第22話: 別次元の領域
十二月三十日。
昨日より早く目が覚めた。
時計を見る。朝の五時。
外はまだ暗い。
でも、眠れない。
昨日見たBランクのレースが、頭から離れない。あの速さ。あの正確さ。あの、圧倒的な技術。
俺が目指す場所。
でも、その先がある。
今日見るのは、AランクとAAランクの混合戦。Bよりもっと上。もっと速い。もっと正確な世界。
ベッドから起き上がる。
零の部屋の前を通りかかると、明かりが漏れていた。
零も起きてる。
ノックはしなかった。何も言わなかった。ただ、通り過ぎた。
工房に降りて、クロを見る。
ボンネットに手を置く。
冷たい。
「…今日も、見てこい」
クロに向かって、呟いた。
お前が走る場所を。お前が立つ舞台を。全部、見てくる。
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朝七時。
橘の車が迎えに来た。
昨日と同じメンバー。橘と美咲さんと結衣、それから零と俺。
だが、車内の空気が少し違う。
結衣は相変わらずはしゃいでる。
「お姉ちゃん、今日はもっとすごいんでしょ?」
「…ああ」
「楽しみ!」
橘も興奮してる。
「昨日のBランクも凄かったですけど、今日はもっと凄いですよ。AランクとAAランクですから」
美咲さんが微笑む。
「楽しみですね」
零は、昨日と同じように窓の外を見ていた。
でも、その目が違う。
昨日より、鋭い。
何かを探すような目だ。
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お台場に到着する。
昨日よりも人が多い。
「うわ…」
思わず声が出た。
橘が言う。
「当然ですよ。今日はプロ中のプロの戦いですから。世界中から人が集まってます」
人混みをかき分けて、VIP席に向かう。
途中、色んな言語が聞こえる。英語、中国語、スペイン語、ロシア語。本当に、世界中から来てる。
VIP席に着く。
昨日と同じ席。
目の前には、巨大なストリート・サーキット。
今日は、昨日より空気が違う。
観客の熱気が、肌で感じられる。
「…昨日とは、空気が違う」
俺が呟く。
零が答えた。
「そうだ。今日は、次世代のAAA候補の戦いだ」
「……」
AAAの、候補。
つまり、神に最も近い人間たちの戦い。
スクリーンに、出場者の名前が映し出される。
三十名。
百五十人の中から選ばれた、上位三十名。
Aランクから二十名。AAランクから十名。
名前が次々と表示される。
ケン・タナカ。Aランク一位。NSX。日本。
リン・ウェイ。Aランク八位。ポルシェ911。中国。
ルーカス・ミラー。AAランク十位。コルベットC8。アメリカ。
ソフィア・ロペス。AAランク十五位。フェラーリF8。スペイン。
「…全員、化け物か」
橘が呟く。
「化け物ですよ。人間じゃないです、あれは」
美咲さんが心配そうに言う。
「大丈夫なんですか? 事故とか」
「大丈夫ですよ。AIが完全に監視してますから。危険な状況になったら、即座にレースが中断されます」
「そうなんですね」
結衣が目を輝かせてる。
「ねえねえ、どの車が一番速いの?」
「さあな。見てみないとわからない」
零が答えた。
その声が、いつもより低い。
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アナウンスが流れる。
「まもなく、AランクAAランク混合戦が始まります」
観客が沸く。
昨日より、歓声が大きい。
スクリーンに、車が映し出される。
スタートグリッドに並ぶ三十台。
どれも、異次元だ。
金額も、性能も、全てが別格。
「…俺の車とは、世界が違う」
呟いた。
零が言う。
「車じゃない。乗ってる人間が違う」
「……」
零の目が、スクリーンを追っている。
その目が、何かを探している。
何を?
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シグナルが点灯する。
五つのランプ。
一つ。
心臓が、ドクンと跳ねる。
二つ。
手のひらに、汗が滲む。
三つ。
呼吸が、浅くなる。
四つ。
周りの音が、遠のく。
五つ。
消えた。
スタート!
