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第14話 エンジンの声を聞く


工房に戻ったのは、夕方だった。


太陽が、西に傾き始めている。オレンジ色の光が、廃車置き場を照らしている。零は、Zを工房の前に停めた。エンジンを切る。静寂が、戻ってくる。


「降りろ」


零は言った。


凪は、車を降りた。荷台には、SR20DETが載っている。ロープで固定されたエンジンが、夕日を浴びて黒く光っている。


「エンジン、降ろすぞ」


零は言った。


「手伝え」


凪は頷いた。二人で、ロープを解く。そして、エンジンを持ち上げる。重い。凪の腕が、悲鳴を上げる。


「もうちょい……!」


零が言った。


「そこだ!」


エンジンが、工房の作業台に降りた。鈍い音。金属と金属がぶつかる音。凪は、息を整えた。腕が、痛い。


零は、エンジンを見つめた。しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。


「……バラすぞ」


凪は、顔を上げた。


「……は?」


「エンジンをバラす」


零は言った。


「全部、分解する」


凪は、眉を寄せた。


「なんで? せっかく手に入れたのに」


零は、エンジンに手を置いた。


「中古エンジンってのは、そのまま載せるもんじゃねえ」


零は言った。


「前のオーナーが、どんな使い方してたかわからねえ。丁寧に扱ってたかもしれねえし、雑に扱ってたかもしれねえ」


零は、エンジンブロックを指でなぞった。


「だから、バラす。中を見て、全部確認する。壊れてる部品があれば交換する。そうしないと、信用できねえ」


凪は、エンジンを見つめた。


「……お前も手伝え」


零は言った。


「エンジンの仕組み、座学で学んだだろ? 実際に見て、触って、覚えろ」


凪は、頷いた。


「……わかった」


零は、工具箱を引っ張り出した。レンチ、ソケット、ドライバー、トルクレンチ。全部、使い込まれた工具だ。


「まず、外側から外していく」


零は言った。


「吸気系、排気系、点火系、全部だ」


零は、レンチを手に取った。そして、エンジンに近づいた。


「見てろ」


零は言った。


零が、ボルトを緩め始めた。「カチャカチャ」という音が、工房に響く。一つ、また一つ。零の手は、迷いがない。どのボルトを、どの順番で外すか、全部わかっている。


「これが、インテークマニホールドだ」


零は言った。


「エンジンに空気を送る部品。これを外さないと、エンジン内部が見えねえ」


零は、マニホールドを外した。金属の部品が、作業台に置かれる。


「次は、エキゾーストマニホールド。排気を出す部品だ」


零は、次々と部品を外していく。タービン、オイルライン、冷却水のホース。全部、丁寧に外していく。


凪は、じっと見つめていた。零の手つきは、まるで外科医のようだ。一つ一つの動きに、無駄がない。


「お前もやれ」


零は言った。


「ここのボルト、外せ」


零は、シリンダーヘッドのボルトを指差した。凪は、レンチを手に取った。そして、ボルトに当てる。


「回せ」


零は言った。


凪は、レンチを回した。だが、ビクともしない。


「……硬い」


凪は呟いた。


「当たり前だ」


零は言った。


「何年も締まってたボルトだ。硬くて当然」


零は、凪の手に自分の手を重ねた。


「こうやって、体重をかけろ」


零が、レンチを押す。凪も、力を込める。ボルトが、少しだけ動いた。


「もっとだ」


零は言った。


二人で、レンチを押す。ボルトが、ゆっくりと回り始めた。「ギギギ……」という音。そして、緩んだ。


「……動いた」


凪は呟いた。


「そうだ」


零は言った。


「最初が一番硬い。あとは、簡単だ」


凪は、ボルトを外し続けた。一つ、また一つ。手のひらに、レンチの感触が残る。指が、痛い。だが、止まらなかった。


「いいぞ」


零は言った。


「その調子だ」


凪は、ボルトを全部外した。零は、シリンダーヘッドを持ち上げた。重い金属の塊。それを、作業台に置く。


「これが、シリンダーヘッドだ」


零は言った。


「この中に、バルブがある。吸気バルブと排気バルブ。エンジンの呼吸を司る部品だ」


零は、シリンダーヘッドを指差した。中には、小さなバルブが並んでいる。


「このバルブが、開いたり閉じたりして、空気を吸って、排気を出す。それを、1分間に何千回も繰り返してる」


凪は、バルブを見つめた。小さな金属の部品。だが、これがなければ、エンジンは動かない。


「触ってみろ」


零は言った。


凪は、バルブに触れた。冷たい。だが、滑らかだ。


「このバルブ、見ろ」


零は、一つのバルブを指差した。


「ここ、カーボンが溜まってる」


凪は、目を凝らした。確かに、バルブの先端に、黒い汚れが付いている。


「これは、燃焼カスだ」


零は言った。


「燃料が完全に燃えなかった時に、こういうカスが残る。これが溜まると、バルブが閉じなくなる」


零は、ウェスを取り出した。そして、バルブを拭き始めた。


「こうやって、綺麗にする」


黒い汚れが、ウェスに移っていく。バルブが、少しずつ輝きを取り戻す。


「お前もやれ」


零は言った。


「全部のバルブ、綺麗にしろ」


凪は、ウェスを受け取った。そして、バルブを拭き始めた。一つ、また一つ。丁寧に、汚れを落としていく。時間が、ゆっくりと流れていく。窓から差し込む光が、夕方の光から、夜の光に変わっていく。


