第11話 点数と代償
積載車が廃車置き場に着いたのは、夜の7時を過ぎた頃だった。
空はすっかり暗く、星も見えない。街灯の薄い光だけが、錆びた車の残骸を照らしている。
零は積載車を止め、荷台を下ろした。油圧モーターの音が、静寂を破る。
「ゴロゴロゴロ……」
シルビアが、ゆっくりと地面に降りてくる。
凪は、助手席から降りた。冷たい夜風が頬を撫でる。凪は、シルビアに近づいた。
ボンネットは、まだ熱い。手を近づけると、熱気が伝わってくる。焦げた匂いが鼻を突く。オイル、冷却水、焼けたゴム。全部が混ざり合った、甘ったるくて吐き気のする匂い。
凪は、ボンネットに手を置いた。
「……ごめんな」
凪は呟いた。
シルビアは、何も答えない。ただ、そこにある。壊れて、動けなくなって、黙ってそこにある。
零が、シルビアの横に立った。
「……とりあえず、工房に入れるぞ」
零は言った。
「手で押す。手伝え」
凪は頷いた。
二人で、シルビアを押す。タイヤが、ゆっくりと回る。工房のシャッターを開け、シルビアを中に入れる。
零が、工房の電灯をつけた。蛍光灯が、チカチカと点滅してから、明るくなる。
シルビアが、白い光に照らされた。
ボンネットは焦げ、タイヤは削れ、ブレーキディスクは真っ赤に焼けている。まるで、戦場から帰ってきた兵士のようだ。
零は、工具箱を引っ張り出した。
「ボンネット開けるぞ」
零は言った。
凪は頷いた。
零がボンネットを開ける。金属の軋む音。そして、エンジンが露わになった。
凪は、息を呑んだ。
エンジンブロックに、ひび割れが走っている。オイルが漏れ出し、冷却水が固まっている。ホースは破裂し、配線は焦げている。まるで、爆発したみたいだ。
零は、エンジンを見つめた。何も言わない。ただ、じっと見つめている。
凪は、零の横顔を見た。零の目は、死んでいた。いつもの、魚のような目。だが、今日は違う。今日の零の目には、何かが宿っている。怒りか。失望か。それとも、諦めか。凪には、わからなかった。
「……直せるか?」
凪は聞いた。
零は、黙ったまま首を横に振った。
「このエンジンは、もう無理だ」
零は言った。
「載せ替えるしかねえ」
凪は、唇を噛んだ。
「……いくらかかる?」
「中古エンジンで50万。工賃込みで80万ってとこだ」
零は答えた。
「新品なら、150万は超える」
凪は、黙った。80万。そんな金、ない。凪の全財産は、今、20万もない。レースの賞金も、まだ振り込まれていない。
「……俺、そんな金ねえ」
凪は呟いた。
零は、何も言わなかった。ただ、エンジンを見つめている。
凪は、拳を握りしめた。爪が、手のひらに食い込む。
「……くそ」
凪は呟いた。
「くそ、くそ、くそ……!」
凪は、壁を殴った。鈍い音。手のひらが痛い。だが、殴るのをやめなかった。何度も、何度も。
「凪」
零が、凪の腕を掴んだ。
「やめろ」
零は言った。
「壁殴っても、何も変わらねえ」
凪は、零を睨んだ。
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ!」
凪は叫んだ。
「クロは壊れた! 金もねえ! 俺、どうすりゃいいんだよ!」
零は、凪の目を見た。
「……落ち着け」
零は言った。
「車は、俺に任せろ」
凪は、目を見開いた。
「……は?」
「ツテを当たる。中古エンジンを探す」
零は言った。
「だが、期待はするな。時間がかかる」
凪は、何も言えなかった。ただ、零を見つめた。
零は、凪の腕を離した。
「お前は、今日のレースの結果を確認しろ」
零は言った。
「今年の順位ポイント、ちゃんと見とけ」
凪は、首を傾げた。
「……順位ポイント?」
「ああ」
零は頷いた。
「お前、今年何ポイント稼いだか、把握してるか?」
凪は、眉を寄せた。
「……720ptくらいだったはずだ」
「だろうな」
零は、小さくため息をついた。
「で、Bランク昇格ラインは?」
凪は、黙った。数字は、頭に入っている。毎日のように確認していた数字だ。
「……950pt」
凪は呟いた。
「あと230pt足りねえ」
零は頷いた。
「そうだ。公式レースで1位を2回。もしくは、地区大会で1位を5回」
零は言った。
「残り2ヶ月で、それだけ勝てば、お前は今年中にBランクに上がれた」
