第13話 過去からの声
座学が始まって、1週間が過ぎた。
凪は、毎日零の工房に通った。朝10時に来て、夜8時まで、ずっとノートを読み続ける。エンジンの仕組み、サスペンションの構造、ブレーキの原理、タイヤのグリップメカニズム。全部、一つずつ学んでいく。
零は、凪に教えながら、エンジンを探していた。中古のSR20DET。シルビアS15に載せられるエンジン。だが、見つからなかった。
「ダメだ」
ある日、零は凪にそう告げた。
「SR20DET、どこにもねえ」
凪は、ノートから顔を上げた。
「……どこにも?」
「ああ」
零は、椅子に座り、ため息をついた。
「ツテを当たった。昔の仲間、部品屋、解体屋、全部だ」
零は、スマホを見せた。画面には、メッセージのやり取りが表示されている。全部、『在庫なし』『入荷未定』という返事だ。
「SR20DETは、もう20年前のエンジンだ。生産終了してるし、中古も少ない。あっても、状態が悪いか、値段が高いか」
凪は、唇を噛んだ。
「……じゃあ、どうすんだよ」
零は、黙った。答えが、ない。凪は、拳を握りしめた。クロは、工房の隅で、ボンネットを開けたまま眠っている。エンジンルームは、空っぽだ。心臓が、ない。
「……くそ」
凪は呟いた。
零は、何も言わなかった。ただ、スマホを見つめている。その時、零のスマホが鳴った。着信音。古い、シンプルな着信音。
零は、眉を寄せた。
「……誰だ?」
零は、画面を見た。そして、目を見開いた。
「……嘘だろ」
零は呟いた。
凪は、零を見た。
「どうした?」
零は、しばらく画面を見つめていた。そして、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
零は言った。
スピーカーから、男の声が聞こえてくる。明るく、弾んだ声。
『零さん! 零さんですよね!? 神崎零さん!』
零は、黙った。
『やっぱり! 間違いない! 零さんだ!』
男の声は、興奮している。
『俺、信じられなくて! だって、レースの配信見てたら、ピットに零さんが映ってたんですよ!』
零は、眉を寄せた。
「……レースの配信?」
『そうです! 先週の公式ストリート・サーキット! 星野凪選手のピット、零さんがいたじゃないですか!』
零は、凪を見た。凪は、首を傾げた。
『最初、見間違いかと思ったんです。だって、零さん、もう20年もレースから離れてるって聞いてたし。でも、何度も巻き戻して見ました。間違いない。あの顔、あの雰囲気、絶対に零さんです!』
零は、ため息をついた。
「……で、何の用だ?」
『用? いやいや、用なんてないですよ!』
男は笑った。
『ただ、零さんがまたレースの世界に戻ってきたのかと思って! 嬉しくて、電話しちゃいました!』
零は、黙った。
『俺、昔、零さんのファンだったんです。20年前、零さんがAAAランクで走ってた頃。俺、まだ高校生でした。零さんのレース、全部見てました』
零は、目を閉じた。
『白影。かっこよかったなあ。あの走り、今でも覚えてます』
男は、懐かしそうに言った。
『零さんに憧れて、俺も車屋になったんです。今、小さい店やってます』
零は、目を開けた。
「……車屋?」
『そうです! エンジンから足回りまで、なんでもやってます。零細ですけどね』
男は笑った。
零は、しばらく黙っていた。そして、口を開いた。
「……なあ」
零は言った。
「SR20DET、ある?」
男の声が、止まった。
『……SR20DET?』
「ああ。シルビアS15に載せられるやつ。中古でいい。状態が良ければ」
男は、しばらく黙っていた。そして、言った。
『……あります』
零は、目を見開いた。
「……本当か?」
『本当です。つい最近、入ってきたんです。シルビアS15のSR20DET。走行距離8万キロ。状態は、まあまあです』
零は、椅子から立ち上がった。
「いくらだ?」
『30万です。でも、零さんになら、25万でいいですよ』
零は、黙った。25万。安くはない。だが、他に選択肢はない。
「……買う」
零は言った。
『本当ですか!? ありがとうございます! じゃあ、いつ取りに来ますか?』
「今週中に行く。店、どこだ?」
『千葉です。市川市。店の名前は、『Auto Works 橘』です』
零は、メモを取った。
「わかった。また連絡する」
『はい! 待ってます! それと、零さん』
「何だ?」
『もし、よかったら……』
男は、少し躊躇ってから言った。
『俺、零さんと星野選手のスポンサーになりたいんです』
零は、眉を寄せた。
「……スポンサー?」
『はい。大したことはできないですけど、部品代とか、工賃とか、少しでも協力したいんです』
