16話 心臓の移植
翌朝、凪は工房に着いた。
いつもより早い時間だ。朝の8時。空は、まだ白んでいる。太陽が、地平線から顔を出し始めたばかり。冷たい空気が、肺に染み込む。
工房のシャッターは、もう開いていた。中から、金属を叩く音が聞こえる。
「カンカンカン」
凪は、工房の中に入った。零が、作業台の前に立っていた。SR20DETが、完全に組み上がっている。配線、ホース、全部接続されている。そして、その隣には、橘が持ってきてくれた部品の箱が並んでいる。
「……来たか」
零は、顔を上げずに言った。
「ああ」
凪は答えた。
零は、レンチを置いた。そして、エンジンを見つめた。
「今日、これをシルビアに載せる」
零は言った。
「朝から始めて、夕方には終わる」
凪は、エンジンを見た。SR20DET。クロの新しい心臓。これが、クロの中に入る。凪は、工房の隅に置かれたシルビアを見た。ボンネットが開いたまま、エンジンルームが空っぽのシルビア。まるで、手術を待つ患者のようだ。
「……やるか」
凪は言った。
零は、頷いた。
「やるぞ」
零は、作業台の上の部品箱を指差した。
「その前に、話がある」
凪は、零を見た。
「話?」
零は、椅子を引っ張ってきて座った。凪も、隣に座る。
「橘が、スポンサーになってくれた」
零は言った。
「部品を持ってきてくれた。金も出してくれる」
凪は、頷いた。
「……ああ」
「スポンサーがつくってことの意味、わかってるか?」
零は聞いた。
凪は、少し考えてから答えた。
「……金を出してくれる?」
零は、頷いた。
「それもある。だが、それだけじゃねえ」
零は、部品箱を見た。
「スポンサーってのは、お前を信じて金を出してくれる人間だ」
零は言った。
「お前が勝つことを期待して、応援してくれる。だから、お前には責任がある」
凪は、零を見た。
「責任?」
「ああ」
零は頷いた。
「お前は、ちゃんと結果を出さないといけねえ。勝たなくてもいい。だが、全力で走らないといけねえ」
零は、凪の目を見た。
「橘は、お前を信じてる。お前が強くなることを信じて、金を出してる。その信頼を裏切るな」
凪は、唇を噛んだ。
「……わかってる」
零は、続けた。
「それと、スポンサーがつくってことは、お前一人の問題じゃなくなるってことだ」
零は言った。
「お前が事故を起こせば、橘の名前に傷がつく。お前が不正をすれば、橘が責められる」
零は、凪の肩に手を置いた。
「だから、お前は、ちゃんとしないといけねえ。レースでも、レース外でも」
凪は、頷いた。
「……わかった」
零は、小さく笑った。
「わかればいい」
零は立ち上がった。
「橘は、いいやつだ。娘も、お前を応援してる。その期待に応えろ」
凪は、拳を握りしめた。
「……ああ」
零は、エンジンクレーンを引っ張ってきた。天井から吊るすタイプのクレーン。古いが、まだ使える。
「エンジン、載せるぞ」
零は言った。
「手伝え」
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エンジンを載せる作業は、想像以上に繊細だった。
まず、エンジンクレーンでSR20DETを吊り上げる。太いチェーン。エンジンの吊り下げポイントに、フックをかける。
「よし。巻き上げるぞ」
零は言った。
「手伝え」
凪と零で、クレーンのレバーを引く。エンジンが、ゆっくりと持ち上がっていく。
「ギィィィ……」
クレーンが軋む音。エンジンが、宙に浮いた。綺麗に磨かれたエンジンブロック。新品のガスケット。全部、完璧だ。
「シルビアの上まで持っていくぞ」
零は言った。
「ゆっくりだ。焦るな」
二人で、クレーンを押す。エンジンが、ゆっくりとシルビアの方へ移動していく。空っぽのエンジンルームの真上で止まった。
「ここだ」
零は言った。
「ゆっくり降ろすぞ。位置を合わせろ」
凪は、エンジンルームを覗き込んだ。エンジンマウントの位置。ボルト穴の位置。全部、確認する。
「もうちょい左」
凪は言った。
零が、エンジンを動かす。
「もうちょい前」
凪は言った。
零が、エンジンを動かす。
「……そこだ」
凪は言った。
「ぴったりだ」
