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第1話 野良犬の牙


翌朝、午前10時。廃車置き場


凪は、約束の時間の30分前に来ていた。


昨夜の雨は止んでいたが、空はまだ灰色の雲に覆われている。錆びたコンテナの隙間から、冷たい風が吹き抜けた。凪はシルビアのボンネットに腰を下ろし、煙草を吸っていた。本当は吸わない。だが、緊張を紛らわせるには、これしかなかった。


師匠。


その言葉が、頭の中で何度もリフレインする。


神崎零。元AAAランク20位。白影。


伝説のレーサーが、なぜ自分なんかに。


凪は煙を吐き出した。


「……来るのか?」


昨夜のことが、夢だったんじゃないかと思える。やつれた中年男。死んだような目。それが本当に、あの白影だったのか。


だが、名刺は本物だった。


雨に濡れて滲んでいたが、確かにそこには神崎零の名前があった。


「……ったく」


凪は煙草を地面に投げ捨て、靴で踏み消した。


その時。


エンジン音が聞こえた。


低く、重く、それでいて滑らかな音。凪は顔を上げた。廃車置き場の入り口から、一台の車が入ってくる。


黒い、フェアレディZ。Z34型。


ボディは艶消しの黒で塗装され、まるで闇そのもののように見えた。だが、その佇まいには、言いようのない圧があった。整備が行き届いている。エンジン音に一切の乱れがない。


車は凪の前で止まった。


ドアが開く。


降りてきたのは、神崎零だった。


昨夜と同じ、黒いレザージャケット。だが、今日はフードを被っていない。白髪混じりの黒髪が風に揺れている。顔には無精髭が生え、目の下のクマは相変わらず深い。だが、その目には、昨夜とは違う何かがあった。


鋭さ。


まるで、獲物を狙う猛禽類のような。


「……来たか」


零は凪を一瞥して、シルビアの方へ歩いていった。


「ボンネット開けろ」


「……おう」


凪は従った。


零はエンジンルームを覗き込み、黙って手を伸ばした。その動きは、正確で、無駄がない。まるで外科医が患者を診るような手つきだ。


数分後、零は顔を上げた。


「……ひでえな」


「……わかってる」


「ラジエーター交換。エンジンブロックは溶接で何とかなる。オイルクーラーも追加した方がいい。ターボのタービンブレードも摩耗してる。このままじゃ、次のレースで確実に吹き飛ぶ」


