やるしかねえな」
クロのボンネットを、軽く叩いた。
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一月二日。朝六時。零に叩き起こされた。
「起きろ」
「…うっ」
「今日から、地獄だ」
零の声が、低く響く。まだ外は暗い。でも、零は容赦しない。工房に降りると、ホワイトボードに予定が書いてあった。
【年間目標】
Bランク昇格条件: Cランク年間ポイント上位3位以内
年間目標: 2800pt
【1月スケジュール】
1/2-1/7: 基礎体力強化 + 車両最終調整
1/8-1/10: 実走テスト(首都高 + 山道)
1/11-1/14: シミュレーション + 戦術立案
1/15: Cランク公式戦(目標: 100pt獲得)
「…これ、全部やるのか」
「やる」
「年間2800ptって…」
「月平均230ptだ。公式戦で一位を二回、三位を一回取れば達成できる。簡単じゃねえ。でも、不可能じゃねえ」
零の目が、鋭い。
「お前が去年稼いだのは760pt。今年は、その三倍以上稼ぐ。できるか?」
零の声が、低く響く。
「…やる」
「そうか」
零が、小さく頷いた。
「まず、体力だ。お前、昨日のAAA戦見て気づかなかったか? あいつら、最終ラップでもバテてねえ」
「……!」
そうだ。カルロスも、ユリアも、アレックスも、最後まで全力で走ってた。疲れた様子なんて、なかった。
「あれは、化け物級の体力があるからだ。お前、今のままじゃ五周で腕が上がらなくなる」
零の言葉が、刺さる。
「だから、まず体を作る。走れ。五キロ」
零が、工房の外を指差した。
「…は?」
「走れって言ってんだ」
零の目が、本気だった。
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走った。寒い。息が白い。足が重い。でも、走った。途中で何度も止まりそうになった。でも、零の目が脳裏に浮かぶ。あの、冷たい、でも本気の目。五キロ。三十分かかった。工房に戻ると、零が待っていた。
「遅い」
「…っ」
「明日は、二十五分で走れ」
「無理だ」
「無理じゃねえ。やるんだ」
零が、水を渡してくれた。一気に飲む。喉が渇いてた。
「休憩十分。その後、腕立て百回、腹筋百回、スクワット百回」
「…死ぬ」
「死なねえ。やれ」
零の声に、反論できなかった。
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午後。車両調整。エンジンルームを開ける。零が、細かくチェックしていく。オイル、冷却水、ブレーキフルード、タイヤの溝、サスペンションの動き、全部。
「…ここ、ちょっと緩んでる」
零が、ボルトを指差す。俺には見えなかった。でも、零には見える。
「締めろ」
「…わかった」
工具を手に取る。ミリ単位の調整。何度も何度も確認する。零が頷くまで、終わらない。
「よし。次、タイヤの空気圧」
零の声。
「…まだやるのか」
「当たり前だ。レースは、準備で決まる。走る前に、勝負は始まってんだ」
零の目が、鋭い。その言葉が、胸に刺さった。
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一月五日。体が、悲鳴を上げていた。腕が上がらない。足が動かない。でも、止まれない。零が、容赦しない。朝六時。五キロラン。昨日は二十三分だった。あと二分、縮めないといけない。走る。息が切れる。足が重い。でも、走る。ゴール。時計を見る。二十一分。
「…やった」
息を切らしながら呟く。零が、小さく頷いた。
「よし」
それだけ。でも、嬉しかった。
午後。実走テスト。首都高を走る。零が助手席に座る。
「行くぞ」
「…ああ」
エンジンをかける。
「ブォォォン」
クロが、唸る。この音、好きだ。心臓が、高鳴る。首都高に入る。深夜じゃない。昼間だ。でも、零は言った。
「昼間に走れ。夜だけ速い奴は、本物じゃねえ」
アクセルを踏む。加速。車が、前に進む。この感覚。これが、たまらない。
「コーナーだ。ブレーキは最小限に」
零の声。
「…わかった」
ブレーキを踏む。でも、浅く。ステアリングを切る。車が、曲がる。タイヤが、ギリギリで路面を掴む。
「いい。もっと攻めろ」
零が、呟いた。次のコーナー。もっと速く突っ込む。ブレーキを遅らせる。ステアリングを切る。車が、滑りそうになる。でも、持ちこたえる。
「いいぞ。お前、感覚が戻ってきてる。この調子だ」
零の声が、耳に響く。その言葉が、背中を押した。
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一月十日。最後の実走テスト。山道。峠だ。
