第18話 初めての調律
翌日から、本格的な調整作業が始まった。
凪は、朝8時に工房に着いた。零は、すでに作業を始めていた。シルビアの下に潜り込んで、エンジンマウントを外している。
「来たか」
零は、下から声をかけた。
「ああ」
凪は答えた。
「手伝え」
零は言った。
「工具、取ってくれ。19mmのソケット」
凪は、工具箱を漁った。ソケットを探す。19mm。見つけた。
「これか?」
凪は、零に渡した。
「ああ」
零は、ソケットを受け取った。そして、ボルトを緩め始めた。
「ギィィィ……」
ボルトが軋む音。固着している。零は、体重をかけて回す。ボルトが、ようやく動いた。
「……よし」
零は呟いた。
一つ、また一つ。ボルトを外していく。そして、古いエンジンマウントを引き抜いた。
「これだ」
零は、マウントを凪に見せた。ゴムの部分が、ひび割れている。完全に劣化している。
「これじゃ、振動を吸収できねえ」
零は言った。
「新しいマウント、取ってくれ」
凪は、橘が持ってきた箱を開けた。新品のエンジンマウント。強化タイプ。ゴムが、分厚い。
「これか」
凪は、マウントを零に渡した。
零は、マウントを手に取った。そして、エンジンに取り付け始めた。
「ボルト、締めるぞ」
零は言った。
「トルクレンチ、持ってこい」
凪は、トルクレンチを持ってきた。零は、ボルトを締める。一定のトルクで。
「カチッ」
トルクレンチが、音を立てた。
「よし」
零は言った。
「次だ」
この作業を、4箇所繰り返した。エンジンマウントは、全部で4つ。全部、新しいものに交換する。
2時間後、エンジンマウントの交換が終わった。零は、シルビアの下から出てきた。顔が、オイルで汚れている。
「試運転するぞ」
零は言った。
「乗れ」
凪は、運転席に座った。零は、助手席に座る。
「エンジン、かけろ」
凪は、キーを回した。エンジンがかかる。
「ブォン!」
アイドリング。
「ゴロゴロゴロ……」
凪は、ステアリングに手を置いた。振動が、伝わってくる。だが、昨日よりは少ない。
「……振動、減った」
凪は言った。
零は、頷いた。
「そうだろ」
零は言った。
「走ってみろ。どうなるか」
凪は、ギアを入れた。シルビアが、動き出す。廃車置き場を抜け、一般道へ。
「ブォォォ……」
エンジンが唸る。アクセルを踏む。回転数が上がる。
「……まだ、レスポンス遅い」
凪は言った。
零は、頷いた。
「次は、ECUだ」
零は言った。
「燃料マップを書き換える」
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工房に戻った。
零は、ノートパソコンを持ってきた。シルビアの診断ポートに繋ぐ。画面に、数字の羅列が表示される。
「これが、燃料マップだ」
零は言った。
「回転数ごと、負荷ごとに、燃料の噴射量が設定されてる」
凪は、画面を覗き込んだ。数字がびっしり並んでいる。何が何だかわからない。
「この数字を変えると、エンジンの性格が変わる」
零は言った。
「燃料を増やせば、パワーが出る。だが、燃費が悪くなる」
零は、マウスを動かした。
「燃料を減らせば、燃費が良くなる。だが、パワーが落ちる」
零は、数字を一つ選んだ。
「この数字、今、14.5だ」
零は言った。
「これを、14.0に下げる」
零は、数字を変えた。そして、ECUに書き込む。
「エンジン、かけろ」
凪は、エンジンをかけた。
「ブォン!」
アイドリング。だが、まだ「ボコボコ」という音がする。
「……まだダメだ」
零は言った。
「もう一回」
零は、また数字を変え始めた。13.8。書き込む。エンジンをかける。まだ、音がおかしい。
「もう一回」
13.5。書き込む。エンジンをかける。
「ゴロゴロゴロ……」
音が、安定した。「ボコボコ」という音が消えた。
「……良くなった」
凪は言った。
零は、頷いた。
「よし。次は、アクセルのレスポンスだ」
零は、別の数字を選んだ。
「スロットルの開度と、燃料噴射のタイミング。これを調整する」
零は、数字を変え始めた。何度も、何度も。書き込んで、テストして、また書き込んで。
1時間後、ようやくアクセルのレスポンスが良くなった。
「試運転するぞ」
零は言った。
凪は、運転席に座った。エンジンをかける。そして、走り出す。
アクセルを踏む。踏んだ瞬間、エンジンが反応する。遅れがない。
「……良くなった!」
凪は言った。
だが、零は黙っていた。耳を澄ませて、エンジンの音を聞いている。
「……まだだ」
零は言った。
「3000回転、超えてみろ」
凪は、アクセルを踏み込んだ。回転数が上がる。3000、3500、4000。
「ブォォォォン!」
エンジンが唸る。だが、4000回転を超えた瞬間、音が変わった。
「ガラガラガラ……」
金属が擦れる音。
「……ノッキングだ!」
零は言った。
「アクセル戻せ!」