凪は、ずっとバルブを拭いていた。指が、真っ黒になった。ウェスも、真っ黒だ。だが、バルブは、綺麗になった。


「……終わった」


凪は言った。


零は、バルブを見た。そして、頷いた。


「いいぞ」


零は言った。


「次は、ピストンだ」


零は、エンジンブロックを指差した。


「ピストンってのは、エンジンの心臓だ」


零は言った。


「これが、上下に動いて、爆発の力をクランクシャフトに伝える」


零は、ピストンを一つ取り出した。金属の円柱。表面は、滑らかだ。


「これ、見ろ」


零は、ピストンの側面を指差した。


「ここに、傷がある」


凪は、目を凝らした。確かに、薄い線が入っている。


「これは、スラスト傷だ」


零は言った。


「ピストンが、シリンダーの壁に当たった時にできる傷。深くなければ問題ねえが、深いと交換が必要だ」


零は、ピストンを光に当てた。傷を、じっくりと見る。


「……これは、浅い。大丈夫だ」


零は言った。


「だが、念のため、全部確認する」


零は、残りのピストンを取り出した。一つ、また一つ。全部で4つ。全部、光に当てて、傷を確認する。


「これも大丈夫。これも。これも」


零は、ピストンを並べた。


「全部、問題ねえ。いいエンジンだ」


零は、満足そうに言った。


凪は、ピストンを見つめた。小さな傷。それを見つけるために、零はこんなに時間をかける。


「……なんで、そんなに丁寧にやるんだ?」


凪は聞いた。


零は、凪を見た。


「エンジンってのは、信頼できないと意味ねえ」


零は言った。


「レース中、エンジンが壊れたらどうする? コースで止まるか? クラッシュするか?」


凪は、黙った。


「だから、完璧にする」


零は言った。


「エンジンの隅々まで確認して、壊れる要素を全部潰す。そうすれば、レース中、エンジンを信頼できる」


零は、ピストンを手に取った。


「お前が、全力で走れるように。エンジンが、お前を支えてくれるように。だから、丁寧にやる」


凪は、零を見つめた。零の目は、真剣だ。いつもの、死んだような目じゃない。今、零の目には、何かが宿っている。


「……わかった」


凪は言った。


零は、頷いた。


「次は、クランクシャフトだ」


零は言った。


「これが、エンジンの背骨だ」


零は、クランクシャフトを取り出した。長い金属の棒。複雑な形をしている。


「これが、ピストンの上下運動を、回転運動に変える」


零は言った。


「この回転が、タイヤに伝わって、車が動く」


零は、クランクシャフトを回した。「カラカラカラ」という音。滑らかに回る。


「音を聞け」


零は言った。


「滑らかな音だろ? これが、正常なクランクシャフトの音だ」


凪は、耳を澄ました。確かに、滑らかな音だ。引っかかりがない。


「もし、ベアリングが壊れてたら、音が違う」


零は言った。


「『ガリガリ』とか、『ゴロゴロ』とか、そういう音がする」


零は、クランクシャフトを凪に渡した。


「回してみろ」


凪は、クランクシャフトを受け取った。重い。凪は、それを回した。「カラカラカラ」という音。滑らかだ。


「……いい音だ」


凪は呟いた。


零は、頷いた。


「そうだ。いい音だ」


零は言った。


「このエンジン、前のオーナーが大事にしてたんだろうな」


零は、エンジンブロックを見つめた。


「だが、それでもバラす。確認する。それが、エンジンを信頼するってことだ」


凪は、クランクシャフトを見つめた。重い金属の棒。だが、これが、エンジンの背骨。これがなければ、エンジンは動かない。


「……すげえな」


凪は呟いた。


「エンジンって、こんなに複雑なのか」


零は、小さく笑った。


「これでも、シンプルな方だ」


零は言った。


「最新のエンジンは、もっと複雑だ。可変バルブタイミング、直噴、ターボ、全部詰め込まれてる」


零は、エンジンブロックを撫でた。


「だが、基本は同じだ。ピストン、クランクシャフト、バルブ。これが、エンジンの核だ」


凪は、頷いた。


「……わかった」


零は、時計を見た。


「今日は、ここまでだ」


零は言った。


「明日、続きをやる。オイルポンプ、ウォーターポンプ、タイミングベルト、全部確認する」


凪は、頷いた。


「……ああ」


零は、工具を片付け始めた。凪も、手伝う。レンチ、ソケット、ドライバー。全部、工具箱に戻していく。


「お前、今日、いい顔してたぞ」


零は言った。


凪は、顔を上げた。


「……は?」


「エンジンをバラしてる時」


零は言った。


「お前、楽しそうだった」


凪は、黙った。楽しかった? 凪は、考えた。確かに、楽しかった。バルブを拭いてる時、ピストンを見てる時、クランクシャフトを回してる時。全部、楽しかった。


「……そうかもな」


凪は呟いた。


零は、小さく笑った。


「そうだろ」


零は言った。


「車ってのは、知れば知るほど、面白くなる」


零は、エンジンに手を置いた。


「お前、車のこと、もっと知りたいだろ?」


凪は、頷いた。


「……ああ」


零は、満足そうに頷いた。


「なら、明日も来い」


零は言った。


「毎日、続けろ。そうすれば、いつか、車と対話できるようになる」


凪は、頷いた。


「……わかった」


凪は、工房を出た。夜風が、冷たい。凪は、空を見上げた。星が見える。小さな、光る点。


凪は、歩き出した。だが、今日は、足取りが軽かった。心の中に、何かが芽生えている。それが何なのか、凪にはまだわからない。だが、確かに、そこにあった。


凪は、廃車置き場を抜け、街へ向かった。足音だけが、静かに響いていた。


工房に残った零は、エンジンを見つめていた。バラバラになったエンジン。だが、明日には、また組み上がる。そして、クロの中に載る。


零は、小さく笑った。


「……いい弟子だな」


零は呟いた。


そして、工房の電灯を消した。


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