男は、続けた。
『零さんが、また誰かを育ててる。それがわかって、嬉しかったんです。だから、応援したい』
零は、黙った。凪は、零を見つめた。零は、しばらく考えてから、答えた。
「……わかった。ありがたく、受け取る」
『本当ですか!? ありがとうございます! じゃあ、また連絡します!』
「ああ」
零は言った。
通話が、切れた。工房に、静寂が戻った。凪は、零を見た。
「……誰だよ、あいつ」
零は、スマホを置いた。
「橘ってやつだ。昔の、ファンらしい」
凪は、眉を寄せた。
「ファン?」
「ああ。20年前、俺がAAAで走ってた頃の」
凪は、零を見つめた。零は、どこか遠くを見ている。
「……レースの配信に映ってたのか。気づかなかった」
零は呟いた。
凪は、思い出した。レースの日、ピットで零がシルビアを見ていた。その時、カメラが回っていた。配信用のカメラだ。零も、映っていたのかもしれない。
「……まあ、いいか」
零は言った。
「エンジンが見つかった。それでいい」
凪は、頷いた。
「……25万、払えるのか?」
零は、凪を見た。
「俺が払う。お前は、気にすんな」
凪は、唇を噛んだ。
「……でも」
「でも、じゃねえ。お前は、車の勉強しろ。それが、今のお前の仕事だ」
凪は、何も言えなかった。零は、立ち上がった。
「明後日、千葉に行く。エンジン、取りに行くぞ」
凪は、頷いた。
「……ああ」
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二日後、凪と零は千葉へ向かった。
零のフェアレディZで、首都高を抜け、湾岸線を走る。朝の9時。交通量は少なく、道は空いている。
「ゴォォォ……」
Zのエンジンが、低く唸る。V6エンジン特有の、重厚な音。凪は、助手席で窓の外を見ていた。海が見える。青い海。白い波。カモメが、空を飛んでいる。
凪は、海を見つめた。
「……海、久しぶりだな」
凪は呟いた。
零は、前を見たまま答えた。
「そうか」
凪は、窓を開けた。潮の匂いが、車内に流れ込んでくる。冷たい風が、髪を撫でる。凪は、目を閉じた。風の音。エンジンの音。波の音。全部が混ざり合って、耳に届く。
「……なあ」
凪は、口を開いた。
「……何だ」
零は答えた。
「橘ってやつ、なんでお前のファンだったんだ? お前、昔、すげえ有名だったのか?」
零は、少しだけ、口角を上げた。
「……さあな。覚えてねえ」
凪は、零を見た。零の横顔は、相変わらず無表情だ。だが、目が、少しだけ柔らかくなっている気がした。
Zは、湾岸線を走り続けた。やがて、市川市に入る。零は、カーナビに従って、住宅街を抜けていく。
「……着いたぞ」
零は言った。
凪は、前を見た。小さな店が見えた。シャッターが開いていて、中に車が見える。看板には、『Auto Works 橘』と書かれている。
零は、Zを店の前に停めた。エンジンを切る。静寂。二人は、車を降りた。店の中から、男が出てきた。30代後半くらいの男。短い髪、日焼けした肌、作業着を着ている。顔には、笑顔が浮かんでいる。
「零さん!」
男は、駆け寄ってきた。
「来てくれたんですね!」
零は、頷いた。
「ああ」
男は、零の手を握った。
「会えて、嬉しいです! 本当に!」
零は、少し困ったように、男の手を握り返した。
「……ああ」
男は、凪を見た。
「こちらが、星野凪選手?」
凪は、頷いた。
「……ああ」
男は、凪に手を差し出した。
「橘修一です。よろしく!」
凪は、手を握った。
「……星野凪」
橘は、笑顔のまま言った。
「先週のレース、見ましたよ! 4位入賞、おめでとうございます!」
凪は、少し照れくさそうに答えた。
「……ありがとう」
橘は、店の中を指差した。
「さあ、エンジン、見てください!」
三人は、店の中に入った。店内には、車が数台置かれている。リフトで持ち上げられた車、バラバラに分解された車、修理中の車。全部、古い車だ。
橘は、奥へ案内した。
「ここです」
橘が指差したのは、作業台の上に置かれたエンジンだった。SR20DET。黒く塗装されたエンジンブロック。ターボチャージャーが取り付けられている。配線、ホース、マニホールド、全部揃っている。
零は、エンジンに近づいた。そして、じっと見つめた。零は、手を伸ばし、エンジンブロックを触った。指で、表面をなぞる。
「……状態は?」
零は聞いた。
「悪くないです。圧縮測定済み。どの気筒も正常です。オイル漏れなし。タービンも問題なし」
橘は答えた。
「走行距離は?」
「8万キロです。前のオーナーが、丁寧に扱ってたみたいです」