零が、エンジンを降ろす。ゆっくりと、慎重に。エンジンが、エンジンマウントに近づいていく。
「もうちょい……」
零は呟いた。
エンジンが、エンジンマウントに収まった。
「よし」
零は言った。
「ボルト、仮止めしろ」
凪は、ボルトを手に取った。そして、エンジンマウントに差し込む。一つ、また一つ。エンジンルームの中に手を突っ込んで、ボルトを探す。狭い。指が届かない。
「……届かねえ」
凪は言った。
「もっと手を伸ばせ」
零は言った。
「届く」
凪は、身体をエンジンルームに突っ込んだ。手を伸ばす。指先が、ボルト穴に触れた。
「……届いた」
凪は、ボルトを差し込んだ。レンチで、軽く締める。
「仮締めだ」
零は言った。
「本締めは、全部差し込んでからだ」
凪は、4つのボルトを全部仮止めした。手が、オイルで汚れている。顔にも、オイルがついている。
「……終わった」
凪は言った。
零は、頷いた。
「よし。エンジン、固定されたぞ」
零は、クレーンを外した。エンジンが、シルビアに収まっている。
「……入った」
凪は呟いた。
零は、頷いた。
「入った」
零は言った。
「次は、配線とホースだ」
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配線とホースを繋ぐ作業は、さらに繊細だった。
一本一本、丁寧に。間違えたら、エンジンが動かない。最悪、ショートして火が出る。
「このコネクタ、ここに繋ぐ」
零は言った。
「色を見ろ。赤は赤、青は青、黄色は黄色」
凪は、配線を手に取った。赤い配線。コネクタを探す。
「……ここか?」
凪は聞いた。
「そうだ」
零は頷いた。
「差し込め」
凪は、コネクタを差し込んだ。
「カチッ」
音がした。しっかりと、嵌まった。
「いいぞ」
零は言った。
「次は、青だ」
凪は、青い配線を手に取った。コネクタを探す。エンジンルームの奥、見えにくい場所にある。
「……見えねえ」
凪は言った。
「手探りでやれ」
零は言った。
「指先で感じろ」
凪は、手をエンジンルームの奥に突っ込んだ。指先で、コネクタを探す。金属の感触。プラスチックの感触。そして、コネクタの形。
「……あった」
凪は、コネクタを差し込んだ。
「カチッ」
音がした。
「いいぞ」
零は言った。
「その調子だ」
凪は、全部の配線を繋いだ。10本以上。全部、間違えずに繋いだ。
「次は、ホースだ」
零は言った。
「冷却水のホース、オイルライン、燃料ホース、全部だ」
凪は、ホースを手に取った。新品のホース。弾力がある。
「これ、どこに繋ぐ?」
凪は聞いた。
「ラジエーターだ」
零は、ラジエーターを指差した。
「上のホースと下のホース、二本ある」
凪は、ホースをラジエーターに繋いだ。クランプで固定する。
「締めすぎるな」
零は言った。
「ホースが潰れる」
凪は、慎重に締めた。適度な力で。
「……これでいいか?」
凪は聞いた。
零は、ホースを引っ張ってみた。動かない。
「いい」
零は頷いた。
「次は、オイルラインだ」
凪は、オイルラインを繋いだ。細いホース。エンジンとオイルクーラーを繋ぐホース。
「これも、クランプで固定しろ」
零は言った。
凪は、クランプで固定した。全部のホースを繋ぎ終えた時には、手が疲れていた。指が、痛い。
「……終わった」
凪は言った。
零は、エンジンルームを覗き込んだ。配線、ホース、全部確認する。
「よし」
零は言った。
「次は、排気管だ」
零と凪で、排気管を繋いだ。新品のガスケットを挟む。ボルトで固定する。
「トルクレンチ使え」
零は言った。
「締めすぎると、ガスケットが潰れる」
凪は、トルクレンチを受け取った。ボルトを締める。一定のトルクで締まるように、ゆっくりと回す。
「カチッ」
トルクレンチが、音を立てた。適正トルクに達した証拠。
「いいぞ」
零は言った。
「その調子だ」
凪は、全部のボルトを締めた。
「最後に、本締めだ」
零は言った。
「エンジンマウントのボルト、全部本締めしろ」
凪は、レンチを手に取った。4つのボルトを、一つずつ本締めしていく。力を込めて、回す。ボルトが、しっかりと締まっていく。
「……終わった」
凪は言った。
