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第21話: 祭りの始まり



エンジンルームに頭を突っ込んで、俺はオイルの色を確認していた。


黒い。


まだ少し金属粉が混じってる。新しいエンジンはまだ完全に馴染んでいない。あと二週間は様子を見ないとダメだ。


「…まだか」


後ろから零の声。


振り返ると、零が腕を組んで立っていた。いつもの死んだ魚みたいな目。だが、車を見るときだけ少しだけ光る。


「まだ」


短く答える。


零は黙って頷いた。


「じゃあ、サスペンションの減衰力、もう一回確認するぞ」


「…わかった」


工具を手に取る。


こんな会話ばかりだ。


零と俺の間には、必要なことしかない。でも、それでいい。車のことだけを考えていられる。それが、今の俺には一番楽だ。


工房の外は寒い。十二月の風が、隙間から入り込んでくる。吐く息が白い。手がかじかむ。だが、作業を止めるわけにはいかない。


サスペンションのダンパーを外し、オイルの粘度を確認する。冬用に調整しないと、動きが鈍くなる。ミリ単位の調整。何度も何度も繰り返す。


零は黙って見ている。


時々、「違う」とだけ言う。


そうしたらやり直す。


何度でも。


これが、俺たちの日常だ。


-----


「零さーん! 凪さーん!」


突然、工房の扉が勢いよく開いた。


橘だ。


息を切らしている。顔が真っ赤だ。興奮してる。いつもより声が高い。


「…何だ」


零が面倒くさそうに言う。


橘は息を整えようとして、でも我慢できなかったみたいで、一気に喋り始めた。


「取れました! 取れましたよ! 信じられない! 五年越しですよ! まさか今年取れるなんて!」


「…何が」


俺が聞く。


橘はポケットから何かを取り出した。


チケットだ。


五枚。


「これですよ! TOKYO MIDNIGHT FESTIVALのチケット! 三日間通しのVIP席! 五枚!」


「……は?」


思わず声が出た。


TOKYO MIDNIGHT FESTIVAL。


聞いたことがある。年末にやる、世界最大のストリート・レースの祭典。Bランクから、AAAまで、三日間ぶっ通しでレースをする。チケットは発売と同時に完売。一般販売なんてほぼない。プレミア価格で取引されてる。


「どうやって取ったんだ」


零が低い声で聞いた。


橘は得意げに笑った。


「ツテですよ、ツテ! 昔の整備仲間とか、レース関係者とか、片っ端から連絡して! 五年先まで予約で埋まってるチケットなんですけど、キャンセルが出たって連絡が来て! それで即決ですよ! もう、電話が繋がった瞬間に『買います!』って!」


橘の目がキラキラしてる。


子供みたいだ。


「五枚って…」


俺が言う。


「そうです! 俺と妻と娘と、それから零さんと凪さん! 五人で行きましょう!」


「……」


零が黙ってる。


橘は気づいてない様子で続ける。


「いやあ、凪さんには絶対見せたいと思ってたんですよ! 本物のレースを! BランクもAランクもAAAも、全部! 世界の頂点がどんなもんか、生で見たら絶対参考になりますから!」


