第23話: 神々の宴
十二月三十一日。大晦日。
目が覚めたのは、夜中の三時だった。悪夢を見た。真っ白な車が、炎に包まれる夢。誰かの悲鳴。そして、零の顔。ひどく歪んだ、零の顔。
汗が、背中を濡らしていた。ベッドから起き上がる。喉が渇いてる。キッチンに降りて、水を飲む。窓の外は、まだ暗い。でも、街は眠っていない。大晦日だからだろう。遠くで、笑い声が聞こえる。
零の部屋を見る。明かりが漏れている。零も、眠れていないのか。ドアの前まで行く。ノックしようとして、やめた。今、零は一人でいたいんだ。そう思った。
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朝七時。橘の車が迎えに来た。いつもと同じメンバー。でも、空気が違う。
結衣は、相変わらずはしゃいでる。
「お姉ちゃん、今日が一番すごいんだよね!」
「…ああ」
「楽しみ!」
橘も、興奮してる。でも、いつもより声が上ずってる。
「いやあ、ついに来ましたね。AAA総力戦」
美咲さんが、心配そうに零を見る。
「零さん、大丈夫ですか?」
「…ああ」
零は、短く答えた。でも、その目は昨日よりもっと鋭い。まるで、獲物を狙う狼のような目だ。車内が、静かになる。誰も、余計なことを言わない。今日が特別な日だと、みんな分かってる。
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お台場に着いた瞬間、圧倒された。人、人、人。どこを見ても人だらけだ。昨日の比じゃない。
「…すげえ」
声が出た。橘が言う。
「そうでしょう。今日は年に一度の、世界最高峰の戦いですから」
人混みをかき分けて進む。色んな言語が飛び交う。日本語、英語、中国語、スペイン語、ロシア語、フランス語、イタリア語。本当に、世界中から人が集まってる。屋台の数も、昨日の倍以上だ。
巨大スクリーンには、過去のAAA戦の映像が流れている。その映像の中に、若い零がいた。黒髪。引き締まった体。鋭い目。白いフェアレディZ。「白影」。ホワイト・レイス。
その姿を見て、俺は隣の零を見た。今の零は、その面影がない。白髪混じりの髪。痩せた体。死んだ魚のような目。別人だ。でも、零はスクリーンを見ていない。ただ、前を向いて歩いてる。
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VIP席に着いた。いつもの席。でも、周りの空気が全然違う。隣の席には、スーツを着た外国人が座ってる。企業のトップだろう。その隣には、サングラスをかけた金髪の女性。モデルか女優か。VIP席全体が、異様な雰囲気に包まれている。金と権力の匂い。
「…ここ、俺らがいていい場所なのか」
小声で橘に聞く。橘が笑った。
「大丈夫ですよ。チケットはちゃんとあります」
「でも…」
「気にしない気にしない。今日は楽しみましょう」
結衣が、目を輝かせている。
「お父さん、すごい人がいっぱいだね!」
「ああ、そうだな」
美咲さんが、少し緊張した顔で周りを見渡している。零は、ただコースを見ていた。その目が、何かを探している。
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巨大スクリーンに、文字が映し出される。「AAA総力戦」。「全二十名出走」。「賞金六千万円」。観客が、どよめく。六千万円。世界最高額の賞金。そして、世界最高峰の戦い。
スクリーンに、出場者の名前が次々と表示される。一位。カルロス・サントス。ブラジル。ランボルギーニ・ウラカン。三十五歳。二位。ユリア・ノヴァク。チェコ。ブガッティ・シロン。二十八歳。三位。アレックス・ハント。イギリス。マクラーレン720S。二十八歳。
その名前が表示された瞬間、零の体が硬直した。
「…っ」
小さく息を呑む音が聞こえた。零の拳が、握られる。
「零…」
俺が小声で呼ぶ。零は答えない。ただ、スクリーンを睨んでいる。
アレックス・ハントの顔が、画面いっぱいに映し出される。金髪。青い目。冷たい笑み。その顔を見て、零の目が、さらに鋭くなった。
橘が、心配そうに零を見る。
「零さん…」
「…黙ってろ」
低い声。誰も、それ以上何も言わなかった。
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スクリーンに、二十台の車が映し出される。スタートグリッドに並ぶ、世界最高峰のマシンたち。どれも、異次元だ。ランボルギーニ。ブガッティ。マクラーレン。パガーニ。フェラーリ。メルセデス。ポルシェ。全部で数億円。いや、もっとか。改造費を入れたら、十億を超える車もある。
「…別世界だ」
呟いた。橘が言う。
「そうですよ。これが、頂点です」
美咲さんが、手を握りしめている。結衣が、興奮してる。
「お父さん、全部かっこいい!」
「ああ、かっこいいな」
零は、黙ってスクリーンを見ている。その目が、一台の車に釘付けになっている。マクラーレン720S。アレックス・ハントの車。漆黒のボディ。鋭いフォルム。まるで、獲物を狙う猛禽類のような車だ。
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アナウンスが流れる。
「まもなく、AAA総力戦が始まります」
観客が、沸く。その歓声が、昨日までとは比べ物にならない。会場全体が、震えている。心臓が、バクバク言ってる。手のひらに、汗が滲む。呼吸が、浅くなる。
「…来る」
呟いた。零が、小さく頷いた。
「ああ」
シグナルが点灯する。五つのランプ。一つ。周りの音が、遠のく。二つ。視界が、狭まる。三つ。心臓が、喉まで上がってくる。四つ。時間が、ゆっくり流れる。五つ。
消えた。
スタート!