零は、エンジンルームを覗き込んだ。配線、ホース、全部確認する。そして、頷いた。
「よし。完璧だ」
零は言った。
凪は、息を整えた。汗が、額に滲んでいる。手のひらも、汗で濡れている。
「……疲れた」
凪は呟いた。
零は、小さく笑った。
「当たり前だ。エンジンの載せ替えってのは、大仕事だ」
零は、時計を見た。
「もう、夕方だ」
凪も、時計を見た。午後5時。朝から、ずっと作業していた。
「……9時間か」
凪は呟いた。
零は、頷いた。
「そうだ。9時間」
零は言った。
「だが、まだ終わりじゃねえ」
凪は、零を見た。
「まだ?」
「ああ」
零は言った。
「エンジンオイルを入れて、冷却水を入れて、バッテリーを繋ぐ。それから、エンジンをかける」
零は、エンジンを見た。
「エンジンがかからないと、意味ねえ」
凪は、頷いた。
「……やるか」
零は、頷いた。
「やるぞ」
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エンジンオイルを入れる。新品のオイル。琥珀色の液体。ゆっくりと、注いでいく。
「4リットルだ」
零は言った。
「入れすぎるな」
凪は、慎重に注いだ。オイルゲージで、量を確認する。ちょうど、適正量。
「よし」
凪は言った。
次は、冷却水。新品のクーラント。青い液体。ラジエーターに、注いでいく。
「満タンまで入れろ」
零は言った。
凪は、満タンまで入れた。そして、キャップを閉める。
「最後に、バッテリーだ」
零は言った。
零が、バッテリーを持ってきた。古いバッテリー。だが、まだ使える。
「プラス端子から繋げ」
零は言った。
「マイナスは、後だ」
凪は、プラス端子を繋いだ。それから、マイナス端子。
「よし」
零は言った。
「準備完了だ」
零は、運転席に座った。そして、キーを差し込んだ。
「かけるぞ」
零は言った。
凪は、エンジンルームの前に立った。息を呑む。心臓が、早く打っている。
零が、キーを回した。セルモーターが回る。
「キュルキュルキュル……」
エンジンが、回り始める。一度、二度、三度。
そして。
「ブォン!」
エンジンがかかった。アイドリング。低く、重く、滑らかな音。
「ゴロゴロゴロ……」
凪は、目を見開いた。エンジンが動いている。クロの新しい心臓が、動いている。
零が、アクセルを軽く踏んだ。
「ブォォォン!」
回転数が上がる。エンジンが、力強く唸る。
零が、アクセルを戻した。エンジンが、アイドリングに戻る。
「ゴロゴロゴロ……」
零が、運転席から降りた。そして、エンジンルームを覗き込んだ。配線、ホース、全部確認する。
「オイル漏れなし。冷却水漏れなし。異音なし」
零は言った。
「完璧だ」
凪は、エンジンを見つめた。動いている。クロが、また動いている。凪の目に、涙が滲んだ。
「……よかった」
凪は呟いた。
零は、凪を見た。
「泣くな」
零は言った。
「まだ、走ってねえ」
凪は、涙を拭った。
「……わかってる」
零は、エンジンを止めた。静寂が、戻ってくる。
「明日、試運転だ」
零は言った。
「エンジンの慣らし運転。ゆっくり走って、エンジンを馴染ませる」
凪は、頷いた。
「……ああ」
零は、ボンネットを閉めた。
「今日は、これで終わりだ」
零は言った。
「帰れ」
凪は、シルビアを見つめた。ボンネットが閉じられたシルビア。また、走れる。また、レースに出られる。
「……ありがとな、零」
凪は言った。
零は、少し驚いたような顔をした。
「……礼なんていらねえ」
零は言った。
「お前が、ちゃんと走れるようになる。それでいい」
凪は、頷いた。
「……ああ。それと、橘さんにも、ちゃんと結果で返す」
零は、小さく笑った。
「そうしろ」
凪は、工房を出た。夜風が、冷たい。凪は、空を見上げた。星が見える。小さな、光る点。
凪は、歩き出した。だが、足取りは軽かった。心の中に、何かが満ちている。喜び。期待。そして、責任。
橘が、応援してくれている。結衣が、応援してくれている。零が、教えてくれている。
その期待に、応えないといけない。
凪は、拳を握りしめた。明日、クロが走る。明日、また始まる。
凪は、そう思った。夜の街を、一人で歩いていく。足音だけが、静かに響いていた。




