第20話 限界を探る
次の日から、凪は毎日工房に通った。
サスペンションとブレーキの調整が終わっても、まだ終わりじゃなかった。細かい調整が、山のように残っている。
「今日は、タイヤの空気圧だ」
零は言った。
「空気圧一つで、車の挙動が変わる」
零は、エアゲージを持ってきた。
「フロント、2.2kg。リア、2.0kg。まず、これで試す」
凪は、頷いた。零が、タイヤに空気を入れていく。
「シュー……」
エアコンプレッサーの音。タイヤが、膨らんでいく。
「よし」
零は言った。
「走れ」
凪は、運転席に座った。エンジンをかける。そして、走り出す。
首都高に入る。カーブに差し掛かる。ステアリングを切る。
「……」
凪は、眉を寄せた。
「どうした?」
零は聞いた。
「……フロントが滑る」
凪は言った。
「ステアリング切っても、曲がりが甘い」
零は、頷いた。
「フロントの空気圧、高すぎるな」
零は言った。
「戻るぞ」
工房に戻った。零が、フロントの空気圧を下げる。2.2kgから、2.0kgへ。
「もう一回、走れ」
凪は、また走り出した。カーブに差し掛かる。ステアリングを切る。
「……良くなった」
凪は言った。
「だが、まだ完璧じゃねえ」
零は言った。
「リアの空気圧、上げるぞ」
この作業を、何度も繰り返した。空気圧を変えて、走って、また変えて。
3日かけて、ようやく最適な空気圧が見つかった。フロント1.9kg、リア2.1kg。
「これだ」
零は言った。
「この設定、覚えとけ」
凪は、頷いた。
-----
次は、アライメントだ。
タイヤの角度を調整する。トー角、キャンバー角、キャスター角。全部、ミリ単位で調整する。
「これが一番、難しい」
零は言った。
「少しでもズレたら、車の挙動が変わる」
橘が、専用の工具を持ってきた。
「アライメントテスター、持ってきました」
橘は言った。
零は、頷いた。
「助かる」
橘と零で、アライメントテスターをセットする。レーザーで、タイヤの角度を測定する機械だ。
「フロント左、トー角0.5度イン」
橘が、数字を読み上げる。
「右は?」
零は聞いた。
「0.3度イン」
橘は答えた。
「左右で差がある」
零は言った。
「調整するぞ」
零が、タイロッドを回す。わずかに、ほんの少しだけ。
「もう一回、測れ」
橘が、測定する。
「0.4度イン」
橘は言った。
「もうちょいだ」
零は、また回す。
「0.5度イン」
橘は言った。
「よし」
零は言った。
「左右、揃った」
この作業を、4輪全部でやる。フロント左右、リア左右。全部、ミリ単位で調整する。
5時間かけて、ようやくアライメントが完成した。
「試運転だ」
零は言った。
凪は、運転席に座った。エンジンをかける。そして、走り出す。
ステアリングを切る。
「……!」
凪は、目を見開いた。
真っ直ぐ曲がる。ステアリングを切った通りに、車が反応する。遅れがない。ズレがない。
「……すげえ」
凪は呟いた。
零は、頷いた。
「そうだ。これが、アライメントだ」
零は言った。
「だが、まだ終わりじゃねえ」
凪は、零を見た。
「まだ?」
「ああ」
零は頷いた。
「次は、限界テストだ」
-----
翌日、凪と零は深夜の首都高にいた。
交通量が少ない。車は、ほとんど走っていない。
「ここで、限界テストをする」
零は言った。
「お前の限界と、車の限界。両方、確認する」
凪は、唾を飲み込んだ。
「……どうやって?」
「全力で走る」
零は言った。
「コーナーで、限界まで攻める。タイヤが滑るギリギリまで、速度を上げる」
零は、凪の目を見た。
「怖いか?」
凪は、首を横に振った。
「……怖くねえ」
零は、小さく笑った。
「そうか」
零は言った。
「じゃあ、やるぞ」
凪は、アクセルを踏んだ。シルビアが、加速する。
「ブォォォォン!」
エンジンが唸る。回転数が上がる。3000、4000、5000。
速度が上がる。80、90、100。
「もっとだ」
零は言った。
凪は、アクセルを踏み込んだ。110、120。
カーブが見えた。大きなカーブ。右に曲がる。
「ブレーキだ」
零は言った。
凪は、ブレーキを踏んだ。
「ギィィィィッ!」
タイヤが悲鳴を上げる。速度が落ちる。100、90、80。
「ステアリング切れ」
零は言った。
凪は、ステアリングを切った。車体が、傾く。だが、強化ブッシュのおかげで、ロールは少ない。
