第19話 バランスの探求
翌朝、凪が工房に着いた時、橘はすでに来ていた。
零と橘が、シルビアの周りで何か話している。橘は、作業着を着ている。本気で、手伝う気だ。
「来たか」
零は、凪を見た。
「おはようございます!」
橘は、笑顔で言った。
凪は、頷いた。
「……おはようございます」
零は、シルビアを指差した。
「今日は、サスペンションとブレーキだ」
零は言った。
「まず、サスペンション。フロントとリアのバランスを取る」
零は、工房の隅から工具を持ってきた。スプリングコンプレッサー。サスペンションを分解するための工具だ。
「リフトで上げるぞ」
零は言った。
三人で、シルビアをリフトに載せた。油圧でゆっくりと持ち上げる。
「ウィィィィン……」
リフトの音。シルビアが、宙に浮いた。
「タイヤ、外すぞ」
零は言った。
「橘、手伝ってくれ」
「はい!」
橘は、インパクトレンチを手に取った。
「ダダダダダッ!」
インパクトレンチが唸る。ホイールナットが、次々と外れていく。タイヤが外れた。サスペンションが露わになる。
「ここだ」
零は、サスペンションを指差した。
「スプリング、ショック、アーム、全部確認する」
零は、サスペンションを揺すった。
「……ブッシュが劣化してる」
零は言った。
「ここと、ここ。全部交換だ」
橘が、持ってきた箱を開けた。新品のブッシュが入っている。
「これ、使ってください」
橘は言った。
零は、ブッシュを手に取った。
「いいブッシュだな」
零は言った。
「強化タイプか」
「ええ」
橘は頷いた。
「純正より硬いですけど、レースには向いてます」
零は、頷いた。
「ちょうどいい」
零は、凪を見た。
「お前も手伝え」
凪は、頷いた。
「……ああ」
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サスペンションの分解は、想像以上に大変だった。
まず、ショックアブソーバーを外す。ボルトを緩めて、ショックを引き抜く。
「よいしょ……!」
零が、ショックを引き抜いた。重い。凪も手伝う。
「次は、スプリングだ」
零は言った。
スプリングコンプレッサーを取り付ける。ゆっくりと、スプリングを圧縮していく。
「ギィィィ……」
スプリングが軋む音。凪は、息を呑んだ。スプリングが、もし外れたら、飛んでくる。危険だ。
「慎重にやれ」
零は言った。
「焦るな」
凪は、頷いた。ゆっくりと、コンプレッサーを回す。スプリングが、どんどん圧縮されていく。
「……よし」
零は言った。
「外すぞ」
零が、スプリングを外した。そして、作業台に置く。
「次は、ブッシュだ」
零は、古いブッシュを引き抜こうとした。だが、動かない。完全に固着している。
「……硬いな」
零は呟いた。
橘が、バーナーを持ってきた。
「熱で膨張させましょう」
橘は言った。
「そうしないと、抜けないですよ」
零は、頷いた。橘が、バーナーでブッシュを炙る。
「ゴォォォ……」
炎の音。金属が、赤く光る。
「よし」
橘は言った。
「今だ!」
零が、ハンマーでブッシュを叩いた。
「ガンガンガン!」
ブッシュが、少しずつ動く。そして、抜けた。
「……よし」
零は言った。
「新しいブッシュ、入れるぞ」
新品のブッシュを差し込む。ハンマーで叩いて、押し込む。
「ガンガンガン!」
ブッシュが、嵌まった。
「よし」
零は言った。
この作業を、フロント左右、リア左右、全部で4箇所繰り返した。
3時間後、全部のブッシュ交換が終わった。零は、額の汗を拭った。
「……疲れたな」
零は呟いた。
橘も、疲れた顔をしている。
「お疲れ様です」
橘は言った。
凪は、手のひらを見た。真っ黒だ。グリスとオイルで汚れている。
「次は、組み立てだ」
零は言った。
「ブッシュを交換したから、サスペンションの特性が変わる。硬くなるから、乗り心地は悪くなるが、コーナリングは良くなる」
零は、凪を見た。
「レースには、こっちの方がいい」
凪は、頷いた。
「……わかった」
零と橘と凪で、サスペンションを組み立てていく。スプリングを圧縮して、ショックに取り付ける。そして、車体に戻す。
「トルクレンチだ」
零は言った。
凪は、トルクレンチを渡した。零が、ボルトを締める。
「カチッ」
適正トルク。一つ、また一つ。全部のボルトを締めていく。
1時間後、サスペンションの組み立てが終わった。
「リフト、降ろすぞ」
零は言った。
リフトが、ゆっくりと降りていく。シルビアのタイヤが、地面に着いた。
「揺すってみろ」
零は言った。
凪は、シルビアのフロントを押した。車体が、揺れる。だが、すぐに止まる。前より、明らかに硬い。
「……硬いな」
凪は言った。
零は、頷いた。
「そうだ。これが、強化ブッシュだ」
零は言った。
「試運転するぞ」
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凪は、運転席に座った。零は、助手席。橘は、後部座席に座った。
「エンジン、かけろ」
零は言った。
凪は、キーを回した。エンジンがかかる。
「ブォン!」
アイドリング。振動が、前より少ない。エンジンマウントとブッシュの効果だ。
「走れ」
零は言った。
凪は、ギアを入れた。シルビアが、動き出す。廃車置き場を抜け、一般道へ。
「ブォォォ……」
エンジンが唸る。凪は、アクセルを踏んだ。
「……硬い」
凪は呟いた。
