第12話 座学の日々
翌日、凪は零の工房に向かった。
朝の10時。いつもなら、まだ寝ている時間だ。だが、今日は違う。零に言われた通り、凪は工房へ来た。
工房のシャッターは、開いていた。中から、金属を叩く音が聞こえる。「カンカンカン」という、規則正しいリズム。
凪は、工房の中を覗いた。
零が、作業台の前に立っていた。手には、ハンマー。目の前には、バラバラに分解されたエンジン部品。零は、部品を一つ一つ叩いて、歪みを確認している。
「……来たか」
零は、顔を上げずに言った。
「ああ」
凪は答えた。
零は、ハンマーを置いた。そして、凪の方を向いた。
「座れ」
零は言った。
「今日から、座学だ」
凪は、工房の隅にあった古い椅子を引っ張ってきて、座った。零は、作業台の上に置いてあったノートを取り出した。古いノート。表紙は擦り切れ、ページは黄ばんでいる。
「これ、見ろ」
零は、ノートを凪に渡した。
凪は、ノートを開いた。
ページには、びっしりと文字が書かれている。手書きの文字。丁寧だが、力強い。そして、図。エンジンの断面図、サスペンションの構造図、タイヤの接地面積の計算式。全部、手書きだ。
「……これ、お前が書いたのか?」
凪は聞いた。
零は、頷いた。
「ああ。昔、俺が現役だった頃のノートだ」
零は言った。
「レースで学んだこと、全部書いてある」
凪は、ノートをめくった。ページごとに、テーマが変わる。ブレーキング、コーナリング、アクセルワーク、荷重移動、タイヤマネジメント。全部、詳細に書かれている。
「……すげえ」
凪は呟いた。
零は、椅子を引っ張ってきて、凪の隣に座った。
「お前、昨日のレースで何を学んだ?」
零は聞いた。
凪は、黙った。何を学んだ? 凪は、考えた。勝つこと? 速く走ること? それとも、車を壊さないこと?
「……わかんねえ」
凪は答えた。
零は、ため息をついた。
「だろうな」
零は言った。
「お前、レースを走ってる時、何を考えてた?」
凪は、答えた。
「……勝つことだけ」
零は、頷いた。
「そうだろうな。だから、車の声が聞こえなかった」
零は、ノートを開いた。最初のページ。そこには、太い字でこう書かれていた。
『車は、生き物だ』
凪は、その文字を見つめた。
「車は、生き物だ」
零は言った。
「エンジンは心臓。オイルは血液。タイヤは足。ハンドルは神経。全部、繋がってる」
零は、ノートのページをめくった。次のページには、エンジンの断面図が描かれている。
「エンジンってのは、爆発で動いてる」
零は言った。
「ピストンが上下して、燃料を爆発させて、その力でクランクシャフトを回す。1分間に何千回も、爆発してる」
凪は、図を見つめた。
「その爆発が、音になる。『ブォォォン』って音。あれは、エンジンの心臓の音だ」
零は言った。
「心臓が速く動けば、音も高くなる。心臓が苦しければ、音が歪む」
凪は、頷いた。
「昨日のレース、お前のエンジン、どんな音してた?」
零は聞いた。
凪は、思い出した。レースの終盤。エンジンの音が、変わった。高い音が、低く、重くなった。そして、金属が軋むような音が混ざった。
「……変わった」
凪は答えた。
「高い音が、低くなった。それと、変な音が混ざった」
零は、頷いた。
「それが、エンジンの悲鳴だ」
零は言った。
「エンジンが、『もう限界だ』って叫んでた。でも、お前は聞かなかった」
凪は、唇を噛んだ。
「……ごめん」
「謝るな」
零は言った。
「謝っても、エンジンは直らねえ。大事なのは、次に同じ間違いをしないことだ」
零は、ノートの次のページを開いた。そこには、『エンジン音の種類』というタイトルが書かれていた。
「エンジン音ってのは、状態を教えてくれる」
零は言った。
「正常な音、限界の音、壊れる前の音。全部、違う」
凪は、ノートを見つめた。ページには、音の種類が箇条書きで書かれている。
```
正常: ブォォォン(滑らかで、リズムが一定)
高回転: ギュイイイイン(甲高く、鋭い)
限界: ガラガラガラ(金属が擦れる音が混ざる)
オーバーヒート: ボコボコボコ(冷却水が沸騰する音)
ノッキング: カンカンカン(異常燃焼の音)
焼き付き寸前: ギィィィィ(金属が削れる音)
```
凪は、リストを読んだ。昨日のエンジン、確かに『ガラガラガラ』と『ボコボコボコ』が混ざっていた。そして、最後には『ギィィィィ』という音がした。
「……全部、聞こえてた」
凪は呟いた。
「でも、無視した」
零は、頷いた。
「そうだ。お前、聞こえてたのに、無視した」
零は言った。
「なんで無視した?」
凪は、答えた。
「……勝ちたかったから」
零は、ため息をついた。
「勝つってのは、車を壊すことじゃねえ」
零は言った。
「勝つってのは、車と一緒にゴールすることだ」
凪は、黙った。
