第15話 繋がる想い
エンジンの分解作業は、1週間続いた。
毎日、凪は零の工房に通った。朝から夕方まで、ずっとエンジンと向き合う。オイルポンプ、ウォーターポンプ、タイミングベルト、カムシャフト。全部、分解して、確認して、清掃して、また組み上げる。
零は、一つ一つ丁寧に教えてくれた。どの部品が、どういう役割を果たすのか。どうやって、エンジンが動いているのか。全部、実際に見て、触って、理解していく。
凪の手は、オイルとグリスで真っ黒になった。爪の中も、黒い。だが、気にならなかった。むしろ、誇らしかった。この手で、エンジンを触っている。クロの心臓を、自分の手で組み上げている。
そして、8日目。
「よし」
零は言った。
「エンジン、ほぼ完成だ」
凪は、顔を上げた。作業台の上には、組み上がったSR20DETが置かれている。ピカピカに磨かれたエンジンブロック。新品のガスケット。交換したオイルシール。全部、完璧だ。
「……すげえ」
凪は呟いた。
零は、エンジンを見つめた。
「あとは、細かい配線とホースを繋げば終わりだ」
零は言った。
「明日には、シルビアに載せられる」
凪は、エンジンに手を置いた。冷たい金属。だが、もうすぐ、これが熱を持つ。爆発を繰り返し、クロを走らせる。
「……楽しみだ」
凪は呟いた。
零は、小さく笑った。
「そうだろうな」
その時、工房の外から声が聞こえた。
「零さーん! いますかー!」
明るい声。凪は、顔を上げた。零も、眉を寄せた。
「……誰だ?」
零は、工房の入口へ向かった。凪も、後を追う。シャッターの外に、人影が見えた。
「零さん!」
橘だ。橘修一。千葉の車屋。零の昔のファン。
零は、シャッターを開けた。橘が、笑顔で立っている。そして、その隣には、女性と小さな女の子がいた。
「来ちゃいました!」
橘は、嬉しそうに言った。
「妻と娘を連れてきたんです」
女性が、一歩前に出た。30代くらいの女性。柔らかい雰囲気。笑顔が、優しい。
「初めまして。橘の妻、美咲です」
女性は、丁寧にお辞儀をした。
「主人が、いつもお世話になってます」
零は、少し戸惑ったように頷いた。
「……いや、こちらこそ」
そして、小さな女の子が、零の前に飛び出してきた。小学生くらい。ツインテール。目が、キラキラと輝いている。
「零さん! 本物の零さん!」
女の子は、興奮した声で言った。
「白影! かっこいい!」
零は、固まった。凪は、思わず笑いそうになった。零の、困った顔。珍しい。
「え、えっと……」
零は、言葉に詰まった。
橘が、娘の肩に手を置いた。
「こら、結衣。失礼だぞ」
「だって!」
結衣は、目を輝かせたまま言った。
「パパが、ずっと零さんの話してたもん! 白影って、伝説のドライバーだって!」
結衣は、零を見上げた。
「零さん、また走らないの?」
零は、黙った。どう答えていいか、わからない。橘が、助け舟を出した。
「結衣、零さんは今、星野選手を教えてるんだ」
橘は言った。
「だから、走らないんだよ」
結衣は、凪を見た。
「星野選手?」
凪は、少し照れくさそうに頷いた。
「……ああ」
結衣は、凪をじっと見つめた。そして、言った。
「お姉ちゃん、かっこいい!」
凪は、目を見開いた。
「……は?」
「だって、レース見たもん!」
結衣は言った。
「シルビアで、GT-Rを抜いたところ! すっごいかっこよかった!」
結衣は、興奮して飛び跳ねた。
「私も、大きくなったら、レーサーになりたい!」
橘の妻、美咲が、苦笑いした。
「結衣、落ち着きなさい」
「だって、本物だよ! 零さんと、星野選手!」
結衣は、目を輝かせている。
橘が、零に向き直った。
「すみません、娘が、ずっと会いたがってたもので」
橘は言った。
