第10話 焼け付いた誇り
コーナー10を抜けた。
凪の前に、最後の直線が伸びている。ゴールまで、あと2キロ。だが、シルビアは既に限界を超えていた。
「ブォォォ……ガガガガ……カンカンカン……」
エンジンの異音が、さらに激しくなっている。白煙が、ボンネットの隙間から噴き出し続けている。視界が、煙で霞む。冷却水が、完全に沸騰している。金属が、悲鳴を上げている。
凪は、アクセルを踏み続けた。だが、速度が上がらない。120km/h、125km/h。それ以上、出ない。
前を見た。GT-Rが、遥か先を走っている。距離、約50m。その先に、RX-7。さらにその先に、ポルシェ。
凪の順位は、4位。
「……くそ」
凪は、唇を噛んだ。血の味がする。ハンドルを握る手が、震えている。汗で、滑る。
「……クロ」
凪は呟いた。
「頼む。あと2キロだけ。あと2キロだけ、走ってくれ」
エンジンが、応えようとする。排気音が、僅かに高くなる。
「ブォォォン……」
だが、すぐに、また異音が混じる。
「ガガガガ……カンカンカン……」
凪は、温度計を見た。針が、振り切れている。110度を超えている。完全に、異常だ。
「……やばい」
凪は呟いた。このまま走り続けたら、エンジンが焼き付く。ピストンが溶ける。シリンダーが歪む。もう、二度と走れなくなる。
凪は、アクセルから足を離そうとした。だが、できなかった。
「……やめろ」
凪は自分に言い聞かせた。
「クロを壊すな」
だが、足が動かない。アクセルを踏み続けている。
「……なんで」
凪は呟いた。涙が、込み上げてくる。
「なんで、やめられねえんだよ」
わかっている。このまま走り続けたら、クロは壊れる。大切な相棒が、二度と走れなくなる。
だが、それでも。
「……行きたい」
凪は呟いた。
「ゴールまで、行きたいんだ」
エンジンが、応えた。
「ブォォォォン……」
まるで、凪の意思を理解したように。白煙を吐きながら、異音を発しながら、それでも走り続ける。
凪は、涙を拭った。
「……ありがとな」
凪は呟いた。
「お前、本当に最高だよ」
アクセルを、踏み続けた。速度が、僅かに上がる。125km/h、130km/h。
前方に、ゴールゲートが見えてきた。大きな電光掲示板。その下に、白いライン。
距離、あと1キロ。
凪は、前を見た。GT-Rが、まだ先を走っている。距離、約40m。追いつけない。
だが、諦めない。
「……行くぞ、クロ」
凪は呟いた。アクセルを、床まで踏み込む。もう、これ以上は踏めない。
「ブォォォ……ガガガガガ……カンカンカンカン……」
エンジンが、絶叫する。金属音が、限界を超えている。白煙が、さらに濃くなる。車内にまで、煙が入り込んでくる。焦げた匂いがする。
凪は、咳き込んだ。だが、アクセルを緩めなかった。
距離、あと500m。
凪は、バックミラーを見た。後ろには、誰もいない。5位以下の車は、遥か後方だ。
「……4位、確定か」
凪は呟いた。
悔しい。
トップでゴールしたかった。零に、勝つ姿を見せたかった。
だが、4位。
それでも。
「……悪くねえ」
凪は、小さく笑った。
スタート時は、7番グリッド。8位まで落ちた。そこから、ここまで上がってきた。
悪くない。
いや、上出来だ。
距離、あと200m。
ゴールゲートが、目の前に迫る。電光掲示板に、順位が表示されている。
1位 ポルシェ911
2位 RX-7
3位 GT-R
4位 シルビアS15
凪の名前が、表示されている。
「星野 凪 - 4位」
凪は、その文字を見つめた。
「……やった」
凪は呟いた。そして、ゴールラインを越えた。
瞬間。
「パァァァン!」
エンジンから、大きな音がした。破裂音。何かが、完全に壊れた。
パワーが、消える。
加速が、止まる。
シルビアが、惰性で進む。速度が、落ちていく。130km/h、120km/h、110km/h。
凪は、アクセルから足を離した。ブレーキを踏む。
「キィィィ……」
タイヤが、小さく鳴く。シルビアが、徐々に減速する。100km/h、80km/h、60km/h、40km/h、20km/h。
そして、止まった。
静寂。
エンジンの音が、消えた。
「……」
凪は、ハンドルに額を押し付けた。全身が、汗でびっしょりだ。心臓が、まだ早鐘を打っている。手が、震えている。
「……終わった」
凪は呟いた。そして、深呼吸をした。
ゴールした。
4位で、ゴールした。
「……やったぞ、クロ」
凪は呟いた。だが、エンジンは応えなかった。完全に、沈黙している。
凪は、車を降りた。ボンネットを開ける。白煙が、一気に噴き出した。
「うわっ!」
凪は、顔を背けた。煙が、目に染みる。咳き込む。
煙が晴れるのを待って、エンジンルームを覗き込んだ。そして、息を呑んだ。
「……嘘だろ」
エンジンブロックが、真っ黒に焦げている。オイルが、あちこちに飛び散っている。冷却水のホースが、破裂している。ラジエーターから、水が漏れている。
そして、エンジンブロックに、亀裂が入っていた。大きな、深い亀裂。
「……やっちまった」
凪は呟いた。エンジンが、完全に焼き付いている。もう、走れない。
凪は、ボンネットを閉じた。そして、シルビアのボディに手を置いた。