零は、立ち上がった。そして、工房の奥から、古いラジカセを持ってきた。カセットテープが入っている。
「聞け」
零は言った。
零が、再生ボタンを押した。スピーカーから、音が流れてくる。
「ブォォォン……」
エンジンの音だ。低く、重く、滑らかな音。まるで、獣の呼吸のような音。
「これが、正常なエンジン音だ」
零は言った。
音が、続く。凪は、目を閉じて、音に集中した。一定のリズム。途切れることなく、滑らかに続く音。
そして、音が変わった。
「ギュイイイイン……」
高い音。鋭い音。だが、まだ滑らかだ。
「高回転だ」
零は言った。
「だが、まだ正常。エンジンは、苦しんでない」
凪は、頷いた。
音が、さらに変わった。
「ガラガラガラ……」
金属が擦れる音が混ざった。凪は、眉を寄せた。
「限界だ」
零は言った。
「ここで、アクセルを緩めるか、シフトアップする。そうしないと、エンジンが壊れる」
だが、テープの中のエンジンは、止まらなかった。音が、さらに変わる。
「ボコボコボコ……」
沸騰する音。
「オーバーヒートだ」
零は言った。
「冷却水が沸騰してる。ここまで来たら、もう止めるしかねえ」
だが、テープの中のエンジンは、まだ回り続けた。そして、最後の音。
「ギィィィィ……ガシャアアアン!」
金属が削れる音。そして、何かが壊れる音。大きな、破壊的な音。
零が、停止ボタンを押した。
「これが、エンジンが壊れる音だ」
零は言った。
「昨日のお前のエンジン、最後にこの音がしてただろ?」
凪は、頷いた。確かに、聞こえた。ゴール直前、エンジンから『ギィィィィ』という音がした。そして、ゴールした瞬間、『ガシャン』という音が聞こえた。
「……聞こえてた」
凪は呟いた。
「でも、止まらなかった」
零は、ラジカセを置いた。
「止まれなかったんじゃなくて、止まらなかった」
零は言った。
「違うか?」
凪は、何も言えなかった。
零は、椅子に座り直した。
「お前、車のこと、何も知らねえ」
零は言った。
「エンジンがどうやって動いてるかも、タイヤがどうやってグリップしてるかも、ブレーキがどうやって効いてるかも、全部知らねえ」
凪は、唇を噛んだ。
「だから、車の声が聞こえても、意味がわからねえ」
零は言った。
「車が『苦しい』って叫んでても、『まだ大丈夫』だと思っちまう」
凪は、拳を握りしめた。
「……じゃあ、どうすりゃいい?」
零は、ノートを指差した。
「学べ」
零は言った。
「車の仕組みを、全部学べ。エンジン、サスペンション、ブレーキ、タイヤ、全部だ」
零は、凪の目を見た。
「そうすれば、車の声が聞こえた時、何を言ってるのかわかるようになる」
凪は、ノートを見つめた。
「……どれくらいかかる?」
「わかんねえ」
零は答えた。
「お前次第だ。早ければ1ヶ月。遅ければ半年」
凪は、頷いた。
「……わかった」
凪は言った。
「やる」
零は、小さく笑った。
「そうしろ」
零は言った。
「今日は、エンジンの仕組みだ。明日は、サスペンション。その次は、ブレーキ。毎日、一つずつ学べ」
凪は、ノートを開いた。最初のページ。エンジンの断面図。
「読め」
零は言った。
「わからないことがあったら、聞け」
凪は、頷いた。
零は、立ち上がって、作業台に戻った。そして、また部品を叩き始めた。「カンカンカン」という音が、工房に響く。
凪は、ノートを読み始めた。
文字は、丁寧に書かれている。だが、内容は難しい。ピストン、クランクシャフト、カムシャフト、バルブ、インジェクター。聞いたことのない言葉が、次々と出てくる。
凪は、眉を寄せた。だが、読むのをやめなかった。一行ずつ、丁寧に読んでいく。わからない言葉があれば、零に聞く。零は、作業の手を止めて、説明してくれる。
時間が、ゆっくりと流れていく。
窓から差し込む光が、少しずつ角度を変えていく。朝の光が、昼の光に変わり、やがて夕方の光に変わる。
凪は、ずっとノートを読んでいた。
気づけば、外は暗くなっていた。
「……今日は、ここまでだ」
零が、声をかけた。
凪は、顔を上げた。時計を見ると、夜の8時を過ぎていた。
「……もう、こんな時間か」
凪は呟いた。
零は、作業台を片付けていた。
「明日も、来い」
零は言った。
「毎日、続けろ」
凪は、頷いた。
「……ああ」
凪は、ノートを閉じた。そして、立ち上がった。
「じゃあ、帰る」
凪は言った。
零は、頷いた。
「気をつけろ」
凪は、工房を出た。夜風が、冷たい。凪は、空を見上げた。今日も、星は見えない。
だが、凪の中で、何かが変わり始めていた。焦りは、まだある。悔しさも、まだある。だが、それだけじゃない。新しい何かが、芽生え始めていた。
知りたい。
車のことを、もっと知りたい。
クロが、何を考えているのか。何を感じているのか。何を求めているのか。全部、知りたい。
凪は、歩き出した。夜の街を、一人で。足音だけが、静かに響いていた。




