第17話 馴染まない心臓
翌日、凪は朝早く工房に着いた。
空は晴れている。雲一つない青空。風は冷たいが、穏やかだ。テスト走行には、ちょうどいい天気だ。
工房のシャッターは、すでに開いていた。零が、シルビアの周りを歩き回っている。タイヤを蹴ったり、ボンネットを開けて中を覗いたり、最終チェックをしている。
「来たか」
零は、顔を上げた。
「ああ」
凪は答えた。
零は、ボンネットを閉めた。
「今日、初めて走らせる」
零は言った。
「だが、飛ばすな。ゆっくり走れ」
凪は、頷いた。
「……わかってる」
零は、運転席のドアを開けた。
「乗れ」
凪は、運転席に座った。久しぶりの感覚。硬いシート。擦り切れたステアリング。だが、全部、懐かしい。
零は、助手席に座った。
「エンジン、かけろ」
凪は、キーを回した。セルモーターが回る。
「キュルキュルキュル……」
そして、エンジンがかかった。
「ブォン!」
アイドリング。
「ゴロゴロゴロ……」
凪は、エンジンの音に耳を澄ませた。昨日と同じ音。低く、重く、滑らかな音。
「……いい音だ」
凪は呟いた。
零は、頷いた。
「そうだな」
零は言った。
「だが、まだわからねえ。走ってみないと」
凪は、頷いた。そして、ギアをローに入れた。クラッチを繋ぐ。シルビアが、ゆっくりと動き出した。
廃車置き場を抜け、一般道へ出る。朝の道は、空いている。凪は、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
「ブォォォ……」
エンジンが、唸る。だが、何か違う。凪は、眉を寄せた。
「……なんか、変だ」
凪は言った。
零は、耳を澄ませた。
「どう変だ?」
「わかんねえ」
凪は答えた。
「なんか、違和感がある」
零は、黙って聞いていた。エンジンの音。排気音。タイヤの音。全部、注意深く聞いている。
「……アクセルのレスポンスが遅い」
零は言った。
「踏んでから、エンジンが反応するまで、ワンテンポ遅れてる」
凪は、アクセルを踏んだり離したりした。確かに、遅れている。
「……ホントだ」
凪は言った。
零は、頷いた。
「エンジン載せ替えたから、スロットルボディとECUの相性が合ってねえ」
零は言った。
「今日は、そのまま走れ。問題点を全部洗い出す」
凪は、頷いた。シルビアは、ゆっくりと走り続ける。だが、違和感は消えなかった。アクセルのレスポンス、エンジンの回り方、全部、前と違う。
「……クロじゃないみたいだ」
凪は呟いた。
零は、凪を見た。
「当たり前だ」
零は言った。
「エンジンが変わったんだ。前と同じわけがねえ」
凪は、ステアリングを握りしめた。
「……でも」
「でも、じゃねえ」
零は言った。
「これから、お前とこのエンジンが馴染んでいく。そのための慣らし運転だ」
凪は、黙った。零の言う通りだ。まだ、始まったばかり。
シルビアは、首都高に入った。交通量は少ない。凪は、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
「ブォォォ……」
エンジンが、回転数を上げる。だが、スムーズじゃない。どこか、ぎこちない。
「3000回転まで回せ」
零は言った。
「それ以上は、まだダメだ」
凪は、アクセルを踏んだ。回転数が上がる。2000、2500、3000。
「ブォォォン……」
エンジンが唸る。だが、音が安定しない。時々、「ボコボコ」という音が混ざる。
「……変な音がする」
凪は言った。
零は、耳を澄ませた。
「……燃調が濃い」
零は言った。
「古いECUのマップが、新しいエンジンに合ってねえ」
零は、スマホを取り出した。そして、メモを取り始めた。
「スロットルボディの相性、燃料マップ。他にもあるか?」
凪は、走りながら確認した。ハンドル。ブレーキ。クラッチ。全部、試す。
「……振動がすげえ」
凪は言った。
「前は、こんなに振動してなかった」
零は、頷いた。
「エンジンマウントが合ってねえ」
零は言った。
「エンジンの重量バランスが、前と微妙に違う。だから、マウントで吸収しきれてねえ」
零は、メモを取った。
「他は?」
「ハンドルが変だ」
凪は言った。
「軽すぎる。前は、もっと重かった。今は、スカスカで、路面の感触が伝わってこねえ」
零は、頷いた。
「エンジンの位置が変わったから、重量配分が変わった」
零は言った。
「フロントが軽くなってる。だから、ハンドルの手応えも変わる」
零は、メモを取った。
「他は?」
「ブレーキが効きすぎる」
凪は言った。
「ちょっと踏んだだけで、ガクッとくる」
零は、頷いた。
「フロントが軽くなったから、ブレーキバランスが崩れてる」
零は言った。
「ブレーキの前後バランス、調整しないとな」
零は、メモを取った。
凪は、走り続けた。だが、違和感は増すばかりだった。アクセル、ハンドル、ブレーキ、振動。全部、前と違う。
「……全然、クロじゃねえ」
凪は呟いた。
零は、何も言わなかった。ただ、黙って、エンジンの音を聞いている。
30分ほど走って、工房に戻った。凪は、エンジンを止めた。静寂が、戻ってくる。