「ここが、お前の本当の実力を試す場所だ。山道は、誤魔化しが効かねえ。技術が全部出る」
零が言った。
「…わかった」
車を走らせる。山道は、首都高と違う。コーナーが連続する。アップダウンがある。路面が荒い。
「第一コーナー。ブレーキングポイントは、あの看板だ」
零が指差す。
「…わかった」
看板が見える。ブレーキを踏む。車が、減速する。ステアリングを切る。車が、曲がる。
「いい。次、ヘアピン。ここは、荷重移動が全てだ」
零の声。ヘアピンが見える。急なカーブ。ブレーキを踏む。フロントに荷重を乗せる。ステアリングを切る。車が、鋭く曲がる。
「完璧だ。お前、本当に成長してる。この調子なら、百pt獲れる」
零が、呟いた。零の言葉が、胸に響いた。
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一月十四日。レース前日。工房で、最終確認。零が、チェックリストを読み上げる。
「エンジンオイル」
「…良好」
「ブレーキフルード」
「…良好」
「タイヤ空気圧」
「…良好」
「サスペンション」
「…良好」
全部、完璧だ。
「よし」
零が、ホワイトボードの前に立った。
「明日のレースについて、話す」
俺も、立ち上がる。零が、ホワイトボードに書き始めた。
Cランク公式戦 第1戦
出走: 50名
コース: 東京湾岸ストリート・サーキット 6km
ラップ数: 15周
ポイント配分:
1位: 100pt / 2位: 80pt / 3位: 60pt / 4位: 40pt / 5位: 20pt
「お前のスターティンググリッドは、二十三番だ」
「…真ん中より後ろか」
「ああ。去年の年間ポイントで決まる。お前は去年760ptで五位だったが、上位三人は既にBランクに昇格してる。だから、実質二位扱いだ」
「……」
「でも、グリッドは去年の最終レースの順位で決まる。お前は四位だったから、今回は二十三番だ」
零の説明が、続く。
「このレースには、去年Bランクから降格してきた三人が参加する。あいつらは、格が違う」
「……」
「だが、お前の目標は一位じゃねえ。三位だ」
零の目が、鋭い。
「60pt獲得。年間目標2800ptの第一歩だ。これから一年間、こういうレースを何度も走る。一回一回、確実にポイントを積み上げる。それが、Bランクへの道だ」
零の声が、低く響く。
「焦るな。でも、手を抜くな。毎回、全力で走れ」
零が、俺の肩を叩いた。
「明日、全部出し切れ」
「…ああ」
「お前なら、できる」
その言葉が、心を温かくした。
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夜。一人で、クロを見ていた。明日、このクロで戦う。Bランクへの長い道の、第一歩が始まる。
「…頼むぞ」
クロのボンネットに、手を置いた。冷たい。でも、明日は熱くなる。走れば、熱くなる。部屋に戻って、ベッドに横になる。眠れない。心臓が、バクバク言ってる。明日のことを考えると、不安と興奮が混ざり合う。でも、大丈夫だ。俺には、零がいる。クロがいる。そして、橘たちがいる。一人じゃない。
「…一年、戦う」
小さく呟いた。目を閉じる。いつの間にか、眠りに落ちていた。
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一月十五日。レース当日。朝五時に目が覚めた。外はまだ暗い。でも、体は起きていた。準備ができていた。工房に降りる。零が、もう起きていた。
「…早いな」
「お前もな」
零が、コーヒーを淹れてくれた。受け取る。温かい。
「今日、全部出せ」
「…ああ」
「焦るな。でも、攻めろ」
「…わかった」
「これが、一年の始まりだ」
零の目が、真っ直ぐ俺を見ていた。
「行って来い」
「…ああ」
コーヒーを飲み干した。体が、温まる。心が、落ち着く。
「…行くぞ」
クロのエンジンをかける。
「ブォォォン」
エンジンが、唸る。この音。好きだ。零が、助手席に乗り込む。
「会場まで、俺が案内する」
「…ああ」
車を走らせる。東京湾岸に向かう。空が、少しずつ明るくなってくる。新しい一日が、始まる。新しい戦いが、始まる。会場が見えてきた。巨大なストリート・サーキット。観客席。パドック。スクリーン。全部が、俺を待っていた。
「…着いたな」
零が呟いた。
「ああ。ここで、一年が始まる」
俺も、小さく答えた。車を降りる。深呼吸。心を落ち着かせる。
「さあ、行くぞ」
零が、前を歩き出した。俺も、その後を追う。新しい戦いが、今、始まる。