「…いいのか」


零が言った。


「もちろんですよ! スポンサーとして、当然のサポートです! それに…」


橘は少し照れくさそうに笑った。


「俺も見たいんですよ。零さんがかつて立ってた場所を。それを、凪さんにも見せたい」


零の表情が、ほんの少しだけ変わった。


何かを思い出したような顔。


でもすぐに、いつもの無表情に戻る。


「…わかった」


「本当ですか!?」


橘がガッツポーズをする。


「じゃあ決まりですね! 十二月二十九日から三十一日まで、三日間! 朝から晩までレース漬けですよ!」


橘は嬉しそうに帰っていった。


工房に静けさが戻る。


零はチケットを見つめていた。


「…零」


「…何だ」


「お前、あのレースに出てたのか」


零は答えない。


でも、それが答えだ。


「……そうか」


俺も何も聞かなかった。


聞いたら、何か変わる気がした。


今はまだ、聞かない方がいい。


そう思った。


-----


十二月二十九日。


朝、七時。


橘の車で、お台場に向かう。


橘が運転席。助手席に妻の美咲さん。後部座席に娘の結衣と、俺と零。


結衣はずっと喋ってる。


「ねえねえお姉ちゃん、レースって本当に速いの? テレビで見たけど、もっと速いの?」


「…知らない」


「え、見たことないの?」


「…ない」


「じゃあ一緒だね! 私も初めて!」


結衣は嬉しそうに笑った。


美咲さんが振り返って微笑む。


「凪さん、楽しみですね」


「…はい」


ちゃんと返事をする。


この人たちには、ちゃんとしないとダメだ。そう思う。なんでかわからないけど。


橘が前を向いたまま言う。


「零さん、久しぶりでしょう? あの会場」


「…ああ」


零の声が、いつもより低い。


「昔は、出場者側でしたもんね」


「…そうだな」


「今日は観客側ですけど、どんな気分ですか?」


「…別に」


零は窓の外を見ていた。


その横顔は、何も語らない。


-----


お台場に着いた。


人、人、人。


どこを見ても人だらけだ。


「うわあ…」


思わず声が出た。


巨大なスクリーンが、ビルの壁に映し出されている。レース映像が流れてる。過去の名勝負。観客が歓声を上げてる。


屋台が並んでる。食べ物の匂い。音楽。笑い声。


祭りだ。


「すごいでしょ? これが、TOKYO MIDNIGHT FESTIVALです!」


橘が誇らしげに言う。


結衣がはしゃいでる。


「お父さん、あれ! 綿あめ!」


「後でな」


美咲さんが優しく言う。


零は黙って歩いてる。


人混みの中でも、零だけは別の空気を纏ってる。誰も零に気づかない。ただのおっさんだと思ってる。


でも、俺は知ってる。


この男は、かつてここに立っていた。


観客側じゃない。


戦う側として。


-----


VIP席に案内された。


高い位置にある。


目の前には、巨大なストリート・サーキット。


レインボーブリッジが見える。首都高が見える。ビル群が見える。その間を縫うように、コースが設定されている。


「…でけえ」


俺の口から、素直な感想が漏れた。


橘が笑う。


「でしょう? これが世界最大のストリート・サーキットですよ」


スクリーンに映像が流れる。


コースマップ。


全長8.5km。


17のコーナー。


最高速度280km/h。


「…すげえ」


「世界のトップは、ここを時速280kmで駆け抜けるんです」


信じられない。


でも、これが現実なんだ。


零は黙ってコースを見ていた。


その目が、少しだけ光ってる。


-----


アナウンスが流れた。


「まもなく、Bランク決勝戦が始まります」


観客が沸く。


スクリーンに、出場者の名前が映し出される。


二十名。


Bランク百人の中から選ばれた、上位二十名。


一位、山田健太。スープラ。


二位、佐藤リサ。RX-7。


三位、黒木蒼。GT-R。


「…あいつ」


黒木の名前を見て、俺は呟いた。


零が言う。


「お前が前に見た奴だ」


「…ああ」


あのとき、Cランク特別戦に特別参加枠で出てた。一番グリッドにいた。速かった。圧倒的だった。


あれが、Bランクか。


「来年、お前が戦う相手だ」


零の声が、耳に刺さる。


「…わかってる」


スクリーンに、車が映し出される。


スタートグリッドに並ぶ二十台。


どれも、ピカピカだ。


スポンサーのロゴがたくさん貼ってある。


金がかかってる。


俺のクロとは、全然違う。


でも。


「…勝てないわけじゃない」


小さく呟いた。


零が、ちらりと俺を見た。


「そうだ」


それだけ言った。


-----


シグナルが点灯する。


五つのランプ。


一つ。


二つ。


三つ。


四つ。


五つ。


消えた。


スタート!