零は淡々と言った。


「部品代と工賃で、50万はかかる」


「……50万?」


凪は息を呑んだ。


「無理だ。そんな金、ねえよ」


「知ってる」


零はボンネットを閉じた。


「だから、俺が出す」


「……は?」


「その代わり」


零は凪を見た。


「お前は、俺の言うことを全て聞く」


凪は黙った。


零の目が、真剣だった。


「修理が終わるまで2日。その間、お前は俺の指導を受ける。朝から晩まで、みっちりとな」


「……何を、教えるんだよ」


「車の扱い方だ」


零は言った。


「お前、車のこと、何もわかってねえ」


「……あ?」


凪は眉をひそめた。


「何だよそれ。俺、ちゃんと勝ってんだぞ?」


「勝つことと、車を理解することは別だ」


零の声は冷たかった。


「お前の走りは、ただの暴力だ。アクセルを踏み込んで、ブレーキを踏んで、ハンドルを切る。それだけ。車が何を感じてるか、何を求めてるか、お前は何もわかっちゃいない」


凪は何も言い返せなかった。


零の言葉が、的確に急所を突いてくる。


「車ってのはな」


零はシルビアのボンネットに手を置いた。


「生き物なんだよ」


「……生き物?」


「ああ。エンジンは心臓だ。オイルは血液。タイヤは足。ハンドルは神経。全部が繋がって、初めて車は走る」


零の声は、静かだった。


「お前は今、その生き物を、無理やり走らせてる。限界を超えて、壊れるまで。それじゃあ、車が可哀想だろ」


凪は、胸が詰まった。


零の言葉が、ずしりと重い。


「……俺は」


凪は呟いた。


「……勝ちたいだけだ」


「わかってる」


零は言った。


「だが、勝つためには、車を理解しなきゃならない。車を壊さずに、限界まで引き出す方法を知らなきゃならない」


零は凪の目を見た。


「それを、俺が教える」


凪は、息を呑んだ。


零の目には、確かな決意があった。


「……なんで」


凪は聞いた。


「なんで、そこまでしてくれるんだよ。俺、何もできねえぞ。金も払えねえし、礼も言えねえ」


零は、僅かに笑った。


「……だから、だよ」


「……?」


「お前、俺に似てるって言っただろ」


零は空を見上げた。


「20年前の俺も、お前と同じだった。何もなくて、誰にも認められなくて、それでもただ走りたかった」


零の声は、遠くを見ているようだった。


「だが、俺には師匠がいた。あいつが、俺に全てを教えてくれた。車のこと、レースのこと、走ることの意味を」


零は凪を見た。


「だから、今度は俺の番だ」


凪は、何も言えなかった。


ただ、胸の奥が熱くなった。


「……わかった」


凪は頷いた。


「やる。何でもやる」


零は、また僅かに笑った。


「なら、まずは走りを見せてもらおうか」


「……走る? この車、壊れてんだぞ?」


「ああ、だからお前のシルビアじゃない」


零はシルビアのボンネットを軽く叩いた。


「こいつは今から俺が直す。応急処置だけでも半日はかかる」


零はポケットから鍵を取り出した。


「お前は、俺のZに乗れ」


「……は?」


「お前の走りを見る。俺が助手席に乗って、お前の癖を全部チェックする」


零は鍵を凪に投げた。


「首都高を3周。ペースは自由だ。好きなだけ飛ばせ」


凪は鍵を受け取った。


手の中で、鍵が重い。


「……いいのかよ。俺、下手だぞ?」


「構わねえ」


零は言った。


「どうせ、これから直す」


午前10時30分。首都高湾岸線


フェアレディZのエンジンが、唸りを上げた。


VQ37VHR型、3.7リッターV6エンジン。330馬力。凪のシルビアより遥かにパワーがある。だが、それ以上に驚いたのは、その完成度だった。


シートに座った瞬間、わかった。


この車は、本物だ。


ステアリングを握る。レザーの感触が手に吸い付く。ペダルを踏む。反応が、凪のシルビアとは全く違う。滑らかで、正確で、まるで車が凪の意思を先読みしているようだ。


「……すげえ」


凪は呟いた。


助手席の零は、何も言わなかった。ただ、腕を組んで座っている。


「行くぞ」


凪はアクセルを踏み込んだ。


Zが、発進する。


加速が、凄まじい。


シルビアとは比較にならない。まるで、背中を蹴飛ばされたような衝撃。だが、その加速は制御可能だ。アクセルワークに、完璧に応えてくれる。


首都高に入る。


朝のラッシュは終わり、交通量は少ない。凪はアクセルを踏み込んだ。


速度計の針が、ぐんぐん上がっていく。


80km/h、100km/h、120km/h、140km/h。


風景が、流れていく。


だが、凪は冷静だった。


この車は、速い。だが、怖くない。むしろ、安定している。まるで、地面に吸い付いているような感覚。


コーナーに差し掛かる。


凪はブレーキを踏み、ハンドルを切った。


Zが、滑らかに曲がる。


タイヤが鳴かない。


限界まで攻めているのに、グリップが残っている。


「……化け物か、これ」


凪は呟いた。


だが、零は黙っていた。


ただ、凪の手元を見ている。


1周目が終わる。


2周目に入る。


凪は、徐々にペースを上げていった。コーナーの侵入速度を上げ、ブレーキングポイントを遅らせ、アクセルを踏み込むタイミングを早める。


Zは、全てに応えてくれた。


まるで、凪の体の一部になったように。


だが。


「……ブレーキが甘い」


零が、初めて口を開いた。


「……は?」


「コーナー侵入前、お前、ブレーキを2回に分けて踏んでる」


「……そうだけど」


「それじゃ、タイムが落ちる」


零は言った。


「ブレーキは一度で決める。荷重を一気にフロントに乗せて、タイヤのグリップを最大限に引き出す。そうすれば、侵入速度を保ったまま曲がれる」


「……でも、それじゃあ、車が不安定になるだろ?」


「だから、ハンドルで調整するんだ」


零の声は、冷静だった。


「車が滑り出す瞬間、ハンドルを0.5度だけ切り足す。そうすれば、グリップが戻る」


「……0.5度?」


「ああ。それ以上切ると、逆に滑る。それ以下だと、効果がない」


凪は、息を呑んだ。


0.5度。


そんな繊細な操作、できるのか?


「やってみろ」


零が言った。


次のコーナーが迫る。


凪は、深呼吸をした。


ブレーキを、一度で踏む。


荷重が、フロントに乗る。


タイヤが悲鳴を上げた。


車体が、僅かに滑る。


今だ。


凪はハンドルを、ほんの少しだけ切り足した。


瞬間。


車が、ピタリと安定した。


「……!」


凪は驚いた。


グリップが、戻った。


それどころか、コーナーの立ち上がりが、今までより遥かに速い。


「……できた」


「当たり前だ」


零は言った。


「お前には、才能がある」


凪は、笑っていた。


初めて。


本当に、初めて。


車が、自分の思い通りに動いた。


3周目。


凪は、全力で走った。


零の指示を全て実行し、限界まで攻める。


ブレーキング、ハンドル操作、アクセルワーク。


全てが、繋がっていく。


そして、ゴール。


凪は、ハンドルから手を離した。


「……はあ、はあ……」


息が荒い。


全身が汗だくだ。


だが、胸の奥が、熱い。


「……楽しかった」


凪は呟いた。


零は、また僅かに笑った。


「そうか」


そして、ドアを開けた。


「なら、次は本気でやるぞ」


「……本気?」


「ああ」


零は凪を見た。


「お前の車を直す。そして、3日後のレースで、俺が見ててやる」


零の目が、鋭く光った。


「そこで、お前が勝つ姿を見せてもらう」


凪は、頷いた。


「……ああ」


これが、星野凪の、本当の始まりだった。


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