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轟音。いや、轟音なんて言葉じゃ足りない。爆発だ。二十台のエンジンが、一斉に咆哮を上げる。その音が、会場全体を覆い尽くす。空気が、震える。地面が、揺れる。心臓が、音に押し潰されそうになる。
「うわあああっ!」
結衣が叫ぶ。美咲さんが、耳を塞ぐ。橘が、目を見開いている。
「…すげえ」
俺も、立ち上がっていた。二十台が、一斉に加速する。その加速が、異常だ。一秒で時速100km/h。二秒で時速180km/h。三秒で時速240km/h。
「…嘘だろ」
声が震える。スクリーンに映る速度計。250km/h。260km/h。270km/h。
「…速すぎる」
目で追えない。スクリーンでしか追えない。巨大スクリーンが、車載カメラの映像に切り替わる。カルロスのランボルギーニ。景色が、流れる。いや、溶ける。ビルが、光の線になる。道路が、一本の帯になる。
「…これが、AAAか」
呟いた。零が、答えた。
「ああ。これが、神の領域だ」
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最初のコーナー。二十台が、一斉にブレーキを踏む。
「ガガガガガッ!」
ブレーキの悲鳴。
「ギャアアアアッ!」
タイヤの絶叫。白煙が立ち上る。でも、誰も減速しない。時速270km/hから、180km/hに落とす。それでも速い。
二十台が、コーナーに突入する。並走。接触ギリギリ。火花が散る。
「あぶねえ!」
橘が叫ぶ。でも、誰もクラッシュしない。みんな、ミリ単位で車を操ってる。コーナーを抜ける。また加速。
「ブォォォォォン!」
エンジンが、再び咆哮を上げる。240km/h。250km/h。260km/h。
カルロスのランボルギーニが、先頭を走る。ユリアのブガッティが、二位。アレックスのマクラーレンが、三位。その後ろに、十七台が密集してる。
「…全員、化け物か」
橘が呟く。
「ええ。人間じゃないです」
美咲さんが、息を呑んでいる。結衣が、飛び跳ねてる。
「すごい! すごいよ!」
零は、黙って見ている。でも、その目が、アレックスのマクラーレンを追っている。
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第五ラップ。レースが、動いた。アレックスのマクラーレン、ユリアのブガッティに並ぶ。直線。ブガッティの方が速い。最高速度320km/hを超える。世界最速クラスの車。でも、コーナー。マクラーレンが、異常なコーナリング速度で迫る。コーナー進入速度190km/h。
「…何だ、あの曲がり方」
俺が呟く。零が答えた。
「限界を超えてる」
「…は?」
「物理法則を、無視してる」
「そんなこと…」
「できる。あいつは、やってる」
アレックスのマクラーレン、ユリアのブガッティを抜く。二位。そして、カルロスのランボルギーニに迫る。観客が、沸く。
「おおおおっ!」
スクリーンに、アレックスの顔が映る。冷たい笑み。まるで、獲物を追い詰める狼のような笑み。零の拳が、さらに強く握られる。
「…っ」
小さく歯ぎしりする音が聞こえた。
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第八ラップ。カルロス、ユリア、アレックスの三つ巴。三台が、横並びで走る。時速260km/hで。
「…嘘だろ」
信じられない光景。三台が、接触ギリギリで並走してる。ミリ単位の攻防。0.01秒のズレが、命取りになる。でも、誰もミスをしない。
コーナー。三台が、同時に突入する。カルロスが、インを取る。ユリアが、中央を取る。アレックスが、アウトを取る。三台が、絡み合いながら曲がる。
「ガッ!」
接触した! 火花が散る!