爆音。
三十台が、一斉に加速する。
その音が、昨日とは比べ物にならない。
空気が震える。
地面が揺れる。
心臓が、音に共鳴する。
「…速っ!」
叫んだ。
一瞬で時速120km/hを超える。
昨日のBランクより、明らかに速い。
最初のコーナーに突入する。
ブレーキ音が、空気を引き裂く。
「ギャアアアアッ!」
タイヤの悲鳴。
三十台が、一斉にコーナーに飛び込む。
誰も、減速しない。
限界ギリギリで曲がる。
いや、限界を超えてる。
でも、誰もスピンしない。
「…化け物かよ」
橘が呟く。
「ええ、化け物です」
零が答えた。
その声が、少しだけ震えてる。
スクリーンに映る、AAランクのコルベット。
ルーカス・ミラーの車。
圧倒的なパワーで、直線を駆け抜ける。
時速240km/h。
250km/h。
260km/h。
「…すげえ」
信じられない速度。
でも、それが現実だ。
AAランク組が、前に出る。
パワーが違う。
Aランク組は、それを追う。
だが、離される。
「…やっぱり、ランクの差は大きいのか」
俺が言う。
零が答えた。
「パワーだけなら、な」
「…どういう意味だ」
「見てろ」
零の目が、一台の車を追っている。
ケン・タナカのNSX。
Aランク一位。
スタートでは、中位だった。
AAランク組に、完全に置いていかれた。
でも。
「…上がってきてる」
零が呟く。
タナカのNSX、じわじわと順位を上げている。
パワーじゃない。
ライン取りだ。
コーナーで、AAランクの車を一台ずつ抜いていく。
完璧なライン。
無駄がない。
ブレーキングも、加速も、全てが正確。
「…すげえ」
見とれた。
こんな走り、見たことない。
まるで、レールの上を走ってるみたいだ。
でも、速い。
タナカのNSX、五位まで上がった。
そして、四位のAAランク、ソフィアのフェラーリに迫る。
コーナー。
タナカが、インから刺す。
ソフィアが、ラインを守る。
並走。
「…抜けるか?」
橘が息を呑む。
次のコーナー。
タナカが、さらに内側に入る。
ソフィアが、アウトから被せようとする。
だが、タナカの方が速い。
抜いた!
「おおおおっ!」
観客が沸く。
俺も、立ち上がっていた。
「すげえ! Aランクが、AAランクを抜いた!」
零が、静かに言った。
「パワーじゃない。技術だ」
「……」
零の言葉が、胸に刺さる。
パワーじゃない。
技術。
車の性能じゃない。
人間の技術。
それが、ランクの壁を超える。
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レースは続く。
中盤。
タナカのNSX、さらに順位を上げる。
三位。
二位。
そして、一位のルーカス・ミラーのコルベットに迫る。
直線で、コルベットが引き離す。
でも、コーナーで、タナカが詰める。
その繰り返し。
「…すげえ戦いだ」
橘が呟く。
「ランクを超えた戦いですよ、これは」
美咲さんが、手を握りしめてる。
結衣が、目を輝かせてる。
「お父さん、あの車すごい! 抜いちゃった!」
「ああ、すごいな」
零は、黙って見ていた。
でも、その目が、昨日より鋭い。
何かを、見つけようとしている。
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スクリーンが、別の車を映し出した。
ポルシェ911。
リン・ウェイ。
Aランク八位。
中国人の女性ドライバー。
十八歳。
「…何だ、あの走り」
俺が呟く。
リン・ウェイのポルシェ、異常に正確だ。
ライン取りが、完璧。
ブレーキングが、完璧。
加速が、完璧。
まるで、機械みたいだ。
「AIアシストだ」
零が言った。
「…は?」
「あいつは、AIとの協調を極めてる」
「どういうことだ」
「車のAIが、最適なラインを提示する。あいつは、それに完璧に従ってる」
「……それって」
「人間じゃない。機械だ」
零の声が、冷たい。
スクリーンに映るリン・ウェイの顔。
表情がない。
感情がない。
ただ、淡々と走ってる。
「…気持ち悪い」
思わず言った。
零が、小さく笑った。
「そうだ。気持ち悪い」
「でも、速い」
「ああ。完璧だからな」
リン・ウェイのポルシェ、五位をキープしてる。
抜かれない。
抜かない。
ただ、完璧に走ってる。
「…でも」
零が続ける。
「完璧すぎる」
「……?」
「完璧ってのは、予測可能ってことだ」
零の目が、タナカのNSXを追う。
「あいつは、それを知ってる」
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最終ラップ。
タナカのNSX、ルーカスのコルベットと並走してる。
直線。
コルベットが、前に出る。
パワーが違う。
でも、コーナー。
タナカが、詰める。
最終コーナー。
タナカが、インから刺す。
ルーカスが、ラインを守る。
並んだ。
観客が、総立ち。
「抜けえええっ!」
橘が叫ぶ。
美咲さんが、手を口に当ててる。
結衣が、飛び跳ねてる。
「がんばれー!」
俺も、拳を握りしめてる。
頼む。
抜いてくれ。
Aランクが、AAランクを倒すところを、見せてくれ。
コーナーを抜ける。
タナカが、わずかに前に出た。
「…っ!」
息を呑む。
ゴール。
タナカ、一位!
ルーカス、二位!
リン・ウェイ、三位!