零は、エンジンを見つめ続けた。しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……これ、もらう」
橘は、笑顔になった。
「ありがとうございます!」
零は、財布を取り出した。
「25万、現金でいいか?」
「もちろんです!」
橘は言った。
零は、財布から札束を取り出した。そして、橘に渡した。橘は、札束を受け取った。
「ありがとうございます!」
橘は、レジに向かった。そして、領収書を書き始めた。凪は、エンジンを見つめた。SR20DET。これが、クロの新しい心臓。凪は、手を伸ばし、エンジンブロックを触った。冷たい金属。だが、触れていると、何か温かいものを感じる気がした。
「……よろしくな」
凪は、小さく呟いた。
橘が、戻ってきた。
「領収書です」
橘は、零に領収書を渡した。零は、受け取った。
「ありがとう」
橘は、笑顔で言った。
「こちらこそ、ありがとうございます! それと、零さん」
「何だ?」
「さっき言ったスポンサーの件、本気です。これから、部品が必要になったら、言ってください。できる限り、協力します」
橘は言った。
零は、橘を見た。
「……なんで、そこまでしてくれる?」
橘は、少し照れくさそうに笑った。
「零さんに、憧れてたからです。高校生の時、零さんの走りを見て、俺も車に関わる仕事がしたいと思ったんです」
橘は、店内を見回した。
「だから、こうして店を開いた。零さんのおかげです」
零は、黙った。橘は、続けた。
「だから、零さんが誰かを育ててるって知って、嬉しかったんです。応援したい。それだけです」
零は、しばらく橘を見つめていた。そして、小さく頷いた。
「……ありがとう」
零は言った。
橘は、笑顔になった。
「こちらこそ! あ、そうだ」
橘は、ポケットから何かを取り出した。スマホだ。画面には、デザインソフトが開かれている。
「スポンサーステッカー、作ろうと思ってるんです。車に貼るやつ」
橘は、画面を二人に見せた。そこには、『Auto Works 橘』という文字が、いくつかのデザインパターンで表示されている。
「どんなデザインがいいですかね? 一緒に考えません?」
橘は、嬉しそうに言った。
凪は、画面を見た。シンプルなロゴ、カラフルなロゴ、レーシングカー風のロゴ。どれも、橘が一生懸命考えたんだろうと思える、温かみのあるデザインだ。
「……俺、そういうの、わかんねえ」
凪は言った。
「大丈夫ですよ! 一緒に考えましょう!」
橘は笑った。
「次、工房に遊びに行った時、ゆっくり決めましょう。うちの娘も、デザイン好きなんで、一緒に考えてもらおうかな」
「娘?」
凪は聞いた。
「ええ、小学3年生です。車、大好きなんですよ」
橘は、嬉しそうに言った。
「妻と娘と三人暮らしです。娘が、零さんのファンになっちゃって。配信見てから、ずっと『白影ってかっこいい!』って」
橘は笑った。零は、少しだけ、表情を緩めた。
「……そうか」
零は言った。
橘は、時計を見た。
「そろそろ、娘が学校から帰ってくる時間だ。よかったら、会っていきます?」
零は、首を横に振った。
「いや、また今度だ。エンジン、持って帰らないと」
「そうですよね」
橘は頷いた。
「じゃあ、また工房に遊びに行きます! その時、ステッカーのデザイン、一緒に決めましょう!」
零は、頷いた。
「……ああ」
三人で、エンジンをZの荷台に積んだ。重い。三人がかりで、ようやく持ち上げた。
「よいしょ……!」
エンジンが、荷台に載った。ロープで固定する。橘は、手を振った。
「気をつけて! また連絡します!」
零は、頷いた。
「ああ」
凪も、手を振った。
「……ありがとう」
橘は、笑顔で答えた。
「こちらこそ! 頑張ってください!」
ZがエンジンをかけてゆっくりとAuto Works 橘を離れた。凪は、サイドミラーで橘を見た。橘は、まだ手を振っている。凪は、小さく手を振り返した。
Zは、市川の街を抜けていく。
「……いいやつだな」
凪は呟いた。
零は、前を見たまま答えた。
「……ああ。いいやつだ」
Zは、湾岸線に戻った。海が見える。太陽が、海を照らしている。凪は、窓の外を見つめた。エンジンが、手に入った。クロが、また走れる。凪の胸に、何かが込み上げてきた。嬉しさ。期待。そして、少しだけ、プレッシャー。
橘が、応援してくれる。零が、教えてくれる。クロが、待っている。
凪は、拳を握りしめた。絶対に、強くなる。絶対に、Bランクに上がる。そして、いつか。凪は、空を見上げた。青い空。雲一つない空。いつか、AAAに辿り着く。凪は、そう心に誓った。
Zは、走り続けた。海沿いの道を、ゆっくりと。