凪は、慌ててアクセルを戻した。回転数が下がる。音が、元に戻る。
「……危なかった」
凪は呟いた。
零は、眉を寄せた。
「高回転域の燃調が薄すぎる」
零は言った。
「戻るぞ」
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工房に戻った。
零は、またパソコンに向かった。高回転域の数字を選ぶ。
「ここだ」
零は言った。
「4000回転以上の燃料マップ。これを、濃くする」
零は、数字を変えた。12.5から、13.0へ。書き込む。
「試運転だ」
凪は、また走り出した。アクセルを踏む。3000、3500、4000。
「ブォォォォン!」
4000回転を超える。だが、音は安定している。ノッキングしない。
「……大丈夫だ」
凪は言った。
零は、頷いた。
「よし。次は、5000まで回せ」
凪は、アクセルを踏み込んだ。4500、5000。
「ギュイイイイン!」
エンジンが悲鳴を上げる。高い音。だが、異音はない。
「……大丈夫だ!」
凪は言った。
零は、頷いた。
「よし。戻れ」
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工房に戻った時には、もう午後3時を過ぎていた。
零は、椅子に座った。疲れた顔をしている。
「……疲れたな」
零は呟いた。
凪も、疲れていた。何度も走って、何度もテストして。集中力が、切れそうだ。
「今日は、ここまでだ」
零は言った。
「明日は、サスペンションとブレーキだ」
凪は、頷いた。
「……ああ」
その時、工房の外から声が聞こえた。
「零さーん! 星野さーん!」
橘だ。ワゴン車を運転して、工房の前に停まっている。
零と凪は、外へ出た。
「橘か」
零は言った。
「来ちゃいました!」
橘は、車から降りた。そして、トランクを開けた。中には、また段ボール箱が入っている。
「サスペンション用のブッシュと、ブレーキフルード持ってきました!」
橘は言った。
零は、箱を見た。
「……先読みしてたのか?」
橘は、笑った。
「だって、エンジン載せ替えたら、次はサスとブレーキでしょ?」
橘は言った。
「重量配分変わったら、絶対調整必要ですから」
零は、小さく笑った。
「……よくわかってるな」
橘は、嬉しそうに言った。
「車屋ですから!」
橘は、箱を降ろした。そして、工房の中を覗き込んだ。
「調子はどうですか?」
凪は、答えた。
「……少しずつ、良くなってる」
凪は言った。
「でも、まだ全然ダメだ」
橘は、頷いた。
「そうですよね。エンジン載せ替えると、本当に大変ですから」
橘は言った。
「でも、ちゃんと調整すれば、前より良くなりますよ」
凪は、橘を見た。
「……前より?」
「ええ」
橘は頷いた。
「新しいエンジンは、前のエンジンより状態がいいんです。それに、調整をイチからやり直すから、車全体のバランスも良くなる」
橘は、シルビアを見た。
「終わった時には、前より速くなってますよ」
凪は、シルビアを見た。ボンネットが閉じられたシルビア。まだ、完璧じゃない。まだ、クロじゃない。
だが、これから、変わっていく。
凪は、拳を握りしめた。
「……絶対に、速くする」
凪は呟いた。
橘は、笑顔になった。
「その意気です!」
橘は言った。
「俺も、全力でサポートします!」
零は、橘を見た。
「……明日、手伝ってくれるか?」
零は聞いた。
「サスペンションとブレーキ、一気に調整する。人手が欲しい」
橘は、頷いた。
「もちろんです!」
橘は言った。
「明日、朝から来ます!」
零は、頷いた。
「……助かる」
橘は、時計を見た。
「じゃあ、今日はこれで。明日、また来ます!」
橘は、車に乗り込んだ。そして、手を振りながら去っていった。
凪は、橘の車が見えなくなるまで見送った。そして、工房に戻った。
零は、シルビアを見つめていた。
「……明日が、正念場だ」
零は言った。
「サスペンションとブレーキ。ここが一番難しい」
凪は、零を見た。
「……なんで?」
「バランスだ」
零は言った。
「フロントとリア、左右、全部のバランスを取らないといけねえ。一箇所でも狂えば、車全体が狂う」
零は、シルビアに手を置いた。
「だが、ちゃんと調整できれば、この車は生まれ変わる」
零は、凪を見た。
「お前の車になる」
凪は、シルビアを見た。
明日。
明日が、勝負だ。
凪は、そう思った。
「……わかった」
凪は言った。
「明日、絶対に決める」
零は、小さく笑った。
「そうしろ」
零は言った。
凪は、工房を出た。夜風が、冷たい。凪は、空を見上げた。星が見える。小さな、光る点。
凪は、歩き出した。だが、心臓が高鳴っていた。期待と、不安と、緊張が、混ざり合っている。
明日。
明日、クロが生まれ変わる。
凪は、そう信じた。
夜の街を、一人で歩いていく。足音だけが、静かに響いていた。