「やったああああっ!」
橘が叫ぶ。
観客が、爆発的な歓声を上げる。
俺も、叫んでいた。
「すげえ! Aランクが勝った!」
零は、黙って拍手していた。
でも、その目は笑っていない。
何かを、考えている。
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表彰台。
ケン・タナカが、トロフィーを掲げる。
笑顔。
でも、疲れた顔だ。
限界まで走った顔。
インタビューが始まる。
「タナカ選手、AAランクを破っての優勝ですが」
「…ありがとうございます」
声が、掠れてる。
「どうやって勝ちましたか?」
「…パワーじゃ、勝てない。だから、ラインと、タイミングで勝ちました」
「素晴らしい!」
ルーカス・ミラーが、二位の台に立つ。
悔しそうな顔。
でも、笑ってる。
「負けたけど、楽しかったよ」
リン・ウェイが、三位の台に立つ。
表情がない。
ただ、淡々としてる。
インタビュアーが聞く。
「リン選手、三位でしたが」
「…想定内です」
「想定内?」
「ええ。私の走りは、完璧でした。でも、相手がそれを上回りました。それだけです」
「……」
インタビュアーが、言葉に詰まる。
リン・ウェイは、感情を見せない。
まるで、機械が喋ってるみたいだ。
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VIP席に戻る。
橘が興奮してる。
「すごかったですね! Aランクが、AAランクに勝つなんて!」
「ええ、本当に」
美咲さんも、興奮してる。
結衣が、はしゃいでる。
「お姉ちゃん、見た? すごかったね!」
「…ああ」
俺は、まだ興奮が冷めない。
心臓が、バクバク言ってる。
手のひらに、汗が滲んでる。
「…ランクって、絶対じゃないんだな」
呟いた。
零が答えた。
「ランクは、今の実力を示すだけだ」
「……」
「可能性は、測れない」
零の目が、遠くを見ている。
「タナカは来年、AAに上がる。そして、いずれAAAに行く」
「…わかるのか」
「ああ。あの走りを見れば、わかる」
零は、コースを見つめている。
その目が、何かを懐かしむように、細められている。
「…零」
「何だ」
「あの中国人の女、何か変だった」
「リン・ウェイか」
「ああ。表情がない。感情がない。まるで…」
「機械だ」
零が、俺の言葉を継いだ。
「あいつは、AIとの協調を極めてる」
「…それって、いいことなのか?」
「さあな」
零が、小さく笑った。
「でも、一つだけ言える」
「何だ」
「完璧は、弱い」
「……?」
「完璧ってのは、予測可能だ。予測可能ってのは、対策可能だ」
零の目が、俺を見た。
「お前は、完璧になるな」
「……」
「お前は、お前だけの走りをしろ」
零の言葉が、胸に刺さる。
お前だけの走り。
完璧じゃない。
でも、誰にも真似できない。
それが、俺の武器。
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橘が、弁当を配る。
美咲さんが作ってくれた、温かい弁当。
みんなで食べる。
結衣が、おにぎりを頬張りながら言う。
「お姉ちゃん、明日はもっとすごいんでしょ?」
「…ああ」
「どれくらいすごいの?」
「…わかんない」
「じゃあ、楽しみだね!」
結衣は、屈託のない笑顔だ。
零は、黙って弁当を食べている。
でも、箸を持つ手が、震えてる。
明日。
十二月三十一日。
大晦日。
AAAの戦い。
神々の戦い。
零が、かつて立っていた場所。
零は、何を思うんだろう。
そこを見て。
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帰りの車の中。
結衣は、また眠っていた。
橘が、運転しながら言う。
「零さん、明日が本番ですね」
「…ああ」
「楽しみですか?」
「…さあな」
零は、窓の外を見ている。
その横顔が、いつもより険しい。
「零さん」
橘が、真剣な声で言った。
「明日、もしかしたら、あの人が出るかもしれません」
「……」
零が、黙る。
「アレックス・ハント。AAA三位」
その名前を聞いて、零の目が、鋭くなった。
「…知ってる」
「やっぱり」
「……」
「零さん、あの人は…」
「黙れ」
零の声が、低く、鋭い。
橘は、それ以上何も言わなかった。
車内が、静かになる。
アレックス・ハント。
その名前が、空気を変えた。
零の過去と、繋がってる名前。
明日、会うのか。
零は、何を思うんだろう。
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家に戻って、俺はクロを見ていた。
ボンネットに手を置く。
冷たい。
でも、エンジンをかければ、熱くなる。
「…明日、見てくるぞ」
クロに向かって、呟いた。
神々の戦いを。
零が立っていた場所を。
そして、いつか俺が立つ場所を。
全部、見てくる。
心臓が、まだドキドキしてる。
今日見たレースが、頭から離れない。
タナカの走り。
リン・ウェイの完璧さ。
ルーカスのパワー。
全部、別次元だった。
でも。
「…勝てないわけじゃない」
呟いた。
零の言葉を思い出す。
「お前は、お前だけの走りをしろ」
そうだ。
完璧になる必要はない。
誰かの真似をする必要もない。
俺は、俺の走りをする。
クロと一緒に。
それが、俺の武器。
「…明日も、頼む」
クロに向かって、呟いた。
見ててくれ。
俺が、お前と一緒に立つ場所を。