「それで、今日、工房に遊びに来てもいいかと思って」
零は、頷いた。
「……ああ、構わねえ」
橘は、笑顔になった。
「ありがとうございます!」
橘は、車の方を指差した。橘の車、ワゴン車が停まっている。
「あと、持ってきたものがあるんです」
橘は、車のトランクを開けた。中には、段ボール箱がいくつか入っている。
「部品です」
橘は言った。
「エンジンマウント、新品のオイルフィルター、エアフィルター、スパークプラグ、全部持ってきました」
零は、箱を見た。
「……買ったのか?」
「スポンサーですから!」
橘は、胸を張って言った。
「これくらい、当然です!」
零は、黙った。そして、小さく頭を下げた。
「……ありがとう」
橘は、嬉しそうに笑った。
「いえいえ!」
橘の妻、美咲が、別の箱を持ってきた。
「あの、お昼ご飯、作ってきたんです」
美咲は言った。
「もし、よければ、一緒に食べませんか?」
零は、少し驚いた顔をした。
「……いや、気を使わなくても」
「気を使ってなんかいません」
美咲は、笑顔で言った。
「主人が、零さんと星野選手に、どうしてもお礼がしたいって言うもので」
凪は、零を見た。零は、少し困ったような顔をしている。だが、断る理由もない。
「……わかった」
零は言った。
「ありがたく、いただく」
橘は、拳を握った。
「やった!」
橘と零と凪で、段ボール箱を工房に運んだ。美咲と結衣も、工房の中に入ってくる。
結衣は、工房の中を見回した。
「うわあ、すごい!」
結衣は、目を輝かせた。
「車がいっぱい!」
結衣は、シルビアに駆け寄った。ボンネットが開いたまま、エンジンルームが空っぽのシルビア。
「これが、星野選手の車?」
結衣は聞いた。
凪は、頷いた。
「……ああ。クロって呼んでる」
「クロ!」
結衣は、シルビアを撫でた。
「かっこいい!」
美咲が、笑いながら言った。
「結衣、触りすぎないの」
「はーい」
結衣は、シルビアから離れた。だが、まだ目は輝いている。
橘が、工房の隅にブルーシートを敷いた。
「ここで食べましょう」
橘は言った。
美咲が、弁当箱を並べ始めた。大きな弁当箱。おにぎり、唐揚げ、卵焼き、サラダ。全部、手作りだ。
「すごい量だな」
凪は呟いた。
「たくさん食べてください」
美咲は、笑顔で言った。
「育ち盛りでしょう?」
凪は、少し照れくさそうに頷いた。
「……ありがとうございます」
五人で、ブルーシートの上に座った。橘が、ペットボトルのお茶を配る。
「じゃあ、いただきます!」
橘は言った。
「いただきます!」
結衣も、元気に言った。
凪と零も、小さく言った。
「……いただきます」
凪は、おにぎりを手に取った。大きなおにぎり。具は、鮭だ。一口噛む。米が、ふっくらしている。塩加減も、ちょうどいい。
「……うまい」
凪は呟いた。
美咲は、嬉しそうに笑った。
「よかった」
橘が、唐揚げを頬張りながら言った。
「零さん、エンジンの調子はどうですか?」
零は、お茶を飲んでから答えた。
「いい。問題ねえ」
零は言った。
「あと1日で、シルビアに載せられる」
橘は、目を輝かせた。
「本当ですか!」
「ああ」
零は頷いた。
「お前が持ってきてくれた部品も使わせてもらう」
橘は、嬉しそうに笑った。
「光栄です!」
結衣が、凪の方を向いた。
「ねえ、お姉ちゃん」
結衣は言った。
「次、いつレース走るの?」
凪は、少し考えてから答えた。
「……来年だな」
凪は言った。
「エンジンが直ったら、練習して、来年のレースに出る」
結衣は、頷いた。
「私、絶対見に行く!」
結衣は言った。
「パパと一緒に!」
橘が、笑った。
「そうだな。一緒に見に行こう」
美咲が、零を見た。
「零さん、昔のレース、どんな感じだったんですか?」