凪は、唇を噛んだ。
「……だから、焦ってた」
「そうだろうな」
零は言った。
「だから、車の声を無視した。エンジンの悲鳴を無視した。ただ、勝つことだけ考えて走った」
凪は、何も言えなかった。
零は、シルビアに手を置いた。
「お前、今年のBランク昇格、狙ってたのか?」
零は聞いた。
凪は、頷いた。
「……ああ」
凪は呟いた。
「Bに上がれば、賞金も増える。スポンサーもつく。もっと、ちゃんとした部品が買える」
凪は、拳を握りしめた。
「だから、焦ってた。今年中に、絶対にBに上がりたかった」
零は、黙って凪を見つめた。
「……だが、無理だったな」
零は言った。
「車を壊した。もう、今年は走れねえ」
凪は、唇を噛んだ。
「……わかってる」
零は、シルビアのボンネットを閉めた。金属の鈍い音が、工房に響く。
「来年だ」
零は言った。
「来年、1月1日に全員のポイントがリセットされる。お前の720ptも消える。だが、ランクは維持される」
凪は、頷いた。それは、知っている。ランク制度の基本だ。毎年1月1日に、全ドライバーのポイントが0ptに戻る。そして、また1年かけて、ポイントを稼ぐ。凪は、それを2年間繰り返してきた。
「……来年、上がる」
凪は呟いた。
「来年こそ、Bに上がる」
零は、凪を見た。
「焦るな」
零は言った。
「お前は、まだ17歳だ。時間はある」
凪は、零を見た。
「……でも」
「でも、じゃねえ」
零は言った。
「焦って、車を壊して、何になる? 何も残らねえだろ」
凪は、黙った。
零は、工房の奥から、古いタブレットを引っ張り出してきた。
「ほら」
零は、タブレットを凪に渡した。
「公式サイトだ。今日のレース結果、確認しろ」
凪は、タブレットを受け取った。画面には、公式ストリート・サーキットのサイトが開かれている。凪は、自分の名前を検索した。
```
星野 凪
現在ランク: C
現在順位: Cランク 5位 / 200人
年間獲得ポイント: 760pt
```
凪は、画面を見つめた。760pt。今日のレースで、40pt稼いだ。4位入賞のポイントだ。
凪は、Bランクのボーダーを確認した。
```
Bランク昇格ライン(年間上位3名)
現在3位: 950pt
現在2位: 1020pt
現在1位: 1180pt
```
凪は、息を呑んだ。Bランクに上がるには、あと190ポイント必要だ。公式レースで1位なら100pt。つまり、あと2回勝てば届く。だが、車は壊れた。もう、今年は走れない。
「……くそ」
凪は呟いた。
零は、タブレットを受け取った。
「今年のBランク昇格は、諦めろ」
零は言った。
「来年だ。来年、ちゃんとポイント稼いで、Bランクに上がれ」
凪は、拳を握りしめた。760pt。あと190pt。目の前まで来ていたのに。
「……悔しい」
凪は呟いた。
「悔しくて、たまんねえ」
零は、何も言わなかった。ただ、凪を見つめている。
凪は、タブレットを零に返した。
「……でも、わかった」
凪は言った。
「今年は、諦める。来年、絶対にBに上がる」
零は、頷いた。
「そうしろ」
零は言った。
「この車は、俺が直す」
零は、シルビアに手を置いた。
「だが、時間がかかる。1ヶ月、いや、2ヶ月はかかるかもしれねえ」
凪は、零を見た。
「……なんで」
凪は呟いた。
「なんで、そこまでしてくれるんだよ」
零は、凪を見た。零の目が、少しだけ、柔らかくなった気がした。
「……お前、才能あるからな」
零は言った。
「才能あるやつが、こんなとこで終わるのは、もったいねえ」
凪は、何も言えなかった。
零は、タブレットを置いた。
「今日は、帰れ」
零は言った。
「明日から、また来い。車が直るまで、座学だ」
凪は、頷いた。
「……わかった」
凪は、工房を出た。夜風が、冷たい。凪は、空を見上げた。星は、見えない。ただ、暗い空があるだけ。
凪は、歩き出した。廃車置き場を抜け、街へ向かう。
凪の中で、何かが変わり始めていた。焦りが、少しだけ、薄れていく。そして、新しい何かが、芽生え始めていた。それが何なのか、凪にはまだわからなかった。だが、確かに、そこにあった。
凪は、歩き続けた。夜の街を、一人で。足音だけが、静かに響いていた。