「やべえ!」
橘が叫ぶ。でも、三台とも立て直す。コーナーを抜ける。また加速。観客が、総立ち。俺も、立ち上がっていた。
「すげえ! すげえよ!」
叫んでいた。こんなレース、見たことない。人間の限界を超えてる。いや、人間じゃない。神だ。これが、神の戦いだ。
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最終ラップ。三台が、まだ横並びだ。最終コーナー手前。直線で、ユリアのブガッティが前に出る。最高速度310km/h。カルロスのランボルギーニが追う。290km/h。アレックスのマクラーレンも続く。285km/h。
最終コーナー。カルロスが、インから刺す。ユリアが、中央を突く。アレックスが、アウトから被せる。三台が、最終コーナーに突入する。
「ガガガガガッ!」
ブレーキの悲鳴。
「ギャアアアアッ!」
タイヤの絶叫。三台が、接触する。
「ガッ! ガガッ!」
火花が、夜空に散る。
「あぶねええええっ!」
橘が絶叫する。美咲さんが、目を閉じる。結衣が、息を呑む。俺は、目を見開いて見ていた。零は、立ち上がっていた。
三台が、絡み合いながらコーナーを抜ける。そして、ゴール。
一位。アレックス・ハント。
二位。カルロス・サントス。
三位。ユリア・ノヴァク。
0.001秒差。
会場が、爆発した。
「うおおおおおおっ!」
観客全員が、立ち上がって叫んでいる。拍手。歓声。絶叫。会場全体が、狂喜に包まれる。俺も、叫んでいた。
「すげえ! すげえよ!」
橘が、俺の肩を叩く。
「すごかったですね! すごかった!」
美咲さんが、涙を流している。結衣が、飛び跳ねている。
「すごかった! すごかったよ!」
零だけが、黙っていた。立ったまま、スクリーンを見ていた。その目が、何かを探している。何を?
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表彰台。アレックス・ハントが、トロフィーを掲げる。冷たい笑み。勝って当然、という顔。
インタビューが始まる。
「ハント選手、おめでとうございます」
「ありがとう」
低い声。イギリス訛りの英語。
「今年を振り返って、いかがですか?」
「退屈だった」
「…退屈?」
「ああ。二十年前の方が、面白かった」
その言葉に、会場がざわめく。
「二十年前、ですか?」
「ああ。あの頃は、本物の亡霊がいたからな」
亡霊。その言葉を聞いて、零の体が硬直した。
「…っ」
小さく息を呑む音。アレックスが、カメラに向かって言う。
「White Wraith。お前は、どこにいる?」
その瞬間、アレックスの視線が、VIP席の方を向いた。一瞬。本当に一瞬。でも、確かに。アレックスの目が、零を捉えた。
「…!」
零の体が、震える。アレックスが、笑った。冷たい、残酷な笑み。
「お前の弟子が、どこまで来るか。楽しみにしてるぞ」
その言葉を残して、アレックスは表彰台を降りた。会場が、再び歓声に包まれる。でも、俺には何も聞こえなかった。ただ、零の震える背中を見ていた。
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帰りの車の中。誰も、喋らなかった。結衣は、疲れて眠っている。美咲さんが、優しく抱きしめている。橘が、運転している。その顔が、険しい。零は、窓の外を見ていた。俺は、何も言えなかった。何を言えばいいのか、わからなかった。
しばらくして、零が口を開いた。
「…凪」
「…何だ」
零の声が、いつもより低い。
「俺が、あいつの師匠を殺した」
「……!」
息を呑む。
「二十年前、俺はレース中に車を乗っ取られた」
零の声が、震えている。
「AIに。誰かが、AIを操作して、俺の車を乗っ取った」
「……」
俺は何も言えなかった。ただ、零の横顔を見ていた。
「俺の車は、暴走した。そして、誰かに突っ込んだ。それが、アレックスの師匠だった」
沈黙。重い、重い沈黙。車内に、エンジン音だけが響く。
「事故じゃない。計画された暗殺だった。俺は、利用された」
零の拳が、震えている。
「でも、アレックスはそれを信じない。だから、あいつは俺を探してる。復讐するために」
零が、俺を見た。その目に、初めて見る感情が宿っていた。恐怖。いや、違う。覚悟だ。
「だから、お前は強くなれ」
「…零」
「AAAに行け。そして、あいつと戦え」
「……」
「俺の代わりに」
零の声が、掠れた。
「俺は、もう走れない。でも、お前は走れる。だから、頼む」
その言葉が、胸に刺さった。零が、誰かに何かを頼むなんて。初めてだ。
「…わかった」
俺は、答えた。
「AAAに行く。そして、あいつと戦う」
零が、小さく笑った。
「…そうか」
それきり、誰も喋らなかった。車は、静かに夜の道を走る。大晦日の夜。世界は、新しい年を迎えようとしていた。でも、俺たちの戦いは、まだ始まったばかりだった。
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家に戻って、俺はクロを見ていた。ボロい。傷だらけ。でも、俺の相棒だ。ボンネットに手を置く。冷たい。でも、エンジンをかければ、熱くなる。
「…見たぞ」
クロに向かって、呟いた。神々の戦いを。零が立っていた場所を。そして、俺が立つ場所を。
「お前と一緒に、あそこに行く」
拳を握りしめる。
「待ってろ、アレックス・ハント」
小さく呟いた。いつか、必ず。お前と戦う。零の代わりに。いや、違う。俺自身のために。
「来年、始まる」
窓の外を見る。空が、少しずつ白んできた。新しい年が、もうすぐ来る。新しい戦いが、始まる。Bランクへの挑戦。そして、その先へ。AAAへ。神の領域へ。
「…行くぞ、クロ」
クロのボンネットを、軽く叩いた。エンジンは冷たいまま。でも、俺の心は、燃えていた。