「降りろ」
零は言った。
凪は、車を降りた。零も降りる。
零は、ボンネットを開けた。エンジンルームを覗き込む。
「オイル漏れなし。冷却水漏れなし」
零は言った。
「エンジン自体は、問題ねえ」
零は、ボンネットを閉めた。
「だが、車体との相性が最悪だ」
零は、工房の中に入った。凪も、後を追う。
零は、作業台にスマホを置いた。メモが、表示されている。
「スロットルボディとECUの相性、燃料マップ、エンジンマウント、重量配分、ブレーキバランス」
零は言った。
「エンジン載せ替えたせいで、全部狂ってる」
凪は、唇を噛んだ。
「……どうすんだよ」
零は、凪を見た。
「直す」
零は言った。
「一つずつ、全部直す」
零は、椅子に座った。
「エンジン載せ替えってのは、こういうもんだ」
零は言った。
「エンジンだけじゃねえ。車全体が、新しいエンジンに合わせて変わる」
零は、メモを見つめた。
「だから、全部調整し直す。ECU、マウント、サスペンション、ブレーキ、全部だ」
凪は、黙った。想像以上に、大変だ。
「……どれくらいかかる?」
凪は聞いた。
零は、少し考えてから答えた。
「年内いっぱいかかる」
零は言った。
「毎日、調整して、テストして、また調整して。それを繰り返す」
凪は、拳を握りしめた。
「……年内」
「ああ」
零は頷いた。
「年内に終わらせないと、来年のレースに間に合わねえ」
零は言った。
「1月1日に、ポイントがリセットされる。そこから、レースが始まる。準備が遅れたら、ポイント稼ぐのも遅れる」
凪は、唇を噛んだ。あと、2ヶ月半。
「……間に合うか?」
凪は聞いた。
零は、凪を見た。
「間に合わせる」
零は言った。
「お前も、毎日来い。調整、手伝え」
凪は、頷いた。
「……ああ」
零は、立ち上がった。
「今日は、ここまでだ」
零は言った。
「明日から、本格的に調整始める」
その時、工房の外から声が聞こえた。
「零さーん!」
凪は、顔を上げた。橘だ。橘修一。ワゴン車を運転して、工房の前に停まっている。
零は、シャッターの外へ出た。凪も、後を追う。
「橘か」
零は言った。
「来ちゃいました!」
橘は、車から降りた。そして、トランクを開けた。中には、段ボール箱が入っている。
「部品、追加で持ってきました」
橘は言った。
「エアフィルター、スパークプラグ、それと、エンジンマウントです」
零は、箱を見た。
「……エンジンマウント?」
「ええ」
橘は頷いた。
「強化タイプです。エンジン載せ替えたら、振動が変わるかなと思って」
零は、箱を開けた。中には、新品のエンジンマウントが入っている。
「……助かる」
零は言った。
橘は、笑顔になった。
「いえいえ! 調子はどうですか?」
凪は、少し苦笑いした。
「……最悪です」
凪は言った。
「エンジン変えたせいで、全部狂ってて」
橘は、頷いた。
「そうですよね。エンジン載せ替えると、車全体のバランスが変わりますから」
橘は言った。
「重量配分、振動、全部変わります」
零は、頷いた。
「そうだ。だから、全部調整し直してる」
零は言った。
「時間がかかる」
橘は、少し考えてから言った。
「……どれくらいかかりそうですか?」
零は、答えた。
「年内いっぱいだな」
橘は、頷いた。
「年内ですか……」
橘は言った。
「でも、年内に終わらせないと、来年のスタートが遅れますね」
零は、頷いた。
「そうだ。だから、急いでる」
橘は、笑顔で言った。
「俺も、手伝います!」
橘は言った。
「部品が必要なら、すぐ持ってきますし、調整も手伝いますよ!」
零は、橘を見た。
「……いいのか?」
「もちろんです!」
橘は言った。
「スポンサーですから。星野選手が、ちゃんと来年のレースに出られるように、全力でサポートします!」
凪は、橘を見た。橘の目は、真剣だ。本気で、応援してくれている。
「……ありがとうございます」
凪は言った。
橘は、笑顔になった。
「いえいえ! 一緒に頑張りましょう!」
橘は言った。
零は、小さく笑った。
「……わかった」
零は言った。
「じゃあ、明日から本格的に調整始めるぞ」
零は、凪を見た。
「いい機会だ。調整作業、全部勉強しろ」
零は言った。
「エンジン、サスペンション、ブレーキ、全部だ。エンジン載せ替えで、何がどう変わるか。それを、身体で覚えろ」
凪は、頷いた。
「……ああ」
零は、橘を見た。
「橘、手伝ってくれ」
橘は、笑顔で頷いた。
「任せてください!」
三人は、工房の中に入った。段ボール箱を運び込み、部品を並べる。エアフィルター、スパークプラグ、エンジンマウント。全部、新品だ。
凪は、部品を見つめた。これから、2ヶ月半。クロと向き合う。調整して、テストして、また調整して。何度も、何度も繰り返す。
エンジンを載せ替えたことで、車全体が変わった。全部、イチから作り直すようなものだ。
大変だ。だが、やるしかない。
凪は、拳を握りしめた。
絶対に、年内に終わらせる。
絶対に、来年のレースに間に合わせる。
凪は、そう心に誓った。