「……ごめんな」
凪は呟いた。涙が、込み上げてくる。
「壊しちまった」
その時、後ろから声がした。
「何やってんだ」
凪は、振り返った。零が、立っていた。積載車を運転してきたのだ。その顔は、険しかった。
「……零」
凪は呟いた。
零は、シルビアに近づいた。ボンネットを開ける。白煙が、また噴き出す。零は、それを気にせず、エンジンルームを覗き込んだ。
数秒の沈黙。
そして、零はボンネットを閉じた。
「……最悪だ」
零の声は、低かった。
「エンジン、焼き付いてる」
凪は、何も言えなかった。ただ、俯いた。
「……わかってる」
「わかってる?」
零の声が、鋭くなった。
「わかってて、やったのか?」
凪は、顔を上げた。零が、凪を睨んでいた。
「……ゴールしたかったんだ」
凪は呟いた。
「だから……」
「だから、車を壊したのか?」
零の声が、さらに低くなった。
「お前、何を学んだ?」
凪は、息を呑んだ。
「……何を?」
「車の声を聞けって、言っただろ」
零は、シルビアのボンネットを叩いた。
「こいつは、悲鳴を上げてたはずだ。エンジンの音が変わった。水温が上がった。全部、車からのメッセージだ」
零は、凪を見た。
「それを、無視したのか?」
凪は、何も言えなかった。零の言う通りだ。わかっていた。クロが、限界を訴えていた。だが、凪は、それを無視した。
「……」
「答えろ」
零の声が、凪を突き刺す。
「……無視した」
凪は呟いた。
「わかってた。でも、止められなかった」
「なんでだ」
零が聞いた。
「なんで、止められなかった?」
凪は、拳を握りしめた。
「……勝ちたかったから」
凪は叫んだ。
「ゴールしたかったから! お前に、勝つ姿を見せたかったから!」
零は、黙った。
凪は、続けた。
「俺、ずっと一人だった。誰も、認めてくれなかった。誰も、期待してくれなかった」
凪の声が、震える。
「でも、お前は違った。お前は、俺を見てくれた。俺を、信じてくれた」
凪は、零を見た。
「だから、応えたかったんだ。お前の期待に」
零は、何も言わなかった。ただ、凪を見つめている。
「……だから、止められなかった」
凪は呟いた。
「クロが壊れるって、わかってた。でも、止められなかった」
静寂。
風が、吹いた。冷たい風が、二人の間を通り抜ける。
そして、零が口を開いた。
「……お前、勘違いしてる」
零の声は、静かだった。
「俺が期待してるのは、お前が勝つことじゃねえ」
凪は、顔を上げた。
「……何?」
「俺が期待してるのは」
零は、シルビアのボンネットに手を置いた。
「お前が、車と対話することだ」
零は、凪を見た。
「車を理解すること。車の声を聞くこと。車を大切にすること」
零の目が、真剣だった。
「それができねえ奴は、どんなに速くても、レーサーじゃねえ」
凪は、息を呑んだ。
「……」
「お前、今日、何回車の声を聞いた?」
零が聞いた。
「何回、クロと対話した?」
凪は、黙った。
「……わかんねえ」
「わかんねえのか」
零は、溜息をついた。
「なら、まだまだだな」
零は、積載車の方へ歩いていった。
「……零」
凪は、声をかけた。零は、振り返らなかった。
「車、積むぞ」
零は、淡々と言った。
「もう走れねえ。積載車で運ぶ」
凪は、何も言えなかった。ただ、シルビアを見つめた。真っ黒に焦げたエンジン。破裂したホース。漏れ出す冷却水。
全部、凪のせいだ。
凪は、涙を拭った。
「……ごめんな、クロ」
凪は呟いた。そして、零の方へ歩いていった。
二人で、シルビアを積載車に載せる。油圧で荷台を下げ、シルビアを押して載せる。ワイヤーで固定する。
作業中、二人は一言も話さなかった。ただ、黙々と作業をこなす。
荷台を上げる。油圧モーターが唸る。シルビアが、持ち上がっていく。
零は、運転席に乗り込んだ。凪は、助手席に乗った。
エンジンがかかる。ディーゼルエンジンの重い音。
「ゴロゴロゴロ……」
積載車が、ゆっくりと動き出した。
車内は、静かだった。二人とも、何も話さない。
凪は、窓の外を見つめた。景色が、ゆっくりと流れていく。
「……なあ」
凪は、口を開いた。
「……何だ」
零は、前を見たまま答えた。
「……クロ、直せるか?」
凪は聞いた。
零は、黙った。数秒の沈黙。
そして。
「……わかんねえ」
零は答えた。
「エンジンブロックが割れてる。最悪、エンジン載せ替えだ」
凪は、息を呑んだ。
「……いくらかかる?」
「50万。いや、100万はかかる」
零は言った。
「部品代だけでな」
凪は、黙った。100万。そんな金、ない。
「……俺」
凪は呟いた。
「俺、どうすりゃいいんだ?」
零は、答えなかった。ただ、運転し続ける。
凪は、拳を握りしめた。
「……くそ」
涙が、込み上げてくる。だが、流さなかった。ただ、窓の外を見つめ続けた。
積載車は、廃車置き場へ向かっていく。夕日が、街を赤く染めていた。
凪は、その夕日を見つめながら、思った。
勝った。
4位でゴールした。
でも、何かを失った。
大切な、何かを。
「……ごめん」
凪は呟いた。
誰に言っているのか、自分でもわからなかった。
クロに。
零に。
それとも、自分自身に。
積載車は、静かに走り続けた。