路面の凸凹が、ダイレクトに伝わってくる。乗り心地は、明らかに悪くなった。
「当たり前だ」
零は言った。
「サスが硬くなったからな」
凪は、カーブに差し掛かった。ステアリングを切る。
「……!」
凪は、目を見開いた。
車体が、ロールしない。前なら、カーブで車体が傾いた。だが、今は、ほとんど傾かない。
「……すげえ」
凪は呟いた。
零は、頷いた。
「そうだ。コーナリングが、安定した」
零は言った。
「次は、ブレーキだ。戻るぞ」
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工房に戻った。
零は、ブレーキフルードの缶を持ってきた。
「ブレーキフルード、交換する」
零は言った。
零は、リザーバータンクのキャップを開けた。中を覗き込む。
「……お前、フルード交換したことねえだろ」
零は言った。
凪は、首を横に振った。
「……やり方、わかんなかった」
「だろうな」
零は言った。
「廃車から拾った時のままか」
零は、リザーバータンクの中を指差した。フルードが、茶色く濁っている。
「ブレーキフルードってのは、水分を吸う」
零は言った。
「水分を吸うと、沸点が下がる。レース中、ブレーキが熱くなって、フルードが沸騰する。そうなったら、ブレーキが効かなくなる」
凪は、唇を噛んだ。
「……知らなかった」
「今、覚えろ」
零は言った。
「ブレーキフルードは、定期的に交換するもんだ」
橘が、手伝う。
「ブリーダー、開けますね」
橘は言った。
橘が、ブリーダーバルブを開ける。古いフルードが、流れ出てくる。茶色く濁っている。
「こんなんじゃ、レースは無理だ」
零は言った。
「命、預けられねえ」
新しいフルードを入れる。透明な液体。ゆっくりと、注いでいく。
「満タンまで」
零は言った。
凪は、満タンまで入れた。そして、キャップを閉める。
「エア抜きだ」
零は言った。
「橘、ブリーダー開けてくれ」
「はい!」
橘が、ブリーダーバルブを開ける。
「凪、ブレーキペダル踏め」
零は言った。
「何度も、踏み続けろ」
凪は、運転席に座った。ブレーキペダルを踏む。一度、二度、三度。
「もっとだ」
零は言った。
「空気が抜けるまで、踏み続けろ」
凪は、踏み続けた。10回、20回、30回。手が、疲れてくる。だが、止めなかった。
「……よし」
零は言った。
「エア、抜けた」
橘が、ブリーダーバルブを閉める。
「これで、ブレーキの効きが良くなります」
橘は言った。
零は、頷いた。
「次は、ブレーキバランスだ」
零は、車体の下に潜り込んだ。
「プロポーショニングバルブ、調整する」
零は言った。
「フロントとリアのブレーキバランス。これを、調整しないと、フロントばかり効いて、リアが滑る」
零は、バルブを回し始めた。
「これでいい」
零は言った。
「試運転だ」
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凪は、また運転席に座った。零と橘も、乗り込む。
「走れ」
零は言った。
凪は、走り出した。一般道を走る。そして、ブレーキを踏んだ。
「……!」
凪は、目を見開いた。
ブレーキが、ガツンと効く。だが、前のような「ガクッ」という感じはない。滑らかに、だが力強く止まる。
「……良くなった」
凪は言った。
零は、頷いた。
「そうだ。フロントとリアのバランスが取れた」
零は言った。
「もっと踏んでみろ。急ブレーキだ」
凪は、アクセルを踏んだ。速度を上げる。60km/h。そして、急ブレーキ。
「ギィィィィッ!」
タイヤが悲鳴を上げる。だが、車体は安定している。真っ直ぐ止まる。
「……すげえ」
凪は呟いた。
橘が、後部座席から言った。
「いいですね! ブレーキバランス、完璧です!」
零は、頷いた。
「あと一つだ」
零は言った。
「コーナーで、限界まで攻めてみろ」
凪は、唾を飲み込んだ。
「……わかった」
凪は、首都高に入った。大きなカーブがある。凪は、アクセルを踏んだ。速度を上げる。70、80、90。
カーブに差し掛かる。凪は、ステアリングを切った。
車体が、ロールしない。タイヤが、路面を掴む。
「……いける!」
凪は、もっとアクセルを踏んだ。速度を維持したまま、カーブを抜ける。
「ギュイイイイン!」
エンジンが唸る。タイヤが悲鳴を上げる。だが、車体は安定している。
カーブを抜けた。
「……抜けた!」
凪は叫んだ。
零は、小さく笑った。
「……よし」
零は言った。
「合格だ」
凪は、ハンドルを握りしめた。手のひらが、汗で濡れている。心臓が、激しく打っている。
「……クロだ」
凪は呟いた。
「これ、クロだ」
零は、頷いた。
「そうだ」
零は言った。
「お前の車になった」
橘が、後部座席から拍手した。
「おめでとうございます!」
橘は言った。
「これで、レースに出られますね!」
凪は、頷いた。涙が、込み上げてくる。だが、流さなかった。ただ、笑った。
「……ありがとうございます」
凪は言った。
零は、前を見たまま答えた。
「礼なんていらねえ」
零は言った。
「お前が、ちゃんと走れるようになる。それでいい」
凪は、頷いた。
「……ああ」
シルビアは、走り続けた。首都高を、ゆっくりと。
凪の胸に、何かが満ちていた。
喜び。
達成感。
そして、新しい決意。
来年。
来年のレースで、絶対に勝つ。
凪は、そう心に誓った。