タイヤが、路面を掴む。
「アクセル踏め」
零は言った。
凪は、アクセルを踏んだ。
「ブォォォン!」
エンジンが唸る。速度が上がる。カーブの途中で、加速する。
「ギュイイイイン!」
タイヤが悲鳴を上げる。限界だ。これ以上アクセルを踏んだら、滑る。
だが、凪は止まらなかった。もっと、アクセルを踏む。
「……!」
リアが滑り始めた。
「カウンターだ!」
零が叫んだ。
凪は、反射的にステアリングを逆に切った。カウンターステア。リアの滑りを、抑える。
車体が、安定する。カーブを抜けた。
「……抜けた」
凪は呟いた。
手のひらが、汗で濡れている。心臓が、激しく打っている。
「……すげえな」
零は言った。
「よく、立て直した」
凪は、ハンドルを握りしめた。
「……もう一回」
凪は言った。
零は、凪を見た。
「もう一回?」
「ああ」
凪は頷いた。
「もっと、速く曲がれる」
零は、小さく笑った。
「……わかった」
零は言った。
「もう一回だ」
-----
凪は、もう一度同じカーブに挑んだ。
速度を上げる。100、110、120。
ブレーキ。
「ギィィィィッ!」
ステアリングを切る。
アクセル。
「ブォォォン!」
リアが滑る。
カウンター。
車体が安定する。
カーブを抜けた。
「……速くなった」
零は言った。
「さっきより、0.5秒速い」
凪は、頷いた。だが、まだ満足していない。
「……もう一回」
凪は言った。
零は、頷いた。
「いいぞ」
零は言った。
「その調子だ」
凪は、何度も同じカーブを走った。5回、10回、15回。
そして、20回目。
凪は、アクセルを踏み込んだ。今までで、一番深く。
カーブに突入する。ステアリングを切る。
アクセルを踏む。
「ブォォォォン!」
リアが滑る。だが、今回は違う。滑りが、大きい。
「……!」
凪は、カウンターを当てた。だが、間に合わない。
リアが、大きく流れる。
「やばい!」
凪は叫んだ。
車体が、スピンし始める。
「アクセル戻せ!」
零が叫んだ。
凪は、アクセルを戻した。そして、クラッチを切った。
車体の回転が、止まる。
「ブレーキ!」
零が叫んだ。
凪は、ブレーキを踏んだ。
「ギィィィィィッ!」
タイヤが悲鳴を上げる。シルビアが、止まった。
静寂。
凪は、息を整えた。手が、震えている。
「……危なかった」
凪は呟いた。
零は、黙っていた。しばらく、何も言わなかった。そして、口を開いた。
「……今ので、わかっただろ」
零は言った。
「これが、限界だ」
凪は、頷いた。
「お前のアクセルワーク、限界を超えてた」
零は言った。
「タイヤが掴める以上の力を、加えた。だから、滑った」
零は、凪を見た。
「限界ってのは、超えちゃいけねえ」
零は言った。
「限界の、ギリギリ手前。そこを、攻め続ける。それが、速く走るってことだ」
凪は、黙って聞いていた。
「お前、今日で理解した」
零は言った。
「限界がどこにあるか。どこまで攻めていいか」
零は、シルビアのダッシュボードを叩いた。
「この車の限界も、わかった」
零は言った。
「だから、次からは、限界を超えずに、限界ギリギリを攻められる」
凪は、頷いた。
「……わかった」
零は、頷いた。
「よし」
零は言った。
「今日は、これで終わりだ」
凪は、エンジンをかけた。そして、ゆっくりと走り出した。
首都高を降りて、一般道へ。そして、工房へ向かう。
凪の手は、まだ震えていた。だが、それは恐怖じゃない。
興奮だ。
限界を感じた。
限界を超えた。
そして、立て直した。
凪の中で、何かが変わった。
車の限界が、わかった。
自分の限界も、わかった。
これから、どうすればいいか。
どこまで攻めればいいか。
全部、わかった。
凪は、ステアリングを握りしめた。
来年。
来年のレースで、絶対に勝つ。
今なら、勝てる。
凪は、そう確信した。
工房に着いた。零が、車を降りた。
「今日は、よくやった」
零は言った。
「明日も、来い。まだ、やることがある」
凪は、頷いた。
「……ああ」
零は、工房の中に入っていった。
凪は、シルビアを見つめた。ボンネット。フロントガラス。ルーフ。
全部、いつもと同じ。
だが、何かが違う。
クロが、凪の一部になった。
凪が、クロの一部になった。
凪は、シルビアに手を置いた。
「……ありがとな」
凪は呟いた。
そして、工房を後にした。
夜風が、冷たい。
だが、凪の心は、熱かった。