美咲は聞いた。
零は、少し黙った。そして、口を開いた。
「……覚えてねえ」
零は言った。
「昔のことは、もういい」
橘が、少し残念そうな顔をした。
「そうですか……」
だが、すぐに笑顔に戻った。
「でも、零さんが誰かを育ててる。それだけで、嬉しいです」
橘は言った。
「零さんの教えを受けてる星野選手、きっと強くなりますよ」
凪は、橘を見た。橘の目は、真剣だ。本気で、そう思っている。
「……ああ」
凪は言った。
「絶対、強くなる」
結衣が、飛び上がった。
「やったー!」
結衣は言った。
「お姉ちゃん、頑張って!」
凪は、小さく笑った。
「……ああ」
昼食が終わった後、橘が大きな封筒を取り出した。
「そうだ、これ、持ってきました」
橘は、封筒を開けた。中には、紙が入っている。
「スポンサーステッカーのデザイン案です」
橘は言った。
「前に言ってた、娘と一緒に考えたやつです」
橘が、紙を広げた。そこには、いくつかのデザインが描かれている。
『Auto Works 橘』というロゴ。シンプルなもの、カラフルなもの、レーシングカー風のもの。どれも、丁寧に描かれている。
「結衣が、色を塗ってくれました」
橘は言った。
結衣が、嬉しそうに言った。
「私、青が好きだから、青にしたの!」
デザインの一つは、青と白のツートン。シンプルだが、目を引く。
凪は、デザインを見つめた。
「……いいな、これ」
凪は、青と白のデザインを指差した。
「これ、気に入った」
結衣は、目を輝かせた。
「本当!?」
「ああ」
凪は頷いた。
「クロに似合いそうだ」
橘は、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、これで決まりですね!」
橘は言った。
「ステッカー、作ります。完成したら、また持ってきます!」
零が、デザインを見た。
「……悪くねえ」
零は言った。
「いい色だ」
結衣は、飛び跳ねた。
「やったー!」
橘の家族は、それから1時間ほど工房にいた。結衣は、ずっとシルビアの周りをうろうろしていた。凪に、レースのこと、車のこと、いろいろ聞いていた。凪は、少し照れくさそうに答えていた。
美咲は、零と話していた。零の昔のこと、橘のこと、家族のこと。零は、あまり話さなかったが、それでも、ちゃんと聞いていた。
やがて、橘が時計を見た。
「そろそろ、帰らないと」
橘は言った。
「結衣、夕飯の準備もあるし」
結衣は、残念そうな顔をした。
「もっといたい……」
「また来ればいいでしょ」
美咲は、優しく言った。
「零さんと星野選手、迷惑じゃなければ」
零は、頷いた。
「……ああ、また来い」
結衣は、笑顔になった。
「やった!」
橘の家族は、車に乗り込んだ。結衣が、窓から手を振っている。
「零さん! 星野選手! ありがとうございました!」
橘が、運転席から言った。
「また来ます!」
凪と零は、手を振った。車が、ゆっくりと廃車置き場を離れていく。凪は、車が見えなくなるまで、手を振り続けた。
静寂が、戻ってきた。
零は、工房に戻った。凪も、後を追う。
「……いい家族だな」
凪は呟いた。
零は、頷いた。
「……ああ」
零は言った。
「いい家族だ」
零は、エンジンに手を置いた。
「明日、これをシルビアに載せる」
零は言った。
「お前も手伝え」
凪は、頷いた。
「……ああ」
凪は、エンジンを見つめた。橘が持ってきてくれた部品。橘の家族が応援してくれている。零が教えてくれている。クロが待っている。
凪の胸に、何かが込み上げてきた。温かいもの。力強いもの。
凪は、拳を握りしめた。
絶対に、強くなる。
絶対に、みんなの期待に応える。
凪は、そう心に誓った。