エンジン音が爆発した。


二十台が、一斉に加速する。


その音が、会場全体を震わせた。


心臓が跳ねる。


「…速っ」


一瞬で時速100km/hを超える。


あっという間に、最初のコーナーに突入する。


ブレーキ音。


タイヤの悲鳴。


スクリーンに映し出される映像。


山田のスープラが、完璧なラインでコーナーをクリア。


黒木のGT-R、パワーで一気に二位へ。


佐藤のRX-7、軽量を活かして三位をキープ。


「…すげえ」


見とれた。


こんなレース、見たことない。


全員が、限界ギリギリを攻めてる。


ミスをしたら、即クラッシュ。


でも、誰もミスをしない。


完璧だ。


「零…これが、Bランクか」


「ああ」


零の声が、低く響く。


「お前が目指す場所だ」


スクリーンに映る、黒木のGT-R。


コーナーで山田に並びかける。


インから刺す。


並んだ。


観客が沸く。


「…パワーだけじゃねえ」


零が呟く。


「ライン取りも、タイミングも、完璧だ」


黒木のGT-R、山田のスープラと並走する。


だが、山田は冷静だ。


次のコーナーで、アウトから被せる。


黒木を外に追いやる。


そのまま、逃げる。


「…上手い」


零が言った。


「パワーで勝てないなら、ラインで勝つ。当然のことだ」


レースは続く。


中盤、黒木が再び山田に迫る。


だが、山田は逃げ切る。


佐藤のRX-7も食い下がる。


三台のデッドヒート。


観客が総立ち。


結衣が叫んでる。


「お父さん、すごい! すごいよ!」


橘も興奮してる。


「ああ! これがBランク決勝だ!」


美咲さんも手を叩いて応援してる。


零だけが、黙って見ていた。


その目は、何かを探すように、スクリーンを追っている。


最終ラップ。


山田のスープラが、完璧なラインで最後のコーナーをクリア。


そのままゴール。


一位。


黒木が二位。


佐藤が三位。


観客が爆発的な歓声を上げた。


-----


表彰台。


山田健太が、トロフィーを掲げる。


笑顔。


でも、目は笑ってない。


勝って当然、という顔だ。


黒木蒼が、二位の台に立つ。


悔しそうな顔。


拳を握りしめてる。


インタビューが始まる。


「黒木選手、惜しくも二位でしたが」


「…来年は、Aランクに上がる」


低い声。


「俺の邪魔をする奴は、全員潰す」


カメラに向かって、不敵な笑み。


それを見て、俺は思った。


あいつ、来年Aに行くのか。


ってことは、Bランクで戦えるのは、今年だけか。


追いつかないと。


早く。


「焦るな」


零の声。


振り向くと、零が俺を見ていた。


「お前の戦いは、来年始まる」


「…でも」


「焦ったら、車を壊す。お前の癖だ」


「……」


何も言い返せなかった。


零は正しい。


俺は、いつも焦って、車を壊す。


「お前がやるべきことは、車と対話することだ。それだけだ」


「…わかった」


零は再び、コースを見た。


その横顔は、遠くを見ているようだった。


昔、ここに立っていた自分を、思い出しているのかもしれない。


-----


Bランク決勝が終わり、会場は次のイベントの準備に入る。


俺たちはVIP席で、橘の妻が作ってくれた弁当を食べた。


美味い。


温かい。


こんな弁当、何年ぶりだろう。


「凪さん、美味しいですか?」


美咲さんが優しく聞く。


「…美味いです」


ちゃんと答える。


美咲さんが嬉しそうに笑った。


「よかった」


結衣が隣で、おにぎりを頬張ってる。


「お姉ちゃん、次は何のレース?」


「…明日、AランクとAAランクの混合戦」


「すごいの?」


「…もっとすごい」


「楽しみ!」


結衣は屈託のない笑顔だ。


こういう笑顔、久しぶりに見た気がする。


零は黙って弁当を食べている。


でも、箸を持つ手が、少しだけ震えてる。


気のせいかもしれない。


でも、零は何かを感じている。


ここに来て、何かを思い出している。


それは、きっと、痛みだ。


-----


帰りの車の中。


結衣は疲れて眠っていた。


橘が運転しながら言う。


「いやあ、すごかったですね」


「ええ、本当に」


美咲さんが相槌を打つ。


「零さん、どうでした? 久しぶりに見て」


零は窓の外を見たまま、答えた。


「…変わらねえな」


「何がですか?」


「世界は、まだあそこで回ってる」


「……」


橘は何も言わなかった。


零の言葉の意味が、わからなかったのかもしれない。


でも、俺にはわかった。


零は、まだあの世界にいる。


心は、まだあそこで走ってる。


観客席にいても、零の魂は、あのコースにある。


だから、苦しいんだ。


でも、零は何も言わない。


ただ、黙って、窓の外を見ている。


-----


家に戻って、俺は一人でクロを見ていた。


ボロい。


傷だらけ。


でも、俺の相棒だ。


今日見たBランクの車とは、全然違う。


金も、スポンサーも、何もない。


でも。


「…いつか、あそこに立つ」


小さく呟いた。


クロのボンネットに手を置く。


冷たい。


でも、エンジンをかければ、熱くなる。


生きてる。


この車は、生きてる。


「お前と一緒なら、行ける」


そう信じてる。


信じるしかない。


零の言葉を思い出す。


「お前の戦いは、来年始まる」


そうだ。


来年。


一月一日。


ポイントがリセットされる。


全員が、ゼロからスタートする。


そのとき、俺の戦いが始まる。


Bランクへの道が、始まる。


「…待ってろ」


クロに向かって、呟いた。


明日も、レースを見に行く。


AランクとAAランクの戦いを。


そして、明後日は、AAAの神々の戦いを。


全部、この目に焼き付ける。


そして、追いつく。


いつか、必ず。


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